Ⅱ.
『あのね、
電話越しに聞こえてきた声に久那の喉がヒュッと変な音を立てた。
暗い部屋の中。時刻は深夜二時。
広い邸宅で寝起きする久那の耳を震わせるのは、端末から聞こえてくる
『私、彼氏……できたの。だから、もう、久那くんとは一緒にいられない。誤解されるような行動は、もう……したくないの』
「……それは、いつの話だ?」
滑り落ちた声に、動揺は欠片も存在していない。感情を表すことのできない自分に、久那はこの瞬間、心の底から感謝した。そうでなければ見苦しく端末に向かって怒鳴りつけていたことだろう。
『今日の、放課後。相手に、校舎裏に呼び出されて……』
沙希の声にも、動揺はない。ある意味、それは当然なのかもしれない。
沙希には未来が視えている。久那達一般人が目の前の光景をごく自然に眺めるような感覚で。
この展開をもう視知っているのであれば、動揺する必要性などどこにもない。
「相手は?」
だが沙希の声からは、感情が消えない。
『……
沙希の声は苦しそうだった。その苦しさにあえて名前をつけるならば、悲しみや後悔になるだろうか。温度も形もないのにやわらかく温かいと感じる沙希の声は、その苦しさに震えている。
対する久那の声はまるで機械が応答しているかのようで、常とまったく変わることなく静かすぎるほどに静かだった。別れを切り出されたのは久那の方だというのに。
「遠宮先輩と、付き合うのか?」
『うん。だから……バイバイ』
返事は肯定でされ、通話は一方的に切られた。ツー、ツー、と、久那の声に負けず劣らず冷たい機械音が響く。
もう沙希の声が聞こえないことを数秒かけて確かめた久那は、手から端末を滑り落としながらベッドの上に倒れ込んだ。
告白されて、付き合うと決めた。ならば沙希は少なからず相手に気があったということだ。
遠宮先輩というのは、三年に在籍しているあの遠宮
沙希が決めたことに久那が文句を言う筋などない。久那と沙希の間には幼馴染という間柄以上の関係などないのだから。祝福してやるべきだと、理性では理解している。
だがどうしても祝福する気になれないのは、なぜだろう。
「……こんな未来、俺は読んでない」
付き合うことを決めたのは沙希であるはずなのに、最後に聴いた沙希の声はどうして泣く直前のように涙で揺れていたのだろうか。それとも久那の耳がそう捉えただけで、現実の沙希は喜びに満ち溢れているのだろうか。
「……遠宮龍樹、か……」
沙希の相手としてどうしても違和感が拭えないのは、久那の見苦しい悪あがきなのだろうか。
久那はベッドに倒れ込んだまま瞳を閉じる。頭の中では自分が知りうる限りの遠宮龍樹に関する情報が広げられていた。
遠宮龍樹。三年二組十七番。
身長百七十三センチメートル。体重七十二キログラム。
学年首席。しかし出席日数は卒業ギリギリ。
高級マンションに独り暮らし。
親はいない。後見人がいるにはいるが、血縁関係はない。
整った顔立ちで女子に限らず憧れの視線を集めているが、当人は周囲に人を近付けさせるようなタイプではない。どんな時でも一人で行動し、あまりに冷たい雰囲気に声をかけられる人間は皆無。唯一の例外が三年の女子にいるらしいが、彼女は遠宮龍樹の養父母の実の娘で、昔は同じ家に暮らしていたらしく、彼女などではない。その養父母も今は亡くなり、実の娘も別の家に養子に出ている。
「……沙希の言葉は、真実だったのか?」
呟いて、瞳を開く。
闇に慣れた瞳にぼんやりと見慣れた天井が見えた。
「沙希の目には……どんな未来が視えている?」
全てをひっくり返して実感したのは、はっきりとした違和感だけだった。
沙希と接点がないというだけではない。
沙希が『彼氏』と名を上げた人物に愛だの恋だの告白だのといった言葉がどうにもしっくりとこないのだ。
昔から久那は『未来を視る少年』と言われてきた。年を経るとともにその能力を隠す術も学んだから人からその名で呼ばれることはなくなったが、未来を読む精度は昔よりも格段に良くなったという自負がある。今では未来だけではなく、ありとあらゆるものを見通せる情報分析能力が自分にあると思っているし、事実それだけの能力が久那にはある。
そう、久那の未来視は、決して特殊能力などではない。久那は今ある情報から未来を予測しているだけだ。漫画の中にあるような特殊能力など、久那にはこれっぽっちもない。
そんなものがあるのは、沙希の方だ。
「……沙希が視る未来には……俺が必要ないってことなのか……?」
幼い頃、沙希の勘違いで沙希の口からその能力について聞かされ、偽物の未来視で沙希が視たものと同じ未来を予測できた久那だけが、ずっと沙希を見守ってきた。沙希と同じ景色を見つめ、悲しい未来に抗うために奔走する沙希を、久那だけがずっと傍らで見守り、サポートしてきた。
ずっとずっと、幼い時から高校二年生になった今まで、ずっと。
そうだというのに今の久那には、沙希が視ているものが分からない。
「…………――――――」
ぼんやりと天井を見つめ、ただ呼吸を繰り返す。
呼吸が三回繰り返された間に、久那の心は決まっていた。
「……俺がどこにいるか、決めるのは俺だろ」
ベッドから起き上がり、机の上に置いていたメガネを取る。部屋を抜け出して階段を下り、私室よりも使用頻度の高い部屋のドアを開けば、中からこぼれた青白い光がまぶしく久那のことを照らし出した。
「知る権利くらい、俺にもある」
青白い光をこぼしているのは、デスクに鎮座した三台のパソコンモニターだった。モニターが乗るデスクと一脚の椅子、そしてモニターから繋がる機材しかない殺風景な部屋に久那は躊躇うことなく滑り込む。
久那は椅子に腰かけると、己の未来視をアシストする機材達を起動させた。
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