掃除人と後悔の色
1.
後悔するのはいつも、君のことばかりで。
「……誰が使っているのかと思えば」
久し振りに聞こえてきた人の声に、龍樹は竹刀を振る腕を止めた。
「お前だったのかい、
今の今まで人の気配がなかった道場に、いつの間にか和装姿の男が一人立っていた。鶯色の小袖に抹茶色の羽織という常識的な今の装いを見て、彼が一体誰であるかを見抜ける人はそう多くはいないだろう。
「……師匠」
その数少ない人間である龍樹は、竹刀を右手に握って下ろすとここの道場の持ち主に軽く目礼を送った。その微かな動きだけで額に浮いた汗がパタパタと落ちていく。その音を聞きながらふと、龍樹は自分がここに立ってどれだけの時間が経ったのだろうと、今更な疑問を胸中に転がした。
「
表情が豊かとは決して言えない
「この屋敷を出てから私が呼んでも滅多に寄りつこうとしないお前が、わざわざここに来て、わざわざ道着を纏い、わざわざ竹刀を振るっているとはね」
リコリス本庁にいる時の黒羽はシルクハットを目深にかぶっていて顔のほとんどを人目にさらさない。だが一々そんな奇抜な格好をしなくても、黒羽の目元は常に前髪で隠されていることを龍樹は知っている。五歳で黒羽に拾われてこの屋敷の敷居をまたぎ、七歳で再び養子に出されるまで嫌になるほど私服姿の黒羽を見てきたが、そんな龍樹でも黒羽の素顔をゆっくり眺めたことは片手の数で足りる回数しかない。
その滅多にさらされない赤みを帯びた瞳が、今まっすぐに、そして少し面白そうに龍樹に据えられているのが気配で分かる。
「……何か、考えたいことでもあったのかい?」
分かったからこそ、龍樹は無意識の内に黒羽から視線をそらしていた。いつも見透かされれるように笑われるのが嫌で、何が何でも黒羽からは視線を逸らさないようにしているというのに。
――……らしくない、本当に
滅多に寄りつかない屋敷に自ら赴き、その屋敷の中でも一際嫌いな道場に好きこのんで立ち、自分は仕事服でしか刃を取らないのだからと道着に袖を通さない自分がわざわざ道着を纏い、滅多に真剣以外を握らない自分がわざわざ竹刀を構えて、三時間も無意味な行動をし続けている。
こんなことをしていれば、相手が黒羽でなくても何かがあったと見抜かれるに決まっている。
それでも、頭の中を回り続けるイメージを振り払う方法が、これ以外に思いつかなかった。
『だから、私、一人でも、生きて帰るつもりだったんだから……っ!! たっちゃんの所に、帰る予定だったんだから……っ!!』
けぶる硝煙と血煙。いびつに笑みを浮かべる唇と、相反するように凍り付いて涙を流す瞳。
抱きしめた体は小さくて、温かくて、柔らかで。それなのに縋りついてきた手は、大きさは変わらないまま、硬く冷たくなっていて。さらされた太ももには、普通の女子高生が負うはずのない銃創が深々と刻まれていた。
あの瞬間、久しぶりにスッと、内臓が浮くような、冷たい手で握り込まれるような、あの特有の恐怖を感じた。
――ああ、この温もりは、自分の到着があと一分でも遅れていたら、消えていたのだと。
「……―――っ!!」
あいつは何も悪くない。悪いのは龍樹だ。龍樹がいるからあいつがあんな目に巻き込まれる。龍樹が普通ではいられないから、普通じゃないから。
ヤツらは龍樹を
何もあいつは悪くない。悪くなんて、ないのに。
『―――……綾、俺は。お前に、生きるための道を一つ、示すことができる』
あの日の龍樹が、あんなことを言ったから。
『人を殺してでも、生き抜きたいか。……存在理由を得るために倫理を捨てるか、倫理を守ったまま存在理由を捨てて片付けられるか』
自分が、綾の隣に、いたから……
「……龍樹」
ハッと顔を上げた瞬間、目の前に何かが落ちてきた。その何かを龍樹は条件反射で受け止める。龍樹がかざした左手の中に過たず納まったのは、真新しい竹刀だった。
「久しぶりに稽古をつけてあげよう。それを構えなさい」
「……え?」
「今お前の右手にある古い竹刀は、もう使い物にならなさそうだからね」
その言葉に自分の右手を見下ろせば、龍樹が三時間振り続けていた竹刀は龍樹の右手の中で無残にひび割れていた。いつのタイミングで割れてしまったのかと無表情のまま考える龍樹の向こうで、黒羽が羽織も脱がないままユラリと左手に持った竹刀の先を上げる。
「お前の悪い癖だ。悩み事があると生産性のない単調作業に逃げようとする」
その切っ先が上がりきったと視界の端で認識した瞬間、龍樹の体は横手へと吹っ飛ばされていた。遅れてきた衝撃に全身の骨が軋む。無理矢理態勢を整えて受け身は取れたが、黒羽の攻撃がこれで終わるとは思えない。右手にあった壊れた竹刀を放り出し、左手の竹刀を立てたのはほぼ無意識での行動だった。その竹刀を支える腕に鈍い衝撃が伝わってくる。
「どうせなら、もっと時間は有効に使いなさい」
優雅な挙措であるはずなのに、伝わってくる衝撃は重く、太刀筋は龍樹の目をもってしても捉えきれない。答えの見えない堂々巡りに疲れた心が、フラッシュバックする硝煙と血の匂いが、龍樹の手足を無力感で縛り上げる。
そんな龍樹の全てを見透かしたかのように、普段前髪で隠れている黒羽の赤みを帯びた瞳が竹刀の向こうでさげすむように龍樹を嗤う。
「そんなことばかりしているから、お前の無力で鈴見クンが傷付くんだよ、龍樹」
「…っ!!」
――……たっちゃん
普段、底抜けの馬鹿みたいに笑うくせに、時々あいつは、やけに儚く笑う時がある。
あのメープルシロップ色の瞳が、そんな風に、すべての絶望を受け止めてなお深く、すべてを諦めたかのように透明に笑うのが、龍樹は嫌で、嫌で、たまらなくて。
あんな顔を見るくらいなら、いっそ素直に泣いてくれた方がまだいいくらいで。
それでも、あんな風に、凍り付いた涙を流させたい訳じゃなくて。
ただ彼女が幸せに生きていてくれさえすればそれでいいのに。どうしても自分はその『幸せ』を示すことができなくて。自分が提示できる『幸せ』は、いつも血にまみれて凍えているのに、それでもあいつは必ずそんなものしか差し出せない『龍樹』の元に戻ってくると言ってくれて。
自分の中にあった氷を溶かしてくれた彼女に、ただ同じだけの温もりを返したいだけなのに。
どうあがいても自分には、そんな芸当ができなくて。
そんなちっぽけなことさえできずに、笑顔の向こうであいつを泣かせ続ける自分に、ただただひたすら腹が立つ。
「うっ…あああああああああああああああああっ!!」
竹刀の先が躍る、払われる、衝撃。踊る、這われる、踊る、衝撃。踊る。
ただがむしゃらに竹刀を凶器に変えて突き進みながら、龍樹はいつの間にか気を失っていた。
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