第2話 「あなたはアイザック」
ウノは、名前を名乗った彼の異様な気配に、今までの勢いを失って、急に口数を減らした。
無名。その名前が彼の口から出てくる直前、何故か彼を取り巻く空気がほんの一瞬、ぞっとするほど冷たく凍りついたような気がしたのだ。
まるでウノの言葉を拒むかのようだった。触れてはいけないものに手を伸ばしてしまった気分だった。
暫しの無言の末、二人は玄関の前で立ち止まった。
麻の鞄の中を引っ掻き回して家の鍵を探す。
なかなか見当たらないのか、ウノは上背を乗り出すようにして鞄の中を覗きこむ。
無名は手持ち無沙汰といったかんじで、ぼんやりと屋根の方を見上げると、薪ストーブの煙突が空へ向かって伸びているのが見えた。
ようやく鍵が見つかって玄関を通されると、無名はウノに言われるまま、ダイニング・テーブルに腰を落ち着けた。
「今、お茶を淹れますね。紅茶と珈琲、どちらがいいですか」
ウノはキッチンに立って、ポットに水を汲み上げる。
紅茶はこの土地の代名詞であるが、近年では若者の珈琲ブームが徐々に広がりつつある。エレジー家もその流行に乗って、近頃は珈琲を淹れる日も増えていた。
「紅茶にしよう」
無名はぶっきらぼうに答えた。
辛いのや甘いのは人並みに好物であるのだが、幼い頃から苦味のある物は苦手だった。昔から珈琲は好んで飲まなかったし、これからもきっとそうであろう。
無名は、てきぱきとお茶の仕度をするウノの背中から目を離すと、家の中にざっと視線を向けた。
新築ではないが丁寧に手入れされた内装は、物がぴったりと収納されていて小奇麗な印象を受けた。
インテリアにも凝っているのだろう。部屋を飾る小物類も垢抜けていて、ここの家族はなかなか趣味がよさそうだ。
見たところ、他に部屋はないようで、広々とした一つの間取りに、リビングのスペース、ダイニング、キッチンと分かれている他、トイレかシャワールームに通じると思しきドアが一つ。
部屋の隅には梯子があって、上はロフトになっていた。
丸太の壁には誰が描いたのかわからない風景画が額に入って飾られている。
小さなキャビネットの上のポートレートには、高台で撮った写真が飾ってあった。
写真の真ん中にはウノ、その両サイドに両親と思われる男女が笑顔で写っていた。
「どうぞ」
という声と、自分の前にティーカップが置かれる気配で、無名は我に返る。
「ありがとう」
彼はにこりともせずに、一緒にテーブルに置かれた角砂糖に手を伸ばした。
小洒落たカップの中にきらきらしたキューブ型の砂糖を四つばかし落とすと、琥珀色の液体の中で、その固形はたちまち溶けてゆく。
正面に腰をかけたウノは、愛用のマグカップに口をつけながら彼の手つきをぼんやり眺め、「この人は甘党なんだな」と思った。
無名は甘ったるい紅茶を啜っても表情一つ変えず、ただ深く息をつくと、椅子の背凭れに深く凭れ掛かった。
「お前、両親は?」
「仕事です。もうすぐ帰ってきますよ」
初対面の娘に対してお前などと、馴れ馴れしいことこの上ない男にも、ウノは笑顔でそう応えた。
普通ならこの無礼な男に気を悪くしてもおかしくないが、無口な青年が自分から話しかけてくれたことが嬉しくて、つい声が弾む。
「無名さん」と、今度はウノが質問をする番だ。
無名は、視線だけをウノに向けて、「なんだ」と声に出さず問う。
強い目力にどきっとするが、すぐに気を取り直して、
「あなたは何者ですか? このあたりじゃ、武装している人はなかなか見かけません。用心棒でもなさっているのですか」
ウノは、無名の傍ら――テーブルの脚に立てかけられた一振りの剣に目を向けた。
白い鞘に収められた刀身は細身で、鍔の部分には優美な金の装飾が施されている。柄の先にはこれまた豪華な金と銀の飾りが揺れ、窓から差し込む昼下がりの陽光に照らされて眩しいほどに煌いた。
「おれはただの旅人だ」
「はあ、そうでしたか……」
ウノはじろじろと無名を眺めながら生返事をしたかとおもうと、
「とてもお若く見えますね。一体、いくつのときから旅を?」
無名は、一瞬黙り込むと、
「おれは
「ハタチ! やだ、私ったら……」
ウノは恥ずかしそうに両頬を小さな手で覆った。
せいぜい、自分の一つ上くらい(ウノは今年十六になる)だと思っていたのだ。
二十歳にしては幼さの残る顔立ちだと思ったし、背も自分の同級生たちとさほどかわらないように見える。
「東洋人は――おれは日系だが――顔が幼く見えるんだろ? 気にしなくていいよ。堅苦しい敬語も要らない」
無名は気さくな言葉のわりに、愛想の欠片も無く言うと、紅茶をそっと啜った。
「遠いところから来たの?」
と、ウノは早速お堅い言葉の鎧を脱いだ口調で訊ねた。
「……さほどでも」
無名は歯切れ悪く言う。
紅茶の味の感想は期待しないほうがよさそうだ、とウノが肩を落とす傍ら、無名は彼女の視線から逃れるように再びカップに口をつけたとき、玄関の外で何者かの気配がし、扉が開いた。
「ただいま」
入ってきたのは、写真に写った女性だ。
彼女は自分の視線の先に見知らぬ青年が座っているのを目にすると、一瞬、目を剥いた。
「あ、お帰りなさい、ママ。お客さんよ。名前は、えーと……あ、あのね、不良たちにちょっかい出されていたところを助けてくれたの。そのお礼をしていたのよ」
ウノは立ち上がって、無名との出会いを説明した。
無名は目を伏せるようにして、小さく礼をする。
「……あら、そうだったの。ありがとう、娘がお世話になったみたいで」
女性は、ウノとよく似た少女らしい笑みを浮かべて言った。
無名は口を噤んだまま、二人の顔を見比べる。――似てるな。親子だもんな。
「あなた旅人なの?」
傍らの荷物や外套に視線を落とした母親にそう訊かれ、無名は「はい」と、リアクション薄く頷いた。
「そ。なら今日は泊まっていったら?」
「えッ」
と、妙な声を発したのは、他でもない無名である。
一体、旅人だと、どうして一日宿をお世話する流れになるのだろうか。
「いや、おれは……」
彼女の発言に面食らいながら、無名はその申し出を辞退する気で口を開くも、
「あら! いいじゃない、そうしましょうよ」
ウノが乗り気で無名の手を握る。
「私、あなたにとても興味が出てきたわ。あなたの話をもっと沢山聞きたいの。ね、いいでしょう?」
期待の込められた眩しい視線を正面から受け止めて、無名は思わず口を噤んだ。
無愛想で、何を考えているのかわからないような男と自覚はしているが、そんな自分にこれほどまで押しの強い相手は珍しかった。
たいていの人間は、彼のこの冷たい態度に近寄りがたさを感じて、あまり友好的に接してこない。
無名自信も、人と馴れ合うのを好まなかったせいか、ここ数年、こんなにも長い時間、誰かと言葉を交わした記憶は無かった。
それが、この少女との出会い一つで、あっという間に向こうのペースに持ち込まれてしまっているのだから、無名は少し調子の狂う思いである。
「そうよ。もう夕方だし、今夜の宿代浮くわよ」
母親は台所に立って、棚から夕飯の材料を取り出しながら言った。
「そうしましょうよ、ね」
無名は困ったように眉を下げていたが、確かに、宿を取るのもお金がかかる。決して裕福な旅路ではないのだ。
ついに彼は折れた。
「……一晩、お世話になります」
・
・
・
「ね、近くに小さな泉があるのよ。すごく綺麗なの。一緒に行きましょう」
というウノの誘いに乗り、無名は外套の下に剣を下げて、彼女と一緒に家を出た。
その泉は、エレジー家の目の前に広がる森を入って、五分ほど歩き続けたところにあった。
森と言っても、さほど深いわけではない。冬の間も青々とした葉をつけた常緑樹に囲まれたこの森は、傾きかけた太陽の光が届く。夜にならない限り、視界はさほど悪くならないだろう。
歩いている間、頑なさを感じるまでに無口な無名に変わって、ウノは驚くほどよく喋った。
元来、人見知りとも縁遠く、口も達者な人となりである。
無名が返事をしてもしなくても、まるで舌にオイルでも塗っているかのような饒舌ぶりを惜しみなく発揮した。
視界の先に夕暮れに煌く泉の姿が見えてくると、ウノはにこにこしながら小走りで泉の縁に駆け寄った。
木々の開けた場所に大きな穴が空き、その中に満ち満ちた透明な湧き水は、晴れ渡った空をその水面に映す。
無風の中に沈む吸い込まれそうな青空は、思わず感嘆の息が漏れるほどに純美な風情を漂わせていた。
無名は、底冷えのする視線に温和な色を浮かべて、ほう、と息を漏らした。
「綺麗でしょ? 昔、友達と良くここで水遊びをしたわ」
ウノは、うっとりと目を細めて言いった。
昔を懐かしむような表情でブーツを脱ぐと、外気に晒された白い脚が泉の中へ沈み込んでゆく。
長いスカートの裾を摘んでゆっくり中央まで歩いてゆく姿を、無名は佇立したまま眺めていた。
「この時期に水の中に入るのは寒いわね」
「上がれよ。風邪を引いてしまう」
無名は剣を傍らに置いて、胡坐をかいた。
「うん。――ねえ、無名さん」
ウノは水を跳ね飛ばさないようにそっと歩きながら、言った。
「なんだ」
「やっぱり、名前がないと呼び辛いわ。私が仮の名前を授けてもいいかしら」
無名は重ための前髪の隙間から、ウノをちら、と見た。束の間、二人の視線が絡んだ。
まるで睨みつけでもしているかのような無名の目付きを、ウノは温容な微笑で受け止める。
先に視線を逸らしたのは無名の方だった。
「好きにしたらいい」
本人からの了承を得ると、ウノはぱあ、と顔を明るくした。
思案気に腕を組むと、支えを失ったスカートの裾が水面のすぐ上で揺れる。
「そおねぇ、何がいいかしら」
楽しそうに熟考するウノを眺めながら、お前が呼びやすければなんでもいいのだが、と関心薄そうに口を噤んだ無名。だが次の瞬間、少女の口から飛び出した固有名詞に、思わず顔を上げた。
「“アイザック”」
「……アイザック?」
低い声がオウム返しに訊ねる。
「前にね、家の近くをうろついていた白猫を、“アイザック”って呼んで可愛がっていたの。私の好きな名前なのよ」
――おれは猫か。
無名は呆れたような顔をした。
「あなた、すごく猫っぽいわ。人見知りで、簡単に懐いてくれない辺りなんか、正に猫よ」
無名は頬杖を着いた。
――アイザック。
――アイザック、か……。
無名は、その名前を噛み締めるように、頭の中で反芻した。
同時に、記憶の底から愛しい女性の声が蘇ってくる。
“イザーク”
“イザーク、ご飯できたから下りてきな”
これは、幼い記憶だ。
物心がついた時から、自分はあの声を今の今まではっきり覚えている。忘れてなるものかとしがみつくように、毎日毎日あの声を思い出して眠りに着いている。
忘れてはならない。あの人に関わるすべての記憶。
ぱしゃっ、と水が跳ねる音がした瞬間、無名の顔に冷たい水がかかる。
「あッ」
ウノは「しまった」と、顔を強張らせた。跳ね上がった爪先からぽたぽたと水が滴っている。蹴り上げた水が彼の顔にかかってしまったのだ。
「ごめんなさい、はしゃいじゃって、つい……」
前髪や顎先からぽたぽたと冷水を滴らせながら、無名はウノを上目遣いに見やった。
口を閉ざしたまま、そのぎらついた目で見つめられると、物怖じしないウノもさすがに居心地の悪さを覚えた。
もう一度、謝ろうと口を開きかけたとき、――ウノは目を瞠った。あの無名が笑っていたのだ。
真一文字に引き結ばれていた口角は深く弧を描き、鋭く研ぎ澄まされていた眼光にも薄っすらと綻んだような気配が漂う。
この青年は笑うとより幼い印象を受けた。それでいて、どこか思い悩んだような憂いの漂う雰囲気が、それとは真反対な艶っぽさを見せる。
その嫣然たるさまに、暫しウノは目を奪われていた。
外套の下から現れた腕が、顔をごしごしと拭っている。影になった無名の鉄面皮は、まだ微かに笑っていた。
「“アイザック”――“アイザック”ね。いいよ、すごくいい趣味してるじゃないか。気に入った。そう呼んでくれよ」
無名は――アイザックは、濡れた前髪をかきあげると、ウノを見上げて目を
「何を変な顔をしている」
ウノは慌てて表情を引き締め、
「なんでもない!」
と、泉から上がった。
ウノは、ちょっぴり熱を持った頬を隠すようにして、俯き気味にブーツを履いた。
「そろそろ戻りましょう。もうすぐ暗くなってしまうわ」
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