2.


 シュルシュルシュルと、操られているかのように、リンゴの皮が剥けていく。


「ほら、春日かすが。できたよ」

「うわぁ」


 リクライニングさせたベッドにもたれかかる形で半身を起こした春日は、サイドテーブルに並ぶリンゴを見て目を輝かせた。


文也ふみやさんって、本当に器用なのね」


 皿の上に並べられたリンゴ達は、どれも器用に動物の形にくりぬかれていた。リンゴというよりも小さな彫刻に近い代物が並ぶ皿の上は、さながらミニチュアの動物園のようだ。果物ナイフ一本で芸術品のようなリンゴ細工を作り上げた文也は、元気な反応を見せる春日に嬉しそうに瞳を細める。


「春日にちゃんと食事をしてもらうためなら、なんだってするよ。少しでも元気なうちに、きちんと食べてもらわないとね」


 今は無邪気に喜びを露わにしている春日だが、その実態は医者さえ匙を投げる末期の病人だ。寝たきりになって久しい春日が、自力ではないとはいえこうして枕から頭を上げていられる時間は今や奇跡に等しい。こんな時間が少しでも長く続いて欲しいと切に長いながら、文也は指輪を何連つけても器用さを失わない無駄に器用な指先と、果物ナイフにまで適用される無駄に刃物の扱いにたけた自分の特性を生かしてせっせと春日の食事の世話をしていた。


「でももったいないわ。食べちゃうなんて。このくまさんなんて、北海道のお土産屋さんに置いておいたら売れそうだもの。ほら、口にくわえた鮭までそっくり」

「また作ってあげるから。変色しないうちに食べて」


 食べてくれなきゃ作ってあげないよ? と笑顔で脅すと、春日は慌ててリンゴの彫刻達に手を伸ばした。その指先はうろうろと動物達の上をさ迷い、結局キリンを選んで口元まで戻る。シャクシャクと必死にリンゴを食べ始めた春日を見つめ、文也は満足そうに頷いた。


 そしてそのまま果物ナイフを置き、実にさりげなく席を立つ。


「ちょっと飲み物買ってくるね」


 無造作に動いた文也は春日の返事を待たずに身を翻す。


「文也さん」


 だが相対する春日の動きは、いつになく早かった。シャツの裾を取られた文也は、わずかに体勢を崩しながら足を止める。


「どこへ行くの?」

「だから、飲み物を買いに……」


 振り返って春日に微笑みかけようとする。だがその努力はするだけ無駄だと、視線があった瞬間に分かってしまった。


 末期の病人だとは思えない、強い光を宿した瞳。その瞳を前にして、文也の薄っぺらい嘘がどれだけの意味を持つというのか。


 文也は小さく溜め息をつくと、表情を消して言った。


「……ちゃんと、帰ってくるから」

「……だったら、持っていって」


 言葉と表情の変化で、文也が引かないことに勘付いたのだろう。春日は文也のシャツの裾を掴んだまま、視線だけでサイドテーブルの果物ナイフを示す。


「使わないよ」


 その言葉に同じように視線を落とし、文也は口元だけに笑みを浮かべた。


「それは『文也』が使うものであって『赤蓉せきよう』が使うものじゃないから」


 春日はその言葉に不満を示すかのように瞳の色を陰らせた。その変化をつぶさに観察した文也は、そっと手を伸ばしてクシャリと春日の頭を撫でる。


「大丈夫。だてに『血濡れの彼岸花』と呼ばれていたわけじゃないから」


 その手の温もりに春日はわずかに目元を緩めた。春日の瞳を陰らせていたものが消えたことを確認した文也は、伸ばした時と同じように春日の頭からそっと手を引く。文也の手の下から現れた春日の瞳は真っ直ぐに文也を見上げていた。


「信じていますから」

「……うん」


 その言葉に文也はふわりと、春日にしか見せない柔らかい微笑みを浮かべる。春日はその笑みに小さく微笑み返すと、文也のシャツから手を離した。


「……どうして他の人は完璧に騙せるのに、春日を騙すことはできないんだろう」


 廊下に出て、ドアをきっちり閉めてからぼやく。軽い敗北感を覚えたが、別にそれは嫌な感覚ではない。


「……そうだね、どちらかと言えば不快なのは……」


 一度左右に視線を走らせた文也は、特に気負うことなく歩き始めた。普通の見舞客と変わらない歩調で廊下を進み、自販機のある談話スペースに入る。ちょうど人気のない時間帯と重なったのか、談話スペースに他の人影はない。


「春日との幸せな時間をあからさまな殺気で邪魔してくれる、君達だよ」


 その光景が一気に黒に染め変えられた。


「……国家人口管理局『リコリス』直属掃除人、鈴見文也だな?」


 文也を取り囲んだ掃除人の内、正面に立つ男が口を開く。どうやらこの男がリーダー格らしい。


「そっちも掃除人だよね?」


 文也を取り囲んだ掃除人は五人。その全員が漆黒の仕事服に身を包み、得物を手にしている。


 掃除人同士の小競り合いは、リコリス本庁によって原則的に禁止されている。彼らはその原則の中にいる人間のはずだ。リコリスを裏切っていない文也が彼らに囲まれる理由はない。


 それに、万が一その時が訪れたら、文也の前に立ちはだかるのは彼らではなく娘の幼馴染である彼になるのだろう。


「我らをお前と同じ掃除人だと思うな」


 男は攻撃的に文也の言葉を斬り捨てた。


「我らは、お前達のような犬には成り下がらない。我らは、革命を起こすのだ」


 男の言葉に文也は思わず目を眇める。だが相対した掃除人はそのわずかな変化に気付いていないようだった。


「我らはこの監獄から解放されるべきだ」

「……監獄?」

「そうだ」


 ほの暗い瞳が文也を見据える。生気が抜け落ちた、闇を固めた瞳。その双眸は狂気でギラついていた。


「監獄でない訳がない。我らは好き好んで掃除人になった訳ではないのだから」


 その言葉にシン、と胸が冷えた。今まで自分の胸の中にたゆたっていた人らしい感情が、ストンと落ちて消えていく。


「我らはこの監獄に甘んじることはない。我らはこの監獄と戦い、必ずやここから解放される。だから」


 ――手始めに、敵となるお前達に消えてもらうのだ。


 男は静かに言い放つとスラリと刀を抜いた。文也がかつてリコリスから貸与されていた緋姫あけひめほどの業物ではない。だが及ばずとも名工の逸品であることに間違いはないだろうと分かる優雅な凶器が、文也の鼻先に突き付けられる。


「我らを怨むなよ。怨むならば、お前を掃除人にした運命を怨むがいい」


 文也は一歩も動かない。視線を刃へ向けることさえもしない。


「……一体」


 その代わりに、唇が動いた。


「何を勘違いされているのですか?」


 場にそぐわないと、誰もが思うほどひどく優雅な語調。それが穏やかな響きとヒヤリとした冷たさを纏い、容赦なく相手へ叩きつけられる。


「解放? 戦う? 馬鹿げていますよ。その監獄とやらに自ら入っていったのは、あなた達自身でしょうに」


 文也は声が纏う温度よりも冷たく笑った。


「あなた達は小学生か何かですか? 自分達の発言にさえ責任を持てないなんて。『掃除人になる』。その選択をしたのは、他ならぬあなた自身でしょうに」


 その言葉に、相対している掃除人達が怯んだ。だがその空気はすぐに殺気で埋め尽くされる。


「問答をするつもりはない」


 文也の鼻先に突き付けられた刃がゆらりと揺れる。それを合図にしたかのように、文也を取り囲んだ掃除人達が一斉に刃を抜いた。


「我らのために、さっさと消えろっ!!」


 ヒュッと刃が空を裂く。目を細めてその様を見た文也は逃げることもなく、両の腕を軽く振った。文也が回避行動を取らないのを見た男達は、勝利を確信して口元に笑みを刻む。


 だがその笑みは一瞬で凍りついた。


「消えろ? 随分とまあ、幼稚な言葉ですね」


 刃は文也の眼前で止まっていた。


 止まっているのは刃だけではない。文也を取り囲んだ掃除人の全員が、不自然に動きを止めていた。身じろぎ一つしない。


 いや、実際は『できない』と言うべきか。


「そもそも、たったこれだけの人数でかかってきて、私を害せるとでも思ったのですか?」


 しんと静まり返る包囲網の中を何事もなかったかのように歩いて抜けた文也は、自販機の前で立ち止まるとズボンのポケットから硬化を取り出した。チャリン、チャリン、と一枚ずつ、文也の操る硬貨が自販機の中へ消えていく。


「舐められたものですね」


 代わりに自販機の中から吐き出されてきたのは紅茶だった。血のように紅い液体で満たされたペットボトルが、文也の手の中に納められる。


「私を殺したいのならば、少なくとも『紅』以上の名を持つ者を、両手の指の数以上揃えなくては。お話はそれからです」


 今更恐怖に震える掃除人達に文也は相変わらず穏やかな口調で語りかけた。

今の文也は掃除人達に無防備に背中を向けているというのに、文也を殺すためにこの場に現れた五人が五人とも動けずにいる。そんな状況を一瞬で作り上げてしまった文也に、恐怖を抱かずにはいられない。


「……な、ぜだ………っ!!」


 絶望に彩られた言葉が掃除人の口から零れ落ちた瞬間、ようやく文也は背後を振り返った。


「武器など…どこにも……っ!! いくら元『赤』とは言え、この状況は……っ!!」

「あなた達、私を襲う前に、少しは下調べをしたのですか?」


 再び間を優雅に通り抜けた文也は、流れるような所作でペットボトルを開けると口を付けた。


「確かに私は、『赤』二番席にいた時に緋姫を愛用していました。ですが、私が『血濡れの彼岸花』と呼ばれ始めたのは、『赤』二番になるよりもずっと前ことです。つまり、『血濡れの彼岸花』の正しい得物は、緋姫ではないんですよ?」


 わずかに口元にこぼれた紅茶を、白い指先がグイッと拭う。


 その瞬間、宙に細く紅い光が走った。


「っ!? ……糸っ!?」


 指を伝った紅茶が何連にも重ねられた指輪を伝い、指輪に伝った紅茶がそこから伸びた糸を伝っていく。目を凝らして見れば、談話スペースの中にはキラキラとわずかに光を反射する糸が縦横無尽に張り巡らされていた。いつの間にか張り巡らされた目に映らない凶器が、男達の体も得物も雁字搦めに捕えている。


「そ…んな……っ!! あの方は、そんなこと、一言も……っ!!」

「私が一体何のために、趣味でもないのにこんなに多くの装飾品を身につけていると思っているのですか?」


 ワイヤーを仕込んだ指輪に彩られた両手を眼前に掲げ、文也は冷たく、優しく微笑む。その様はまさしく、死者を前にしてほくそ笑む死神そのものだった。


「この世に生を受ける所から、やり直していらっしゃい」


 その表情を崩すことなく、文也は張り巡らされたワイヤーを指先で軽くはじいた。たったそれだけの動きで、五人の掃除人はあっけなく絶命する。ただの物質と成り下がった元掃除人に一瞥もくれず、文也は軽く腕を振って張り巡らせたワイヤーを回収した。


「随分と優しく殺してやったんっすね」


 そんな文也に、穏やかな声がかけられた。


 声の方へ視線を投げれば、いつの間にか黒服を纏った人間が一人増えている。


「本当は、もっといたぶってやりたかったんですけどね」


 気配自体は、あの掃除人達が現れるよりもずっと前から掴んでいた。ただこの人物が自分達の時間を邪魔することはないと分かっていたから放っておいただけである。

必要がなければこの男は文也に接触しようとはしない。常に文也を見守る位置をキープしているくせに、文也の気質を理解しているから必要以上に近付こうとはしない。昔からこの男は、そんな優れた従者だった。


 片手に紅茶のペットボトルをぶら下げた文也は、久し振りに姿を現した己の従者をくだけた雰囲気で迎え入れた。


「春日は血の匂いに敏感なので、流血しない方法で殺さないと」

「相変わらず春日様至上主義なんっすね~」


 仕事服である漆黒のフロッグコートをラフに着こなした文也の部下は、百も承知なことに大げさな反応を示す。そんな、リコリスを裏切った後も付き従ってくれる忠実な部下に向かって、文也は問いを口にした。


「ところで緋人あけひと。こいつら一体何なのですか?」


 あなたが止めに来なかったということは、殺しても問題はなかったということでしょう? と文也は冷めた視線を屍に向ける。


 その発言に緋人ははたと文也に視線を据え直した。


「それっすよ。文也様、本庁に牙剥いてないっすよね?」

「春日が生きていますからね」

「そうっすよねぇ~……」


 互いに言外に含ませたニュアンスまでくみ取りながら、緋人は腕を組むと屍達を眺め回した。


「俺の情報網にも、本庁が文也様に向かって掃除人を動かしたっていう報は引っ掛かってないっす。つまり、掃除人を誰かが私設に動かしたか、こいつらが自主的に徒党を組んだか。まぁ、どちらにしろ、反乱分子ってことになるっすね」

「反乱分子……」


 我らはこの監獄から解放されるべきだ。我らはこの監獄に甘んじることはない。我らはこの監獄と戦い、必ずやここから解放される。だから手始めに、敵となるお前達に消えてもらうのだ。


 確かに彼らはそう言っていた。


 掃除人という身分から抜け出すためには、リコリス本庁と戦わなくてはいけない。確かにそんな輩が徒党を組めば、その呼称は反乱分子とするのが適切だろう。


 だがその反乱分子が、なぜ自分を狙ってきたのかが分からない。文也がリコリスの任を放棄して春日と一緒になり、その結果『赤』二番席から追放されたという話はリコリス内では誰もが知っている有名な出来事だ。文也がリコリスの忠犬でないことくらい誰でも分かりそうなものなのに、なぜそんな自分の元に反乱分子達がやってくるのかが分からない。


「『赤』とか、元『赤』の人間を狙ってるんじゃないっすか?」


 考え込む文也の前で緋人が口を開いた。


「本庁が反乱分子の一掃を考えた時、出張らせようとするのは『赤』っしょ。そもそも『赤』は本庁の切り札っすからね。だからそれを見越して、本庁の主力になりそうな人間を襲ってるとかどうっしょ?」

「たかが反乱分子の一掃に本庁がわざわざ『赤』を出しますか?」

「厄介な相手をとっとと潰したいとなれば、本庁は出し惜しみなんてしませんよ。さらに言えば、仮に相手がリコリスの体面に傷を付けるような行動をしようとしたら。……本庁はなりふり構ってなんかいられませんって」


 つまり、リコリスの主力を先に潰しておいた上で本庁を追い詰め、パニックに陥れることが相手の狙いということか。指揮系統が混乱すれば、組織は動きを止める。そこを突けば少数で組織をひっくり返すことも不可能ではない。


「しかしリコリス主力と言われる掃除人達が、たかがあれごときの烏合の衆にやられるとは思いませんが……」


 緋人の言葉にそこまで思考を巡らせて、文也ははっと息をのんだ。


「相手はどこまで情報を握っていると思いますか?」

「どこまでって?」

「龍樹君が『赤』三番だということを、相手は知っていると思いますか?」

「遠宮龍樹っすか?」


 文也の言いたいことを察した緋人はわずかに瞳をすがめた。


 龍樹が『赤』三番であることは、リコリスの中でもごくわずかな人間しか知らない事実だ。文也の養女であり、龍樹の幼馴染である綾だって、龍樹が赤椿という名で呼ばれる屈指の掃除人であることは知らされていない。何の目的があるのか知らないが、龍樹は綾が掃除人になった時から血濡れ名を持たない平の掃除人のふりを続けている。綾の相方となるためにかなりの無茶を通したという話だけは以前黒羽から聞いていた。


 だがいくら平のふりをしていても、綾と平の仕事をこなしていても、彼が『赤』三番の名を持っていることに変わりはない。


 それに今、彼は『赤』二番の地位を剥奪された文也の後を継いで白華しらはなの任も負っている。彼の実力を正確に知っていれば、敵は間違いなく彼をリコリス主力の一部として扱うだろう。


「相手が一番重点を置いて攻撃するべきは、彼ですよ」

「……遠宮龍樹の傍には綾様がいらっしゃるんっすよね?」

「今日は平日ですからね。学校に行っていますよ」


 つまりほぼ一日中、綾と龍樹と行動を共にしている。


 学校という場所で攻撃される確率は低いはずだ。そもそも、学生が掃除人をやっていること自体が異例なのだから。だから龍樹と綾の元に掃除人が派遣されたとは考えにくいが、それでも一度湧き上がった不安は消えてくれない。


 龍樹はどうでもいい。仮にも彼は『赤』三番だ。丸腰だろうがなんだろうが、戦えるだけの技量はある。というか彼が死のうがへたれようが、文也にはあまり興味がない。


 問題は綾だ。


「春日に事情を説明してから私も出ます。緋人、私の仕事服は?」

「持ってませんよと言いたいトコっすけど、おっとどっこい、従者の義務として常備っす」

「指輪と腕輪で武装していますし、行けるでしょう。あなたも丸腰ではありませんよね?」

「仕事服着てるのに丸腰ってこたぁないっしょ。すぐにでもお供できますよ」


 口笛を吹きそうな雰囲気で先に歩き始めた緋人の後を追いながら、文也は一瞬背後を振り返る。談話スペースの窓から見える空は、気持ちがいいくらい晴れ渡っていた。


 ――こんな日は、春日と心行くまでお喋りしていたかったのに。


 そう思ったのを最後に、文也は意識を切り替えた。





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