2.


「……『赤』三番席だの、『白華しらはな』だの、御大層な肩書きがつくようになっても、まだまだ青二才だからねぇ、この子は。この屋敷で稽古をつけてやっていた時と変わらないよ」


 意識の向こう側から響く声に目を開けようとしているのに、瞼がピクリとも動かない。ただひたすら、とにかく、全身が突き抜けるように痛かった。


「……ああ。お前から龍樹の行き先を聞いた時から、十中八九何かに悩んでいるんだろうなってことは分かっていたよ」


 リコリスの『黒』一番席として振る舞っている時の黒羽は相手のことを『キミ』と呼ぶ。二人称が『お前』、一人称が『私』になっている時の黒羽は、いわゆるオフモードというやつだ。


 恐らく話し相手は、気心の知れた屋敷の使用人だろう。龍樹が屋敷にいる時から黒羽の身の回りの世話を務めていた枝折に違いない。屋敷を不在にしていた黒羽に代わって対応に出てきた枝折に断って龍樹は道場に上がったから、恐らく黒羽の元には枝折から報告が行ったのだろう。


「この子、道場が嫌いだろう? 昔から。何せ道場はいつでも龍樹の死地だったのだから。死地を好む者なんてそうそういやしないよ」


 五歳で黒羽が持つリコリス伝来の宝刀・緋姫あけひめに魅入られて施設から引き取られた龍樹は、黒羽の私邸の道場で掃除人として必要な技量一般を叩き込まれた。指導、などという生ぬるいものでは決してない。竹刀の握り方一つ分からない状況の五歳児に本気で切りかかるような叩き込み方をしてきたのだから。この家にいる間に死にかけた回数など、一々覚えてすらいない。数え切れないのだから。


「道着も着せたことないよね。だって仕事服を纏って緋姫を扱えなきゃ意味がなかったから。普段着の方が都合が良かったんだよね。竹刀なんてまどろっこしいから、常に木刀か真剣を握らせていたし。……龍樹の身に刻まれているのは、『剣道』なんていうお飾りじゃない。『殺人剣』だ。だから龍樹が竹刀を握るなんてね、本当に無意味なことなんだよ」


 そう、本当に無意味で、非生産的。


 こんなことを初めてやったのは、まだ小学生の時だったと思う。剣道に通う同年代の子供を見た綾が、何気なく言った言葉が始まりだった。


『たっちゃんも剣が使えるんだよね? じゃあ、あの子達みたいに道着着て、竹刀振ったりするの? カッコいいよね! あのね、やってる子が言ってたよ。竹刀振ってる間は、ムダなことを考えなくてすむって。だからイヤなことがあると、意味もなく素振りをすることもあるんだって。たっちゃんもそういうことってあるの? ……あ、ゴメン! たっちゃんに限ってそんなことないか!』


 バカバカしいと思った。龍樹が納めているのは『剣道』ではなく『殺人術』。根本的にものが違う。


 だが綾にそんな自分を知られたくないとも、同時に思った。出会ってすぐの頃から、綾に心の氷を溶かされてから、自分の中にはもう、自分の血濡れた所を綾にだけは知られたくないという思いがあったから。


 だから、始めたのだ。道着での素振りを。綾が自分に対して抱く幻想を、少しでも形にしてみたくて。


 そしたら案外、綾の言葉通りに無心になれて。


 それから誰にも言えない胸のモヤモヤを振り切りたい時は、ひそかに竹刀を素振りすることが日課になった。そんな衝動も、思春期真っ盛りの中学時代を過ぎると鳴りを潜めていたのだが。


「龍樹は頭の良い子だ。大抵のことは自分で解決できる。並の子とは違う人生を歩んできたから、そもそも年頃の子が抱くような悩みを抱くことも少ない。龍樹より一回り、二回り年上のリコリス上層部の連中だってここまで達観はできていないよ。……龍樹ってね、ほんっと人として色々欠けてるんじゃないかと思うよ。鈴見クンのことを除いてはね」


 サラリと、衣擦れの音が響いたのが分かった。触覚が戻ってきたのか、自分の体が柔らかな物に包まれているのが分かる。どうやら板間に放置されているのではなく、布団に運び込んでくれたらしい。今日は随分と優しいじゃないかと、龍樹はかすむ意識のどこかで思った。


「ん? そうそう、知っていたのかい枝折。この間のいさかいに鈴見クンも巻き込まれてね。少々深手を負ったという話だ。龍樹もツメが甘いんだよ。だから鈴見クンが度々引き出されるんだ。……ん、いや、お前の言う通り、歳の割に龍樹は上手くやってはいるよ。……ああ、龍樹じゃなかったら、鈴見クンはとうの昔に死んでいてもおかしくはない。大体のたくらみは、実行されるよりも前に龍樹に潰されているのだからね」


 龍樹を擁護する微かな声は、確かに女中の枝折のものだった。珍しいことが続くものだ。枝折と言えば龍樹がこの屋敷にいる間、黒羽とともに龍樹を徹底的にしごいた師匠格の一人であるというのに。


「龍樹は誰かに相談することなんてしない。大抵何でも一人で解決できるっていうのもあるけれど、周りが敵しかいなくて誰にも相談できなかったっていう理由も強いんだろうね。だからこそ、自分の頭で処理しきれない案件が出てくるとこうやってショートする」


 二人とも龍樹が聞き耳を立てていることに気付いているのだろうか。気配に敏い二人のことだ。あえて龍樹に聞かせるつもりでこうやって話しているのかもしれない。


「……龍樹はね、『歳の割に』の上をいかなきゃいけないんだよ。鈴見クンのことを完璧に守りたいならね。……リコリス本庁の誰よりも強く、誰よりも狡猾に、誰よりも冷たく、誰よりも血まみれに。……かつての文也ふみやがそうであったように」


 そんなことを思う龍樹の耳を、ヒヤリとした言葉が撫でる。


 ――分かっている、本当は。


 誰よりも強く、誰よりも狡猾に、誰よりも冷たく、誰よりも血塗れに。


 そうでなければ、ヤツらの手から綾を守り切れない。綾の生を、保証してやれない。


 だけどそれは、より綾の隣にいるにはふさわしくない姿になるということであって。綾の隣にただいるだけでいいのに、そんな自分を綾の隣に置いておくことを、自分自身が許せない。


 だから、迷いが生まれる。悩みが生まれる。本当はそんなこと、考えている場合ではないというのに。


「でもね、龍樹は、これでいいんだよ」


 フワリと、手が額にかかる髪を払ったのが分かった。ヒヤリと冷たい独特の体温は、すぐに黒羽の手だと分かる。額もしこたま叩かれたのか、それだけの接触で体に電撃のような痛みが走った。


「迷ってほしいし、悩んでほしい。……より人間らしくあってほしい。私の勝手なエゴだけどね。龍樹のその人間らしさが、逆に鈴見クンを救っているのだから」


 相反する言葉に龍樹は思わず耳を疑った。それでは綾を守れないとさっき黒羽は言ったではないか。一体どういうことなのかと訊いてみたいのに、今の龍樹は体はおろか唇や喉の一ミリも動かすことができない。黒羽の言葉に枝折も納得しているのか、枝折の方から問いが投げられることもない。


「さて、枝折、一つ仕事を頼むよ。……ああ、龍樹のことじゃないよ。久し振りに徹底的にしごいたからね。龍樹はしばらく起きてこない。頼みたいのは鈴見クンのことでね……」


 声が遠くなっていくのは黒羽が席を立ったからなのか、自分の意識が落ちていっているせいなのか。


 ――目が覚めて、体が動くようになっていたら、真っ先に綾に会いに行こう。


 思えば綾を信頼できる医者の下に託してから、一度も顔を出しに行っていない。残党狩りと残務整理に追われて、気付いたら今日になっていた。その間に溜まった鬱憤と後悔の念を抱えたまま綾の元に顔を出す気にもなれず、さりとて自分の中でこの感情を解消する術もなく、気付いたこの屋敷の門前に立っていた。


 ――差し入れには、駅前のケーキ屋でケーキを買おう。新作で気になっていたやつがあると言っていたからそれがいい。それと、あいつが気に入っていつも買っているプリンを追加で。


 そうすればきっと綾は、いつもみたいに底抜けの馬鹿顔で笑ってくれる。


 綾のその表情を、龍樹は今、無性に見たかった。


 ――自分の生に後悔したことなど一度もない。死を拒んだことも、緋姫を取って白華になったことも。


 後悔するのはいつも、君のことばかりで。いつだってもっといい道があったんじゃないかと、悩んでばかりいる。後から後から『あの時こうしていれば』という思いばかりが溢れてきて、いつだって最善以上を示せないちっぽけな自分が歯がゆくて。

 

 ――……なぁ、笑ってくれよ、いつもみたいに


 脳裏に浮かぶ幼馴染の相方が、龍樹の方を見て少し笑う。


 その笑みが望んだものかどうかを理解するよりも早く、龍樹の意識は闇の中に溶けていた。




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