Ⅹ.
――目を開くと、周囲は真っ暗だった。
目を
――ああ、確か、病院にいるんだっけ?
体がまだ起こせないのは、半年近く昏睡していたから。そうやって、父や母を名乗る人達が教えてくれた。
でも、一体私は何をして、半年近くも眠るはめになったんだろう。考えると頭が痛んで、深く考えることができない。
右のこめかみをかすめるように、大きな傷があるんだっけ? 昏睡している間にふさがったっていう話だったけれど、その傷がまだ尾を引いているのだろうか。
「……赤谷沙希さん?」
ふと、やわらかい声が耳に忍び込んできた。
声の方に視線を向けると、真っ黒な服に身を包んだ女の人が立っていた。
栗色で微かにウェーブがかった髪は、ツインテールにされている。ゴシックワンピースの胸元に飾られている花は、暗闇の中でも真っ赤だと分かった。
……彼岸花、だろうか。
髪と同じ栗色の瞳は、この闇の中でも微かに光っていて、静かに私のことを見つめていた。
「……あなた、誰?」
友達、なのだろうか。
そうであるならば申し訳なかった。
今の私は、家族のことも覚えていない。お医者さん風に言うのであれば、対人関係の記憶が欠落している、らしい。思い出せるかどうかは、まだ分からない。
「未来は、視えますか?」
でも、女の人はそんなことは、気にしていないみたいだった。
私の言葉には答えず、不思議な質問をしてくる。
「? ……未来って、普通は、見れないものだと思いますけど……」
この人は、看護師さんなのだろうか。こんな夜中に病室に入れる人なんて限られている。でも、だとしたらこの黒服は一体何なんだろう。
「長谷久那という人物を、知っていますか?」
看護師さんかもしれない女の人は、また私の答えに関係のない言葉を口にした。
会話をする気は、ないのかもしれない。夜中の回診ならば、後も押しているのだろう。
「はせ……ひさな………」
私はその名前を繰り返した。
今まで口にしたどの名前よりも、舌にしっくりくる名前。唇に乗せるだけで、少しだけ、心が温かくなる。
「……だれ?」
でも、私の記憶の中に、そんな人はいない。
「……そう。なら、いいの」
女の人は瞳を伏せると、初めて会話らしい言葉を口にした。その唇には儚げな微笑みが浮いていて、まるで妖精が姿を現したかのように思えた。
女の人は胸元に飾られた彼岸花を引き抜くと、サイドテーブルの上に置かれた花瓶にそっと差し入れた。父や母や弟と名乗る人が持ってきた花の中に一輪、鮮烈な色彩が加えられる。
「お大事に」
女の人は音も立てずに、白いカーテンの向こうに消えていった。見慣れない真っ白な部屋に、私だけが取り残される。
「……はせ、ひさな……」
天井を見つめて、私はもう一度その名前を唇に乗せた。
なぜだろう。女の人との会話の中で、その名前だけがポツリと胸に残ったような気がする。
でも、そんな感触もすぐに消えてしまった。
感触を与えてくれた名前そのものも、砂にうずもれるビー玉のように、記憶の海に沈んでいく。まるで私の知らない私が『忘れなさい』と囁いているかのように。今の私には、それに抗う気力さえない。
「だれ……だっけ………?」
数十秒後にこぼれた声は、忘れてしまった名前に対する問いかけになっていた。
「何という……名前だっけ……?」
誰に向けても答えが返ってこない問いを口にしながら、私の意識は闇へ埋もれていく。そんな私の代わりに涙が浮き上がって、頬を伝っていくのが分かった。
私は……何が悲しいんだろう。何か、大切なことを忘れてしまったような気がする。心の奥に大切にしまい込んだものが、サラサラと形を失って消えていく音が聞こえる。
そんなことを思っている間に、私の意識は闇へ消えた。
悲しいという感情を引きつれて。
次に目覚める時には、この悲しさもあの女の人のことも、闇の中に忘れ去っていくのだろうという、予感だけを残しながら。
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