4.


 ずっと、震えていた。


 それが夜の闇のせいなのか、寒さのせいなのか、それさえもよく分からない。


「……っ」


 狭いベッドの下。伸ばした両腕の先に握られているのは仕事で使う拳銃。普段は手放したいとさえ思っている代物なのに、皮肉にも今の自分が扱える武器はこんな物しかなかった。


 綾はもう一度、意識して深く息を吸った。大丈夫。カーテンは全て閉めた。家中のドアというドアも全て閉めてある。電気はつけていない。ベッドの下は一番狙撃にあいにくい。そう教えてくれたのは龍樹だ。


「…ったっちゃん………っ!!」


 その名を呟くと知らない間に涙が浮かんでくる。


 大丈夫だと断言した、龍樹の声を思い出す。あの聡明な幼馴染がそう言っていたのだ。間違いなどあるはずがない。きっとすぐに来てくれる。ここにきて、きっといつものように冷たい顔で綾を見てこう言うのだ。『何やってんだお前は、ネズミかゴキブリの真似事か?』と。


「…っ」


 想像中の龍樹に舌を出してみせる。


 その時、玄関のドアが静かに開いた音が耳に届いた。


「!!」


 綾はとっさに銃を握り締める手に力を込める。入ってきたのは、明らかに文也ではなかった。文也だとしたら、撒き散らされたままになっている白彼岸を見てなんらかのリアクションがあっただろう。

では龍樹か、綾を殺しに来た掃除人か。


「――……っ」


 落ち着いた足音は迷いなく綾の部屋の方へ上ってくる。


 聞き慣れた足運び。龍樹のもののような気がする。だが本当に龍樹なのだろうか。他人が真似ているだけではないのだろうか。


 逡巡している間に、足音が部屋の前で止まる。


「……っ!!」


 ――そのままノックもなく入ってきたら、殺してやる……っ!!


 龍樹は『俺とお前にしか分からない方法で呼ぶ』と言ったのだ。綾はまだ龍樹に呼ばれていない。このままドアが開かれたら、その時点で扉の向こう側にいる人間は龍樹を装う偽者だ。


 ――私だって、プロの掃除人なんだからっ!! 来るなら来なさいよ、大人しく殺されてなんかやらないんだから……っ!!


 震える指を引き金にかけドアを見据え、筒先を相手の頭があるであろう場所に据える。


 その瞬間、ドアの向こうから軽快な音が聞こえてきた。


 トントントトトン、トントントトトン、トトトン、トトトン……


「あ…………」


 普通のノック音にしては、妙に節が付けられた、長いノック。


 その音に綾は指から拳銃をすり落とした。涙があふれる視界の向こうで、幼い日のことがフラッシュバックする。


『ねえねえたっちゃん。あたし達だけで通じる合図つくろーよ』

『あーちゃん……それ、一体いつ使う気なの』

『えっとねー、夜お布団抜け出して、遊びに行く時とか。あたしがたっちゃんの部屋に来たんだよーって分かるようにっ! 合図を決めておけば、お父さんやお母さんが来たんじゃないよってすぐに分かるでしょ?』

『えー……』


 二人だけの合図。


 このリズムは、綾の実の両親でさえ知らなかった。知っているのは、合図を取り決めた当人である綾と龍樹だけだ。


「あ……開いてるよ……たっちゃん」


 ――来て、くれたんだ


 その安堵が綾の全身を包む。ぽろぽろとまなじりから雫がこぼれ落ちた。視界が歪んでいくのに、ドアを開けた人の秀麗な顔立ちが呆れに歪んだことだけはなぜかよく分かった。


「何なんだ、その有様は。安全な所に隠れてろとは言ったが、もっと他に場所があっただろうが」


 重厚な作りの豪奢な黒衣。それが誰よりも似合う完璧な美貌。


 部屋の明かりをつけた龍樹は、ベッドの下に潜り込んだままボロボロ泣き崩れる綾を見るとその怜悧な瞳をスッと細めた。


「いつまでそんな所に挟まってるつもりだ。さっさと出てこい」

「こ……腰が抜けちゃったみたいで……」


 綾の情けない言葉に龍樹は聞えよがしな溜め息をついた。それからいかにも面倒臭そうに綾を引きずりだす。


「こんなのが相方かと思うと溜め息しか出てこない」

「しっ、失礼ねっ!!」


 間違いかもしれないとはいえ始末予告が来ていたのだ。綾からしてみれば、殺されるかもしれないと半日以上恐怖にさらされ続けていたのに、むしろ腰が抜けただけで済んでいることを褒めて欲しいところである。


「十中八九間違いだって言っただろ。この俺が。だというのにこの体たらく……」

「信じてたけど、それとこれとは別問題でしょっ!!」


 思わず綾はポコポコと龍樹の胸に殴りかかった。


 その瞬間、ふわりと嗅ぎ慣れた香りが空気に混じる。


「…っ」


 肺にこびりつく特有の金気。


 綾が世界中で一番嫌いな、でも世界中で一番嗅ぎ慣れてしまった臭い。


「何だ。急に止まって。急に動いたせいで腕でもつったのか?」


 綾はそろそろと視線を落とした。その視線の先にはやはり龍樹の愛刀・緋姫が転がっている。


 仕事服。緋姫。そしてこの匂い。


「……たっちゃん」

「何だ」

「何人、片付けてきたの……?」


 間違えるはずがない。これは、血の匂いだ。


 龍樹は上手く人を殺す。片付けられた人間が自身の死を理解するよりも早く死出の旅に出るような、そんな片付け方だ。返り血を浴びるようなヘマもしない。そんな龍樹が血の匂いを纏うのは、余程多くの案件をこなした時か、自分が怪我をした時だけだと、綾は知っている。


「……何の話だ?」


 だが龍樹は、表情一つ動かすことなくそんなことを言ってくる。


「俺は本庁に確認に行ってただけだ。本庁に行くんだから、私服よりかは仕事服着てった方がいいだろ。本庁は何かと物騒だから緋姫を持っていった。それだけだ。仕事なんて、指令も来てないのにいちいちするかよ」

「でも……っ!!」

「そうなんだよ。誰に何と言われようが、そうなんだ」


 龍樹は緋姫を腰から外すと床の上へ置いた。綾の前に足を投げ出して座り込んだ龍樹は、そのままだらしなくネクタイを緩める。


 そして綾から視線を逸らして、小さく呟いた。


「そういうことにしといてくれ」

「……たっちゃん………」


 龍樹は、何があっても話さないつもりなのだ。


 傍若無人で冷たいようで、龍樹は案外、問えば丁寧に綾の言葉に答えてくれる。だから龍樹がこんな風に綾の言葉を突っぱねることは珍しい。


 珍しいからこそ、龍樹は決してこの件に関して口を開こうとはしないだろう。それが分かるから、綾はもう黙るしかなくなってしまう。


 だから綾は、黙る代わりに小さく笑った。まだ涙が出る目では不格好にしか笑えなかっただろうが、それでもいいと自分に言い聞かせる。


「……いい加減に片付けないと、お父さん帰って来た時にビックリするよね! 間違いだったって言われても、気分悪いもん。掃除機取ってくるねっ!!」


 立ち上がって元気に口に出せば、龍樹は呆れたように……だがどこかほっとしたように笑った。


「箒とちりとりだろ。掃除機じゃ詰まって終わりだ」

「ん~、庭掃除用のしかないかもだけど……。ま、仕方がないよね、この際」


 龍樹は綾に隠し事をしている。おそらくその隠し事は、ひとつふたつではないだろう。どうして龍樹が自分に隠し事をするのかも分からない。


 だがそれでも、綾は龍樹を信じている。


「……たっちゃんが、あんな顔で笑うんだもん」


 閉じたドアの外側に背を預けて、綾は小さく呟いた。


 その脳裏にはドアを閉める瞬間に垣間見えた、本人も無自覚に浮かべたのであろう、優しくて、でも見る者の心をどこか締めつける、龍樹の優しい微笑が浮かんでいた。





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