第3話

 目を通していたアリーシャの日誌の表紙をエドガーは閉じた。


 可能な限り彼女の日誌を読んだ結果、錬金術の研究内容については、素人には理解できなかったが、日常的な部分については問題なく、いくつかのことが解った。


 アリーシャの肉体は約一年周期で初期化され、一四歳に戻るらしい。また、死んでしまっても同じことが起こるらしい。記憶も戻ってしまうため、彼女は日誌という形で記憶を保存しているようだ。


 エドガーは目頭を抑える。伝奇小説のような事実に精神の疲弊を感じた。


 これは幼い少女の妄想の類いではないだろう。少ししか言葉を交わしていないが、アリーシャが理性の光で現実を照らす気質であることは解っていた。


 父親に行われた行為の結果を、彼女は自分自身の肉体で試したのだ。幼気いたいけな少女のままで止まっているはずの精神で繰り返された、常人ならざるは、内語で想起することも憚られた。


 手に取っていた本を棚に戻す。同じ意匠に装丁された本は、六冊あった。


 彼女の研究の目的は、自分の身体を元通りにすることであり、失踪した父親に関することも含めて、それ以外には特に興味はなさそうだった。


 こればらば、〈天才〉の〈教科書〉としては恒久的に残るが、一年ごとにやり直す必要があるので欠陥品だろう。今まで〈智慧の樹〉が興味を示さなかった理由は、おそらくそれだ。しかしそれでも、彼女の頭脳には莫大な価値がある。むしろ、死で失う心配がないのならば、〈天才〉が失踪した今、組合にとっては彼よりもぐらいだろう。


 不死であり、〈天才〉の技術を理解できるアリーシャを手に入れれば、〈智慧の樹〉は恒久的に組合を存続させられる。もはや、〈智慧の樹〉は自己存続のためだけに奔走する、利己的なモノに成り下がっている。


 今や、疑念は確信に変わっていた。


 エドガーは腰の隠しに手を入れ、その中にしまっているものを取りだす。ずしりとした金属の重さとともに冷たさが掌に収まる。


 荷馬車の御者には、見栄のための鎖だけの装飾品と答えたが、エドガーは懐中時計を持っていた。ただし、その盤面の針は動かず、時を刻むことはない。


 それは事故で死んだ父の形見だった。


 修理に出すこともできたが、今までなぜか父が死んだ時刻を保持したままの懐中時計を持ち歩いていた。その理由が何となく解った気がする。


 これは父がこの世にいた証なのだ。父の似姿は〈智慧の樹〉にあるが、あれはモノで、ヒトであった肉親がいたことを、はっきりとした形で遺しておきたかったのだ。時計が再び自分の手中で動き出したら、それは自分の時間になってしまう。


 そうすれば、この世にあった父の証跡が失せる。世界の中で、〈智慧の樹〉にある亡霊が存在感を増す。やがて、父のように話し、父のようにふるまい、父のようなが、かつて父がいた領域を侵蝕してしまうだろう。


 エドガーは、それがたまらなく嫌だったのだ。


 だが、これは呪詛だ。


 心の底では認めていないくせに、〈智惠の樹〉にある父の亡霊に従っているのは、そのほうが安心するからだ。擬きとは言え、父を模倣したものであることには違いない。だからこそ、否定も肯定もせずにいた。


 曖昧である限りは、何も定まらない。


 そうして、自身の裡で父が死んでいるような生きているような状態を保っていた。事実の光が結ぶ象をすりかえて、心地よい真実にしていたのだ。


 いつまでもこの世に故人を遺そうとし、執心し続けた挙句に自分が一歩も進めていない。皮肉にも、未来を示さない懐中時計は、そのまま過去を象徴している。亡き父親に憑りつかれたまま、エドガーの時間は止まっているのだ。


 そういう意味では、父に不死を与えられ、それに抗うアリーシャは、公約数的にエドガーと似ていた。


 がちゃり、と扉の開く音がし、反射的にエドガーは懐中時計をしまう。


 アリーシャが戻ってきていた。事実を知った今、彼女の印象は見た目の幼さ以上に、脆そうに見える。表に出そうな感情を、この場での己の責務でエドガーは覆い隠した。


 両腕でアリーシャは何かを抱えている。握り拳程の大きさで五本の糸が垂れた、木製の歪な球体のようなものだ。彼女は謎の物体を床に置き、自信満々に小さな胸を張る。


「これは、私が独自に生体を研究して造った、電気的な筋肉の動作を再現する模型だ。実演してやろう」


 アリーシャは球体から伸びる五本の糸を自分の右手の指に一つずつ着けていく。糸の先は、指貫のようになっており、糸繰人形のようだった。


「見ていろ」


 にやりと笑いながら、彼女は指を波のように動かし始める。すると、不思議なことに球体が花のように開いた。いや、花ではなく、手だった。木製の球体は握りしめた掌の形をした模型だったことに、ようやくエドガーは気がついた。


 茶色い角ばった指は、アリーシャの指の動きに合わせて、一寸の狂いもなく連動している。糸繰りをしているにしては、糸が模型に動きを伝えている様子はなく、弛んだままだ。


「これは……」

「私の指に流れている電流に反応して、まったく同じ動きをしている。極めて微弱な電流を損失させることなく伝達する金属線に、その電流の発生形式を分析し、掌の動きを再現するために微小部品が美しく複雑に絡みあった、手作業では構築不可能な内部機構! まさに天才の業だろう」


 がちゃがちゃと音を立てながら床を這う、木でできた掌を見つめていたエドガーは、訊いた。


「何の役に立つんですか?」

「え? 動くだけだよ? 凄いでしょ」

「気持ち悪いだけですね。一銭にもなりません」

「この天才的な一品の価値を理解できないだと、この蒙昧主義者め!」


 そうは言われても、奇怪な甲虫のように床で蠢く品は、とても商品になるようにも、社会貢献する技術にも思えない。精々、子供の玩具といったところだろうか。そんなものでは、成金の好事家ぐらいしか買い手がつかない。


「そうですね、こちらを買い取らせていただいたとして……価値はこの程度でしょう」


 アリーシャに向けて、エドガーは指を三本立てて見せた。不満そうな表情を作り、彼女はがちゃがちゃと木製の掌を動かしながら、鼻を鳴らした。


「三〇〇万か。桁が一つ足りないように思うが、凡人の理解力ではそれが限界か……」

「いえ三万です」

「三万!? たったの?! さては貴様馬鹿だな!!」


 アリーシャは驚きと怒りの混じった顔で、こちらを指差した。床で木製の模型が彼女の手と同じ動きをして、自立できずに転がる。


「いいか、この模型の中に詰まっている技術は、まだ誰も実用化していないものが、ざっと十はある。それをたったの三万で買い上げようだなどと、蒙昧主義の極みだ!」

「新しい技術には価値がありません。そもそも、〈天才〉と称された貴女の御父上が、次々に新技術を生みだすため、すでに専売条例は崩壊しているのです。なので、『技術の価値』は術師の共同体の中でしか成立しません。我々が求めるのは、『技術』ではなく『商品』です」


 端的に言いますと――エドガーは床に転がる模型へ目を落とした。


「一般受けするものを作ってください」


 こちらの言葉に「ん?」とアリーシャは首を傾げた。


「やはり貴様馬鹿か? 。街で見せたら大喝采は間違いない。オリビアにも受けたぞ」


 心の底から不思議そうに、アリーシャは言った。


 対してエドガーは絶句する。目の前の少女は、本気で自分の作品が、他人に理解される前提で話している。傍目にはちょっとした手品にしか見えないものが、『技術』として大衆に受け入れられると信じている。つまり、自分に対する絶対的な自信があり、なおかつ誰もが錬金術への知見があると思っているのだ。


 エドガーとて仕事柄、一般人よりは錬金術については知っている。だがそれは、異国語の語彙があるという程度のものだ。読み書きできるほどの知識もない。そしてアリーシャは、誰もが『錬金術』という異国語で読書し、会話できると思っている。


 とどのつまり、


 頭を抱えそうになるのをエドガーは必死に堪える。


 考えてみればそうだろう。〈天才〉の娘で、自身も錬金術師。しかも部屋の様子を見るに、都会から離れた田舎で引きこもって生活しているのだ。それでいて、父親は〈天才〉と呼ばれ、惜しみない称賛を送られている。自分と同じ水準で、親の偉業を世間が理解していると思いこんでいるのだ。


 アリーシャがやたらとこちらを馬鹿にするのは、彼女の中では知っていて当然の知識を相手が持っていないからだ。錬金術を識字する彼女からすれば、文盲に見えるだろう。


 エドガーは思わず相手から目線を逸らす。悲運の環境が生み出した、愚かな賢者にかけるべき言葉が見つからなかった。対するアリーシャは、急に黙りこんだ相手へ怪訝そうな視線を送ってくる。


「どうした、己の無知さを理解したか? ならいい、話の解る人間を新しく寄越せ」


 そんな人間はいない。〈天才〉の娘と対等に会話できるほどの知識を持つ人間が、世の中にどれほどいるのだろう。ましてや、自分以外にアリーシャを担当させる気は、エドガーには毛頭ない。組合の他の人間は、〈智慧の樹〉に命じられれば、言われるがままにするだろう。金の問題を金以外で解決させるのは、己の信条に反する。だから、ここに来たのだ。


 ゆえに、何としてもアリーシャに金になるものを提供してもらう必要があった。

 歯切れ悪くエドガーは言う。


「……申し訳ありませんが、貴女の担当はわたしです。わたしの査定に従っていただく必要があります。そちらの模型では明らかに価値が不足していますので……そうですね、何か新しい作品を作ってください」


 アリーシャは「はぁ?」と眉を顰め、こちらを小馬鹿にするようにそっぽを向いた。


「何で私がお前のような馬鹿の言うことを」

「無理ならば差し押さえでも構いませんが」

「……い、いいだろう、馬鹿にも価値が解るものを作るなど造作もない」


 錆びた蛇口の栓のように、アリーシャは首をこちらに戻した。


 アリーシャは模型を繰るのに使っていた指貫を外す。床で遊ばせていた木製の掌を、近くの本の山の一つに片づけた。こうして部屋は汚くなっていくのだろう。


 とは言ったものの、とアリーシャは話す。


「錬金術とて万能ではない。いかに私が天才といえども、さすがに無から有は生みだせない」

「どういうことでしょうか……」


 こちらを侮蔑するように、アリーシャは表情を歪める。


「察しの悪い男だ。材料がない、と言っている。新作を作るのには時間がかかる」

「つまり?」

「また今度来て」

「わかりました。差し押さえの準備を進めておきます」

「ちょっ、待て、待て待て、待って!」


 エドガーが踵を返す前にアリーシャが飛びついてきた。反応が早くなっている。天才の順応性だろうか。


 服にしがみつかれて生地が傷むのを嫌ったエドガーは、帰路に向けていた足を止める。


「ですが、提供していただける商品を作っていただけないのでは……」


 引き留めに成功したアリーシャは、乱れた外套を着なおすと、小さく咳払いする。


「い、いいか? 何も解っていないようだから、きちんと説明してやる」


 特別だぞ、と言いながら、アリーシャは部屋の隅に向かう。そこには、脚に移動用の車輪コロのついた黒板が置かれている。おそらく、研究内容の一部なのだろう、エドガーには落書きにしか見えない図形や数式が板面に書かれている。


 アリーシャは周囲のものをなぎ倒しながら、小さな体で黒板を押してくる。こちらの前にまでくると、板書されていた内容を掌でこすって消しはじめた。だが、途中で上部に背が届かなくなる。背伸びして消そうと何度か頑張ったようだが、諦めて何事もなかったかのように、残った板書を放置した。


 短い白墨を手に取り、彼女は黒板に何かを書きつけ始める。


「錬金術は、その辺のがらくたから何でも作りだせるわけではない。きちんとした力の循環に則っている」


 言いながら、アリーシャは木と角材と椅子の絵を上から順に描いた。そして、その脇に下向きの矢印を書き、『力の流れ』とつけ加える。


「その力を、私たち錬金術師は《想価》と呼んでいる」

「想いの価値、ですか……?」

「市場経済の働きで《物価》としてモノの値段が定められるだろう。モノに対して、《想価》は錬金術師の経済で定められた、コトの値段と思え」


 アリーシャは、さらに黒板に書き加えながら説明する。


「木から椅子を作るには、人手が必要になる。そして、それと同時に『金の流れ』が生まれる。簡単に言えば、錬金術師は金の代わりに『力の流れ』で木から椅子を作る。ただし、《物価》は市場経済で定められた価値で、金とモノが交換される相対的なものだが、《想価》は力が消費された分だけ、コトの価値が下がる絶対的なものだ」


 アリーシャは黒板に描いた木と角材の間に『林業』、角材と椅子の間に『職人』という文字を追加する。その横に、木から椅子へ矢印を繋ぎ、そこに『錬金術師』と書いた。


 木から椅子を作るには、人の仕事が発生し、そこには価値がある。だから当然、金の流れが発生する。基本的な経済の流れだ。対して錬金術師は、人の仕事を独自の経済理念――おそらくそれが術式――で運用し、一人で木から椅子を作りだせる、ということなのだろう。そしてその時に消費されるのは、『金』ではなく『力』、かかる価値が《物価》ではなく《想価》という概念で決まっている。


 エドガーは器に湛えられた液体を想像する。


 自分の持つ器の中にある液体を誰かの器に移すと、その量に見合った物を手に入れられるのが《物価》だ。一方で、器の中から液体をすくうと、それがそのまま量に見合った物になるのが《想価》なのだろう。


 等価交換と絶対消費。それが二つの価値の違いだ。


 エドガーが理解に努めている間にも、質問の時間すら与えずにアリーシャは説明を続けていく。


「想いは移ろいやすいものだが、長い時間をかけて蓄積された想いには、価値が宿る。自然の風景に心が動いたり、使いこんだ道具のほうが手に馴染んだりするだろう? これが錬金術師が扱う『力』の正体だ。もちろん、価値の消費は避けられないから、元になった想いは脆化する。代わりに新たなモノを生みだすというわけだ。つまり、錬金術の基本は、だ。《想価》の高いものほど、錬成時に複雑な加工を施せる」


 アリーシャは白墨を黒板の粉受けに戻すと、手についた粉を叩いて落とす。


「そういうことだ、解ったな?」

「……アリーシャさんの手元には、錬成に使える《想価》のあるものがない、ということですね」


 エドガーの言葉に、アリーシャは腕を組んで満足げに頷く。


「そうそう、そういうこと」

「つまり、無一文の錬金術師である、と」

「やかましい! 他に言い方があるだろこの蒙昧主義者め!!」


 外套の袖をばたつかせながら怒るアリーシャを他所に、困ったことになった、とエドガーは頭を悩ませる。


 このままでは、アリーシャから取立が行えない。既存の作品も、彼女の感性から作られたものには、ほぼ期待できないだろう。当座に間に合わせるならば、機材を差し押さえればいいと考えていたが、今後も継続的に返済をしてもらうことを考慮すると、それは悪手だろう。


 煮え切らない状況に対して、取れる手段は一つだけだった。


 アリーシャの能力を活かしながら、売れる商品を作ってもらう。


 エドガーが、彼女の作品作りを監督するしかないのだ。


 しかし、材料がないというのは根本的で致命的な問題だ。聞くに、希少品や高価な貴金属があればいいのではなく、《想価》という錬金術特有の材料が隘路だ。エドガーも、それなりの人脈や資産を持っているが、これは人でも金でも解決できないことだ。《想価》とは、端的に言えば思い入れから生じる特称的な性質だろう。


 それはつまり――心の価値だ。


 ふいに、しまいこんだ父親の形見の重さを感じた。


「……アリーシャさん、こちらは材料に使えないでしょうか」


 心。ならば、時を止めて歩みを止めていたものでも、変わりはない。


 エドガーはもう〈智慧の樹〉との決別を自覚している。だからこそ、先に進んでいくためにも、壊れた懐中時計は不要だった。《想価》があるかもわからないが、ないよりはましだろう。自分が大切にしているのものを提供すれば、物品の本来の価値よりも高価なものとして、この場で取立できる。


 払う費用としては


「ん……懐中時計か? 水晶式ではなく、発条ぜんまい式とは随分と古い型だな。しかも何だ、壊れているのか」


 差しだされたものをアリーシャはまじまじと眺める。掌の中にあるものを覗きこむ様子は、犬か猫のようだった。興味を持ったのか、彼女は懐中時計を手に取り、子細に観察を始める。


「珍しいな。物理的に故障しているのではないのか、香箱車の動力が切れている。『石』を使い切ったのか……? いや、発条巻き程度なら、百年は余裕で持つはずだしな……ん? あぁそうか、想価絶縁が不十分なのか、二流の作品だな。『石』の動力が漏出したんだな」


 何やらぶつぶつと呟いていたが、懐中時計が動かない原因が解ったらしい。途端にアリーシャは興味を失った風になり、こちらに言う。


「しかし、何でこんな壊れた時計を持ち歩いているんだ?」

「それは……」


 父の形見、という言葉をエドガーは呑みこんだ。


「……都会では見栄が必要なんですよ」


 遺品だと告げられても、言われたほうは困るだけだろう。余計な情報を与えて、アリーシャの邪魔をしてしまいたくはなかった。


 アリーシャは肩を竦めて鼻で笑う。


「蒙昧主義の極みだな。そんなことのために非実用的なものを持ち歩くのか。一応、調べてもいいが、こんながらくたには大した《想価》の量は期待できないぞ」

「構いません。貴女の腕なら当然、元の価値以上のものを作れるのでしょう?」


 半ば煽るように言う。さすがに露骨すぎただろうか、とエドガーは思ったが、アリーシャは得意げな笑みを浮かべる。


「当たり前だ。何せ私は天才だからな」


 思ったよりも素直な反応に、少し面食らう。親に褒められた子供のようだった。


 その様子を、そうか、とエドガーは自己完結で納得する。


 アリーシャは認められたことがないに違いない。何せ父親が〈天才〉だ。彼女の能力がどれほどか知らないが、同じ畑で努力をしても、その先には必ず父の影があるだろう。努力が実っても、すぐ近くにもっといい成果があるのだ。世の錬金術師たちも〈天才〉に追いつくのを諦め、与えられた技術を理解することで、術師としての理性を保っている。その実子である彼女は、殊更に承認欲求は強いだろう。


 これは使


 率直にそう考えた。


 大衆的感性の欠如したアリーシャを制御する手綱としては申し分ない。口八丁で何とかなるのであれば、費用対効果も十分だ。


 となると、あとは彼女に作ってもらうものを、に寄せるだけだ。


「そうですね……とはいえ、材料を提供した手前、作ってもらうものは指定させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

「えー……私の作るものなら何だって価値あるぞ……」


 思った以上に解りやすく嫌そうな顔をされた。しかし、彼女の作るものだから不安しかない。ここは一つ、手綱を引いておく必要がありそうだった。


「アリーシャさんほどの錬金術師に何かを作ってもらえる機会は、そうありません」


 実際は彼女の腕前などエドガーは知らない。


「わたしとしてはこの機会に、わたしの欲しいものを作っていただきたいのです」


 もちろん、作ってもらった作品はあとで売却する。


「本来はいけないのですが、もしもこちらの要望をお聞きくだされば、その分、取立については融通させていただきます」


 作品の売値から彼女の借金を引くだけだが。


「どうか、是非」


 こちらが提供した材料は、今後、彼女と良好な関係を築くための先行投資と考えれば、釣りがくる。


 さて、とエドガーは相手の表情を窺う。そこそこに押してみたが、どのくらいの効果があるだろうか。


「そ、そう……? じゃ、じゃあお前の要望を聞こう。そこまで言われたらな、お前がな、断ったら可哀想だからな、特別に聞いてやろう!」

「ありがとうございます」


 彼女の将来が不安になる扱いやすさだった。


 隠そうとしているのだろうが、アリーシャは口元のにやけを押さえ切れていない。嬉しさの表れなのか、片腕を振っている。外套の余った袖が揺れる様が、犬の尻尾のようだった。


 アリーシャは振っていた腕をこちらに向けた。袖に隠れて判らないが、おそらくこちらに指を差しているのだろう。


「それで? 何を作ってほしいんだ」

「せっかく懐中時計をお渡ししたので……『新しい時計』を作ってください」

「いいだろう、新機軸の時計を作ってやる!」


 注文していない要件を勝手に増やされた。普通の時計は作ってくれないらしい。


「じゃあ、さっさと作るか」


 そう言うと、アリーシャは近くに積んであった本の山の上に周りの本を上乗せして、さらに高い山にする。自分の胸元ぐらいの高さになった本の上に、彼女は懐中時計を置いた。


「それは……何をしているのですか?」

「ん? 錬成の準備に決まっているだろう。見てわからないのか」


 わかるわけがない。ただ本を積んでその頂上に時計を置いただけなのだから。


「何か器具を使ったりはしないのですか?」


 部屋の中には、そこら中に硝子製の実験器具らしきものがある。エドガーは錬金術師が実際に錬成を行うところを見たことがない。てっきり、怪しげな道具や薬品を使うものだとばかり思っていた。


 アリーシャが呆れたような顔で言う。


「まさかお前、あれか。哲学者の卵を入れた錬金炉でも使うと思ったのか」

「……それが何かは知りませんが、おそらく仰る通りです」

「馬鹿馬鹿しい。お前が抱いている印象は、錬金術の黎明期において、才能のない連中が神秘主義に逃避したものが後世に伝わった御伽噺だ。錬金術は誰にでもできるが、できない奴には一生できない、れっきとした技術だ。器具を使うのは、物質の組成や反応を調べて理解を深めるときだけだ」


 アリーシャは外套の袖をとまくり、華奢な白い細腕を露わにする。袖が戻らないように両腕とも革帯で固定すると、こちらに言う。


「ちょうどいい。見せてやる、錬金術の基本にして最奥の術を」


 アリーシャは懐中時計の上に右手をかざす。数秒、そうしていたところで、つい、と中空で何かをつまむように手を動かした。視界に違和感を覚え、エドガーは目を凝らす。気のせいだろうか、アリーシャの指先に白い糸のようなものが見えたように思う。


 何かを指先で掴んだようにしたまま、アリーシャは宙に円を描き始める。小さく描いていた円を、彼女は段々と大きくしていく。最初は指先だけの運動だったものが、手首を使い始め、やがて腕まで動かしていく。


 そこで突然、手元を見据えたままアリーシャが訊いてくる。


「なぜ市場では果実か売られていると思う?」


 急な質問に意表を突かれながらもエドガーは答える。


「それは……美味しいから、でしょうか」

「そうだ、『美味しい』からだ。それが果実に宿る『価値』だ」


 価値。この場に何度も現れた言葉だ。その意味するところが繋がってきたのは、《想価》しかない。アリーシャは今、不可解な動作で価値を操っているのだろうか。


「果実は食べたり、傷んだりすると、その価値がなくなる。それは価値を守る〝殻〟が失われたことを意味する。だが、もしもその〝殻〟を人工的に用意できたならば、価値の保存が可能となる。《物価》が貨幣によりされたようにな」


 十分に大きな円を描いたところで、アリーシャは手を止めた。そして、両手の指先で何かを掴みながら、引き延ばすような動きをする。


 延ばした何かを左手でつまむと腕を横に振り、空いた手を鋏のようにして右端で何かを切る。続けて縦に同じ動きをし、また横の動きに戻る。その動きは、一定の範囲を定めて行われているようだった。


 その動きは東洋の呪いである、『九字を切る』という動作に、ちょうどよく似ていた。


 アリーシャは同じ動きを繰り返しながら話す。


「錬金術の基本は、価値を操ることだ。だから、価値を知覚できなければならない。その価値を知覚する感覚を、錬金術師は《哲学者の眼》と呼んでいる。大仰な名前だが大したことはない、訓練すれば誰でもできる技術だ。だが、どうしても眼をない奴も中にはいる。そういう連中は、錬金術師にはなれない。どうだ、お前にもそろそろ見えてくる密度になってきたはずだ」


 言われ、エドガーはさっき自分が見た糸が見間違いではなかったことを知る。


 アリーシャの細い少女の指は、いつの間にか白銀の糸を繰っていた。左手には糸で編まれたと思われる布――いや、掌に収まる水晶のような薄板があった。縦横に腕を動かす動作は、白銀の糸で水晶の薄板を織るためのものだったのだ。


 アリーシャは水晶の薄板を何枚か作ると、白銀の糸で重ねて縫っていく。それを何度も行い厚みを増していく。柔らかに見える白銀の糸から、透き通っているが固さのある薄板ができあがり、それが層になって一つの結晶のようになっていく。まるで、空間に銀細工を施してでもいるかのようだった。


「モノに宿る価値を抽出し、物質の〝殻〟で守られていたを、拡散しないように周期的な流れとして固定する」


 少女の指が白銀の糸を紡ぎ、水晶の薄板を織り、結晶を縫う。幻想と呼ぶには現実的で、日常と呼ぶには神秘的な光景だった。


「つまり、力の物質化――《想価》の結晶、すなわち《賢者の石》だ」


 あっという間に、アリーシャの手元には白銀の結晶が収められていた。


 拳ほどの大きさのある結晶が、壊れた懐中時計から生みだされたのを目の当たりにし、エドガーは言葉を失う。対するアリーシャは無言で得意げな顔をしていた。


 数秒、沈黙が続いたかと思うと、アリーシャが大きく声を上げた。


「って、何だこれは!? 大きすぎるぞ、この《賢者の石》?!」

「えぇ……ご自分で作ったのに何を……」

「いやいやいや、だって壊れた懐中時計からこの大きさが抽出できるなんて思わないだろう! 何を渡したお前!! こんなの十数年級の《想価》だぞ!?」


 エドガーは目を瞠る。父親が事故死したのは、ちょうど十五年前だ。それから、ずっと壊れたままの懐中時計を持ち歩いていた。


 誤魔化すようにエドガーは嘘を吐く。


「何分、中古品として入手したものなので、前の持ち主の《想価》ではないでしょうか」


 違うことはエドガー自身が一番よくわかっている。自分の父が懐中時計を使っていた時期はもっと長い。合理的な父は、懐中時計を愛用していたわけではなく、ただ壊れなかったから使い続けていただけだ。日用品に思い入れを遺すような人ではなかった。


 つまり、懐中時計に宿っていた《想価》の由来は一つしかない。


 ――あぁ、こんなにも大きかったのか。


 想う。なればこそ、余計に〈智慧の樹〉を認めるわけにはいかなくなった。


「えー、本当にー……? 何か危ない代物とかじゃないだろうな……まぁ、お前の持ち物だから詮索はしないでおいてやるが……」


 こちらに疑いの眼差しを向けながらも、アリーシャは不承不承と納得した素振りを見せる。


「とにかく、これならば材料としては十分だ。この大きさの《賢者の石》と私の腕があれば、時計など余裕で錬成できる。画期的かつ斬新なものを期待していいぞ」


 にやりと笑うアリーシャに渋い顔でエドガーは応える。


「いえ、普通でいいのですが」

「遠慮するな。私の作品だぞ?」


 だから止めてほしいのだ。しかし、持ちあげて煽った手前、そうとは言えない。


「さて、これだけの《賢者の石》があるなら、色々と細かい作業は省けるな。贅沢に行くぞ」


 アリーシャは、エドガーがここに訪れてから一番機嫌が良さそうだった。よほど《賢者の石》の大きさがよかったのだろう。無意識だろうが、鼻歌を歌っている。


「その……《賢者の石》はどう使うのですか?」


 エドガーの問いに、アリーシャは鼻歌を止める。小首を傾げ、「んー」と声を出して少し考えこむと、こちらに歩いてきた。


「手伝いついでだ。持ってみろ」


《賢者の石》を持った手の甲を上にしてアリーシャは突きだしてくる。仕方なく、エドガーは少し屈み、彼女の手の下へ手で受け皿を作った。


「ほら」


 アリーシャが《賢者の石》を放す。大きな結晶を受け取った次の瞬間、エドガーの腕は跳ね上がっていた。自分の意思とは無関係に動いた腕に瞠目しながらも、すぐに原因はわかった。


《賢者の石》が見た目よりも軽かったのだ。無意識に計っていた重さとの落差で、腕に込めていた力が勢い余り、腕が跳ねたように感じたのだ。


 自分の手に収まった結晶を、驚きとともにエドガーはまじまじと見る。


 軽い、というよりも、重さがなかった。羽のように軽い、という比喩が誇張ですらないほどに、触感がなければ自分の手が石を持っているとは思えない。手で触れた感覚は確かに硬い石であり、重心もあるため密度もある。温度はまったくなく、温かさも冷たさもない。直感に反する物質に、感覚が混乱していた。


 こちらの様子を見ながら、アリーシャが意地の悪い笑顔を浮かべていた。


「驚いたか? 純粋な力など手に持ったことはないだろうからな。《賢者の石》は物質化した力だ、その大きさなら軍用爆薬一キロ分ぐらいあるが、それでも質量にすると――んがっ?!」


 呻いたアリーシャの声で、エドガーは我に帰る。無意識に彼女の鼻を摘んでしまっていた。


「何をするんだお前!」

「失礼しました、貴女の得意げな顔に腹が立ってしまい、つい……」

「ついじゃない! 理性というものがないのかお前には!!」


 怒るアリーシャはエドガーの足を執拗に蹴ってくる。しかし、見た目通りの貧弱さで、大の男に痛みを与えることはできない。


 彼女の足に体を揺らされながらエドガーは言う。


「いえ、本当に申し訳ございません。とても」

「余裕の顔なのが腹立つー!! このっ、このっ」


 アリーシャは何度も蹴りを入れるが、エドガーの顔色は変わらない。小動物が足に絡んできたようにしか感じない。彼は甘んじて暴力を受け入れていたが、そのうちに体力のないアリーシャが音を上げた。


 俯いて肩で息をする彼女の隣で、エドガーは服の汚れを払う。


「ところで、先程、手伝いと仰いましたが、わたしは何をすれば?」

「……ん? あぁ、簡単だ。《賢者の石》を持って私の横に立っていればいい」

「それだけですか?」

「それだけだ。ただし、私は集中するから、私の手が届くように持っておくように」


 要求の意味はよくわからなかったが、今更のことでもあったので、エドガーは大人しくその言葉に従った。


 アリーシャに指示され、言われた通りに《賢者の石》を持って彼女の横に立つ。


「ちなみに、貴女の手元が狂うと……」

「《賢者の石》の『力』が暴発して爆発する」

「なっ」

「普通は専用の三脚台で固定するんだがなー、どっか行っちゃった」


 非難の声を上げようとしたが、エドガーは思い留まる。正体もよくわからない爆薬を持ったまま、不用意な動きを取りたくなかった。かわりに人生で未だかつてないほどの直立不動を心に誓う。ここまでの決意は組合に入ることを決めたとき以来かも知れない。


 準備ができたのか、彼女は本の山の頂点に置いた懐中時計に向き合うと、そのままこちらを見ずに《賢者の石》に手を伸ばす。


 細い指が、つつ、と白銀の結晶の上を伝う。すると、まるで乳状液であるかのように、結晶の一部がその指先に


 驚いて息を呑みきる前に、アリーシャはさらに驚くべきことをする。掬った《賢者の石》――もはや透明な軟膏のようなそれを石と呼んでいいのかは判らないが――を、壊れた懐中時計に塗りこんだ。綿が水を吸うように《賢者の石》が時計の表面に溶ける。そして金属片がちらばる音がした。


 懐中時計が、瞬きの間にばらばらに分解していた。


 一時に目を疑うことが続いたせいで、エドガーは呼吸を忘れる。不満を上げた肺に無意識が従い、ひゅうっ、と自分でもびっくりするほどの音で息を吸いこんだ。


 しかし、アリーシャはそれを気にする素振りも見せずに、すでに作業に没頭していた。もはや、文字通り周りが見えていないと言っても差し支えない集中力だ。


 分解した時計の部品と彼女の指は、いつの間に白銀の糸で繋がっており、彼女が動かす五指と連動して跳ねる――いや、宙に浮いていた。


 もはや驚きすぎて、自分の感情が何なのかエドガーにはわからなくなっていた。一番近いのは、驚嘆だったのだろうが、混乱と感動のようなものも混ざり、言葉も出せずにただ目前の光景に目を奪われていた。


 アリーシャの指から伸びた糸に繋がった時計の部品は、糸繰り人形のように動く。時折、《賢者の石》を指先で掬って追加しつつ、始めからそういう部品であったかのように、形を変えていく。


 時計の動力が収められた一番大きい歯車である香箱車から、まったく同じ形をした小さな歯車が削りだされ、それに連なり噛みあっていた三枚の歯車も、同じように縮尺を小さくしたものが、元々の部品から新たに作られていく。


 順番に噛みあい輪列した歯車が動力を渡す先には、時計の心臓部たる脱進機がある。かぎのついた歯を広めの間隔で持っている雁木がんぎ車が二又の錨状の部品に引っかかり、小さな重しのついた車輪が往復回転運動をしながら、細く小さな髭発条の収縮で振り子のように一定間隔で動作する機構だ。


 時計の精度を決定する脱進機は、歯車の分と秒の回転数を決定する、精密で小型の部品の集まりだ。それなのに錬金術師の少女は、まるで積み木で遊ぶかのように素早く気軽に、金属部品を小さく削りだして組みあげていく。空中で小さな精密部品たちが互いに噛みあい、乱れなく一つの機能を構築していく様は立体的な嵌め絵のようで、奇妙な爽快感があった。


 小型化していく時計のかたわらで、懐中時計を吊るしていた鎖がほどかれていく。金属の短い棒が大量にできたかと思えば、それらは薄く引き延ばされてすだれ状に編まれていき、二本の金属の帯に生まれ変わった。


 金属帯はいつの間にか組みあげられていた時計の上下に溶接され、余った端には留め具のようなものが取りつけられた。ここまでくると、時計をどんな形にアリーシャがしようとしているのか、エドガーにもはっきりと判った。


 空中で構築されていた時計を、アリーシャは自分の掌に落とす。金属帯の端を片手でつまみ、ぶら下げながらしげしげと眺めると、ふむ、と小さく息を吐いた。


「できたぞ。ほら、着けてみろ」


 そう言って、アリーシャが手渡してきたのは、確かに時計だった。


 だが問題は、


 掌と同じくらいあったはずの懐中時計の文字盤は三分の一ほどになっている。しかし、エドガーが提供した懐中時計のものであることには間違いなかった。玩具のような小型の模型じみているが、しっかりと動いている。そっと耳元にやると、ちちちち、と確かに歯車の回っている音がしていた。


「その……すみません、アリーシャさん。こちらが時計なのは解るのですが、この金属の帯などはどのようにすれば……」

「んん? 何だ、見て解らないのか。もうしょうがないな、貸してみろ」


 掌を突き出してきたアリーシャに、エドガーは時計を渡す。「左手を出せ」というので、言われるがままに背の低い彼女の胸元の高さに手首をやる。


「これは、こうして腕に巻くんだ」


 アリーシャは金属帯をこちらの腕に巻くと、ぱちん、と留め具で固定する。


 巻かれた時計は、ちょうどエドガーの手首の太さに合っており、文字盤を上にしてずれない程度の緩やかさだった。


 エドガーの手首にある時計の硝子面を指先で叩きながら、自分の作品の出来栄えをアリーシャは満足そうに確認する。


「ふっふ、従来の携帯時計は大きい上に、いちいち懐から取りだす必要があるのが、どうも億劫だったからな。それを解決するために複雑かつ精密な時計の構造を、限界ぎりぎりまで小型化し、腕に装着できるようにした」


 腰元にいたアリーシャはこちらを見上げ、高らかに謳いあげる。


「名づけて『腕部装着式携帯時計』だ!」


 きらきらとしているような、満面の笑みだった。


「そのまんまですね。しかもやたらと長い。『腕時計』でいいですか?」

「何で?! 名前は長いほうが恰好いいだろう!」

「名称の呼びやすさ、口にしやすさも普及に大切な要因だからです。それに、長たらしい名はどうせ勝手に省略されるものです」

「定義は正確であるべきだろう、蒙昧主義だ!」


 この世のすべてを正式名称で呼んでいたら切りがないだろう。特に錬金術の産物はどれも名前が長すぎるか短すぎるかのどちらかしかない。


 エドガーは改めて自分の腕に巻かれた時計を見る。


「しかし、これは想像以上です」


 ただでさえ高価な懐中時計を、さらに小型化し、携帯性を高めた代物は、十分な逸品だった。しかも、目につく場所に着けることで、装飾品としての機能も持っている。


 アリーシャは単純に携帯性と利便性を向上させただけのつもりのようだが、『時計』の上に『装身具』という概念を上乗せした意味は大きい。この様式が流行したならば、やがて時を計る機能は蔑ろにされ、華美な腕輪代わりになることも有りうる。


 それは『価値』の転換だ。元の性質が解体され、それが組み換えられた結果、新たな性質が生まれた。ただ物質を変性させただけではない。本来ならば多くの人と時間が消費される大きな作業を、個人で行える錬金術師の高邁さを、エドガーは再認識した。


 壊れて文字盤の上を動かなかった針が、時を刻み始めている。


 父の死から静止していた代物が、別の意味を持ちエドガーの腕にある。それは十五年の月日が結実した姿だ。ここを訪れなければ、得ることのできなかったものだろう。


 


 そう、自覚した。


 都合よく解釈し、運命と呼ぶのならばそうなのかも知れない。とにかく出逢いがあった。それ以外の事実はない。たった一人の錬金術師の少女により、変化は、あった。


 新しい時を刻むときがきたのだ。


「そうですね、今回はこの作品に免じ、支払いは来月までお待ちします」


 腕時計をさするエドガーに、親に約束を破られた子供のような声をアリーシャは上

げる。


「え? 腕部装着式携帯時計の分のお金は?」

「わたしは、『取立を融通する』としか言ってません」


 部屋に放っていた旅行鞄を手に取ると、足早に部屋の扉へ向かう。呆気に取られているアリーシャに一礼すると、部屋を出た。


「それでは」


 ばたん、と扉を閉め、薄暗い廊下を抜けて、玄関に向かうころ、背後から少女の叫び声が聞こえてきた。


「は――はあああああぁ?! 待て、待てこら、おい。この鬼畜、守銭奴、詐欺師か貴様!! え? ちょっと、本当に帰ったの? 嘘だよね? え? やだやだやだ、こんなのってありかー!!」

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