第2話

 アリーシャの元を訪れる前、エドガーは組合の上層部に呼びだされていた。


 錬金術振興信用組合の本店は、最新の技術と材料が用いられた、都市部の高層建築群の一つだ。歴史的な意匠を排し、合理性だけを追求した建物は、芸術的であった古典主義から離れ、機能が優先された箱だ。


 組合の上層部は、最上階を占有している。


 都市でも一部にしか導入されていない電動式の昇降機で最上階に着くと、そこは吹き抜けになっている。壁が一切なく、床が異様に広いため、遠近感が狂わされる。あるのは昇降機の籠と、部屋の中央に聳える、ただ一つのものだけだ。


 それは、一言で言い現わすならば〝樹〟だ。


 ただし、自然なものではなく、人工物でできている。


 床から伸びた数本の太い管が絡み合い、その周囲に細い金属索が巡っている形は、ちょうど宿主を絞め殺す無花果いちじくの木のようだ。樹上には硝子板の取りつけられた、いくつもの箱が乱雑に積まれ、金属管の枝の先には、開いた花の代わりに拡声器が取りつけられている。


 エドガーが〝樹〟の前に立つと、硝子板の一つが点灯した。そこには、革張りの肘掛け椅子で、白い石の煙管を吸う、中老の男の肖像が描かれている。


〝よく来たね、エドガー君〟


 拡声器から流れてきた男の言葉に、恭しく頭を下げてエドガーは答える。


「〈始祖〉の方々とお会いでき、光栄です。どのようなご用件でしょうか?」


 拡声器の向こうに人間はいない。エドガーはそれを知っている。しかし、敬意を持ってそのに相対する。


 この〝樹〟も〈天才〉の作品の一つだ。組合の理念を歪めずに保持するため、〈始祖〉――組合の設立者たちの考えを再現するように作られた、通称〈智慧の樹〉。硝子絵の一つひとつは、当時の〈始祖〉たちの姿だ。中には、まだ存命の〈始祖〉の絵もある。しかし、組合の中では、当人よりも〝樹〟の方が権力を持っている。


 組合の最高権力者は、人ではなく〈智慧の樹〉というなのだ。


 エドガーは〈智慧の樹〉に最も近い組合員のうちの一人だ。こうして、組合の最高意思決定に直接呼びだされることも少なくない。しかし、既得権益を我が物にしようと魑魅魍魎が跋扈する組合の中で、年若くしてそのような地位にあるのは、彼が優秀なのはもちろんとして、理由は別にある。


 硝子板の灯りが切り替わり、豊かな口髭を蓄え、懐中時計を身につけた壮年の紳士の絵が点灯した。


〝お前の悪い癖だ、エドガー。組合の中の噂から予想できているだろう。話は合理的に進め、時間の節約を心がけろ。私はお前が息子だからではなく、一人の人間として能力を評価しているのだと忘れるな〟


 彼の父は〈智慧の樹〉――つまり、〈始祖〉と呼ばれる人間の一人なのだ。


「申し訳ありません……失踪した〈天才〉についてでしょうか」


 黄色の礼装に身を包んだ、ふくよかな婦人の絵が点灯した。


〝えぇ、その通りよ。〈天才〉には多額の融資をしていたけれど、その返済はなされずに、彼は姿を消した〟

「連帯保証人として、娘が登録されていたと記憶していますが、彼女から債権回収を行えばいいのでしょうか」


 髪の毛を後ろに撫でつけた、厳格そうな顔つき男の絵が点灯する。


〝問題の本質は、そこではないよ〟

「と、言いますと……」

〝〈天才〉がいなくなった、それ自体が問題なんだ。我々は〈天才〉を失った、錬金術を導く者を失った。そして、彼の技術を完全に理解している術師は存在しない。これが何を意味するか解るかな?〟

「……錬金術は、世の術師たちが〈天才〉に追いつくまで停滞することになります」


 そう、と杖を突いた紳士の絵が応じる。


〝私たちは、錬金術を発展させるために組合を設立した。そして、錬金術は今の時代が最も成長していると見て間違いなかろう。〈天才〉の損失は、私たちの存在意義に関わる。これは問題である〟


 別の絵が点灯し、賛同を示すように〝問題だ〟と発言する。すぐに別の絵が点灯して、次々に同じ言葉で同意を示していく。


〝問題だ〟〝問題だ〟〝問題だ〟〝問題だ〟〝問題だ〟……、回転するように点灯していた硝子絵は、最初に点いた煙管の男に戻ると止まった。


〝我々〈智慧の樹〉は、決定を下した。〈天才〉の技術を理解するための〈教科書〉が必要だと〟


「その〈教科書〉とは……」

〝〈天才〉の娘である錬金術師、アリーシャだ。我々は、彼女を〈天才〉のとし、回収すべきという結論を出した〟

「申し訳ありません。仰っていることが、理解できませんでした。〈天才〉の娘から、取立を行うという認識でよろしいのでしょうか?」

〝違う。彼女自身――正確には、彼女の人格ではなく、頭脳の債権回収を君に命じる、エドガー君〟

「それはつまり……」


 父の絵が点灯し、窘めるように拡声器から声を漏らした。


〝認識の齟齬を噛み合わせる慎重さは美徳だ、エドガー。しかし、今この場では贅肉だ。私たちの命は一つ、『〈教科書〉を確保しろ』。そこにいかなる解釈も含める必要もない、達成しろ〟


 一呼吸分の沈黙を置き、エドガーは答えた。


「承知しました」


 つまるところ、〈天才〉の娘を、ヒトではなくモノとして扱えということだ。


 とうとう一線を超えてしまったのだな、とエドガーは思う。いや、〈智慧の樹〉は変化しないものだ。そのように作られたモノだ。だとしたら、とうの昔に越境していたのだろう。理念を保持しようと作られた〈智慧の樹〉は、目的と手段の間に等号を挿入している。と近似の符号であるが明確に異なる性質の断崖が、ようやく表面化したのだ。


 目前の構造物が自分を従順で優秀な手駒だと考えていることは理解している。だがそれは勘違いだ。敬意と嫌悪はエドガーの中では矛盾しない。人の心の機微を理解できないモノには、その本質を掴めることはないだろう。


 父が作った組合で、錬金術は世に貢献している。社会を豊かにしてきた。だから、組合の仕事にエドガーは誇りを持っている。同時に、組合の職員として自分が第一義に行うことは、錬金術師たちを支援することであり、そのために金の問題を解決することだ。


『人は人で、金は金で解決しろ』


 それが父の口癖だった。エドガーはそれを自分なりに解釈し、哲学として心の額に飾っている。そして今、父の似姿が、父の教えに背いたことを言う。相手はこちらの個展に飾られている作品を批判したなど、露ほども思っていないだろう。


 だが、仕事は仕事だ。命じられたことは全うする。


 ただし、自分なりのやりかたで。

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