第6話 命に代えても、必ず

 ウノは浮かない顔で、玄関の扉を開けた。


「お帰り」


 ダイニングテーブルに座ったジェイクが、新聞から顔を上げて言う。

 シエナはテーブルに朝食の乗った皿を並べながら、


「ちょうどよかったわ。ご飯できたよ」


「うん」


 と、元気無く頷いたウノの横を通り抜け、アイザックは振り返ったシエナの前に歩み出る。その様子に寂しげな瞳を向けたウノは、涙が出そうになるのを堪えて、俯いた。


「シエナさん」


 心地の良い声に、シエナは手を止め、アイザックに向き直る。

 戸口に立ち尽くしたままの娘と、流れ者の青年とを見比べて……彼の言わんとしている事を悟る。


「行くの?」


 その言葉に、アイザックの目が細まる。


「まともにお礼もしないまま、申し訳ありません。おれには成し遂げなくてはならないことがあります。今、行かなくてはならないんです。一宿一飯のご恩は必ずお返しに、再び馳せ参じます」


 深々とこうべを垂れたアイザックの姿を、両親たちは優しげな瞳で見つめ、


「行きなさい」


 ジェイクのその言葉に一番反応したのはウノだった。

 彼女の心を埋め尽くすのは、果てしない不安だった。

 このままアイザックを送り出してしまえば、もう二度とその姿を目にすることが出来ないような気がした。

 これが、今生の別れのように思えてならなかったのだ。


「はい」と低く短く返事をしたアイザックは、自分の荷物を手にし、エレジー家を出た。


 アイザックは玄関に立ち尽くすウノの傍を通り過ぎるとき、無口で愛想の無かったその唇で、深い謝意に満ちた一言、


「すまない」


 と、確かにそう言った。



 エレジー家へ伸びる小道を歩む人影がひとつ。

 白いワイシャツに包まれた細身。細い腕が抱えた籐の籠の中では、真っ赤な林檎が彼が歩くたびに小さく揺れている。


 アラン少年は、その美しい顔に緊張と憂いの混じった表情を貼り付けながら、とぼとぼと歩いている。

 抱えた林檎は、ウノへの手土産だ。昨日のことを一人で謝りに来たのだ。


 この美少年は、ウノに恋心を抱いている。

 役者のような整った顔に惹かれて寄って来る女の数は山といたが、そういった輩には一瞥もくれず、アランの想いは一心にウノにだけ向けられていた。


 おしゃべり好きでおせっかい焼き。芯が強くて、しっかり者。決して周りに流されることのないウノは、彼を取り巻く女の子とは違い、友人としてアランに接していた。だが彼にとって、それは胸が張り裂けるほどに苦しかった。

 彼女の特別になりたい。彼女を特別な子にしたい。そう思えば思うほど、どうすればお互いが特別な関係になれるのかわからなくなった。

 自分の物にならないウノが愛おしくてたまらなかった。

 故に彼は、時に自分でもわからなくなるほど、彼女に対して強引な態度を取ってしまっていた。


 こんなにも自分が恋に不器用な人間だったなど思いもしなかった。

 こうして自ら謝罪をするために足を運んでいるのも心からの行動であるし、ウノのご機嫌をとろうだとか、名誉回復だとか、そんなことはどうでも良かった。

 ただ謝りたかったのだ。


「あなたの顔なんて見たくないわ」と、強く否定されるかもしれないという恐怖を胸中に抱きながら、アランはエレジー家の玄関前に立った。


 緊張に強張る手で扉をノックしようとして、その拳は何も叩かなかった。家の中から誰かが内側に戸を引いたのだ。


「あッ」お前は、と言いかけて口を噤む。

 昨日の昼間、ウノや舎弟たちといるところに、最悪な出会い方をしたこの男のことは記憶に新しい。家の中から出てきたのは、昨日の男――アイザックだった。


 アイザックは、暗い翳りを落とした瞳を一瞬だけアランに向けたが、すぐに正面を向いて、町へ続く道へ足を伸ばす。


「ま、待てよ」


 アランは、何者をも拒むような背中に向かって手を伸ばした。

 すると家から飛び出してきたウノが、すぐ傍を風のように走り抜けた。


「アイザック、待って!」


 悲鳴のような声を上げて引き止める。

 アランの姿に気付いているのかは不明だが、今のウノにはアイザック以外に構っている心の余裕はなかった。


「お願いよ、待って! 少しでいい、話を……!」


 アランは口を開けて二人を見つめていたが、次の瞬間、その整った相好が驚愕に歪んだ。


「ウノ!」とアランが叫んだ声は、彼女の悲鳴にかき消された。


「きゃあああああ!」


 森の静寂を切り裂く少女の悲鳴に、アイザックが勢いよく振り返った。

 その冷静な顔が焦燥に歪んだとき、アイザックの喉が切迫した声でその名を呼んだ。


「ウノ!」


 少女の足元に、陽光さえ飲み込んでしまうのではないかと思うほどの昏い闇が口を開けていた。その暗黒は、まるで泥沼のようにウノの両足をずぶずぶと飲み込んでゆく。


 瞬く間にウノの身体は腰まで地面に浸かり、身動きが取れなくなってしまった。

 底に足をつけようと、爪先を下へ伸ばしてみるが、一向に底は見当たらない。


 アランはどんどん降下してゆくウノの背中を見つめたまま、身動きが取れなくなった。


「アイザック! アイザック……!」


 助けを求める呼び声に、アイザックは駆け出して手を伸ばした。荷物を放り出して、はっしと掴んだ彼女の手が、離すまいと剣士の手に強く指を巻きつける。


「くっ……!」


 アイザックは力の限りウノを引き上げるが、地底へ沈み込んでゆく力には抗えず、悲しくも引き裂かれた二人の手は、再びそれを掴むことがないまま、ウノは指先まで地中に引きずり込まれてしまった。


「ウノ! ウノッ!」


 荒げた声が、木々に縁取られた蒼穹に響き渡る。


 バタン、と音がして、物凄い勢いで扉が開いた。

 騒ぎを聞きつけたシエナとジェイクが、家の中から血相変えて飛び出てくる。


「どうしたの!」


 シエナは、地面に両手を着いたアイザックの傍にしゃがみ込んだ。

 血の気の下りた顔が持ち上がる。今にも泣き出しそうな頼りない表情に、シエナは事の重大さを悟った。


 ウノが……と口を開きかけたその時、ばさばさと双翼を震わせた鴉が木の枝にとまり、ギャアと不気味な声で鳴いた。次いで、


『名も無き我が息子よ。娘を返してほしくば、この父の元へ来るがいい』


 四人は声の出所を探った。そしてそれが、そこだけ真っ赤に光り輝いた瞳を持つ鴉の発した言葉であるとわかると、全員は臆するように瞠目した。


 その瞬間、アイザックを耐え難い頭痛が襲う。

 耳の奥で、壊れたスピーカーから聞こえてくるノイズのような不快な音がしたかと思うと、脳内にモノクロの映像が流れ込んで来た。――木立が乱立する深い森の中。泉があった場所よりも更に奥へ進む映像が流れる。やがて景色は変わり、周囲を薄闇に包まれた、ほの白く光る一本道が現れる。山道のように湾曲した道の向こうに現れる装飾の派手な大きな扉。その扉が内側に向かって重々しく開き……映像はここで途絶えた。

 

『待っている。お前は、この父の元へやって来なければならない。娘を助けたいのなら――私を殺したいのならな!』


 鴉は三度みたび鳴くと、静寂の中に羽ばたきの残響を引きながら、遠くの空へ飛び去っていった。


 ウノが沈んでいった大地は、元の渇いた砂に戻っている。


 四人は人語を話す鴉の存在に、揃って言葉を失っていた。

 まるで夢でも見ていたのではないかとすら錯覚した。


 その中で、いち早く我に返ったアランが、林檎の入った籠を地面に落として、アイザックに掴みかかる。


「おい、あんた、何か知ってるようだな。何がどうなってる! ウノはどこへ行った。説明してもらうぞ」


 アランは美貌を歪めて、口調荒く言い放った。

 アイザックは無言のままアランの手から逃れると、言いたいことがたくさんあるといった風情のシエナとジェイクに向き直った。


「私には何が起こったのか、さっぱりわからないわ。アイザック、あなたは一体……」


 シエナの言葉に、アイザックは下唇を噛み締めた。


 ――巻き込んでしまった……! 自分のせいで彼女を悲しませた挙句に、このような最悪な事態に発展させてしまった。

 おれが、ここに来たからウノは連れて行かれた。やはりおれは不幸を運ぶ疫病神なのだ。


 アイザックはふつふつと湧き上がる怒りに身体を震わせながら、顔を上げた。


「全ては、このおれが原因で引き起こした事態。ウノは、必ずおれが無傷で連れ戻します。この命を犠牲にしても、ウノだけは必ず助け出します」


 エレジー夫妻は不安そうにアイザックを見つめている。


 アイザックは唇の端から一筋の赤い雫を滴らせ、その力強い瞳に強靭な意志を揺らめかせると、一振りの剣だけを携えて、森の奥へ足を向けた。


「アイザック!」


 シエナは不安そうにその名前を呼んだ。

 彼は振り返らなかった。罪悪感などという言葉には収まりきらないほどの感情が心を破り、全身を満たした。

 

「信じよう、アイザックを。今は彼しか頼れない」


 ジェイクは妻の肩を抱き、遠ざかってゆく青年の姿を、不安と……それと、信頼を込めた目で見送る。


「待って!」


 と、その場から駆け出したのはアランだ。

 聞く耳持たず、どんどん先を行く謎多き青年の背を追った美少年は、その心のうちに頑強な決意を宿し、アイザックの肩先に手を伸ばした。

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