アイザック―呪われた青年

駿河 明喜吉

序章 遥か昔の悪夢を見る

 今でも眠るときに目を閉じると、記憶のずっと奥底で砕け散る波の音が聴こえる。

 その記憶は音だけでなく、湿気を含んだ潮風の匂いまでも鮮明に蘇えらせた。

 吹き荒ぶ冷風が甲高い笛ののように聞こえる。


 右耳に押し付けられた温かい壁の奥から、切迫した鼓動が伝わってくる。


「…… …… ……、……」


 扉一枚を隔てた向こう側で聴こえるような声が、自分に向かって何かを語りかけているのがわかった。

 その声は低く、静かで優しい。それなのに、言葉の気配には残酷なほどの哀憐の情が漂っていた。


 そして、浮遊感。


 遠かった白波の破砕音が急速に近付いてくる。

 落水。

 地上の音が耳から遠ざかってゆく。

 吐き出した息が泡となって海面へと登ってゆく音だけが聴こえた。


 鼻から、口から、物凄い勢いで水が浸入してくる。

 息ができない。

 全てが凍てつきそうなほどに冷たい水が全身だけでなく、口の中から内臓を包み込もうと、肺腑の奥の奥まで足を伸ばす。


 助けて。息が出来なくて死にそうだ。凍えて死にそうだ。


 暗黒の中から骨と皮ばかりの死神の手が伸びてくる錯覚を見た。怖くて叫びだしたいのに、空気の無い水中は一向に戦慄を迸らせてくれない。

 声を紡がぬ口とは裏腹に、心の中は耳を塞ぎたくなるほどの兢々とした哀願に満ちていた。


 ――来るな、来るな、おれを連れて行くな。こんな寒いところで死ぬなんて嫌だ。どうしておれは死ななくちゃいけないんだ。こんなところで死にたくない、こんな死に方をするために生まれてきたんじゃない。助けてくれ、誰か、お願いだ。なんでもする。こんな恐怖の中で死ぬのは嫌だ。


 だれか、おれを掬い上げてくれ!


 意識が途絶えゆくその刹那。

 急に身体がぐん、と上に向かって引っ張られたような気がした。

 誰かが水を底へ向かって蹴る音がする。

 遠退きかけていた水面で、暴れまくる波の狂騒がすぐそこまで近付いてくる。

 ざばっ、と荒波の山脈の間から顔を突き出すと、自分の深い呼吸音と重なって、もう一人、おそらく大人の女性の呼吸と一緒に、こんな声が聞こえてきた。


「よかった! 生きているわ!」



 と呼ばれる海域がある。いつからそう呼ばれているのかは不明だ。

 周辺に住む人々は、その断崖で多くの人間が入水自殺を繰り返すことから、何かよくないもの――悪魔が棲み着いて、妖しげな術で人間を誘い込むのだと信じて疑わなかった。


 断崖の下を打ち付ける荒々しい波の音色は、永久に静寂とは無縁なこの場所に悪魔の哄笑の如く響き渡る。


 そんな恐ろしい逸話のある崖の上で、冷たい潮風に打ち付けられながら佇立する人影があった。


 今にも雨が降り出しそうな曇天の下、影は小柄な身に薄汚れた白い外套を巻きつけた姿でそこにいた。


 まるで己の心を投影したかのような空模様だ、と頭の隅で考えた。


 薄い唇をきゅっと引き結び、黒曜石のように深く澄んだ色の瞳で、眼前に広がる大海原と水平線の先を見渡している。


 響く波の音に耳を澄ませる。

 じっとりとした潮の香りを肺腑の奥まで吸い込む。

 真冬の凍った海の味を舌に乗せ、人のいない景色に目を向ける。

 吹き付ける冷風が頬を凍らせるようだった。

 五感をすべて自然界に集中させる。


 波の音と甲高い笛のような風の音だけが支配する世界に、静かだが、屈強な意志を感じさせる声が響いた。


「ここで死んだ多くの魂よ、あなたたちの敵はおれが取る。あいつの歪んだ欲望から唯一生還したおれが、あなたたちの無念を晴らしてみせる」


 白波の破砕音は、あの時と変わらない。

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