Ⅸ.


 重い瞼を開くと、茜色に染まった空が見えた。


 体を撫でる風が強い。


 遮る物のない空を、ほんのり紅色に染まった雲が急ぎ足で流れていく。


 茜色、紅色……夕焼けの色だ。


「……っ!!」

「お目覚めか。長谷久那」


 軋む体を無理矢理起こすと、気だるげな声が聞こえた。声の方を振り返ると、遠宮龍樹が声と同じくらい気だるげな表情で久那のことを見おろしている。


 遠宮龍樹が纏う衣服は、制服から変わっていた。礼服と呼ぶには重苦しく、喪服と呼ぶには豪奢な黒服。リコリスの掃除人が纏う仕事服だ。


「……俺を人質にとっても、沙希はここへは来ませんよ。こういうことになっても、絶対応じるなと言い含めておきましたから」


 こういう未来が、見えていなかったわけではない。確率は低いと思っていたが、万が一のことも予測して、こういう場合の指示も沙希には伝えておいた。


 沙希が視たビルも、それらしいものの情報はすべて沙希に渡してある。日付が変わるまで、情報にあるビルの周辺には何があっても近付くな、と言い含めた。沙希もそれに『分かった』と頷いていた。


 だからここには、沙希は来ない。


「そういう判断ができるのは、非日常に身を置いている人間だけよ」


 だが安堵する久那を、冷たい声がバッサリと切り裂く。


「未来視という力を持っていても、赤谷沙希は普通の女子高生と変わらない生活をしてきた。長谷久那、あなたとは生きてきた世界が違う」


 やわらかいのに冷たい声。どんな言葉を発する時も温もりを失わなかった沙希とは、似ているようで似ていない。


 声の主である鈴見綾は、唯一の出入り口の前に陣取っていた。


 ゴシックワンピース調の仕事服と、ツインテールの先が、強い風にふわふわと揺れている。その手には華奢な体に似つかない拳銃が握られていた。栗色の瞳は冷たく久那を睥睨しているのに、そこには確かに感情が宿っている。


「感情よりも理性を優先させるっていうのはね、簡単にできるようでその実、とても難しいことなのよ」


 宿っているのは、哀れみか、同情か。


 見下しているようで、同等の位置で悲しんでいる。


「特に、ごく普通の、恋する女子高生にはね」

「長谷久那、確かにお前の未来視は、恐ろしいくらい精確だ。お前が長谷の情報屋として動いた案件も調べさせてもらったが、能力を持たない凡人がした未来視にしては、出来過ぎだと思えるほどの精度だった。そんなお前の欠点をあえて挙げるのであれば……」


 対して、久那を挟んで鈴見綾と対面するように立つ遠宮龍樹の瞳に、感情というものは一切ない。


 ああ、彼は長谷家が生きる世界と同じ世界の住人なのだなと、久那の本能がやっと理解した。それを嘲笑うかのように、遠宮龍樹の腰に下げられた日本刀が、カシャンとわずかに音を立てる。


「好意的な感情に疎い。だから、その好意から起きる行動に対する予測が甘い」


 久那は思わず、フェンスの向こうに広がる光景に視線を走らせた。


 おそらくここはビルの屋上だ。直径五十メートルくらいの円形。その全面が屋上庭園になっていて、中心に当たる位置にエレベーターの扉が見えている。周囲のビル群との対比から考えるに、高さはおよそ三十から四十階。向かいのビルのガラスに反射して見える景色は……川、だろうか。


「……アクア・インスパイアビル……っ!!」


 沙希に渡した情報の中に、確かにその物件も入れた。あの中に川岸に立つビルは、アクア・インスパイアビルしかない。


「童話の中にも出てくるように、逃走防止には高くて逃げ道のない場所にホシを隔離するのが有効だ。だが今回のお話に出てくるホシは、四階程度は高いと感じないらしい。緊急脱出経路がなく、二十階以上の建物で手頃な物件はこれしかなかったんだ」


 久那がわずかな情報から自力で現在地を割り出したというのに、遠宮龍樹はそのことに特に驚く素振りは見せなかった。相変わらず面倒臭そうに久那に据えていた視線が、スッと滑って別の場所に向かう。


「しかしお前、本当に有能なんだな。リコリスの『黒』側が泣いていたぞ」


 あらぬ方向を見て言葉を続けた遠宮龍樹をいぶかしく思いながら、久那も遠宮龍樹の視線の先を追って目を滑らせる。


「お前達の行動範囲圏にある監視カメラは、全て機能停止。やっと学校に向かっていると割り出しても、人目のある場所から外れないから力尽くで拉致するわけにもいかない。無線も妨害されて、本部と俺達は連絡がつかない。おかげで俺達の苦労が増えた」


 遠宮龍樹の視線の先には、エレベーターの扉があった。リコリスの権限で貸し切りにされているのか、今までそのエレベーターの表示が一階から動くことはなかった。


 だが今、その表示がゆっくりと動いている。


「違う形で関わっていたら、是非ともリコリスにその腕が欲しいと言われた」


 ゆっくりと、数を増やしている。


 ドクンッと、久那の胸が騒いだ。こんなこと、今まで一度もなかったのに。


「まあ、たらればの話をしても意味などないが」


 遠宮龍樹が、静かに日本刀を抜いて久那の首筋に添える。それを見た鈴見綾が、エレベーターの扉の前から身を引いた。静かな屋上庭園に、エレベーターの昇降音だけが響いているような気がした。


「そんなものを話しても、過去や未来は変わらない」


 夕日が一際紅く、禍々しく、空を染める。


 その中にポーン、と、間の抜けた電子音が響いた。


「……未来視っていうのは、本当に便利だな。場所も行動も指示しなくて済む」


 少しだけ大きくなった遠宮龍樹の言葉は、久那に聴かせるためのものだったのだろうか。


「視た未来のままに、行動すればいいのだから」


 それとも、エレベーターの向こうから現れた沙希に向けられたものだったのだろうか。


「……沙希」


 沙希は鈴見綾の目の前を通って、屋上庭園に足を踏み入れた。役目を終えたエレベーターは扉を閉めると階下へ帰っていく。


 逃げ道のない舞台の上に、役者が出揃った瞬間だった。


「沙希、どうして……。『来るな』って言った時に『分かった』って言ったじゃないか……っ!!」

「……遠宮先輩、刀を引いてください。私は、逃げも隠れもしない。殺したいのは、私なんでしょう?」


 沙希は久那の言葉に答えなかった。体はどこにも力みのない自然体のまま、真っ直ぐに遠宮龍樹に向かって歩を進めていく。


「電話でも、伝えました。『脅さなくても、私が死ぬ未来は変わりません』と」


 沙希だけを見つめていた久那に、遠宮龍樹の反応は見えなかった。


 しばらくの静寂のあと小さな溜め息が続き、日本刀が久那の首から外れる。


「……お前は、足掻かないんだな」


 遠宮龍樹も、久那のことは見ていないようだった。人質としての役目を果たしたから、もう注意を向ける必要性がないのか、それともいつでも殺せる間合いの中に久那が入っていればいいと思っているのか、久那には判断できない。


「死ぬと分かっているのに、ここまで静かな人間はなかなかいない。末期の病人だってもっと足掻くぞ?」

「私が視た未来は、変わりません。私は、今、ここで死ぬんです。銃殺でしたよ」

「……これは、長谷久那もさぞ救いがいがないだろうな」


 遠宮龍樹は呆れたように呟くと、日本刀を鞘に納め鈴見綾の方へ視線をやった。


「救われようとしている本人が、すでに生きることを諦めているのだから」


 沙希は遠宮龍樹と五歩の間を残して足を止めた。遠宮龍樹は座り込んだまま立ち上がれずにいた久那の襟首を掴んでわずかに立ち位置をずらす。沙希の後ろを取るように鈴見綾が立った。


「死ぬことが死ぬほど嫌で掃除人になった俺達は、きっと一生、お前の考え方が理解できない」

「……死ぬ前に一つだけ、訊いてもいいですか?」


 遠宮龍樹が思わずといった体でこぼした言葉にも、久那は反応できなかった。


 沙希が死ぬという流れが、この場で確定してしまっている。遠宮龍樹も、鈴見綾も、赤谷沙希当人もその流れを当然だと思っている。


 久那が納得しないままで、流れていく。


「なぜ、殺すんですか?」

「お前を殺すことに対してならば、それが上からきた指令だったからだ。掃除人が片付け者を片付けることに対してならば、今この国で一番軽いものが国民の命だからだ。俺が人を殺すことに対してならば、それでしか俺の存在理由が証明できなかったからだ」


 沙希の後ろで、鈴見綾が改めて拳銃を構えた。祈るように拳銃を両手でホールドし、銃口を沙希の後頭部に押し付ける。


「『人を殺してはいけない』という倫理を曲げるか、『自分が生き残りたい』という希望を曲げるかを迫られて、俺達は倫理を曲げることを選んだ。人に忌み嫌われようとも、この手が生温かい生き血に染まろうとも、自分が死ぬことだけは嫌だった。だからこの選択肢を受け入れた。受け入れたからには、殺さなくてはならない。殺せない人間は、この選択肢を取ってはならない。この選択肢を選んだ時点で、逃げることは許されない」


 今から人を殺すというのに、掃除人二人の瞳は静かだった。だが人を殺すことに対する、一種の諦観はそこには感じられない。静かな覚悟、とでも言うべきものが、二人の瞳には湛えられている。


「だから俺には、お前の潔さは、逃げにしか見えない」

「……私に逃げられても、困るくせに」


 その覚悟に返されたのは、苦笑だった。不敬だと思えるほどに、軽く儚いものだった。


「未来が視えると、諦めるようにしかならなくなるんですよ」


 そして、少女はそんなことを口にする。よりにもよって、『未来は変わらない』と冷めた考え方をしていた少年の根底を、ガラリと変えた少女が。


「未来は、変わらない」


 沙希の言葉に温度がないと感じたのは、初めてだった。


 その温度のない言葉が久那の胸に落ちて、胸の中に渦巻いていたものを全て吸い取っていく。


「……そうか」


 遠宮龍樹の答えはそれだけだった。鈴見綾に軽く手を振る遠宮龍樹を見た沙希は、瞳を閉じると力のない笑みを唇に刻む。


 そして拳銃のトリガーにかけられた鈴見綾の指に、躊躇いなく力が込められた。


「沙希の馬鹿」


 夕焼けよりもあかい筋が宙を舞う。


 遠宮龍樹の拘束が解けていた久那は、全力で沙希の体に跳びついていた。沙希の後頭部からずれた銃弾が久那の耳のすぐ隣を通過する。ほぼゼロ距離の位置から放たれた銃弾は、その衝撃で久那の鼓膜を破いていった。


「俺が未来を変えてやるって、言ったじゃないか」


 沙希を抱えたまま久那はフェンスを飛び越え、はるか虚空から身を躍らせた。


 眼下には大河。アクア・インスパイアビルは、その半分がこの川にせり出すように建てられている。川に背を向けている沙希には、空を背景にアクア・インスパイアビルの屋上が遠ざかっているように見えるのだろう。


 三日前に視た通りに。


「俺は、俺を殺しても、沙希を生かしたい」


 たとえこの国が、何よりも人の命は軽いと考えていても。『リコリス』が片付け者リストに沙希の名前を載せようとも。


 長谷久那にとって、赤谷沙希の命は何よりも重いものだから。


「だから、未来から、逃げない」


 沙希が耳元で何かを叫んでいる。


 だが破れた鼓膜は沙希のやわらかい声を拾ってはくれない。


「沙希の未来を、俺が変えてやる」


 背後で火薬が破裂する音が響く。


 久那の体を衝撃が襲い、視界が真っ赤に染まり、最後は暗く塗りつぶされた。





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