彼女と出会ったのは、偶然だったのか、それとも誰かに仕組まれた必然だったのか。


 文也はあの時のことを思い出すと、今でもそう自分自身に問いかける。答えは決して出ないと、分かってはいるのだが。


「……そんな所で、何をしているの?」


 あの時の文也は仕事でヘマをして、命からがら逃げている最中だった。少々厄介なことに怪我も負っていたし、しつこい追手を何人も放たれていて撒くに撒けない状況に陥っていたのだと記憶している。


 追手が放たれていても、文也はその追手を殺すことができなかった。掃除人は片付け者に認定されていない者を殺すことができないとされているからだ。どうしてもという必要にせまられればやむなしと判断されることもあるが、文也の直感は追手を殺せばその件で足元をすくわれると判じていた。


 そもそもあの仕事自体がそれを目的に仕込まれていたようなものだった。仕事の規模的に、本来ならば数人の掃除人がチームを組んで捌くような案件が文也一人に押し付けられていたのだから。


「……しばらく、ここに匿ってほしいのですが」


 とにかく一番目立つ腰の日本刀を適当な場所に隠して、次は掃除人であることを示す漆黒の衣をどこに隠そうかと思案していたのだと思う。その上で何とか怪我を目立たないように止血して、あとはこの目立つ長髪を何とかできれば人混みに紛れ込んで逃げおおせることは十分できる。


 そんなことを考えながら、文也は下見の時に目星をつけておいた屋敷のバルコニーに身を潜めていた。二階の角部屋のバルコニーは何回か下見をしに来た時、昼も夜もいつもカーテンが閉め切られていたから、あそこに隠れれば住人にも追手にも見つかる可能性は低いとあらかじめ覚えておいた場所の一つだった。それが、たまたま春日の部屋のバルコニーだった。


 雨の降る、夜更けだった。どうしてそんな時に限って春日がいつも締め切られているカーテンを開けてしまったのか、それを偶然と判断していいのか否か、いまだに文也は判断できていない。春日に偶々なのか何かを察したのかどちらなのかと訊ねたこともあったが、春日はいつもと変わらない微笑みを浮かべるだけで問いに答えてはくれなかった。


 ただ春日はあの時、カーテンを開けて文也を見つけた。


 その事実があるだけだ。


「私のお喋りにつきあってくれるのならば、いくらでもいてくれて構わないわ」


 普通そんな所に見も知らぬ男がいれば、家人に通報するのが普通の反応なのだろう。


 だが春日はそれをしなかった。それどころか窓を開き、匿ってほしいという文也を警戒することなく自身の部屋の中へ招き入れた。文也自身も、匿ってほしいと口にしながらもその反応には面食らったことを覚えている。


「どうぞ。入って」


 不審者を部屋の中にいざなう春日は、いつも通りの微笑みを浮かべていた。こちらが逆に何か裏があるのではないかと勘繰りたくなる反応に、文也はただ困ったような微笑みを浮かべたまま硬直していたのだと思う。


「だって、そんな場所にいては寒いでしょう? 怪我もしているようだし。服を乾かすことは私にはできないけれど、髪を乾かして傷の手当てをすることくらいなら、私にもできるわ」


 そんな文也に向かって、春日はわずかに首を傾けてみせた。綺麗に手入れをされた黒髪が、その動きに従ってサラリと滑り落ちていた。


「私は『お喋りにつきあってくれるのならば』という条件をつけたわ。テラスの外にいられてはお喋りも満足にできないもの。外よりも、まだ中の方が少しだけ快適よ。ね、だからこっちへ来て」


 なぜ春日がそんなにも文也とのお喋りにこだわったのか、その時の文也には分からなかった。


 とにかく、このまま彼女の機嫌を損ねて揉めることだけはごめんこうむりたい。


 文也が部屋の中に入ることを選んだ理由は、たったそれだけだったと思う。


「あなたの名前は、何というのですか?」


 その後またベッドに座る、座らないの悶着があったが、結局また文也が折れた。


 詰まる所、文也は追手が諦めてくれるまでの潜伏場所が欲しかった。追手に追いつかれる危険性がなければ、そこが見も知らぬ少女の寝室だろうが汚水が流れ込む地下水路だろうが結局は同じことだ。ただ、少し快適性が違うだけで。そこで何が起きようが、そこにいる人が何を思おうが、結局文也には関係ない。場所を提供してもらえるなら、この風変わりな少女のお喋りに付き合うのもまたいいだろう。


 一回きりの関係なのだからと、その時の文也は思っていた。


「春日、よ。『春』の『日』曜日と書いて、『春日』。あなたは?」

「文也といいます。漢字の方は説明しにくいので、割愛させてください」

「ええ。気にしないわ。後で何かに書いて教えてくれると嬉しいのだけれど。ねえ、フミヤさん。髪を解いてもいいかしら? 乾かしたいのだけれど、フミヤさんは髪が長いから時間がかかりそうね。私の部屋にはドライヤーがないから、余計に時間がかかりそう。あ、それよりも先に傷の手当てをしなきゃ。私、病弱なんですって。だからこの部屋、いつも医療品が常備されているのよ。それがこんな風に役に立つなんて思わなかったわ」


 よっぽど話し相手ができたことが嬉しかったのか、春日は水が流れるように次々と言葉を紡いでいった。そのほとんどが文也にとってはどうでもいい話で、やはり文也は自分の黒衣の隠し場所に頭を悩ませていたような気がする。


「ねえ、フミヤさん。私、ずっと変なことを考えていたの。今まで誰にも訊けなかったのだけれど、初対面のフミヤさんになら訊くことができるような気がする」


 だがその中に混ぜられたこの問いだけは、聞き流すことができなかった。


 その問いが、文也にまたこの屋敷を訪れさせることになったと言ってもいい。


「この国は優良な人間を優先して生かして、不良な人間はどんどん切り捨てていく。そんなシステムで回っているのでしょう?」


 文也がずっと、答えを探し求めていた、でも誰もが疑問にも思わず日々を過ごしていることに関する問いだったから。


「でも、どんな人間が優良で、どんな人間が不良なの? 私、その基準がよく分からないの。ねえ、フミヤさんはその基準を知っている?」







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