第3話 忘れてはならぬ過去を見て

 夜がやってきた。

 窓から見える森は、昼間と比べてがらりと趣が変わり、乾燥した木の白っぽい色が宵闇に薄らぼんやりと浮かび上がって、寒々とした不気味な風景が広がっている。


 夜の空気に包まれて、濃い葉の色は昼間に比べてより一層深い色に変わる。


 乱立する木立の奥で妖しげな闇がおいで、おいでと手招いているような気配を感じて、アイザックはほんの少し眉を顰めた。


 玄関先にぶら下がったカンテラの光は遠くまで届かず、ぽつんと佇んだログハウスの周囲だけが暖かなオレンジ色の光に溢れていた。


 春はすぐそこまで迫っているというのに、日が落ちてしまうと町の人々はこぞって夜寒に身を震わせた。


 エレジー家も夜になると、薪ストーブが炊かれた。ぬくぬくとした心地の良い室内で夕食を摂り、各々がゆったりと時間を過ごしていると、やがて夜は更けてゆく。


「これを使いなさい」


 と、アイザックにふかふかの毛布を手渡したのは、エレジー家の大黒柱・ジェイクである。


「ありがとうございます」


 礼の言葉に対してその顔は無表情であったが、ジェイクは気を悪くした風もなく、


「君はあそこで寝るといい。下で寝るより、広々使えるからね」


 と、ロフトを指差す。


「恐れ入ります」


 深々と頭を下げるアイザックを見ながら、ウノは何が面白いのかニコニコ顔だ。


 夕方に泉から帰ってきた二人は、玄関の前でジェイクとばったり出くわした。

 ウノが両者の間に入って、互いを紹介しあうと、娘がこの青年に助けられたと知ったジェイクはアイザックをいたく気に入ったようだ。


 夕食は母・シエナが腕をふるって、プロ顔向けの料理をご馳走になった。

 芳醇な香りとのある柔らかなパンと、チーズのたっぷり乗ったグラタン、木のボウルに入った色鮮やかなサラダ。

 食欲をそそられる香りが鼻腔を深く満たし、元々食の細かったアイザックはスプーンを口へ運ぶペースがいつになく速かった。


「お口に合うかしら」と、シエナが訊ねると、アイザックは素直な言葉で賛美した。


「はい。とても美味しいです」


 隣の椅子ではウノが得意気に鼻を膨らませて、


「でしょう? 私の家、七年前まで隣町で宿屋やってたの。ママは料理長だったんだけど、泊まりにくるお客さんみんな、ママの料理を褒めてくれたわ」


 と、胸を張った。


 それを聞いてアイザックは、この両親が旅人の自分をいたく歓迎してくれた理由に納得がいった。


「今は叔父さん家族に経営を任せてしまってるの。いつか私も料理長シェフ、なんて呼ばれてみたいわ」


 その後、眠る時間まで、好奇心旺盛なウノの質問攻めに付き合わされながら、淹れてもらった甘い紅茶で眠気を誘い込んだ。

「ウノ、そんなにしつこくしちゃ、アイザックが疲れちゃうでしょう。もう寝なさいな」と助け舟を出してくれたシエナに心の中で感謝しながら、アイザックは就寝の仕度を始める。


「じゃあね、アイザック。おやすみなさい」


 ウノは、リビングに並んだシングルベッドとダブルベッドのうちのシングルの方に潜り込むと、枕元に置いた文庫本を手に取った。

 手に取ったはいいが、今や彼女の頭の中はアイザックで一杯で、まともに読書に集中できるわけもなかった。そんな彼女の胸中など露程も知らずアイザックは、


「ああ、おやすみ」


 と毛布を脇に抱えながら、梯子を上った。

 ロフトには折りたたみの簡易ベッドが設置されており、タオルに包まれた白い枕が一つ置いてある。

 全体の広さは、想像していたよりも横幅があり、窮屈さを感じずのびのび眠れそうだ。


 アイザックは早速ベッドに寝転んだ。軽くスプリングを軋ませて横になると、今まで気が付かなかった疲労がどっと押し寄せてくる。

 思い返せば、ここ一週間は野営をして夜を明かす日が続いていたため、心行くまで安眠に身を委ねることができていなかった。


 ふう、と深く息をついて、身体の内側に溜まった疲れを吐き出すと、たちまち眠気が忍び寄ってくる。


「灯り消すよ」


 下でシエナの声が聞こえると、間もなく部屋の照明が消える。

 闇に目が慣れていないせいで、視界は一気に塗りつぶされたような暗黒に飲まれた。


 下からは、時折交わされるひそひそ声が聞こえていたが、それはやがて健やかな寝息に変わった。


 アイザックも、重たい疲労に全身を包まれたまま、いつの間にか眠りの園へと旅立っていた。



 不意に意識が浮上する。

 不思議なほどに全身が軽い。

 自分は横になって眠っているはずなのに、足の裏が大地を踏みしめる感覚がある。


 ――ここはどこだ……?


 ぼんやりしていた思考が冴えてくると、指先に触れる空気の流れや、微かに聞こえる風の吹きつける音がアイザックに起床を促した。


 そっと目を開けると、四方八方に広がる白い闇の中に自分が佇立しているのに気が付いた。

 己を取り囲んだ虚無感、白い絵の具をぶちまけたかのような無の景色。

 ここに在るのは、アイザックと、果てしなく広がる白の闇のみである。


「……ああ、またこのか」


 呟いた声が思いのほか高くまで反響する。

 アイザックは霧の中にいるような景色をぼんやりと眺めた。

 

『そう、これが、あなた本人すら認知していなかった真相でございます』


 白い虚空の中から、厳かな女の声が聴こえる。声だ。

 そして――


『うそだ』


 否定の言葉を口にしたのはアイザックの声だ。ここに居るアイザックの声ではない。これは、厳かな女の声と彼が過去に交わした言葉である。


『ワタシが視ることが出来るのは真実のみでございます』


 女の声は酷く物静かで、感情のスイッチを切ったみたいに、冷徹でさえあった。

 彼女の声の温度と比例するかのように、


『何故、お前にそんなことがわかる!』


 というアイザックの熱した怒号は、白闇に虚しく反響した。


『うそに決まっている……! そんなこと……そんな……!』


 動揺しているのだろう。声が不安定に揺れ、繰り返される呼吸も荒い。


『おれは……と! どうしてそんなことを言う!』


 己の声が荒々しさを含み始めるのを、白の中心に立ち尽くしたアイザックは冷静に聴いていた。


 ――そう、おれは死んでいるはずだった。……。


『信じたくないと思うのは当たり前の感情です。自分を殺そうとした相手がだと知って、ショックを受けるなと言う方が無茶な話ではありませんか』


『おれは父親なんか知らない。会ったこともない! おれを育ててくれたのは、あの人だけだ。おれの母親だ!』


『血の繋がりは無いのでしょう』


『そうだ。悪いか。血縁そんなもの、おれとマリアには無くったって、幸せだった。血縁が全てではない』


『それもまた真理。ワタシはあなたの生い立ちを否定したいわけではございません。あくまで、ワタシの目が視た、あなたの真実をお教えしたまで』


『じゃあ、おれは……産まれた瞬間から、父親とやらの、欲のために殺されかけたというのか』


『はい』


 声はたんたんと告げる。


『あなたの育ての親・マリア氏が亡くなったのも、そのわけのわからない欲望が原因となりますね』


 そして、と声が、幾分か感情を取り戻した声で続ける。


『あなたには二つの運命が見えます。一つは、の死。永久に天に還る事のできぬ、文字通り地獄へ堕ちる運命。もう一つは、希望ある生。相反する二つの道。今のあなたは前者寄りですが、行動次第では後者の運命を歩むことも可能です。一つ、助言をいたしましょう、。生きたくば、殺しなさい。名前はアリスター・オルコット。あなたの父の名前です。復讐したくば、殺しなさい。あなたの魂に絡み付いて離れないその魔手を断ち切る方法は、アリスター・オルコットをこの世から消す、ただそれだけでございます』



 ふと気がつくと、朝がやってきていた。

 今度こそアイザックは、現実で目を覚ました。


 ぼんやりする頭の中で見ていた夢(と言っても、真っ白な景色のみの静止した映像であったが)の内容が浮かんでは消え、浮かんでは消えゆく。

 正しくはではない。

 あの会話は、現実で交わしたことのある会話だったのだ。

 忘れもしない。あの日から今日、この瞬間も、アイザックは心に留めて離さない想いがあった。

 醜く、何一つ生み出すことの無い無意味な感情――。


 意識がはっきりしてくると、キッチンでシエナが朝食の仕度をしている気配がする。


 多少の肌寒さを心地よく感じながら、ぬくぬくと毛布の中で寝返りを打つ。

 あんな夢を見た割りに、蓄積された疲労はあらかた解消できたようで、起きぬけの気だるさは殆ど感じない。けれど……決して晴れやかな気分だというわけではなかった。


 アイザックはむくりと起き上がると、毛布の中のぬくもりを名残惜しみながら、下へ降りていった。


 竈の前で鍋をかき回しているシエナの背中に向かって、


「おはようございます」


 と声をかけると、彼女は首の後ろで括った鳶色の髪を揺らして振り返った。化粧気のない笑顔は、懐かしいの懐のような安心感があり、アイザックはいくらか気持ちが安らぐのを感じた。


「あら、おはよう。早起きさんね。――どうしたの、顔色、あんまりよくないよ」


 シエナが心配そうに眉を顰めると、アイザックは、さっと右手を頬に添えた。


「よく眠れなかったのかしら」


「いえ、そういうわけでは……。少し、外を歩いてきます」


 顔も洗わずに家を出たアイザックは、玄関の前で一人深呼吸した。


 ――何度も何度も同じ夢を見せやがって。これも、あのが言う、父親の呪いだというのか。


「ええ? どうなんだよ、アリスター・オルコット」


「アリスター?」


 思考の中にわり込んできた少女の声に、アイザックは、びくっと肩を揺らした。

 隣にはいつの間にか寝起きのウノが並んで立っていた。薄い寝間着の上にキルティングのガウンを羽織り、足元には履き古したサンダルを引っ掛けている。


「おはよう、アイザック」


 アイザックは咳払いをし、


「おはよう。早起きだな」


「私はたまたま。あなたが出て行くのが見えたから、急いで起きたのよ」


 ウノは少し照れたように言った。

 昨夜、おやすみの挨拶をしたときはまだアイザック長い黒髪は結われていた。だが今は、やや癖のある美しい黒髪は背中へ落ち、象牙色の頬の周りを艶やかな毛先が包み込んでいた。

 結い上げていたときは見えていた耳や首筋が、今は隠れている。

 たったそれだけのことでも、ウノは胸がくすぐったいような、息苦しいような……妙にどきどきする、そんな感覚に陥った。


 白い頬を桃色に染め上げて、視線を足元に落とす少女の愛らしい挙動を、アイザックは闇の如きくらい瞳で見下ろしていた。


「ウノ」


「なに?」


 ウノは名前を呼ばれたことが嬉しくて、つい笑みを零した。


 アイザックは少女の華奢な手首を掴むと、有無を言わさぬ態度で、昨日辿った泉までの道を歩き始めた。


「あの、アイザック? どうしたの?」


 アイザックは答えない。

 ウノもこれ以上、何も問おうとしない。

 二人の間には、若草を踏みしめるさわさわという足音だけが唯一の音として存在している。


 掴まれた手が熱い。心臓がドキドキして、顔が真っ赤になるのがわかった。

 ――気のせいかしら、少し強引な手。

 歩幅はウノに合わせているが、噤んだ口、男らしい掌は、まるで何かに怯えているかのように余裕がない。


 何に怯えているというのだろう、この謎多き旅人は。

 夜色の瞳を曇らせて、その視線は何を眺めているのだろう。


 やがて視線の先に泉の水面が姿を現すと、ようやくウノの手は解放された。

 暖かい手が離れるのは名残惜しかった。


 アイザックは一人で水面に近寄り、透き通った水底に向かって両手を突っ込むと、身が竦むほどの冷水でばしゃばしゃと顔を洗った。


「うひゃあ、冷たくないの?」


 彼の背中に歩み寄りながら、ウノが訊ねる。


 ――冷たいさ。でも、これくらい冷たくないと、おれの意識は夢に囚われたまま、現実ここへ戻って来れない。


 何度も何度も顔に冷水を叩きつけて、すっかり身体まで冷えきってしまったころ、アイザックは長い間水中に潜っていたみたいに荒い呼吸を繰り返しながら、早朝の空を見上げた。


 曇り空が、そこにはあった。薄曇の空だ。白い雲の向こう側に薄っすらと、青い空が見える。


 太陽の無い空の下は薄ら寒い。アイザックは外套も羽織らず家を出てきたので、薄いカッターシャツ一枚の装いだ。

 寒さからか、それとも別の要因のせいか、小刻みに震える背中。

 下した黒髪が肩から滑り落ちて、しゃら、と音を立てた。


「ね、アイザック」


 ウノは探るような口調で言った。


「……なんだ」


「いつまでここにいてくれるの?」


 アイザックは振り返ろうとして、途中でやめた。


 ――おれは今、どんな顔をしてウノを振り返ろうとした?


 昨日出会ったときと同じ、の顔をしているか?

 それとも、実父への復讐に燃える、鬼の顔をしているか?


 アイザックは、前者である自信がなかった。だから決して、ウノの方を見ようとはせず、


「今日までだ」


 と、冷たく言い放つ。


 ウノは、彼の背中に向かって、寂しそうな顔をした。


「……どうしたの、アイザック」


 不安そうな声。

「今日までだ」という答えに対する問いではない。何か、よくわからないが、この青年の放つ雰囲気に違和感を覚え、思わずそう訊ねてしまったのだ。

 しかし、彼は答えないまま、すっくと立ち上がった。


「ずっと居て!」


 ウノの上ずった声が鼓膜を叩いた。

 彼女の言葉が、心からの願いであることは伝わってきた。けれど……。


「だめだ。おれには、やらなくてはならないことがある」


「なら、私も連れて行って」


「そんなことはできない」


 撓った鞭の様な口調は、疑いようもなくウノを拒絶している。それはもちろん、自分を蝕む呪いから彼女を遠ざけるためであったが、事情を知らないウノは、心と心の間に深い溝を感じ、胸が押しつぶされるような苦しみに襲われた。


「どうしても……?」


 意図せず、縋るような口調になってしまう。


「ああ」


 揺ぎない決意を滲ませたアイザックの声は、尚も冷たかった。


 しばらくの間、重苦しい沈黙が二人の間を支配した。

 ウノは躊躇っていた。この胸の中にある疑問を口にすることを、迷っていた。


「アイザック……」


 愛おしいその名前をようやく口にすることが出来ても、話しかけた相手は黙りこくったままだ。

 このまま話を続けてよいものかと逡巡したが、ウノは意を決して先に続く言葉を紡いだ。


「あなたは何者なの? 本当に、ただの旅人なの?」


 確信を突くその問いに、アイザックの心臓は一際大きく跳ね上がった。

 自分なんかに心を許して、こうも慕ってくれる。単なる物好きな少女だと思っていたが、今の問いかけには心を突き動かされずにはいられなかった。


 アイザックは、揺れる水面を見つめたまま、そっと口を開いた。


「おれは――……」

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