Ⅺ.
龍樹は最後の防壁をカードキーで開き、中へ足を踏み入れた。
国家人口管理局リコリス本庁、その最奥にある部屋は、まるで水底にいるかのように、青白いユラユラと揺れる光で満たされていた。
「
入口に背を向け、その光の中に指を遊ばせていた
「長谷久那」
その背に向かって、龍樹は半年ぶりに彼の真名を口にした。
「赤谷沙希が、目を覚ました」
その声に、一瞬だけ、沙烏の指が止まった。だがその指は、静寂を作り出すよりも早く動きを再開する。
「監視は怠っていません。見ていたから知っています」
この半年で伸びた髪はうなじで一つにまとめられ、背中にたらされている。灰色のトレンチコートと、茶がかった黒髪があいまいなコントラストを生み出す中、左右の腕に付けられた腕章と、トレンチコートに通されたベルトだけが、鮮烈な色を宿していた。
その色は、深紅。
『黒』を纏う掃除人に対し、リコリスの情報官は『赤』を纏う。
「記憶の欠落と未来視の喪失……お前が視た通りだったな」
「あの勢いで脳に衝撃を加えれば、後遺症が残ることは免れません。未来視は繊細なものですから、壊れるならまず、未来視か記憶だと思っていました。目覚める時期までは分かりませんでしたが」
「上の判断では通常の生活に戻して問題なしということだ。無論、監視は付くが」
「上、というよりも、赤椿の判断なのでは?」
そして黒を纏う掃除人は赤にまつわる通り名がつけられ、赤を纏う情報官には黒にまつわる通り名がつけられる。位官が上がれば上がるほど、より直接的な字を用いて。
『赤』というのは実動部隊上位五名のみが使う文字であり、『烏』というのは事務方の下っ端に当てられる文字だ。下っ端といえども通り名がついているということは、全体で見れば上位三分の一には入っているということだが、実質戦わせれば敵う者はないと言われる『赤』の通り名を持つ龍樹の立ち位置からしてみれば、『烏』も名なしも立ち位置はほとんど変わらない。
だが。
「……お前の通り名が
龍樹の独白に、沙烏が初めて龍樹の方を振り返る。
「部外者であった時点で、リコリス上級幹部の一握りしか知らない俺の肩書きを掴んだ人間だ。……このままで留まる器ではあるまい?」
あの時、夕焼けの空を背景に、まだ長谷久那と名乗っていた沙烏と、未来視の力を持っていた赤谷沙希が川に飛び込んだ後。
『俺は、あなたの秘密を知っている。赤椿、あなたが鈴見綾のために、この秘密を抱えていることも』
屋上庭園からは逃げ出せても、あの周囲一帯は龍樹が本庁に要請した掃除人達が包囲網を敷いていた。長谷久那と赤谷沙希はすぐに引き上げられ、龍樹の前に突き出された。綾はアクア・インスパイアビル封鎖に関する解除手続に出向いていて、その場にはいなかったと記憶している。
飛んだ二人に追いすがるように土壇場で綾が放った弾丸は、赤谷沙希のこめかみをかすってはいたが、息の根を完全に止めることはできていなかった。綾の追撃を逃れた上に、あの高さから飛び込んで命があるとは、相当以上に悪運が強い人間だと、龍樹は思わず感心したことを覚えている。
『そして片付け者になった者でも、それ以上の価値をリコリスが見出せば……、片付ける以上に生かす価値があるとみなせば、片付け者に指定された者でも、生き延びることが許されることも、俺は知っている。鈴見綾の今の養父母……鈴見
掃除人に囲まれても、長谷久那は腕の中に庇った赤谷沙希を離さなかった。それどころか目の前に立った龍樹を鋭く見据え、取引に応じろと脅してきたのだ。
『遠宮龍樹、あなたは言った。違う形で関わっていたら、是非ともリコリスにその腕が欲しいと言われた、と』
自分がリコリス専属の情報処理官になる。だから赤谷沙希を片付け者リストから外せ。外さないというのであれば、遠宮龍樹の秘密を公にさらした上で、自分もここで死ぬ。遠宮龍樹がたった一人の
その代わり、赤谷沙希を片付け者リストから外し、この先も身の安全を保証すると言うのであれば、自分はリコリスに隷属する。
赤谷沙希がその意思の下に自由に生きている限り、離反も抵抗もしない。
「……俺がもっと出世したら、赤谷沙希の価値は上がりますか?」
長谷久那を『沙烏』としてリコリスに推薦したのは龍樹だ。
情報屋・長谷家の筆頭。その情報処理の腕前と先読みの頭脳は、片付けてしまうにはあまりにも惜しい。
その主張は実際にこの件を担当していた掃除人からの推薦ということから、あっさりと受け入れられ、長谷久那は『沙烏』となった。実際には龍樹の真の階級の高さの方が物を言ったのかもしれないが、沙烏はそのことに特に興味は抱かなかった。
とにかく沙烏は、自身の人質として赤谷沙希をリコリスに差し出すことで、赤谷沙希を生かした。
「上がるだろうな。上の位官にある人間ほど、リコリスは手放したくないだろうから」
「……じゃあ、頑張ります」
一人の少女を明るい世界で生かすためにこの道を選んだ少年は、強要されているわけもないのにこの部屋から一歩も外へ出ようとしない。
五台のモニターから情報を集め、また五台のモニターから必要な情報だけを必要な所に配信する。その先読みの力はこの半年でさらに研ぎ澄まされていた。沙烏の先読みは『予言』と呼ばれ、リコリス内ではすでにその予言は絶対に外れないものとして扱われている。
「赤椿、個人的な興味から、一つ訊いてもいいですか?」
その予言者が、ふいに口を開いた。
沙烏の声は、まるで沙烏自身が機械であるかのように、人間味というものが一切ない。
「あなたはなぜ、『赤椿』という最強の肩書きがあることを鈴見綾に伏せ、まるで鈴見綾と同格の掃除人であるかのように振る舞っているのですか?」
未来を視透かす沙烏には、分からないことなど何もないと言われている。だがその青年が今、龍樹に向かって問いを口にしていた。
「……掃除人から見ても、『赤』の名を持つ人間は恐怖の対象であるらしい」
龍樹が長谷久那……沙烏を見た時に最初に抱いた感想は、『似ている』という一言だった。
決して一般人が踏み込むことのない世界で生きている所。それ故に感情が欠落している所。感情がない故に周囲より情報処理能力が高い所。
そんな機械のような人間なのに一人の
「お前にとっての赤谷沙希が、俺にとっての鈴見綾だ。……お前の場合とは、多少順序が違ったが」
でも今は、それほど自分と沙烏は似ていないと思う。
「後の意味は、自分で考えろ」
龍樹はそう切り捨てると戸口から身を翻した。
どんな機材を使っても破れそうにない鋼鉄の扉が、自動で閉まっていく。水底のような部屋は、沙烏を呑み込んだまま闇に閉ざされた。
殺風景なコンクリートの階段に取り残された龍樹は、扉にロックがかかったことを示す緑のランプが灯ったことを確認してから、その階段を上り始める。
「俺はそのことを自覚しているが、あいつはそのことを理解できていない」
おそらく沙烏は、今の龍樹の答えだけでは自力で正解を見つけることはできないだろう。
赤谷沙希のために全てを投げ打っておきながら、沙烏は結局今でも自分が赤谷沙希に向ける感情が何なのか理解していない。龍樹は綾と出会うことでその感情を理解できたのだが、沙烏はどうやら赤谷沙希と出会っても、理解まで落とし込むことはできなかったらしい。
「だから、あのタイミングで割って入ったんだ」
今でも折に触れて綾に怒られることを思い返し、龍樹は小さく溜め息をついた。
大分階段を上ったが、その間に何枚の扉が閉まったのだろう。今振り返っても、一番表層にある扉が薄闇の中にぼんやりと浮いている様しか見えない。
地下深くに閉じこもる沙烏は、まるで『久那』という過去を闇にうずめて隠しているように見える。
龍樹に透視や未来視といった能力はないが、沙烏が自身の取る行動の意味さえ分かっていないのだろうということは、本人を見ていれば分かった。なぜ赤谷沙希のために全てを捨て、そのことを全く後悔していないのか、沙烏自身は今を以って理解していないのだ。
そのことを、龍樹は哀れに思う。
だが、龍樹が何を思っても現実は変わらないし、龍樹が何を言っても沙烏は己の不可解な行動を理解はできないだろう。綾は信じてくれないかもしれないが、世の中にはそういう人間もいるのだ。
これはどうしようもないことなのだから、仕方がない。龍樹にできることは、その現実が少しでも綾の目に触れないようにそっと目隠しをすることだけ。それが自分のエゴだということも、充分に分かっている。
「余計な思い出なんて、残さなくていい」
国家人口管理局『リコリス』情報処理専門官、沙烏。
偽物の未来視で未来を変え、無自覚の内に愛した少女を救った青年。
「思い出は、闇の中へ」
地上へ出ると、そこは温室になっていた。一年中鮮やかな花をつける
干渉を拒絶する、彼岸と此岸の境界を示す花。
「『リコリス』の名の下に、闇の中で
彼岸花の園に独白を溶かして、龍樹は温室を後にした。
水底を闇で閉じ込めた花園は、ただただ無言で花を咲かせるばかりで。
その鮮やかな深紅の花の色は、血と夕焼けの色に似ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます