第7話 化け物の小道

 森の中をアイザックとアランが数メートルの距離を間に敷いて歩いている。

 先頭を行くのはもちろんアイザックである。目指す先を知っているのは彼だけなので、アランは仕方なく青年の後を着いて行く道中を選んだのだ。


 二人は無言であった。

 四本の脚が草を掻き分ける音だけが両者に忍び寄る静寂を追い払い、深まる森が雲間から覗く朝陽の輝きを拒むように頭上を覆い隠す。


 いくらか歩いて、アイザックは正面を向いたまま、


「どうして着いて来るのだ」


 と、堅い口を開いた。


 急に話を振られ、アランはびくりと肩を揺らす。アイザックは一度も振り向いてはいないのに、昨日向けられたあの冷たい瞳がこちらを向いているような気がして、居心地が悪くなった。


 アランは、舐められてなるものか、と強い口調で返す。


「ウノを助けに行くんだろ? 俺も行く」


 勇気あるその発言を、アイザックは冷徹なまでの一言で跳ね返した。


「だめだ」


「どうして」


 アランはムッとしたように言う。


「足手まといは必要ない」


「何だと」


 少年の美貌が不快そうに歪む。


「着いてくるなと言った。二度も言わせるな」


「あんたの邪魔にはならないよ。俺は俺で行くし、あんたはあんたで勝手にしてくれよ。俺が死にそうになっても放っておけばいいだろ」


 そう言ったアランには、強い思いがあった。

 常識から遠くかけ離れた光景を目にし、ウノはどこへ行ったのか、謎の鴉と声の正体は? 未だ自分の理解に及ばぬ事態に物怖じせず、この青年の背中を追ったのは、ウノの元に一刻でも早く駆けつけたいという思いゆえだった。


「目の前で死なれちゃ、気分が悪い」


「カンタンに死んでやるつもりはない。死なない自信があるから、あんたに着いて来たんだ」


「そうやって無鉄砲な奴は、あっさり死ぬ。これからおれが相手にする奴は、お前のようなただの子どもが相手に出来る奴じゃない」


「我侭だな、あんた。俺は一度決めたことは覆さないタイプだ。ウノを助けに行って死んでたまるか。とにかく、俺は行く」


 アイザックは、我侭はどっちだ、と心の中で毒づきつつ、ちらりと背後に視線をやった。そして、このとき初めてこの我侭小僧が昨日の不良少年であることに気が付いた。


「……本当におれは助けんぞ」


「良いって言ってるだろ」


「相手は人間じゃない」


「そんな気はしていた」


「本当に死ぬかもしれないんだぞ」


「俺は死なない」


「……やはり着いて来るな」


 アイザックが呆れたように言う。


「相手は悪魔に魂を売った男だ。人の手に負える奴ではない。どんな力を持っているのかわからない。怖いと思う暇すら与えられず死ぬかもしれないんだぞ」


 そう言うと、アランは少しばかり怖気付いたようだが、


「行く! 俺は行くぞ! 悪魔が怖くて不良やってられるかっての!」


 と、自分を鼓舞するように言った。


「はあ」


 アイザックはこれ見よがしに溜息をついた。

 荒くれ者の聞かん坊相手に、無駄な労力を使う応酬を繰り返すのに嫌気が差して、


「なら、勝手にしな」


 アイザックは前を向いて歩調を速めた。

 口を閉ざすと、彼は心の中で己と相対し、頭の中を埋め尽くす不安を吐露する。


 ――アリスターに……父に勝てるだろうか。


 凍鉄な心の内に気弱な考えがよぎる。

 自分が持つ武器はこの剣と復讐心、そしてエレジー夫妻と交わした約束だけだ。

 たったこれだけの武器で、人間の世を捨てた悪魔に勝つことが出来るだろうか――胸が押しつぶされそうな不安に、心の中で向き合った自分は何も答えてはくれなかった。


 しばらく歩いて行くと、深まる森の樹間に、一際暗い闇を抱いた一角が見えた。


 アランは渇いた唇を舐めて、その闇を見つめている。


「あの中に入るのか?」


 アイザックは答えず、闇に向かって歩を進めた。

 一歩、闇の中に足を踏み込めば、周りの景色は一気に夜のような暗い帳に包まれた。


 ここは、現世と、魔の満ちる世との境目であり、これより奥に続く道は、“化け物の小道”と呼ばれる蛇行した一本道。

 ほの白く発光するこの道はゆるやかな登り坂になっていて、大人二人が並んで歩ける幅の外側は、五十センチ下もはっきりと見通せない闇に沈んでいた。


 アランは渇いた喉を少しでも潤したくて唾を飲み込んだが、緊張が口の中を酷く乾燥させるので、たいした効果は得られなかった。


「足元に気をつけろ。落ちたら永久に辿りつくことのない大地へ落下し続けることになるぞ」


 一歩先を歩くアイザックが、ぶっきら棒に言った。


「お、おう」


 アランは細い身体を縮めて更に細くなりながら、しずしずと歩いた。

 闇の中央を、二人分の足音が通り抜けて行く。

 耳が痛くなるほどの静寂の中、アランは声を出す。


「アイザックって言ったっけ、あんた?」


「仮の名だ」


「……あんた、ウノのなんなわけ?」


「質問の意図がわからない」


「ウノとどういう関係か、と訊いてるんだ」


 アランは焦れたように言った。


「関係、か。他人だよ」


「他人?」


 アランはその答えに不服そうだ。


「あいつは友達の俺より、のあんたに助けを求めたのかよ」


 アランが投げやりに言うと、


「力のある方に助けてほしいと思うのは当然だろう」


 言い方に腹は立ったが、彼の言葉は理にかなっている。

 昨日の一件で、この男がそれなりに腕の立つ男であることは理解していた。

 一方のアランは、ほんの少し喧嘩が強いだけの単なる悪ガキである。

 この覆しようのない事実にアランは奥歯を噛み締めないではいられなかった。

 くやしい。そんな感情が、十六歳の美少年の青い心を埋め尽くした。


「……なんだ、あれは」


 アイザックの切迫した声に、アランははっと顔を上げた。


「どうした」


「まずいぞ」


 アイザックは独り言のように言い、アランを背に庇うような形で一歩進み出る。


「おい、なんだよ。どうしたんだ」


 そう問う声をアイザックは無視して、正面の一点を睨みつける。左の腰に伸びた右手が、そっと剣の柄を握るのを見て、アランは身を固くした。


「何か来るって言うのかよ」


 強張った声で言ったアランは、アイザックの目線の先に意識を集中した。

 遠くから何か白いものが空を飛んで近付いてくるのが見えた。大きな翼を羽ばたかせるような音も一緒になって聞こえてくる。

 鳩や鴉といった類の羽音ではない。まるで鷹や鷲――否、それ以上に大きな鳥の羽音。


「何だ、鳥か……?」


「ただの鳥じゃないな。退いてろ、死にたくなければ」


 身の危険を感じたアランは、頭で考えるより先に、彼の言葉に従っていた。


 シャ、と刀身が鞘走る音が反響した。

 くもり一つない刃は、周囲に広がる闇を映している。


「あれは……」


 アランが息を呑み、怖々と呟く。

 耳を塞ぎたくなる程の大きな羽音を伴なって、近付いてくる化け物の姿が明らかになった。

 その姿は、空想世界のハーピーを彷彿とさせる、美しい女の顔を持った大きな怪鳥であった。白い顔の上に、獲物を見つけてぎらぎらと輝く美しい瞳、高く筋の通った鼻、艶っぽい赤い唇は血に濡れているように光り、笑うように開いた口の中には鮫のような鋭い歯が規則正しく並んでいた。

 白い羽毛に覆われた身体は、女性らしいボディラインのカーブを描き、そこだけ不気味な猛禽類の脚には、これまた鋭い爪が付いている。

 両腕が付いている位置には大きな羽が付いており、広げた両翼はゆうに三メートルを越えていた。


「なんだよ、あれ……」


「ここに出てくる生き物を、にいる動植物と同じと思うな。ここはだ」


 アイザックは上段に剣を構え、怪鳥を迎え撃つべく、腰は高く保ったまま、意識を正面に集中した。


「き、来た……!」


「もう少し離れろ」


 その時、アイザックはたっと地面を蹴り上げた。

 一メートル程飛び上がったところで、剣の届く範囲に怪鳥が鋭い爪を光らせて向かってきた。

 無口な剣士が空中で剣を凪ぐも、きらり煌く切っ先は虚空を切りつけただけだった。


 怪鳥は美しい声で鳴きながら、地上から離れられぬ宿命の人間に向かって嘲笑した。


 アイザックの剣が届くか届かぬかの高さで羽ばたきつつ、時折高度を落すと、その鋭利な爪で、剣を握る細腕を抉ってゆく。


「……ッうう」


 白いシャツの袖や外套がみるみるうちに赤く染まってゆくのと同時に、剣を握る手から力が抜けてゆく。

 痛いなんてものじゃない。一撃で腕を持っていこうとしないで、少しずつ肉を切り裂いてゆく。まるで弱った獲物を甚振いたぶるかのように。

 攻撃から手首を庇おうとすると、疎かになった防御をかいくぐって背中や脇腹に爪を煌かせる。

 真っ赤な血が迸るたびに、怪鳥は高らかに笑声を歌った。


 冷静な表情がたちまち冷や汗に濡れ、剣の先がぶれ始めた。


「この野郎……」


 アイザックの口から焦燥に満ちた声が漏れる。彼のその様子は、避難していたアランにも伝わり、少年の脳裏に最悪な幕引きが思い浮かんでしまう。


「おい、本当に大丈夫なのかよ……見ていられねえよ」


 アランは顔を青くしながら呟いた。不安げに彷徨った手が、ジャケットのうちポケットに吸い込まれて行く。

 そこにある固い感触。かっこつけて買ったはいいが、人を傷つけるのが怖くて、一度もポケットの中にしまいこんでいるもの。別に喧嘩に使うためだとか、誰かを脅すために持ち歩いているのではない。

 もし、自分の身に危険が迫ったら、その時に! その時とは、他でもない今だ。


 こんな小さいものでも、手に取ると少しは心強い。

 ああ、彼の心に燃え上がる感情。


「……なんで俺はほったらかしなんだよ。ナメてやがるな、あの化け物。俺をただのガキだと思ってるんだろ! ちくしょう! 俺を無能扱いしやがって」


 内ポケットから姿を現した手の中には、細長いものが握られていた。


 そうこうしている間にアイザックは、その凛々しい顔に無数の傷を刻み、細い顎の先へ血を滴らせている。右眉の上に走った赤い線から垂れた二筋の赤が目に入り、視野が半分、赤く染まる。


 アイザックの胸中を、微かな不安が襲った。

 復讐までの道のりは長いというのに、こんなところで苦戦を強いられるとは……。

 ――これが、男のちからか。


 アイザックは強く柄を握り締め、切っ先を大きく振るった。

 当たった! 薙いだ剣は怪鳥の片足を見事に切断した。


 ギャアアアアアア!


 断面から黄色い血が迸る。

 怪鳥は美しい顔面に狂気の表情を刻み、空中で奇怪なダンスを踊るように暴れまわりながら、双翼を激しくばたつかせて悶絶している。


「今度は、その胴体を真っ二つにしてやるぞ……!」


 アイザックの瞳に、ゆらりと鬼気が揺れた。

 もう一度剣を握りなおす。汗と血で滑らないように集中力の全てを柄と切っ先に送り込む。

 振りかぶった剣がブワッと空を切ったその刹那、刃は銀色の残像を引いて奴の胴体を、宣言通り真っ二つに切り裂いた。


 大量の血がアイザックの顔面を黄色く汚す。

 怪鳥は断末魔をあげて地面に落下すると、醜い内臓をばら撒きながら最期に一鳴きし、事切れた。


 耳鳴りがするほどの静寂が訪れる。

 アイザックは外套で顔の血を拭うと、剣を鞘の中に収めた。自分の血と返り血が混ざって、外套は重たく濡れた。


「無事か」

 アランを振り替えながら問う。


「ああ……」


 彼は顔を青くして頷く。

 

「これでわかったろ? 相手にしてるのがどんな奴か……。帰りたいと言っても、もう後戻りは出来んぞ。見ろ、元の世界へ繋がる出入り口が消えている。ここから出られるのは、奴を倒してからのようだ」


 その時、アランの視線がアイザックから逸れた。

「あ!」と叫んだと思うや、アランは手にした何かを、アイザック目がけて力いっぱい投げ飛ばした。

 アイザックの顔面すれすれを横切ってヒュッと空を切った銀光が、何かを刺し貫く音がした。


 振り返ったアイザックは、はっと目を剥いた。

 身体を真っ二つにされた怪鳥が、恐ろしいほどの執念でアイザックに襲いかかろうとしていたのだ。

 それを制したのが、アランの放った刃渡り十センチほどの折りたたみナイフであった。

 真新しい刃は怪鳥の右目を貫いていた。

 最期の力を振り絞って立ち上がった怪鳥は、少年の放った一撃で今度こそ力尽き、背中から倒れて二度と起き上がろうとはしなかった。


「油断ならん奴だ」


 アイザックは再び剣を抜くと、アランのナイフを回収してから怪鳥の首を切り離した。

 辺りは黄色い血の海に沈んでいた。

 女の首は苦悶の表情を刻んだまま、己の血だまりに転がっている。


「首だけで襲ってこられても迷惑だ」


 言いながらアイザックは、首を小道の外に蹴り飛ばした。首は果てしない闇に落ちていった。

 後に残った首無しの胴体を見下ろしながら、アイザックは剣をしまう。


「大丈夫か」


 歩み寄ってきたアランが、心配そうに問う。


「ああ……」


 アイザックは、彼にナイフを返しながら頷いた。


「すまん、助かった」


「……別に。俺の前で死なれちゃ、気分悪いからな」


 アランはナイフをたたみながらそっぽを向いた。

 強がったような言い分に、アイザックは静かに唇に弧を描いた。


「行くぞ」


 と、アランは先を歩き出した。



 広々とした薄闇の中に浮かんだいくつもの蝋燭の光が、風もないのにゆらゆらと揺れている。

 床も天井もない。ただ、それらは存在するという感覚だけがあった。

 うっすらと見渡せるほどの暗がりに包まれた空間には、ウノともう一人、禍々しい気を放っている男の存在があった。


「出して! ここから出しなさいよ! 出せって言ってるでしょ!」


 ウノは、正面の椅子にゆったりと腰を下した謎の男に向かって喚いた。否、正面との間には屈強な造りの格子があり、彼女はその中から、閉じ込められた野生の動物のように騒いでいるのだ。

 と言っても中は存外広く、立ち上がったとしても天井までは頭一つ分以上の空間が余っており、窮屈さを感じない程度には広々としている。


 格子の外にいる男は、深く陰の落ちた痩せた顔の上にきらりと光る銀縁のメガネをかけている。

 薄闇に浮かぶ顔は優しく微笑しているようにも見えるが、それすらも空々しい。


 男――アリスター・オルコットは、少女の荒々しい声など聞こえていない風情で、優雅にシガリロを吹かしている。


「あんたの目的は何? 私をこんなところに閉じ込めて、どういうつもりよ。お客のもてなし方がひどすぎるわ」


 アリスターはうんざりしたように溜息を吐く。


「そんなに騒がないでくれたまえ。君は息子を釣るための餌以上の意味などないのだよ。息子あいつを殺した後に、君のことはきちんと家に帰そう。不自由させて申し訳ないが、もう少し我慢してくれ」


 その言葉が嘘であることを、ウノは直感で理解した。きっと、自分もアイザックと一緒に殺す気なのだ。わざわざ家に帰すなど、悪魔の力を手にしたこの男が考えるはずがない。


 殺される。自分だけでなく、アイザックに関わった者たちは、例外なく殺されてしまうに違いない。父も、母も……。

 そんな理不尽な結末を予想して、ウノの中に沸々と熱い怒りが湧き上がってくる。


「殺させない。あんたなんかに、アイザックを殺させなんかしないわ!」


 アリスターは少女から向けられる強い意志を一笑に付すと、傍らのに向かって、


「あの娘を黙らせろ」


 と、命ずるように言った。

 ……一体、向かって言ったのだ?


 ウノが彼の行動に不審げに眉を顰めていると、檻の中に何者かが侵入してくる気配があった。

 ぞっと背筋が寒くなるのを感じて、辺りをきょろきょろ見渡すも、傍に人の姿はないし、そもそもこの檻には扉がないのだ。

 一体自分がどうやってこの中に入れられたのかもわからない。

 それなのに、ひたりと寄り添ってくるかのような、冷え冷えとした何者かの気配を感じる。

 それに次いでウノを襲うのは、息苦しいような激しい眩暈。まるで荒波の上に浮かんだ小船に乗っているような気分だ。


 どっと冷や汗が噴出し、眉間の奥がずぅん、と重くなる。


「う……気持ち悪い……」


 急に襲い掛かってきた不快感以上の不快感に、ウノは地面に這い蹲りながら、自分の傍らに冷たい革靴の底が寄って来るのに気が付いた。


 思うように身体が動かず、なんとか瞳だけをその革靴を履いた主の顔へ向ける。

 一体、この檻の中にいつ、どうやって入ってきたのだろう。そいつは、恐ろしいほどの四白眼でウノを見下ろすと、地に伏した少女を跨ぐようにして立ち、がりがりに痩せた手を、少女の小さな顎にかけた。ぞっとするほど冷たい手だ。全身に鳥肌が立つ。

 男は、捉えた顎を上へ引っ張り上げて、ウノの顔を無理矢理上に向かせる。

 ウノは背骨が軋むような痛みに顔を歪めた。


「や、やめ――」


 と、口を開いたウノの唇に、男の掌が覆いかぶさってきた。その瞬間、ウノは物凄い量の水を吐きながら噎せた。

 否、吐いているのではない。この男の手から、大量の水がいるのだ。

 無理矢理、流し込まれる形で口の中に水が溢れる。あまりの量に、ウノは反射的に飲み下すが、慌てて喉を上下させる過程で、水は呼吸気管へと入り込んでしまう。身体が誤嚥したものを正常の道へ返そうとする努力虚しく、ウノはこの不気味な男の奇怪な術に歯向かう事すら出来ない。込み上げる咳の嵐に空気を吸う暇もなく、ウノは欠乏した酸素を求めて喘いだ。

 やがては抵抗する気力も薄れ、薄暗い景色が一層、ぼんやりと霞み始めた頃に、


「殺すなよ」


 アリスター・オルコットの声が響いた。

 遠退きかけた意識の端で聞こえると、押し寄せてくる水の勢いがぴたりと止まった。顎を捉えていた手もすんなりと離れてゆき、そのまま頬を床にぶつけ、残りの水を激しい咳と一緒に外へ排出する。


 噎せるたびに大量の水が口の中に逆流してきて、地面に大きな水溜りをつくる。

 気管が引きつるような痛みに苦悶の表情を強いられながら、ウノは水を吐き続けた。


 ようやく落ち着いてくる頃、檻の中には自分ひとりしかいない。四白眼の男はいつの間にか消えていた。


 何度もえずきながら、ようやくまともに息が出来るようになると、ウノはアリスターの傍らに先ほどの四白眼の男が恭しく佇立しているのを見つけた。

 それと同時に、その男の放つ異様な雰囲気の存在にも……。


 アイザックが語った話の一部が突如として蘇ってくる――。アリスター・オルコットが、悪魔に魂を売った。そしてその悪魔こそ、あの四白眼の男であった。

 心臓が凍りつきそうな怖気に襲われる。

 アリスターを唆し、8人もの尊い命を奪った悪魔。

 人のものでないその瞳が、こちらを見つめていた。視線が絡み合った瞬間、まるで目に見えぬ毒手に心臓を撫でられるような、不思議な感覚に陥った。


 ――今、私の魂はきっと、あの男の手の中にある。


 生きるも死ぬも、あいつの右手ひとつでどうにでもなってしまうのだろう。そう思うと、ウノはこれ以上暴れようなどとは考えなかった。


 瞬く間に自分は、現実からへと落ちたわけだが、これが現実だとか夢だとか、そんなことはどうでもよかった。

 ただ、恐怖。

 不安を煽る薄闇に閉じ込められ、魂を人質に取られた。

 死がすぐ傍に寄り添ってくる気配がする。

 根源的な恐怖をその幼い胸に抱きしめたまま、ウノは子猫のように震え続けることしか出来なかった。


 ――ごめんなさい、アイザック。私はあなたに迷惑をかけてばかり。今だって、こうしてあなたが来るのを待っていることしかできない。少しでもあなたの役に立ちたい。それなのに……。どうか無事でいて、愛しいアイザック。


 その時、ふとアリスターが顔を上げた。


「外が騒がしいな」


 と呟いたかと思うと、たちまち深い笑みがその顔に張り付く。

 確かに、この部屋と外を隔てる大きな扉の向こう側がやけにうるさい。ばたばたという足音と、何事かを叫ぶ声。聞き覚えのある声がする……。

 ウノは地に手をついて、やっとのことで身を起こす。


「来たか」


 その時、ごてごてした派手な装飾の大扉が、重々しい音をたててひとりでに開いた。

 そしてその奥から現れた姿に、ウノは満面の笑みを浮かべ、歓喜の声を上げた。


「アイザック!」


 彼女が声にしたのは青年一人の名前であったが、その隣にはアランもいる。

 二人とも傷だらけだった。服はびりびりに裂け、身体のあちこちに裂傷を負い、大量の出血が見られた。


 彼らを襲った化け物たちは怪鳥だけに留まらなかったのだ。様々な生き物が融合したキメラ、人語を解す巨大な狼、身が竦むほどの大鎌を振り回す怪人、そしてダメ押しとばかりに、生きた屍たちの大行進に迎えられた。

 さすがのアイザックも、その口から泣き言を漏らしたくなったほどであった。


「ウノ……! 無事か」


 アイザックが檻の中に少女の姿を確かめるや否や、その視線はすぐにこの部屋の主、アリスター・オルコットへ向く。


「よく化け物の小道を死なずにやってこれたな。さすが、私の息子」


 渇いた拍手の音が空間に木霊する。


「死なないぞ、おれは……」


 アイザックは、全身の傷に響く痛みに顔を歪めながらも、にやりと笑って見せた。


「わざわざ出向いてやったぜ、アリスター・オルコット……いや、父さん」

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