彼岸花の行方


 彼女に会いたくなるのは、決まって雨の日の仕事の後だ。


「来ると思っていたのよ、文也ふみやさん」



 傘もささずに雨の中を歩き、その人がいる部屋のドアを開く。大きな屋敷の最奥にその部屋はあるのに、いつも文也が来る時はそのドアの鍵が開いている。まるで文也の来訪を歓迎するかのように。


「また傘もささずに来たのね。……座って。乾かしてあげるから」


 その部屋は奇妙なくらい白に浸食されていた。


 壁も、絨毯も、家具の木目さえも白い。


 足元まで丈がある漆黒の仕事服を纏った文也は、まるで真っ白な紙の上に落とされた黒いインクのようだった。


「今回はね、秘密兵器があるの。じゃーんっ、ドライヤー!!」


 そんな中、文也の他に唯一白以外の色を纏う彼女は、いつものように嬉しそうに笑っていた。思えば初めて彼女の顔を見た時も、彼女は穏やかな微笑みを浮かべていたような気がする。彼女が笑みを絶やした所を、文也は見たことがないかもしれない。


「これで文也さんの長い髪もあっという間に乾くわ。ね、こっちに座って」


 文也は導かれるままに白いベッドの端に腰掛ける。彼女の小柄な体に対して大きすぎるキングサイズのベッドが文也の体重を受けてわずかに軋んだ。仕事服に吸い込まれた水滴がベッドに滲んでいくが、彼女は全く気にしていない。最初の何回かは文也もこのことを気にしていたのだが今ではもう気にしないことにしている。彼女自身が全くこのことを気にしていないし、この広すぎるベッドの端が濡れたくらいで彼女の安眠に不都合は生じないと文也は思うことにしている。


 文也がベッドの端に腰を落ち着けると、彼女は楽しそうに文也の髪を解いた。首筋で一つにくくっていたふくらはぎまである茶色の髪に彼女の細い指が通る。職業柄背後を取られるのは苦手なのだが、なぜか彼女が相手だと普段よりも落ち着いていられる気がした。


「今日はどんな人が相手だったの?」


 雨滴を滴らせる髪を柔らかくバスタオルで包みながら、彼女は問いかけてきた。


「この間巷を騒がせていた大量殺人鬼ですよ」


 視界が白に閉ざされる。


 文也はゆったりと瞳を閉じて自分に触れる指の感触に意識を集中させた。彼女の指の感触は、嫌いではない。


「まだ逮捕されたとは聞いていないわ。警察よりも先に動いたって話、初めて聞いたような気がする」

「犯人を疑う余地がなければ、こういうこともありますよ。別に珍しい話ではありません」

「そうなんだ」


 丁寧に丁寧に髪から水分を拭いとった彼女は、彼女の言う所の『秘密兵器』を手に取った。モーターが回る音が響き、温かい風がわずかに彼女の声を遠ざける。


「やっぱり、手こずったの? 強かった?」

「場慣れした空気はありましたね。ですが、強いというわけではありませんでしたよ。大量殺人鬼といえども、所詮一般の枠の中で生きてきた人間ですから」


 今までドライヤーという物を使ったことがなかった文也はその音に少しだけ眉をひそめる。今までは櫛とバスタオルしか使わなかったからもっと静かだった。ドライヤーの音のせいで彼女の存在がいつもより遠い。


「その人は、最期の時どうしたの? 何か言葉を残した?」


 そんなことを気にしているのは文也だけなのか、彼女の口調は先程から少しも変わらない。


「盛大に私のことを呪って逝きましたよ。『お前らなんか全員死んじまえばいい』と。……そしてついでにこうとも言いました」


 一瞬ここまで言わなくてもいいのではないかと思ったが、一度口から出てしまった言葉を消し去ることはできない。


 どうして彼女の前ではこんなに口が軽くなってしまうのだろうかと思いながら文也は先の言葉の続きを口にした。


「『俺とお前の何が違う。やっていることは一緒だろうが』と」


 言葉を紡いで、ああ、そうか、ともう一度思う。あの時も……この言葉を、本人の口から直接聞いた時も思ったことを。


「ねぇ、春日かすが


 文也は瞳を開くと背後を振り返った。彼女の指から文也の髪がすり抜けていく。文也の視界に納まった彼女は文也の想像よりもずっと文也の傍にいて、文也は一瞬だけそのことに戸惑った。


「春日は、私のことが怖くはないのですか?」


 確かに、同じだと。


 あの時の文也は、思ったのだ。


「人を片付ける掃除人そうじにんである私が、怖くはないのですか?」


 その言葉に春日は微笑みを浮かべた。


 いつものように、ふんわりと、やわらかく、優しく。


「ええ。ちっとも怖くないわ」


 常識からは考えられない答えだったが、それが嘘だとは思えなかった。掃除人は世間から『死神』と呼ばれるほどに恐れられている存在であるというのに。


「私は、初めて会った時から文也さんが掃除人だって知っていたわ。文也さんが私に打ち明けてくれる前から、文也さんが掃除人だって知っていたの。だってそうでしょう? 今のご時世、全身をこんなに豪華な漆黒の衣装で固めて歩く人間なんてそういないわ。滅多に屋敷の外に出ない私だって、それくらいは分かるのよ。でもね、それでも私は文也さんに毎回会えることを楽しみにしていた。今も、次に会える時はいつだろうって考えている」


 文也の表情から疑問を読み取ったのだろう。春日は笑みを浮かべながら言葉を足していく。


 世間の常識からは考えられない言葉を。


「今度会う時には私を殺してくれるのかしらって。そうでないのならば、いつ私を殺してくれるのかって、楽しみにしている」

「え?」

「文也さん、知っていた?」


 死にたくない、と言われるのは分かる。何なら普段現場でよく耳にもしている。

だがこんなに穏やかな表情で己の死を望む人間には初めて相対した。死を望む者特有の決意も悲壮感も、彼女の双眸の中には欠片もない。


 聴き間違いかとさえ思えるほどの穏やかさしか、彼女の瞳の中にはなかった。何より掃除人の訪れを楽しみにしている者の話など、生まれてこの方一度も聞いたことがない。


 だが春日は確かに、視線を送る文也に向かって言葉を口にした。いつものようにやわらかい笑みを浮かべたまま。はっきりと、疑う余地もないほどに。


「私は、私を殺してくれる掃除人の訪れを待つ、片付け者なのよ」





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