Ⅲ.


「沙希」


 聞こえるはずのない声に、沙希は思わず肩をはねさせた。


「話がある」


 恐る恐る振り返るとそこには、誰よりも見慣れた幼馴染が立っていた。


「……もう、近付かないでって、言った」


 久那がここに来ることは視えていた。だが、いくら事前に視えていても、驚きが消えることはない。心の準備をしていても『来るはずがない、そんなことにはならない』という思いは心のどこかにこびりついている。


 そのわずかな思いが報われることなどないということは、嫌になるほど知っているのに。


「沙希は嘘をついている。だから、あの言葉は有効にはならない」


 風の吹き荒ぶ屋上へ、久那が足を静かに踏み出す。


 昨日視た通りに。


 沙希は一歩足を引きながらキュッと両手を握りしめた。今のところ、沙希が視た通りに現実は進んでいる。だがこの先は、何としてでも変えなければならない。


「何が嘘だというの?」


 今までずっと、沙希は久那の未来視に甘えてきた。


 久那は唯一、沙希と同じ景色を視ることができる人物だった。久那の傍にいれば、沙希はごく普通の少女でいられた。条件さえ揃えば、久那の方が沙希の視る未来よりも先の未来を見ることができたから。


 そんな魔法使いみたいな久那の傍が、沙希には心地良かった。自分は特別な存在なんかじゃないという安心感を、久那はいつも与えてくれた。


「私は、遠宮先輩の彼女になったの」


 でもこれ以上、甘えてなんかいられない。


 何としてでも、久那を突き放さなくては。


「だから、もう、久那くんとは、一緒にいられないの」


 久那の未来視は、超能力という点から見れば偽物だ。沙希の純粋な未来視とは違う。


 久那の実家、長谷はせ家は、その筋では有名な情報屋の一族だ。ありとあらゆる情報を取り込み、複合させ、より現実に近い未来を予測する。


 能力ではなく、情報処理から得られる未来視。それが久那の能力だ。


 久那の情報処理能力は、長谷家の中でも群を抜いているという。それが『未来を視る少年』の所以ゆえんだ。


 久那は過去から未来を見る。だから突然転がり込む運命を久那は視ることができない。運命を視透かすことができるのは、沙希の未来視だけだ。


「いたく、ないの」


 だから、沙希は知っている。


 どれだけ足掻いても、未来は変わらない。運命は変えられない。口では『諦めない』と言っていても、心はすでに折れていた。ただの惰性で、未来を変え続けようとしただけで。


 だから、変わらなくてもいい。


 完全に変わることがなくても、髪一筋分でいいから視た未来を歪めることができれば、それでいい。


「ここから出ていって……っ!!」


 心が痛んでも、その痛みに泣いてしまいそうになっても。


 これが久那のためなのだから、やらなくてはならない。


「昨日の放課後、沙希は校舎裏になんて行っていない。遠宮先輩もだ」


 だというのに久那は、そんな沙希の行動を許してくれない。


 退路を断つ言葉とともに一歩ずつ、久那の足が沙希の逃げ道を消していく。


「授業終了後から俺と沙希が校門をくぐるまで、学校の監視カメラの映像は全てチェックした。沙希は俺が迎えに行くまでずっと教室にいた。遠宮先輩もだ。遠宮先輩はお前が校門をくぐるまで教室から動いていない」


 何かと物騒なこのご時世、防犯カメラで視認できない範囲はもはや個人宅の中だけとまで言われている。学校の教室内に防犯カメラが設置されるようになったのはおそらく沙希の親世代の話だ。そのカメラの画像を手に入れることくらい、久那にとっては息をするよりも簡単なことだったのだろう。


 未来視だけが久那の十八番であるわけではない。未来視に必要な情報を合法、非合法問わずに収集できるスキルがあってこその長谷家筆頭だ。学校が持つ情報などとうの昔に久那の手中にあるに違いない。


「遠宮先輩に告白されたなんて、沙希の嘘だ。沙希は誰とも付き合ってなんかいない。だから俺が沙希から遠ざけられる理由なんてない」


 久那の足が沙希の足のすぐ先まで迫る。沙希が体を引くと、背中がフェンスに当たった。もう逃げ道なんてないのに、久那は腕を伸ばして沙希の顔の横のフェンスに指を絡ませ、二人の間に残ったわずかな距離までなくしてしまう。


「沙希」


 突き離さなくてはならない。


 分かっているのに、眼鏡越しに見える久那の瞳が沙希の最後の逃げ道を潰した。


「どうしてこんな嘘をついた?」


 久那は決して表情を見せない。幼い頃から付き合いのある沙希だって、久那の表情筋が動いたところは見たことがなかった。それが情報屋として、一般人が決して関わることのないきな臭い世界に生きる長谷家の教育の賜物だということを沙希は知っている。


 嬉しい時も悲しい時も、瞳を揺らすことさえしない。未来を見知っているから、動かす必要を感じない。


 幼稚園に通っていた時から、久那はそんな冷めた考え方をしていた。


「答えろ、沙希」


 その久那が、今、瞳を揺らしていた。


 苦しそうに、悲しそうに、苛立っているように。


 誰よりも長く久那の傍にいたと自負する沙希が、初めて、久那の瞳が揺れているのを、見た。


「……久那くんに、生きていてほしかったから」


 誰にも突き崩せないと思っていた決意が、儚く崩れていく。


 ああ、なんて自分は弱いんだろう。


 そんなことを思ったら、涙がこぼれた。


「私から離れていてくれれば、生き延びられると思ったから……っ!!」

「沙希」

「私、死ぬの」


 涙がとめどなく零れていく。


 だけど、その言葉だけは震えることなく沙希の唇から出てきた。


「私は明日、死ぬの。殺されるの」


 昔から不思議と、未来を告げる時だけは声が震えなかった。それがどれだけ残酷な未来を予言する言葉でも。


「私の名前が、リコリスの片付け者リストに載ったの。私は明日の夕方、リコリスの掃除人そうじにんである遠宮先輩と鈴見すずみ先輩によって片付けられる」






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