4.
「たっちゃんどうっ!? 撒けそうっ!?」
「……無理だと分かってんなら、無駄口叩かずにしっかり走れ」
どこをどう走ってきたのか、もう分からなくなってきた。かろうじて方向感覚だけは残っているが、終わりの見えない追いかけっこをどうやったら終わらせられるのか考える余裕はもはやなくなっている。
「どうするのたっちゃんっ!! このままじゃ……っ!!」
龍樹でここまで余裕がないのだ。体力で龍樹に劣る綾の体はもはや限界を超えているに違いない。それでも綾が走り続けていられるのは、龍樹がこの状況を何とかすると無条件で信じてくれているからだ。
その信頼に何とか応えたいとは思っているし、応えられなかったら二人の命はない。だから何が何でも思考を回さなければならないのだが、心の余裕も体の余裕も、ついでに言えば思考を支えるだけの情報も今の龍樹にはない。
走るスピードを落とさないまま、チラリと背後に視線を投げる。黒服の集団は相変わらず二人の後を追いかけてきていた。車やバイクという手段を持ち出してこないのは、二人がこうやって逃走することを想定していなかったからなのか、それとも他に何か理由があるのか……
「っ!? たっちゃんっ!!」
背後にばかり気を取られていた龍樹は、絶望に彩られた綾の声で我に返った。
足を止めて周囲を見回せば、高く張り巡らされたプレハブに視線を遮られる。足元はコンクリートの打ちっぱなしで、所々に突き立てられた建材からここがビルの建設現場だということが分かった。程よく周囲から隔絶され、一般人の視線はここまで届かない。今日は休工日なのか作業員の姿さえなかった。とっさに逃げ道を探すが、出口を探すよりも先に追手の姿が目に飛び込んでくる。
――誘導されたか……っ!!
肩で息をしながら、龍樹は視線を綾に流した。膝に手を当てて苦しそうに息を継ぐ綾は、その視線に気付くとさらに苦しそうに眉を寄せる。綾も追手にここまで誘導されたことに気付いたのだろう。
「……綾」
「……ごめん、たっちゃん。替えのマガジンがない」
その言葉に龍樹は思わず天を仰いだ。
「……まぁ、仕事に出るつもりで家を出てきたわけじゃねぇからな………」
「怒らないんだ?」
「むしろ、お前が本体だけでも持ってたことを褒めてやりてぇくらいだよ」
「あはっ、たっちゃんが優しい。私、今日ここで死ぬのかな?」
「ふざけんなよ」
そんなことを言いながらも、膝から手を離した綾は背筋を正して拳銃を構える。綾の瞳はまだ折れてはいない。生き抜くことを、諦めていない。
だから龍樹は、一度深呼吸をして息の乱れを整えると、いつも通りの無表情で周囲を取り巻く追手達を冷たく見据えた。
「人を殺す道を選んでまで自分の命に執着してんだ。簡単に死ねると思うなよ」
その言葉に綾がうっすらと口元に笑みを浮かべる。
追手が二人に追いついたのは、そんなタイミングだった。
「……追いかけっこは、気が済んだか?」
追いかけてきた掃除人達もわずかに肩が上下していた。相手も全くのノーダメージであるわけではないということに龍樹はわずかに安堵する。
「……ここまで来たら、事情説明の一つでもしてくれていいんじゃないか?」
龍樹はリーダー格と思われる男に向かって口を開いた。駅前通りでも龍樹を誰何した男だ。龍樹と直接関係があったことはないが、男の顔と名前は一方的に知っている。そこそこの地位の血濡れ名を持ち、部下を抱える立場にある人間だ。
確か名前は……
「……
龍樹に名前を知られているとは思っていなかったのだろう。一行の中で一番後ろに立つ緋風が龍樹の言葉にピクリとわずかに表情を動かす。
だがそれは本当に一瞬だけだった。即座に無表情に戻った緋風は、先程と一切トーンの変わらない声音で初めて会話らしい会話を返す。
「理由ならばある。革命の成功のためには、お前という存在が邪魔になる。我らをこの血濡れた監獄から解き放つため、お前には犠牲になってもらう」
「革命? 監獄?」
その言葉に龍樹は眉を寄せた。あまりにも聞き慣れない言葉に、一瞬これは芝居か何かかと場違いな感想が脳裏をよぎる。
「お前達がどんな革命を起こすって? ……所詮俺達は人殺し。革命なんて起こす立場の人間じゃないだろ」
「誰が好き好んで人殺しになどなるものか」
だが相対した掃除人達は緋風の言葉に表情一つ動かさなかった。瞳には強い決意だけが浮いている。それは言葉を発する緋風も同じだった。
「お前が言う通り、我ら掃除人は人殺しだ。だが誰が好き好んでこんな道に入る? 人殺しだぞ。同族殺しだぞ。こんなこと、強制されなければ誰だってやるはずがない」
語調は淡々としているが、その裏には隠し切れない熱がこもっている。その何とも言えない不快感に龍樹は思わず緋風を睨み据えた。そんな龍樹に何を思ったのか、緋風の語調が強くなる。
「こんな血濡れた監獄に我らを押し込めたのは誰だ? 我らの手を血で汚すのは誰だ? ……国家人口管理局『リコリス』だ。そうだろう? 遠宮龍樹。リコリスさえなくなれば、我らはこんなことをしないで済む。我らは殺さなくても生きていけるのだ」
言葉を重ねるにつれて緋風の言葉の裏に潜む熱は温度を上げていく。だが反対に龍樹の胸は冷えていった。そんな龍樹の変化に気付いた綾が心配そうに龍樹のことをうかがっているのが分かる。
「宗主様はおっしゃられた。リコリスを崩せば新しい世界が開けると。この歪んだ世界を我らの手で壊せと」
「……宗主様?」
綾の気を散らすべきではない。冷静にならなくては、と不穏に思考を揺らす自分を律しながら、龍樹は気になった単語を緋風に向かって呟く。
だがその言葉が、緋風の中の何かの引き金を引いたらしい。
「我らは創るのだっ! 掃除人なんて存在しなくても成立する世界をっ!!」
今まで冷静そのものだった緋風の瞳に狂気が躍る。興奮に彩られた叫びは、周囲の掃除人を巻き込んで場の空気の熱を上げた。
「もう殺しなんてこりごりだっ!! 我らが人間に戻るため、まっとうな人間であれるため、我らはリコリスを崩さなければならないっ!! 革命を邪魔する存在は消さなければならないっ!!」
その言葉に、気圧されたかのように綾が一歩足を引く。
だが龍樹は、その場に立ったまま動かなかった。
「それで? 掃除人が必要なくなった世界に、お前が存在できるとでも?」
何かがブツリと切れて、胸を渦巻いていた不快感も、何もかもがスッとどこか遠くに流される。龍樹の喉から零れてきた声は、氷にさえ温もりを感じるほどに冷え切っていた。
「掃除人という身分があってもなくても、俺達は人殺しだ。掃除人という肩書きがあるから、俺達の存在は許される。……それをなくす、だと? 理想論も結構だが、自分の立場を考えて物を言え。被害者面をするな。これはお前が選んだ生き様だろうが」
彼らが口にしている理屈はまっとうなものだと思う。
だが彼らはすでに、そのまっとうな理屈を口に出す資格を失っている。
失っていると自覚しているはずなのに、声高にその主張を垂れ流す彼らに、吐き気に似た嫌悪が込み上がってくる。
自分を生かすために、いらない人間を殺す。このシステムが倫理に反していることなど、歪んでいることなど、誰もが最初から百も承知だ。それでもこのシステムが公然と機能しているのは、誰もが自分を生かすためにこれが必要なのだとどこかで理解しているからだ。
自分達が必要悪だとは言わない。殺しを正当化するつもりもない。このシステムに自分達の何かが削られていて、このシステムのせいで消えていく命がある。これだって事実なのだから。
だが自分達はそれを受け入れる選択をしたはずだ。
掃除人に選択の余地はない。指令を下されれば任をこなすだけ。
だがそうなる前に自分達には……否、彼らには、選択肢が与えられたはずだ。
「お前は選択をしただろう。この現状を受け入れるということを。掃除人としての存在理由を己に認めさせるということを。その覚悟がなかったと言うのならば、お前は掃除人になるべきではなかった」
掃除人は、その肩書きを失えばただの片付け者として粛清されるべき存在。そんなモノに好き好んでなる者はいない。掃除人になる者は、そうなることでしか己の存在理由を示すことができない人間達なのだ。
そんな片付け者と人間の間をさ迷うモノ達に突き付けられる選択肢。
掃除人になって存在理由を得る代わりに全てを捨てるか、全てを守ったまま存在理由を捨てて片付けられるか。
「監獄? それに最初に縋りついたのは自分自身だろうが。それを忘れて革命なんていう幼稚な真似に走るくらいならば、お前は死を選ぶべきだったんだ」
――こいつらには、自分には示されなかった選択肢があった。
その選択肢を自由に吟味した結果、今の彼らがここにある。だというのに一体こいつらは今更何をゴネているのか。掃除人ならば意識する、しないに関わらず受け入れられていて当然のことを彼らはいまさら掘り返そうとしている。
そこまで考えて、龍樹はキレた瞬間に消えたと思っていた感情がまだ自分の中に渦巻いていたことに気付く。
――ああ、この不快感は、怒りから来ていたのか。
彼らが掃除人になった経緯を龍樹は知らない。だが彼らが龍樹よりはるかに恵まれた状況で掃除人になるという選択をしたということだけは想像できる。
うらやましいと思うからの怒りなのか。自分が当然と思っていることを、自分よりはるかに年上の人間達が幼子のようにゴネることが面白くないのか。
それとも自分の根底にあるものを、こいつらがぶち壊そうとしているから来る怒りなのか。
「そんなコトをほざく輩は、惑うことなき片付け者だ」
その言葉に狂気に煌めく緋風の瞳が色を変えた。次の瞬間には緋風が刃を抜いている。あまりの速さに仲間である掃除人達さえもが緋風の動きに対応できていない。唯一相対する綾だけが丸腰の龍樹をかばうために拳銃を緋風に向ける。
そんな光景が、龍樹の目にはスローモーションで見えていた。
――俺なら、殺せる
逃げ惑う中、ペンケースの中から引き抜いたカッターナイフが制服の胸ポケットに刺さっている。たかが文房具だが、龍樹の手にかかれば立派な凶器だ。日本刀との打ち合いさえ避ければ、龍樹はこんなちっぽけな文房具で緋風を殺すことができる。そんな確信が今の龍樹にはあった。
――こいつを、殺せる
綾の前では隠し続けてきた、遠宮龍樹の本性。人を殺すため、片付けるためだけに磨かれ続けた優雅な凶器。掃除人になるためだけに生かされ続けた、『赤』となり、『白華』となるためだけに存在を許されてきた自分が、存在理由をかけて小さな刃を手に取る。
龍樹をかばおうとする綾の横をすり抜けて、緋風が縮める間合いをこちらからも縮める。緋風の踏み込みに合わせて数歩、その懐に飛び込むように龍樹の体がカッターナイフを引き抜きながら重心を低く取る。
――ああ、こいつ、死んだな
「たっちゃんっ!?」
龍樹の動きに気付いた綾が戸惑いの声を上げる。
その背後に、か細い風切り音が響いた。
「っ!?」
「やっと追いついた」
柔らかな声音とともに緋風の動きがピタリと止まる。同時に自分の右腕に違和感を覚えた龍樹はとっさに声の方を振り仰いだ。
建設途中の鉄骨の上。太い建材が剥き出しのまま幾重にも宙を走る中に漆黒の影が見える。その影が誰なのか理解するのは、怒りに思考を囚われた龍樹よりも綾の方が早かった。
「お父さんっ!?」
龍樹が見知らぬ黒服の男を従えた文也は、自身も漆黒のロングコートを纏っていた。黒を嫌う文也は、普段の私服では決して黒を纏わない。そんな文也の仕事服姿は酷く見慣れないものだったが、同時にこの上もなく文也には黒が似合っていた。
「綾様~、遠宮龍樹~、プレゼントっすよ~」
そんな文也の後ろにいた男が、ぽいっと手に持っていた物を放り出す。なぜ文也が急に現れたのかと混乱していた龍樹は、とっさにそれが何なのか分からない。
「!? ありがとうっ!!」
はっと我に返った時には、男の手から放り出された
そんな龍樹の背中に、トン、と何かが触れる。
「たかが怒りで我を忘れるとは、まだまだ修行が足りないんじゃないかい? うん?」
視界を舞う、透明な死線と赤い影。
音もなく現れた己の師に、龍樹は一瞬だけ視線を送る。
「こいつを殺すことは、鈴見クンを守ることよりも重要なのかい?」
その言葉に龍樹は目を見開いたまま体を強張らせた。その背中を守るように立った黒羽は冷ややかな視線を龍樹に向ける。
「僕が示した存在理由の中で生きているならば、僕はキミがどう行動しようが不満はない。ただ、キミが実力を露わにするということは、鈴見クンをある意味恐怖させる事象なのではないのかね?」
龍樹の手の中に
この一振りが龍樹の手の中にある意味を、綾は知らない。知られてはならない。
知ってしまえば、恐怖せずにはいられない。恐怖されてしまえば、龍樹は綾の傍らにはいられない。
守るために力を欲した理由が、縋り付いていたかった場所が、知られた瞬間龍樹の手から零れ落ちていく。
――存在理由は、殺すため。でも……
一度奥歯をかみしめて、体を雁字搦めにしていた恐怖を振り払う。それと同時に龍樹は緋姫を抜いた。
――存在していたかった理由は、それじゃない。
「……宗主様、とか言ってたな」
抜刀した緋姫を緋風の首筋に突きつける。緋風を圧倒する速さでありながら、本来の実力には遠く及ばないスピード。文也のワイヤーが緋風の体を拘束している今、龍樹が本来の力を発揮する必要性はどこにもない。
「吐け。そいつは誰だ? 革命の首謀者はそいつか? ……最近巷で流行っているとかいう『掃除人狩り』も、革命の一部か?」
正確に首の皮一枚を裂いて刃を止める。周囲の掃除人は文也のワイヤーと黒羽の鞭によって片付けられていた。締め上げて情報を吐かせるために緋風は残されたということだ。
「なぜ革命とやらのために俺達の元までお前達が派遣された? 狙っている掃除人は無差別なのか?」
ひたと龍樹が視線を据えれば、緋風はわずかに瞳を揺らしていた。それが何を表しているのかまでは龍樹には分からない。龍樹の強さに驚いているのか、突然登場した文也や黒羽の存在に動揺しているのか、まるでスイッチを押されたかのように感情を消した龍樹が理解できないのか。
「……革命に、犠牲はつきものだ」
だが龍樹にそれを判断する時間は与えられなかった。
「私もその礎の一つになろう」
ガリッと緋風の口の中で何かが砕ける音が響く。それが何の音か察した龍樹はとっさに後ろへ飛び退った。白目をむき、泡を吹いた緋風が開いた空間に倒れ込む。その光景を見ていた綾が息を呑んだのがかすかに響いた音で分かった。
「尋問は失敗すっか」
文也とともに地上に降りてきた男が冷めた声で言葉を紡ぐ。その声を聞くともなしに聞きながら龍樹はゆっくりと緋姫を鞘に納めた。
「奥歯に毒でも仕込んでいたんだろうね。……僕の所に派遣されてきた掃除人達も、みんな仕込んでいたよ」
「『宗主様』とやらに、ずいぶんな忠誠を誓っているようですね」
黒羽と文也が緋風に向ける視線も、男の言葉同様に冷めていた。二人の反応を見るに、どうやら二人とも似たような襲撃をかいくぐってきたらしい。どうやら掃除人をけしかけられたのは龍樹達だけではなかったようだ。
「……黒羽。『宗主様』とやらに、目星はついていないのか? 掃除人狩りもこの革命とやらの一部であるなら、黒側は何か情報を掴んでるんじゃないか?」
龍樹の言葉に黒羽は面白そうな表情を龍樹に向けた。綾の前であることを考えて師弟関係を伏せようとする龍樹を面白がっているのか、龍樹の発言が的を射たものだったのか、そのどちらかであったのだろう。
「事前に沙烏殿にお伺いを立ててきたんだけどね。沙烏殿も、まだ正体を掴めるほど解析は進められてはいないようだったよ」
「沙烏が動いているのに?」
「反乱分子全体が裏の裏に潜んでいるらしくて、まだまだ尻尾を出してきていないらしい。全体像が見えるほどの情報というか、動きがないらしいんだ。僕の所 にやってきた掃除人達の解析を任せてきたから、もう少しすれば何らかの糸口は見えるかもしれないけどね」
「……矛盾してないか? 全体像が見えないくらい動きがなかったのに、いきなり三か所一斉に反乱分子を派遣してくるなんて……」
龍樹の言葉に黒羽は笑みを深めるとスイッと龍樹の口元に唇を寄せた。視界の端で綾をうかがえば、綾は沙烏が何者であるか文也に問われたようでその説明のために文也の方に向き直っている。
「彼らね、僕の本名を知っていたよ」
その言葉に龍樹は目を見開いた。
「……『宗主様』とやらは、師匠の身内ってことですか」
黒羽の本名は、リコリス内に公開されていない。創建当初からリコリスに在籍していた黒羽は、ずっと血濡れ名である『赤桜』ですべての名前を通してきた。リコリス内の書類に記載されている名前は、赤桜か黒羽で表記がされている。黒羽の本名を知っているのは、黒羽とプライベートで付き合いがある人間だけだ。
その数少ない人間の一人である龍樹は、黒羽の本名をどんな場所で知り得ることができるかも知っている。
「巧妙でありながら、所々稚拙さが出る作戦。性格が表れているよね。わざわざ私の本名を実行犯に教えていたなんて、まるで自分を構ってくれとでも言っているようじゃないか」
龍樹が黒羽の本名を知ったのは、自身の養子縁組に関わる書類を目にする機会があったからだった。
黒羽の本名を知ることができるのは、黒羽と身内の関係にあった者のみ。龍樹は黒羽の血縁については何も聞かされていないが、ただ一人、かつて黒羽の身内と呼ばれた人間がいることだけは知っている。
「……しかし、何のために」
「遊んでほしかったんだろうさ。あれは、そういう性格だから」
黒羽は冷めた口調で言葉を終えると龍樹の傍らから体を離した。改めて龍樹に据えられた視線は問うような色を帯びている。
「行くかい? 龍樹」
宗主様とやらの正体が断定できたわけではない。だが心当たりが一人でも浮かんだならば、龍樹が……『白華』が動かないわけにはいかない。一連の動きはリコリスにとっては不穏なものだ。白華が動くには十分な理由が揃っている。
問いの形をとっていながら、黒羽の言葉は命令とほぼ同義だった。
龍樹の存在理由は『白華』であることであり、『赤』であること。その存在理由を果たさなければ、龍樹は存在している価値がなくなる。今この場で理由もなく黒羽の言葉を拒否すれば、龍樹はその存在理由に反することになる。
「……」
龍樹は黒羽の言葉に答える前に一度綾に視線を向けた。
黒羽達が登場するまで並んで立っていたはずなのに、いつの間にか龍樹と綾の立つ間には距離が開いていた。文也と黒羽があえてそんな風に二人を引き離したのだろう。綾を蚊帳の外に引き出し、渦中の龍樹にだけ必要な情報を渡すために。
これが本来の、龍樹と綾の間にあるべき距離なのかもしれない。
そんなことを思いながらも、綾の表情を見た龍樹は苦笑を口元にはいていた。
「……お前、なんっつー顔してんだよ」
文也と並んで立った綾は、不安そうな、心配そうな、……幼子が人混みの中で親と引き離された時のような、そんな頼りない表情をしていた。このまま放り出したら泣いてしまうのではないかと思える表情を浮かべた綾は、龍樹にまだ二人が幼かった頃のことを思い出させる。
龍樹は自分から綾との間に開いた距離を埋めるとポンッと綾の頭に手を置いた。そのまま容赦なくガシガシと綾の頭を掻き回せば、不意を突かれた綾は小さな悲鳴を上げながら龍樹のことを睨み上げてくる。
「ちょっと黒羽の使いっ走りになってくるだけだ。この人、案外人使い荒い上に、今手頃な人間が近場にいないんだとよ」
「えっ!? たっちゃんだけ? 私は?」
「頭の悪い人間に黒羽からの指示を理解するのは難しい。お前は文也さんと留守番だ」
「な……っ!? ちょっと待ってよ! 私、指示を理解できないほどおバカじゃ……っ!!」
「お前だけを馬鹿にしたわけじゃない。文也さんと留守番って言っただろうが。日本語もまともに通じなくなったのか?」
「え、え……? 確かにお父さんはおバカじゃないけど……。でも、なんでたっちゃんなの? お父さんじゃなくて?」
綾は困惑した視線を龍樹と文也の両方に送る。そんな綾の視線を受けた文也は一度だけ龍樹に視線を送ると、いつも通り穏やかな笑みを広げてみせた。
「年齢的に龍樹君の方がスタミナがあるし、追放されているといっても僕は元『赤』二番席にいた人間だからね。黒羽さんも僕より龍樹君の方が使いっ走りにしやすいんじゃないかな。それに、春日のことが心配だから、僕はさっさと帰れた方がありがたいな」
「あ! そうだよ、お母さんっ!! お母さん、巻き込まれてないかな? お母さんの所にこいつらみたいなのが派遣されてたら……っ!!」
「よっぽど大丈夫だとは思うけれど、一応僕と綾ちゃんでガードしていた方がいいと思うんだよね。だから僕達は大人しく引っ込もうか」
文也の言葉に綾の意識が龍樹からそれる。その瞬間を見計らっていた龍樹はスッと一行の輪から外れて歩き始めた。
「……行くんすか、遠宮龍樹」
そんな龍樹に、文也の従者が声をかけてきた。知らない間に一行から外れた場所に陣取っていた従者は、すべてを見透かすような瞳で龍樹のことを見ている。その瞳はどこか、黒羽が纏う雰囲気に近いものを宿していた。
「……相手は内部異端分子。『白華』の赤椿が動くに足る条件は揃っている」
おそらく彼は龍樹の本性を知っている。
その前提で言葉を返せば、従者は特に表情を動かすこともせず傍らに抱えていた荷物を龍樹に向かって放った。上着で適当に包まれた自身の仕事服だと気付いた龍樹は緋姫をベルトに通すと仕事服を抱え直して歩き出す。
「ホシは恐らくリコリス本庁。……黒羽さんからの伝言っす。見頃になった白花を譲る、とも言ってたっすよ」
その言葉で、龍樹の行き先は決まった。
歩きながら制服のネクタイを引き抜き、上着を脱ぎ、ひとつひとつ身に纏う物を漆黒に変えていく。
それだけで、自分の中で何かが組み変わっていく。遠宮龍樹という存在が、『白華』の赤椿という凶器に組み替えられていく。
それを感じながら、龍樹は一度瞳を閉じた。ベルトに差した緋姫が、まるで龍樹を舞踏に誘うかのように音を立てる。
「……仕事だ」
その一言で、すべてが整った。
「『白華』を、舞わせよう」
冷え切った声は、聞く者のいない空気の中に溶けて消えた。
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