第1話 腕の立つ東洋人

 ヨーロッパの某国である。

 海岸沿いにある田舎町には、N湾を望む高台の傍に、豊かな緑が生い茂った森がある。

 採貝さいばいが盛んでありながら、肥沃な大地で育つ新鮮な食物たち。

 緑が多く、人々の生活の中に満ちた大自然の香りに包まれたこの土地は、豊穣を齎す神の加護の下にあった。


 田舎町でありながら密集する村々には都会とはまた違った活気が満ち、そういった生き生きとした雰囲気が町を一層明るくする。


 白い雲の隙間から青空が覗く昼下がり、春を間近に控えた今日は、海からの潮風が少しだけ肌寒く、道行く人はシャツの胸元をかき合わせながら歩いていた。


 何代にも亘って歴史を刻んできた古き良き商店街が軒を連ねる大通りを歩く少女、ウノ・エレジーは、本日の仕事を終えて家路へと着いていた。


 ウノは中等教育の過程を修めると、進学をしないで、家から歩いて四半刻もかからないところにある知り合いの料理屋で、給仕人として働きはじめた。


 エレジー家の一人娘として生まれたウノは、自分の家が裕福でないことを幼い頃からなんとなく理解しており、義務教育が終わったら進学をせず自分も働こうと決めていた。


 だから、学校を卒業する年に母から「もっと勉強してもいいのよ」と提案を受けても、「もともとその気はなかった」と、進学に対して後ろ髪を引かれることは無かった。


 進学を選んだ友人たちはみんな都会の学校へ通うために町を出て行ってしまったけれど、休暇を利用して帰ってくると、ウノが働いている料理屋に顔を出して食事をしていってくれる。


 今働いている職場はとても楽しかった。小さな田舎町だけあって、来店する客の殆どは顔見知りだし、雇い主もウノが小さい頃から交流のある夫婦が経営しているため、職場に馴染むのも早かった。


 父と母も、彼女の勤め先の料理屋の並ぶ商店街でそれぞれ働いており、今日は二人とも帰りは夕方になる。


 ウノは労働の後の楽しみ、レモネードを作るために果物屋でレモンを五つ買うと、仕事の疲れを抱えながら商店街を後にした。


 商店街を抜けると、人気の少ない一本道が続いている。周囲を原っぱに囲まれた見晴らしの良い道をひたすら進んで行くと、森の近くに建つ丸太作りの家が見えてくる。そこが彼女の家だ。


 ……と、ウノは財布の中にある違和感に気がついて「あっ」と声を上げた。レモンを買った時のお釣りが多いことに気が付いたのだ。


「エレナさんってば、お釣り多いよ!」


 急いで踵を返して商店街へ引き返そうとしたウノは、振り向き様、後ろから歩いてきていた誰かとぶつかった。


「あ、ごめんなさい」


 慌てて謝罪したウノは、相手の顔を確認してさっと相好を歪めた。


「アラン……」


「やっぱりウノか」


 アランと呼ばれた少年は、ウノを見下ろしながらニヤリと笑った。

 ほっそりとした白磁のような顔と、彫りの深いシャープな目元、ほんのりと薔薇色を帯びた薄い唇が微笑むと、真っ白な歯が作り物のようにきちんと整列しているのが見えた。線が細く、その身体つきは男にしては華奢で、ギリシャ神話に出てくるナルキッソスを彷彿とさせる。まるで舞台役者の二枚目のような美少年である。


 その美貌は、隣町に住む女の子たちの間でも話題に上るだけあって、今みたいに口元に弧を描いて微笑むと、女性なら胸がときめいて仕方ないほどに綺麗な顔立ちをしている。なのに、ウノは彼のこの甘ったるく、それでいて相手を下に見るような笑顔が嫌いだった。


 彼は生まれたときからこの町に住んでいて、初等教育時代からのウノの学友であった。

 卒業後、みんなと一緒に都会の学校へと進学したのだが、三ヶ月ほど経った頃にいきなり退学して帰ってきた。

 今は実家の果樹園を手伝っており、時々こうしてばったりと出くわすのだが、彼女はアランが大の苦手であるため、全く嬉しくもない再会を果たしてしまったといえよう。


「仕事帰りかい?」


「うん……」


 ウノは俯いたまま頷いた。


「そうか。じゃあ、この後、暇? よかったら、K通りで一緒に夕飯でもどう?」


 頭上から降ってくる声は途轍もなく優しく、うっとりするほど耳に心地がいいのに、ウノは彼の言葉に頷こうとは思わなかった。


「いいえ、今日は、ちょっと……だめなの……ごめんなさい」


 ウノは形だけ頭を下げてこの場を後にしようとしたが、アランは彼女の腕をしっかりと掴んで、立ち止まらせた。


「待ってよ。今日くらい、いいだろ? いつもそうやって断って……」


「だって、本当に今日は駄目なんですもの」


「嘘だ。いつもそうやって嘘ついて俺を騙している、そうなんだろ?」


「だ、だって……」


 顔を覗きこんでくるよこしまな視線から逃げるように首を背ければ、アランはもっと顔を近づけてきた。


「ね、行こうよ。お金のことは気にしなくていいから」


「は……あ?」


 その時、初めてウノは背の高いアランの顔を見上げた。

 彼女の涼しげな水色の瞳に睨みつけられて、アランは思わず口を噤む。


「何よ、今の。私があなたについていかない理由が、お金のことだけだと思っているの? 財布は必要ないよ、って、そう言えば私が着いて来ると思っているの? 馬鹿にしないでよね。どうしてあなたみたいな、軽薄で、連れて歩く異性をアクセサリーか何かと勘違いしているようなナルシスト男にふらふら付いて行く女の子がいるのか、不思議でしょうがないわよ」


 全て言い切ってから、しまった、と思った。

 カッとなってつい、今まで思っていたことまで吐き出してしまった。

 おそるおそる、アランの動向を窺おうとすると、彼は穏やかだった相好を歪めて、ウノの薄っぺらい肩に掴みかかってきた。


「訂正してよ、今の言葉。いくらウノが相手でも、今の言葉は許せない」


「離してよ!」


 ウノは虚勢を張って抵抗したが、アランはそんな彼女の態度が気に入らなかったのだろう、さらに逆上して彼女の頬を平手で打った。

 まさか殴られるなんて思ってもみなかったウノは、びっくりして抵抗をやめた。

 今度はアランの方がしまった、と冷静になる番だった。彼女の肩を掴んだ感情的な手が、そっと下へおりた。


「……ご、めん」


 バツが悪そうにアランが謝るのと、彼の背後に伸びる道の向こう側から、四人の少年たちがぞろぞろとやってきたのは同時だった。


 大勢の気配に振り返ったアランは、


「お前ら……どうしてここに」


 と声を詰まらせる。


「よう、アラン。何してんだ、こんなところで」


 四人の中で一番背の高い、気だるげな顔をした少年が訊ねる。彼はウィリス少年といい、アランが束ねる不良チームの一員だ。


「何もないよ。行こうぜ」


 アランが彼らにそう促し、町の方へ向かって歩き出そうとしたが、彼らは立ち止まったまま動こうとしない。


「おい、行くぞ」


 と声をかけるも、四人はアランの脇を素通りして、呆然としたままのウノを四方から取り囲んだ。


 ウノは我に返って、自分が取り囲まれていることに気がつくと、「何よ」と凄んでみせる。


「ウノじゃん、仕事終わったの? 俺らと遊ぶ?」


 ウィリス少年がにやにや笑って言う。


「行かないったら」


 ウノは歯をむき出しにして突っ撥ねた。


「おい、やめろよ、ウィリス」


 アランは困り顔で言った。

 ウィリス少年は振り返って、声に出さず「なんで?」と首を傾げた。

 その間も、他の悪ガキたちがしつこくにウノに絡むので、ついに彼女の堪忍袋の緒は切れた。


「やめてって言ってるでしょ! 何なのよ、あんたら、鬱陶しいのよ!」


 その言葉と同時に、ウノの平手が、目の前にいた赤毛の少年の頬に炸裂した。


「このやろッ」


 赤毛の少年は左頬に紅葉型を貼り付けてウノに襲い掛かると、耳朶の辺りで切りそろえられた鳶色の髪を乱暴に掴みあげた。


「いたっ……」


「やめろ、その手を離せよ!」


 アランが焦って二人の間に入るが、少年は意地でも手を離そうとしなかった。


 容赦のない暴力に、ウノの瞳には涙が滲んできた。

 同じ年頃の少年たちに食って掛かって勝てないことも無いが、手を出してしまったのはまずかった。

 特にこの赤毛の少年は頭が悪い分、より感情的に喧嘩をする癖がある。相手が女の子でも、一度頭にきてしまうと、自分では押さえが利かなくなるのだ。


 ウノが、どうにかこの切迫した雰囲気を穏便に収められないかと策を巡らせていると、そこへ第三者の声が重々しく響き渡った。


「何してんだ」


 全員で声のした方を振り帰る。


「やめろよ。寄ってたかって女の子に手を上げるなんて、男としての品位を疑うぜ」


 そう言って現れたのは、夜空よりも黒い髪を高い位置で結い上げた小柄な青年だった。

 外套の上からでもわかる華奢な体格、象牙色の肌、彫りの薄い顔立ちは、彼に東洋人の血が流れていることを示していた。


 だが、彼の口から紡がれた言葉は流暢な英語である。


 黒曜石のような深みのある瞳と、意志の強そうな太い眉は、相対した人間に「只者ではない」と思わせるだけの力強さがあった。

 そして何より驚いたのは、外套の内側に隠れた細く締まった腰には、一振りの剣が携えられていたこと。ウノはそれを発見すると、思わず目を瞠った。


 全員が、彼の放つ威圧感に言葉を失っていた。

 その間に青年は、ウィリスたちの間をすり抜けて、ウノの傍までやってくると、きつく掴まれていた髪を解放し、彼女の肩を軽く押して「行きな」と囁いた。


 その時である。


 赤毛は、自分たちに背を向けた青年に、背後から掴みかかると、無理矢理自分のほうへ向かせて、至近距離から拳を振りかぶった。


「よせ、ロニィ!」


 そう叫んだのはアランだ。

 しかし、赤毛の少年――ロニィの攻撃は、東洋人には当たらなかった。彼の放った拳はぱしっと音を立て青年の掌で受け止められ、次の瞬間、ロニィは鳩尾に膝蹴りをくらった。


 一瞬、息が出来なくなったロニィは、身体をくの字に曲げ、よろよろと後退った。後を追うように青年の右拳がロニィの左頬を打つ。続いて左、右といくつもの拳を繰り出すが、明らかに手加減されており、その証拠にロニィはよろめきつつも決して地に腰をつけることはない。

 重さよりも素早さを重視した突きの数々は、少年に反撃する隙を与えない。


「なんだ、この土地の不良は思ったより手ごたえがないな」


 この言葉にムッとしたウィリスが二人の間に割り込んでくる。

 長い脚に遠心力を乗せた、重い中段蹴りが青年に向かって放たれたが、青年は軽々と飛び跳ねて攻撃を回避した。

 人間離れした跳躍力に、その場にいた全員が目を剥く。

 着地と同時に、今度はこちらの番だ、と青年の上段蹴りがウィリスの顎を蹴り上げた。

 これにはウィリス、勢いのままに背中から倒れこむ。が、その前に腕を掴んで引き起こされ、今度はその鼻っ面に頭突きを叩き込まれた。怯んだところをロニィに向かって突き飛ばす。

 二人は縺れ合いながら地面に倒れた。 


「もう終わりか」


 東洋人が眉一つ動かさず問う。

 不良たちはまるで言葉を忘れてしまったかのように、口を噤んだ。

 やがて、誰とはなしに踵を返して、この場から去っていった。ただ、アランだけは申し訳なさそうにウノを見つめてから、みんなの後を歩き出して姿を消した。


 たちまち静寂が訪れる。

 去ってゆく彼らの姿をぼんやりと眺めていたウノだったが、青年が口を閉ざしたまま自分のことを見ているのに気が付いて、はっと我に返る。


「助けてくださって、ありがとうございました。あいつら、私の同級生だった悪ガキたちなんですけど、どうしてか今日は執拗に絡んでこられて参っていたんです」


 彼は頷きもしないで、夜の泉のように濡れた瞳で、冷たくウノを睥睨した。

 ここら辺の土地に住まう成人男性よりはいくらか小柄な彼だが、ウノと並べばそれなりに身長差ができあがる。


 無口な人だなぁ、とウノは少し困ったが、何かを思い出したようにはっと飛び上がると、レモンの入った袋を持った右手で家の方を指差し、左手は青年に向かっておいでおいでと手招きした。


「あの、お礼します。私の家、ここからすぐなので行きましょう」


 青年はようやく口を開き、「いや、そこまでしてくれなくていい」と左右に首を振った。


「いいんです! お礼させてください。たいしたものは出せませんが……」


「しかし……」


「私は引き下がりません。というか、今更引き下がれません。お茶でも飲んでいってください」


 青年はその凛々しい顔に、薄っすらと困惑の色を浮かべながら、おずおずといった様子で首を縦に振った。



 ウノの家に向かう道すがらである。

 一緒に家に向かうことになったはいいが、あれきり彼は一向に言葉を発する気配がないので、ウノは持ち前のお喋り好きを惜しみなく発揮した。


 好奇心旺盛な年頃というのだろうか。ウノは自分のおしゃべりに彼が不快な表情を見せないのを良いことに、様々なことを訊いた。

 大抵のことは短い返事ながらに答えてくれたが、常にその顔はクールで、何を考えているのかわからない。


 完全に聞き手に徹する姿勢を貫いた青年と一方的なおしゃべりを続けていると、やがて正面に、丸太造りのかわいらしい家が見えてきた。所謂、ログハウスである。

「あれが私の家です」とウノが指を差して言う。青年は無言のままだった。


 ここでウノは、まだ自分が名乗っていなかったことに初めて気がついて、慌てて、「私、ウノ・エレジーです」と自己紹介した。


 青年は力強い瞳を、隣を歩くウノへ向け、大人っぽい低い声で応えた。


「おれに名前は無い。無名だ」


 感情の揺らぎも無い回答に、ウノはぼんやりと、その名前を呟いた。


「無名さん……」

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