他に選択肢がある状況で、自ら望んで掃除人になる者など滅多にいない。なぜなら、いくら国の命令という大義を背負っていても、掃除人がやっていることは人殺しに他ならないからだ。


 人としての倫理を捨てて『掃除人』という存在理由を得るか、倫理を守ったまま存在理由を得られずに死ぬか。


 己の道徳よりも己の生にすがり、掃除人になるしかないと覚悟を決めた者だけが掃除人となる。そう考えると掃除人と片付け者は紙一重の差しかない。掃除人になった連中は、みんなそう口を揃えて言い募る。


 だが鈴見文也は違った。黒羽は文也を『特殊な殺し屋』と評したが、文也はその点でも特殊な存在だった。


 掃除人にならなければ片付けられてしまうほど存在理由に困っていたわけではない。だが掃除人になることを嫌悪するほどの理由もない。


 文也が掃除人になったのは、そんな曖昧な理由からだったような気がする。


 あるいは、感じたかったのかもしれない。


 悲しみでも怒りでも嫌悪でも何でもいいから、生まれてこの方一度も感じたことのない『自分の心』というものを。


「いらっしゃい、文也さん。今日は雨じゃないのに来てくれたのね」


 いつものように彼女は、穏やかな笑顔とともに文也のことを出迎えた。だがいつもは文也の腰にない日本刀の存在を見て取った瞬間、彼女は大輪の花が咲いたかのように鮮やかな笑みを浮かべる。


「あぁ、嬉しい。文也さん、やっと私を片付けてくれる気になったのね」

「……掃除人は、自分の意思や感情で勝手に人を片付けてはいけないんですよ。たとえ相手が、片付け者リストの対象者であろうともね」

「あら、そうだったのね?」

「以前、そう教えてあげたはずでしょう?」

「ふふっ、私きっと、文也さんに片付けられたがりすぎて、そのルールが自分にも適用されることを忘れてしまっていたのだわ」


 ニコニコと今までで一番嬉しそうに彼女は笑う。


 相手が嬉しそうにしているならば、自分もそれに合わせて笑えばいい。それがの反応だ。一番周囲に波風を立てない、無難で楽な反応。『文也』を形作るテンプレートは、いつもそういう流れで『文也』を動かしてきた。


 自我さえもテンプレート。


 そう文也を表した黒羽の言葉は、言い得て妙だった。


「ね、文也さん。文也さんは知っている? 私が片付け者として扱われる理由を」


 だというのに今、文也は春日の笑みに笑み返すことができなかった。それどころか、春日を直視し続けることさえできず、文也は視線をそらしてしまう。


 多分昔から、文也は他人の顔色を読むのが上手すぎたのだろう。他人が求めるそのままの反応を示せば、何事も穏やかに、楽に過ぎていった。自分の心を知るよりも早くそのことを知ったから、その判断を誤らせる『心』なんてものは必要ないと思ったのかもしれない。


 その結果、文也の中に組み上がったのが『世間一般』という名のテンプレートだった。穏やか物腰も、丁寧な言葉遣いも、それが一番無難だったから装備されたものであって、文也の個性と呼べるものではない。


「私はね、生まれた時から体が弱かったの。長生きはできないって言われていたわ。でもね、繰舟の家は気にしなかった。さっさ嫁がせて、そこでさっさと子供を産んでくれればそれでいいって思っていたのよ。繰舟の血が入った子供さえ残せれば、いくらでも繰舟が介入する余地はできるもの。政略結婚の手駒として使えればそれで十分だったんですって」


 病院を連想させる真っ白な部屋の中心には見慣れない椅子が置かれていた。凝った装飾が施された漆黒のアイアンチェアーに春日がちょこんと品よく座っている。その光景が文也にはなぜか、処刑台に立たされた囚人を連想させた。


「でもね、私はそれさえもできない体なんですって」


 個性もない。心もない。


 だから文也には、ずっと分からなかった。


 己の使命と、人としての倫理の間に揺れる掃除人達が、なぜそこまで悩みに悩むのかと。一度選択したならば、悩みはそこで解決されているのだからもはや悩む必要性はないじゃないかと。


 刈り取られた命に涙をこぼし、掃除人達に怒りを燃やす人々が、なぜそこまで強い感情を持ち続けていられるのかと。時間の流れとともにすべては風化していくのだから、放っておけばいいのにと。


「私は、子を成すことができない体なんですって」


 だから、かもしれない。掃除人になる道を選んだのは。


『普通の人間』というテンプレートから外れた掃除人という仕事をとしていれば、いつかは自分にも心や個性が見つかるのではないかと思ったのかもしれない。テンプレートに違う文字を入れてみれば、少しは『文也』という存在が作られるのではないかと思ったのかもしれない。


 だが、それは違った。新しいテンプレートが増えただけだった。新たに組み上げられた『掃除人』というテンプレートは、文也を『血濡れの彼岸花』と掃除人達でさえ恐れられる実力者に押し上げた。いつの間にか心も個性も見つけることを諦めた文也は、それでいいと、自分はそういう存在なのだろうと思って日々を過ごしてきた。


「だから私、もういらないんですって。私をリコリスに片付け者として提出したのは、私の父なの。父が直々にそう教えてくれたわ」


 そんなテンプレートだらけの文也が今、こんな土壇場になって、揺れている。


「……普通、そんな話をされて、こんな風に笑ってなどいられないでしょう。それが普通であるはずです」


 文也が春日に返したのは、無難からは程遠い言葉だった。そんな言葉にも、春日は笑みを崩しはしない。


「だって私、嬉しいのだもの。私、やっと自由になれる」


 ニコニコと笑う春日は、本当に嬉しそうだった。


 この表情を見た後ならば分かる。春日がいつもたたえていた穏やかな微笑みは、決して感情を映したものではなかったのだと。表情を読むことに長けた文也でさえ見破れなかった感情が、常に春日の心の奥にはくすぶっていたのだと。


「ずっとずっと、繰舟の家に縛られてきた。何をするのも……そう、息を吸うことさえ、繰舟の家を意識させられてきた。でもね、死んでしまえばそれももう終わり。この体は繰舟の血で作られた物だけれど、魂は違うから」


 春日はそっと自分の胸の上に手を置いた。ちょうど心臓の上に。


「魂だけは繰舟のものではなく『繰舟春日』のものだから」


 置かれた指はそのまま、雪のように白い肌に突き立てられた。まるでそのまま心臓をえぐり出そうとしているかのように。


 文也の髪を梳いてくれた時は優しさで満ちていた細い指が、狂気に駆り立てられたかのように肌の上に赤い花をにじませていく。その様に文也は思わず春日へ駆け寄りたくなった。だが文也の足は一歩前へ進んだだけで動きを止めてしまう。


 文也の足を止めさせたのは、春日がいつも浮かべていたあの微笑みだった。


「だから……ねぇ、文也さん。文也さんの手で、私を解放して?」


 底にあるものを読ませない、能面のような微笑み。その笑みを向けられた瞬間、ギュッと体のどことも言えない場所が引き絞られたかのように痛んだ気がした。


 この反応は、一体なんだというのだろう。こんな反応、今までの自分は示したことがない。こんな反応は文也のテンプレートの中には存在していない。


 文也の前にいるのは、抹殺指令が出された片付け者。掃除人である文也は、どんな事情があろうとも彼女を片付けなければならない。それが姿


「……魂以外は、すべてが繰舟の家を意識させられたものだと言っていましたね。息をすることさえも」


 だというのに文也は、緋姫に手をかけることさえせず、春日に向かって問いを口にしていた。


「では、私を部屋の中に招き入れ、いつも丁寧に髪を乾かしてくれたあなたも、繰舟の家を意識したものだったのですか?」


 その問いに、不意に春日を取り巻いていた何かが揺れた。


 出会ってから今まで、春日の顔には常に何かしらの『笑み』が浮いていた。柔らかく、穏やかで、見る者を無条件で和ませるような、まさしく深窓の令嬢としてふさわしい笑みを。


 その笑みが、消える。


 春日の顔から、表情と呼べるものの一切が、消える。


「……いいえ、きっと、違うわ」


 しん、と一瞬静まり返った中に溶かすように紡がれた言葉は、文也の言葉に、そして先程の春日の言葉に否を返すものだった。


「何が何だか分からないの。だって私は、繰舟の家のために生きるように作られているのに。……あなたと初めて出会ってからずっと、あなたに会っている時の私は、決して繰舟の家のためには動いていなかった。動いていなかったのよ」


 ポロポロと剥がれていく無表情の下から現れたのは、困惑であるようだった。苦しそうに眉をひそめた春日は、その苦しさを紛らわせるかのように一際力を込めて己の胸をえぐり続ける。


「私は繰舟の家のためにならない行動を決してできないはずなの。そんな行動、私には用意されていないの。それなのに、それなのに……!!」


 その表情に、なぜか文也は既視感を覚えた。


「……―――――」


 春日の笑みに止められていた足が、スッと自然に前へ出た。カツ、カツ、と一歩ずつ前へ出る足が、春日との間にある距離を埋めていく。


 ――同じだと、思った。テンプレートしかない、文也自身と。


「……そうでしたか」


 春日の正面に立った文也はそっと春日の手に己の手を重ねる。文也の方から重ねられた手にビクリと春日の肩が震えたのが分かった。思えばいつでも触れてくれるのは春日の方で、文也から春日に触れたのはこれが初めてのことだった。


「それがきっと、心というものですよ」


 初めて触れた手を文也はそっと握り込むと、春日の胸から引き離した。力を込めれば折れてしまいそうな手は、特に抵抗もなくスルリと文也の動きに従う。こんなに細い腕と指でどうやって己の体をここまで傷つけることができたのかと、文也は何とも言えない気分で春日の胸の傷を見つめた。体のどことも言えない場所がギュッと絞られたかのように痛んだ気がする。


「……私に、魂以外に、繰舟の自由にならないものがあったの?」


 文也の言葉に春日は顔を上げた。苦しそうに寄せられていた眉が開き、驚きとも何ともつかない表情が春日の表情を彩る。


「私は……、心というものを、持ってもいいの?」

「……ええ」


 穏やかな声で春日に答えた文也は、両手を離すとそのまま腕を春日の体に回した。初めて抱きしめた体は腕と同じくらい細くて、折れそうで。今までずっと春日が触れてくれた時のように、柔らかくて温かかった。


「ええ、いいんですよ」


 すっぽり春日を腕の中に包み込んで、文也は言葉を紡ぐ。


 その言葉は、春日のために紡がれたものだったのか、自分のために紡がれたものだったのか。


 ――そうか、これが、心というものですか


 腕の中に閉じ込めた春日が、文也の胸に縋ってすすり泣いているのが分かる。おそらく春日も、こんな風に泣いたのは初めてなのだろう。文也と同じ、テンプレートに縛られた人生を歩んできた春日ならば。


 ――何て面倒で、重たくて、……辛いものなんでしょうね。


 春日の表情に覚えた既視感の元を、文也は今更思い出した。


 時折鏡の中に見る自分。その時の自分が浮かべていた表情に、あの時の春日の表情はよく似ていた。




「……そうかい、文也。キミは、その道を選んだか」


 現場に立った黒羽は、そこに残された緋姫を見ただけですべての流れを察した。


「キミがその道を選ぶ可能性もあるとは思っていたけれど。……短時間の間でまぁ、よく進歩したものだ」


 真っ白な部屋の中に唯一残された真っ黒なアイアンチェアー。その傍らに立てかけられた緋姫は、まったく血の匂いを纏っていなかった。部屋の中も、片付けがされたとは思えないくらい血の匂いがしない。


 緋姫を抜いて改めてみるまでもない。文也はここで仕事をしなかったのだ。


「黒羽さん、やはり赤蓉の姿も繰舟春日の姿もありません」


 片付けが執行されていないのに片付け者が消えたと繰舟の家から通報があったのは夜が明けてすぐのことだった。家の中で片付けを執行せよとリコリスに命じてきたくせに、繰舟の人間は実の娘の最期を看取る手間さえ惜しんだらしい。血縁を片付け者としてリコリスに自ら提出したくらいだ。そんな手間をかける価値さえないと家人達は判断していたのかもしれない。


 繰舟春日の片付け執行には、黒羽の一存で赤蓉が派遣されていた。その赤蓉の帰還報告もリコリス本庁には上がっておらず、本庁は赤蓉が任務を拒否したという判断を下した。その現場を検証し赤蓉の行方を捜索するために、こうして黒羽をはじめとした事務方の人間が現場に派遣されてきている。


「任務拒否、からの、本庁脱走っていうことですかね?」


 現場を改めていた副官が半信半疑と言った体で黒羽に声をかけてくる。それもまた無理からぬことだろう。『赤蓉』という掃除人の人となりを多少なりとも知っていれば、あのテンプレート人間がこんな行動を取るなどとは天地がひっくり返っても考えられないのだから。


「まぁ、そんな所だろうね。本庁にはそのまま報告しておいてくれ給え」

「いいんですか、上官。こんな平でも片付けられる仕事を無理矢理赤蓉さんに回したの、上官の独断だったんでしょ?」

「よく分かったね。まぁ、私のクビを飛ばそうなんていう度胸のある人間は今の本庁にはいないさ。どうとでもなるから安心おし」


 黒羽はヒラヒラと片手を振りながら現場を後にする。黒羽が緋姫を勝手に押収していったことに副官は目ざとく気付いたようだったが、黒羽は文句を言われるよりも早くさっさと現場を立ち去った。


「……さて、テンプレートを失ったことは、幸と出るか、不幸と出るか」


 密やかにささやいて、緋姫を久しぶりに腰に納める。死色の殺戮姫は久々に元の主の腰に納まったことが嬉しいのか、カシャンとわずかに音を響かせた。ヒラヒラと気まぐれに舞う衣服に乗せて、黒羽はいつも口元にはいている笑みをひそやかに深める。


「まぁ、テンプレートを失ったキミにならば判断できるだろう? 文也」


 柔らかな光の中に落とされた独白は、誰にも届かずに消えていく。


 そんな黒羽のことを、腰にある緋姫だけが見守っていた。





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