6.


『おや? どうやらここにいるらしいね。彼女の運命の恋人フィアンセ が』


 そううそぶきながら、赤くて黒い悪魔は現れた。


 人口爆発が起こって以降、養護施設は死刑の順番を待つ者のために造られた監獄と化していた。


 だがその監獄から逃げ出そうと考える者はいなかった。監獄の中にいれば死刑の日までは生き延びることができるが、逃げ出せば三日と経たないうちに野垂れ死ぬことは目に見えている。現実は厳しく、そこにいる者は誰もその現実に立ち向かっていくほどの力を持っていなかった。その事実を、年を経れば誰もが嫌でも実感していくことになる。


『ふむ。彼がいいのかね? 確かに、掃除人に向いていそうな子だねぇ』


 そんな場所にいた龍樹に、悪魔は囁いた。


 龍樹はその時、まだ五歳だった。だがこのまま生きているだけではいつか片付けられるということを、当時の龍樹はもう知っていた。同年代の子供達がまだ無邪気に遊び回っていられた中で、龍樹一人が冷めた顔をしていた。


 どうにかして生き延びなくてはならない。そう思っていた。


 死を選ぶにはまだ龍樹は幼く、生きていさえすれば今よりまともな生活ができると、当時の龍樹はただ信じていたから。


『君に選択肢をあげよう』


 そんな龍樹の前に片膝をついて目線を合わせた悪魔は、口元にくっきり笑みを刻んで問いかけた。


『今ここで殺されるか、彼女を取って『白華』となるか』


 たった五歳の少年に突き付けられたのは、掃除人になるか否かという問いかけではなく、『白華』となるか殺されるかという二択だった。




 ――どうしてこの部屋は、こんなに生活感がないのだろう。


 眠り続ける龍樹を眺めながら、綾はそんなことを考えていた。


 龍樹の家の広い寝室。ダブルベッドを置いてもまだゆったりとした空間が残る部屋。淡い色でコーディネートされた室内は、居住する人間に安らぎを与えてくれることだろう。


 だがあまりにも生活感のない空気がその心地良さを凌駕していて、どうにも綾は落ち着くことができない。


「というかたっちゃん、何で起きないわけ? ……いつもなら私がドアを開いた瞬間に目を覚ますくせに」


 龍樹が怪我を負ったという知らせを聞いて、心配して来てみればこの様だ。玄関の鍵は開けっ放しだったし、入り込んで一時間が経っても龍樹は目を覚まそうとしない。


 物騒なこのご時世、物騒なことを生業にする人間がこんな無防備なことでいいのだろうか。下のエントランスがオートロックでこの階の住人が龍樹だけとはいえ、せめて玄関の鍵は閉めておいてほしいと思う綾である。


「もしかして、何か薬でも飲んでるとか……?」


 そう思って視線を巡らせれば、サイドテーブルの上にいかにもそれっぽい小瓶がいくつも転がっていた。興味を引かれた綾は小瓶を手に取り、ラベルに視線を走らせる。


 その瞬間、ザッと綾の血の気が引いた。


「え……? 鎮痛剤と睡眠薬……っ!?」


『怪我くらい寝れば治る』という主張を聞かされたような気がした。


 だがそもそも龍樹は、こういう類の薬を嫌っていたはずだ。痛みというのは、本来防衛本能が知らせる警告の一種。それを鈍らせれば命に関わることもあるのだと綾に教えてくれたのは、他でもない龍樹であったはずである。


 そんな龍樹が鎮痛剤と睡眠薬をチャンポンするなど、よほど酷い怪我を負っているに違いない。そもそも並の掃除人を上回る技量を持つ龍樹が怪我を負ったという話からして信じられなかった綾だが、これはそんなことを言っていられるレベルの話ではなかったのかもしれない。


「ちょっとたっちゃんっ!! 病院行ったのっ!? 寝て痛みをやり過ごさなきゃいけないほどの怪我ってどういうことなのっ!? もう入院案件でしょ、これっ!! まさか自前で手当てしたとか言わないよねっ!? ちょっとたっちゃーんっ!!」


 綾は慌ててベッドに片膝をついて身を乗り出すと龍樹の体を揺さぶった。どこに傷を負っているのか服と布団の上からは分からないが、とりあえず五体満足

であることだけは分かった。そのことに綾はほっと安堵の息をつく。


「ねぇたっちゃんっ!! たっちゃんったらっ!! お~き~て~っ!!」


 綾は根気よくゆっさゆっさと龍樹の体を揺さぶる。起こすことが果たして正しいのか否かは分からなかったが、綾の行動が功を奏したのは綾がベッドの上に座り込んでから数分後のことだった。


 龍樹の眉間にしわが寄り、不機嫌そうな漆黒の瞳が姿を現す。しばらく宙をさ迷った視線は、やがて綾に固定された。


 綾を見つけた瞬間、龍樹の瞳の中から眠りを破られた不機嫌な色が消える。まだ完璧に意識が覚醒していないのか、龍樹の瞳は焦点を結ばずぼんやりとしたままだった。


「……あーちゃん?」


 低くかすれた声が古い綽名あだなを呼ぶ。その声に不覚にも心拍数が上がった。


 珍しい。あの遠宮龍樹が寝ぼけている。


「夢を、見たんだ。……懐かしい夢を」


 驚きに目を瞬かせる綾の前で、龍樹は寝言ともうわ言ともつかない調子で言葉を紡いだ。


「……夢?」

「……初めて、緋姫に会った時、の……」


 龍樹がこんなに無防備な表情をさらす所を、綾は初めて見た。自分が初めてということは、世界で初めてということと同義だろう。いつでも不敵で、不遜で、完全無欠。それが遠宮龍樹であるのだから。


「そっか……緋姫も、あだ名をつけると、あーちゃんなのか……」


 本格的に目覚めたら、龍樹はきっとこのことを忘れてしまうだろう。そう思うとなんだかもったいないような気がした。


 綾は小さく微笑むとそっと龍樹の髪に手を伸ばす。幼子を寝かしつけるように頭を撫でると、龍樹は心地良さそうに瞳を細めた。


「同じあーちゃんなのに、全然違う……」


 だがそんな呑気な感想を抱いていた自分を、この後綾は全力でぶん殴りたい衝動に駆られることになる。


「ぽえっ!?」


 龍樹の手が綾の手に重なる。そう思った瞬間、綾の視界はクルリと反転していた。ポスン、と背中が柔らかなスプリングを感じた時には視界に天井が映り込んでいて、その視界も伸びてきた腕に強制的に角度を変えられる。


「……へっ!?」


 ぱちくりと目を瞬かせれば、目の前には龍樹の寝顔があった。見慣れた顔なのだが、見慣れていても美形は美形だ。こんな至近距離にあれば心臓に悪いし、それが滅多とお目にかかれない無防備な寝顔ともなればなおさら心臓の脈動は跳ね上がる。


「ちょっ……えっ………えっ!? た、たっちゃんっ!? たっちゃ~んっ!! 起きてったらっ!! ねぇっ!! たっちゃんってばっ!!」


 抱きまくら代わりにされてしまった綾はジタバタと暴れてみたが、がっちりホールドされてしまった体はどうあがいても抜け出せそうになかった。細身に見える龍樹だが、実態はそこそこ以上に鍛えられた筋肉質な体付きである。あれだけ自由自在に日本刀を操るのだから、それも当然と言えば当然なのだが。


「……あーっ!! もうっ!! ……起きたらちゃんと、病院行ってもらいますからね~っ!!」


 おまけに今は、下手に暴れると龍樹の傷に触るかもしれないという不安もある。

仕方なく綾は大人しく抱き枕にされることを選んだ。せめてもの反抗として叫び声を上げてみるが、深い眠りの淵に戻っていった龍樹からもちろん返事はない。


 聞こえてくるのは安らかな寝息だけ。


 そんな滅多にない平穏な時に溜め息を一つ溶かし、綾は龍樹との昼寝を楽しむべく瞳を閉じた。




 夢を見た。


 どんな夢なのか、詳しいことは忘れてしまったが、柔らかくて懐かしくて、温かな夢だったことだけは覚えている。


 なんとなくその夢には、幼馴染が出てきていたような気がした。黒い仕事服も、彼岸花の赤も、白花の白も纏っていないあいつが、なぜか自分の頭を撫でてくれたような気がする。


 状況がよく分からない、夢だからこそある荒唐無稽な流れ。


 ……ただ、その手が、自分にここにいていいのだと、語りかけてくれるような気がして。刃を握らなくても、『赤』でも『白華』でもなくても、ただの遠宮龍樹としてここに存在していていいのだと言ってくれているような気がして。


 そう思ったら、なんだかとても安心できて、胸が温かくなって。


 その温もりだけを感じて、龍樹は眠りにつくことができた。


 ――それでも、次の夢を見たら、きちんと目を覚まして現実に戻ろう


 あいつが口ずさんでいた歌にある通り、自分の現実はとても汚くて、血に汚れてはいるけれど。それでも。


 それでも現実には、この温もりをくれる彼女が、龍樹を待っていてくれるのだから。




 そんなことを思いながら、龍樹の意識は闇の中に溶けていった。

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