Ⅵ.


 静かな部屋に響くのは、軽やかなタイピング音だけだった。


 沙希は膝を抱えて床に座り込んだまま、ぼんやりと床を眺めていた。


 青白い光が影を落とすこの部屋にいると、まるで巨大な水槽の底にいるかのような気分になってくる。三台のモニターが数秒単位で表示を変えるせいか、揺らめく水面を通して注がれた光が部屋に満ちているかのように影がユラユラと踊っていた。


 ――この部屋がどこかの湖の水底みなぞこで、私がそこに住むただの魚だったら、こんな風に掃除人に追われることもなかったのかな……


 沙希は幻想的なダンスを見るともなく眺めながら、心の片隅でそんなことを思った。


 ――でも、私がただの魚だったら、こんな風に久那くんと出会うこともなかったんだろうな。それは……


「嫌、だなぁ……」


 こんなことに巻き込んでおいて、そんなことを思うのは最低なのかもしれない。少なくとも、沙希が久那と関わっていなければ、久那がこんな目に遭うことはなかった。


 だがそのことを理解していても、沙希はこう思ってしまう。


 久那くんの傍にいたい。傍にいられれば、それ以上は何も望まない。


「沙希。眠いなら、俺の部屋で寝ていてもいいんだぞ?」


 その時、ふわりと沙希の頭に優しい温もりが触れた。手を離している暇などないはずなのに、久那はもう片方の手で忙しくキーボードを叩きながらも、沙希の頭に乗せた手を戻そうとはしない。


「……ううん。眠たくないから」

「そうか」


 久那は学校を出て、真っ直ぐここに向かった。それからずっとキーボードを叩き続けている。何度か沙希に質問が飛んだが、それ以外に口を開いたのは今が初めてだ。


 沙希は久那の手の温もりを感じながら、瞳を閉じた。心は、どこまでも静かだった。


「ねえ、久那くん」

「何だ?」

「ここにいること、先輩達は分かっているのかな?」

「分かっているだろうな。リコリスには処刑執行人である『赤』をサポートする、情報処理専門官『黒』がついている。俺達が今ここにいることなんて筒抜けだ」

「突入とかって、してくるのかな?」

「あまり事を大きくしたくないはずだから、突入なんていう派手なことはしない。だが潜入くらいはお手の物だろうな。殺し屋という表現をよくされるが、本質は暗殺者だからな。掃除人は」

「じゃあ、日が昇ったら出ていかなくちゃね。久那くんの家族に、迷惑かけるわけにはいかないし」

「家族、なんていう温い感情はここにない。だがこの家の誰かがリコリスと繋がっている可能性はある。ここを出ることには賛成だな」


 どんな問いを口にしても久那の答えはよどみなく、答えを告げる声に感情はなかった。自分の血族に関する話が出ても、その冷たさは変わらない。


「……気にするな」


 久那の答えに沙希が傷付くことが見えていたのか、久那はポンポンと軽く沙希の頭を撫でるとキーボードの上へ手を戻した。


「俺にとっては、これが普通だから」


 何度もこの家を訪れたことがある沙希だが、沙希は一度もこの家で久那の家族を見たことがない。


 家族、というよりも、人間、と言った方が正確かもしれない。


 この広い豪邸には、久那の家族と血縁、そして使用人が何人も住み込んでいるらしいが、沙希が行き来する範囲に人の気配は皆無と言っていいほどにない。特に沙希がいるから遠慮して、というわけではなく、久那に言わせればこれで正常なのだという。


 こんなに人気がなくて普段困ることはないのかと、以前問うたことがある。対する久那の答えは、『不便はない』というそっけない物だった。


 両親とは小学生になった頃から顔を合わせておらず、他に兄弟がいたかは忘れてしまった。何か連絡したいことがあればメールが飛ぶようになっているが、そのメールも中学卒業以降は来ていない。生活に必要な資金は自分の口座に振り込みがされるし、高校生でありながらすでに長谷の情報屋として動いている久那にはそれなりの収入もある。だから金には困らないし、家事全般は使用人がしてくれる。だから不便は感じない。


 久那からそんな答えを聞いた時、沙希は胸の奥がキュッと痛んだことを覚えている。


 未来視という、一般人からかけ離れた力を持つ沙希だが、家族はごくごく一般的な生活を営んでいる。家に帰れば父がいて、母がいて、三つ年下の弟が一人いる。毎日顔を合わせて、一緒にご飯を食べて、何でもないことで泣いて、笑って、時に怒られて。沙希はそんな普通な家で、生きてきた。


 だから、沙希の感覚で言えば、久那の家族は『家族』ではなく、ただの『同居人』だ。アパートの隣人くらいの感覚かもしれない。


 そんな現実が悲しくなるし、そんな現実を当然と受け止めて悲しいとも思わない久那を、寂しく感じる。


 ――久那くんにとって、私はどんな存在なんだろう?


 沙希は時々、そんなことを思う。


 一番近しい存在である家族でさえそんな風に捉えている久那にとって、沙希は一体どんな存在なのだろうか。家族みたいにいてもいなくても同じような存在なのだろうか。もしも未来が変わって、久那だけ生き残って沙希だけ死んだら、久那はいつか、いたかいなかったか分からなくなった兄弟のように、沙希のことも忘れていくのだろうか。


 そんなことを思うと、胸が痛い。


 もしかして、久那にとって沙希の死は、悲しむほど大きな出来事ではないのかもしれない。


 忘れてほしくない。だけど、悲しませたくない。


 そんな沙希の葛藤が無意味なほどに、久那の中で沙希の存在はちっぽけなものなのかもしれない。


「……ねぇ、久那くん」


 沙希が、久那の未来だけでも変えられるかもしれないと感じたのは、久那が被弾する光景が視えなかったからだ。だからもしかすると久那は、今のまま事が進んでも生き延びられるかもしれない。


 だが沙希には、もう未来がない。これは確定してしまっている。久那がどう足掻こうとも変わらない。


 だから沙希は、ずっと口にできなかった言葉を初めて口にした。


「久那くんにとって、私って、どんな存在なのかな……?」


 答えが沙希の胸を裂くものであっても、沙希はどうせ明日……もう日付変更線を越えたから正確には今日だが、どのみちすぐに消えてしまう。ならば最期に、訊いてみてもいいのではないかと思った。


「……リコリスっていうのは、国家機関だ」


 沙希の問いに、久那の指が止まった。


 久那の声だけが、水底のような部屋の中に響く。


「今や国を動かしていくにはなくてはならない機関だ。当然だが、政府からは高待遇を受けている。たかが個人が相手にできるような機関じゃない。ゾウとアリを比較しているようなものだ」

「……久那くん?」

「そんな相手に俺は、喧嘩吹っ掛けたんだぞ。リコリスの片付け者リストは、絶対だと知っていながら」


 瞼を押し上げて、久那を見上げる。久那は足と腕を組んだ状態で、沙希のことを見おろしていた。眼鏡越しに見える茶がかった瞳は、穏やかに凪いでいる。


「俺がどうでもいい相手のために、そんな命がけの賭博を仕掛けるほど酔狂な人間だと、沙希は思っているのか?」


 久那はそれ以上のことを口にはしなかった。沙希がぼんやりと久那を見つめる前で再び腕と足を解き、沙希の目に映らないほどのスピードでキーボードを叩き始める。


「……久那くん」


 だから沙希も、それ以上のことを言うのはやめた。久那がくれた言葉を大切に胸の内にしまいこみ、そっと唇に笑みを刻む。


「ありがとう」


 それ以降、水槽の底のような部屋に響くのはキーボードのタイピング音だけだったが、沙希がその音を無機質だと思うことは二度となかった。





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