第3話文化祭、そして悪夢再び

 あれからしばらくが経って、文化祭当日。俺はこの上なく憂鬱な気分にさいなまれていた。ただでさえ学校の文化祭など嫌いなのに、そこでこれからただ働きをしなければならない。しかもせっかくの土曜日にだ。ゆとり教育という最高の方針のもとで手に入れた土曜休みをこんなことに潰してしまうのはなんとも愚かなことだろう。

 それになぜだろうか。今日はあまりいいことが起きる気がしない……。不吉な予感が終始頭をよぎっていた。

 ただの直観である。根拠はない。

 布団の中から時計を見ると、六時四九分。……来る。

 テレレレレンと、予想通り、電話の着信音がなった。ここ最近はもう俺の起きる時間まで指定する始末にまでなったのだ。この着信音も、俺にとっては死のメロディと化している。

「起きとるがな」

 向こうからの返事を待つ間もなく、その一言だけを言い放って、通話を切る。

 よっこらせと、重たい体を持ち上げ、登校の準備を始めた。

 

 店を出すのは十時からだというのに、俺は既に教室で仕事をさせられていた。焼きそばに入れる豚肉や野菜などを切る、俺には似合わない、退屈な仕事である。

 俺の他にも十人程度、この場で既に仕込みを始めている。仕事は役割ごとにシフト制で作られていた。仕事としては、調理、接客、客の呼び込みなどがあり、俺は客の呼び込みを希望したのだが、柳の手によってそれは葬られ、調理、接客を担当するはめになった。

 おそらく、俺が呼び込みに行くと言い、勝手に帰る事を見越したのだろう。なかなか鋭い奴だ。俺と関わりを持ち始めてから、かなり俺の行動パターンを熟知してきている。

 そして俺のシフトには必ず柳も入っていることからも、俺を徹底的に監視しようとする意図が見受けられた。

 その柳はというと、今もこうして調理の仕込みをしている俺に世話を焼いている最中だ。

「ああっもうだめですよ。適当に切らないでください。もっとバランスよく」

「焼きそばの具なんてこんなもんでいいだろうが」

「だめですよ。あっ、危ない。ちゃんと包丁を見て! 左手は猫の手ですよ!」

 ああうっとうしい。まるで俺が野菜もろくに切れないみたいではないか。しかも周りのクラスメイトがこの光景を見てクスクスと笑っているのに気づくと、とてつもなく恥ずかしくなった。

 どうでもいいが、この場にいるクラスの人間は今全員、家庭科の調理の授業の時のようにエプロン、三角巾を着用している。しかしその中でも柳の似合いっぷりは異常だった。この恰好のまま生まれてきたのではないかと思うほどだ。家庭的な性格だと、やはりこういうのが似合うようになるのだろうか。

「ああっもう不器用だなあ。もういいです。あとは私がやりますから、掃除や他の準備をしといてください」

 なんと柳にすら俺は諦められてしまい、教室の掃除をすることとなった。といっても、やる気などあるはずもなく、ただほうきを適当に動かすだけの人形同然で、ルンバの方がよっぽどまともな掃除をするだろう。科学の発展は人間の仕事を奪う。それはもう遠い日のことではないのかも知れない……。

 教室前の廊下を見ると、文化祭らしく教室前にはそれぞれのクラスの出し物の看板や装飾が飾り付けられていて、他のクラスの生徒たちがせわしなく、色々な道具やらなにやらを運んで駆け回っている。いかにも文化祭らしい。

 そうしている内にうちのクラスも店を出す準備ができたようで、外も他校の生徒や、一般客の姿がまばらに見えていた。深いため息をつきながら、俺も指定された定位置につく。

「相田くんはとりあえず、接客をお願いします」

「ほいほい」

 ここでの接客とは、注文、といっても焼きそばしかないのだが、とりあえず、買う焼きそばの個数を聞き、金銭のやり取りをする。そして食券を渡し、焼きそばが出来上がったら、食券と交換して商品を渡す。

 これが接客の仕事で、残りの調理、呼び込み含めてクラス三十人で仕事を回していく。

 あまりに売れたら、近くのスーパーまで追加の材料を買い出しに行ったりもするらしいが、果たしてそこまで売れるのだろうか。

 部活動での出し物等がある場合、そちらを優先できるのだが、俺も柳も帰宅部だったので多くシフトに入っている。俺に関しては勝手に入れられたと言った方が正確だが。

「さあ。頑張りましょう!」

 未だ憂鬱な気分が晴れない俺とは対照的に、柳はやたらと張り切っている。なぜこんなイベントにそんなにやる気になれるのだろうか。不思議で仕方がない。

 店を出してからそうも経たない内に、初めての客が現れた。が、他校生ではなく、普通にこの学校の生徒で、一年坊主二人組だった。

「焼きそばふたつ!」

 と二人は小銭で金を手渡ししてくる。

「ん」

 と俺は愛想よく金を受け取り、食券を手渡す。

 焼きそばもすぐ出来上がったようで、祭りの出店とかでもでよく見るような透明のフードパックにたんまりと詰め込まれ、輪ゴムで固定されたものがすぐに俺に手渡された。

「ほらよ」

 俺も手際よく、購入した二人に商品を手渡す。だが、二人は不満げな顔を浮かべながらそれを受け取り、何も言わず去っていった。

 なんて感じの悪い連中だ。商品の見栄えが悪かったのだろうか。たかが高校の文化祭の模擬店の焼きそばに過度な期待をするなっつうの。

「相田くん」

 後ろから、さーっと冷たい声が背中に刺さった。これは間違いなく俺を叱るときのトーンだ。

 恐る恐る振り向くと、柳が呆れたように俺を見ていた。

「なんですか? 今の態度は」

「まったくだ。礼のひとつも言わんで去っていくとはな」

「違います! 相田くんの態度のことを言っているんです!」

 なんだそれならそうと早く言ってくれと言おうとすると、周りの調理をしている奴らも白い目で俺を見ている。どうやらこいつらも柳と同意見らしい。

「そ、そんなに悪かったか」

「最悪です」

「だ、だがな、そもそも俺を接客にするのが間違いだと思うぞ」

 言うと、周りのクラスメイトたちもうんうんと頷く。よくわかってるじゃないか。

「だ、だって……私は、相田くんと一緒に……」

「ん?」

「い、いえ、なんでもないです。とにかく、笑顔で礼儀正しく接客してください。お客さんが来たら何になさいますか? ってちゃんと聞くのが基本です」

「焼きそばしかねえじゃねえか」

 言われて気付いたのか、柳は意表を突かれたような顔をしたが、ごまかすように咳払いをして、俺に指示した。

「い、いいから礼儀正しく接客してください」

 これ以上うるさく言われるのも嫌だったので、俺も大人しく従うことにする。しかしなんと神は残酷なのだろう。次に現れたのは招かれざる客だった。

 そいつは教室に入って俺を発見するや否や、ニヤついて馬鹿にしたような顔をする。

 来客者はアホの梶野だった。いつもの制服に身を包んで、なにやらご機嫌そうな顔つきをしている。

「すいませーん。三つお願いします!」

 茶化すようなトーンで、注文をしてきた。同じ制服を着ていることから、学校の友人であろう女子生徒たちもいる。といっても、俺も一年の時に通っていた学校なので、つまりは俺の元同級生なのだが、俺はその二人の顔は知らなった。その連れの二人も俺が以前同じ高校にいた事は知っているようで、ひそひそと二人で話している。それを横目に俺は梶野に話しかける。

「お前、ずいぶん暇なんだな。うらやましいよ」

「あら、ずいぶん態度の悪い店員ね」

 腰に手をあてて、小ばかにしたような口調で言う。本当に腹の立つ奴だ。

「あっ由紀さんっ」

「ハロー、ことねちゃん」

「何がハローだよ。英語もろくにできねえくせして」

 俺が二人の挨拶に横やりを入れると、バカにされた張本人の梶野はいつものように睨みつけたりはせずに、余裕を持った笑みを浮かべながら、腹の立つ顔で俺を指さした。

「ぷふっ、あんた三角巾似合わないわねっ」

 梶野がそう言ったことで、隣にいた梶野の同級生や、なんとこっちの仕事をしているクラスメイト、はたまた柳までもが、クスクスと笑いを抑えているようだった。

「くっ、ほらっ、とっとと出ていけ」

 不愉快な思いをしたので、ぱぱっと完成した焼きそばを雑に投げ渡す。

 それを受け取ると、梶野はむすっとした顔をしたが、すぐさま微笑みながら俺にとんでもない注文をしてきた。

「ああ、あとスマイルください」

 いかにも調子に乗った学生が言いそうなことだ。

「うちはどこぞのファーストフードじゃねえんだぞ」

 本気で梶野の頭を心配していると、梶野は不満げな顔で主張した。

「ちょっと、表の看板にスマイル0円て書いてるじゃない」

「は?」

 何を馬鹿なことを……。と思っていると、後ろからつんつんと背中をつつかれた。

「相田くん、スマイルもうちの商品ですよ」

 さも当たり前のことのように、眉ひとつ動かさず衝撃の事実を告げる。俺は急な展開について行けず、パニックに陥っていた。

「い、一体どういうことだってばよ?」

「企画の段階で決まったじゃないですか。焼きそばだけじゃちょっと物足りないなってなって、そうなりました。聞いてなかったんですか?」

 柳は少し呆れた様子で俺に聞く。そのくらい聞いとけと言わんばかりだ。

 しかし、全くもって聞いていなかった。あまりにも興味がなかったので文化祭準備の時間はひたすら自習していたか寝ていたかのどちらかだったのだ。

 にしても、焼きそばだけじゃ物足りないとはどういうことか。焼きそばの模擬店なんだから焼きそばだけで充分だろうが。

「とにかく、お客さんがつっかえてるんで、お願いします」

 後ろを見ると確かに、それなりに列が出来ていた。一体なぜ文化祭の焼きそばでここまで列が出来るんだ? うちの呼び込み係はそんなに優秀なのか?

「ほら、はやくしてよ。写真とっといてあげるから」

 梶野はスマホを取り出し、カメラモードにして、レンズを俺の顔に合わせた。周囲から完全に注目を浴びており、穴があったら入りたい気分だ。

「お前……おぼえとけよ」

 俺の脅迫にも屈せず、梶野はにやにやした顔つきのまま、スマホを握りしめている。

 これ以上粘るとさらにギャラリーが増えそうだったので、俺は覚悟を決め、渾身の笑顔をふりはらう。

 ……すると、経験したこともない、うすら寒い沈黙が降りた。その後すぐに

「あっはっはっ。なんか不気味!」

 必死に笑顔を作る俺を指さし、梶野が笑い声をあげた。それに同調したのか、周囲の人間も笑みを浮かべる。

 俺に大恥をかかせて、そのまま梶野とその連れは教室を去っていった。

 必ず、この復讐は果たしてやると、俺は心に誓ったのであった。

「あ、相田くん、お疲れさまです」

 身も心もすり減った俺を労わってくれるのは柳、お前だけだ……。

 それにしても今日は厄日だ。俺の嫌な予感は本当に当たるから困る。

 そして悪いことは大抵、続いて起こるものだ。


 シフトの時間帯が終わり、次のメンバーに引き継いで休憩に入ると、俺は一人で校舎をぶらついていた。柳に、柳の友人が出演している演劇の出し物を見に行かないかと誘われたが、興味が無いし、下手な高校生の演技やらを見ると、何だかこっちが恥ずかしくなってしまいそうなので断った。

 それよりも俺は、小山と桜井が組んでいるバンドの演奏の方に興味があり、そのライブが始まるまでまだ時間があったので、今のように適当に散策しているわけである。

 そして廊下の人混みの中を歩いていると突然、にっくき存在が目に入った。

 スカートからのぞく長くて細い足に、短めのポニーテール、なかなか目立つのですぐに分かった。今日見事に俺に恥をかかせてくれた梶野由紀である。さっきの時にはいた連れの二人はおらず、単独で行動していた。しかもどうやら向こうは俺の存在に気づいていないようだ。

 よし。なんという絶好の機会。俺は目を輝かせ、頭の回転を速めた。そしてスマホを取り出し、ビデオモードにして握りしめた。

 梶野が人並みをくぐりながら、こっちに近づいている。まだ俺の存在に気づいていない。

 俺もばれないように、身を少しかがめながら、梶野の方へ接近する。そしてちょうど、すれ違う絶妙なタイミングで、他の通行人に隠れながら梶野の足首に、俺の足を引っかけた。

 頭の中で思い描いていたように、いやそれ以上に綺麗に技が決まった。ちょっと足が引っかかってつまずく程度を想定していたのだが、なんとも盛大な転倒劇を見せてくれた。

「ひゃあ!」

 想像していた以上に大きくて間抜けな悲鳴を梶野があげる。その声にいたずらを仕掛けた俺の方も驚いたが、スマホのレンズはしっかりと被写体である梶野に合わせた。

 その甲高い悲鳴により、その付近にいた通行人の視線は一気に、ずっこけた梶野の方に集中する。

 その内の親切な人物が「大丈夫ですか?」と梶野に声をかけたが、この状況でその思いやりは、転んだ人間の羞恥心をさらに増すだけだ。

「だ、大丈夫です。す、すいません」

 耳たぶまで真っ赤にして、視線を合わさずにうつむきながら梶野は答えた。

 なんともまあ可哀そうに。他校にまで来てこんな大勢人がいる中、醜態をさらすとは、同情せざるを得ない。

 だがそれもこれも、全ては自業自得、因果応報なのである。少しやりすぎたかも知れないが、これも彼女のためだ。

「げらげらげら。全く恥ずかしいやつだなあ」

 梶野の耳がピクリと動く。俺に気付き振り向くと、そこで全てを悟ったのか、怒りと恥辱の入り混じった真っ赤な顔で俺に怒鳴りつける。

「なにすんのよ!」

「なにって、お前が倒れてたから心配してやってんだろ」

「あんたがやったんでしょうが!」

「さあなんのことやら。にしても、お前も意外と可愛い悲鳴をあげるんだな」

「う、うるさい!」

 未だに梶野の顔は真っ赤なままだ。

「ほんと最悪! ああっもう、どうしてくれんのよ!」

 梶野は顔を両手で抑えながら、その場にしゃがみこんでしまった。

 ここでもっと面白いことを教えてあげよう。

「まあ。パンツ見られたくらいでそう落ち込むな」

 俺がそういうと、顔を覆っていた両手を放し、顔を上げ、俺の方を向き、「え?」とつぶやいた。

「み、見えてた?」

「そらもうばっちりと」

 あんだけ盛大にずっこけたのだから、短めのスカートでは、そうなってしまうのも必然であろう。おそらく俺だけでなく梶野の後ろ側にいた人間はほとんど見えていたのではないだろうか。そう考えると、俺のしたことは多くの人にハッピーを届けた事になる。ちょっと早めのサンタクロースとでも言ったところか。

「最低! ほんっと最低! 死ね!」

 喉元まで赤くなった梶野の口から、とどまることなく罵詈雑言の嵐が飛び出してくる。

「す、すまんすまん。正直やりすぎたと反省してる」

「許すかアホ!」

「ごふっ」

 腹に強烈な衝撃が走り、視界に入るもの全てがぼやけた。梶野が渾身の力で固めた拳を俺の腹にぶちこんだのだ。女子でここまで力があるもんなのかというくらいにそれは強烈で、俺は見事にノックアウトされた。

 俺がその場にしゃがみこんで悶え苦しんでいると、梶野は仁王立ちしながら、怒りに満ちた瞳で俺を見下していた。

「これからお昼にするから、あんたが奢りなさい」

「は、はい」

 今の腹パンでチャラになったんじゃないんですか……。声にもならなかった。



「次これね」

 梶野は意気揚々と出店を見て回り、ありとあらゆる食べ物をその胃の中に吸収していった。人はただならここまで食えるのかと、衝撃を隠せない。にしても、その細い体のどこに食べ物が吸収されていくのだろうか。

「お前どんだけ食うんだよ?」

 呆れながら俺が聞くと、さも当然のような顔で梶野は返事をする。

「え? あんたの財布が空になるまでのつもりだけど?」

「お、おいさすがにそれは勘弁してくれ。そろそろ友達のライブを見に行かなきゃなんねえんだよ」

「あんたに友達なんていないでしょうが」

「これでもいるんです。一応」

 必死に困った顔をすると、それを見かねたのか、梶野は「はあ」とため息をついた。

「わかったわよ、ひとまず休憩してあげる」

 ひとまずという言葉が気になったし、休憩の意味もよく分からなかったが、とりあえずはこの場をしのぐことが出来た。

 早足で軽音部のライブが行われる体育館へ向かう。なぜか後ろでは当然のように梶野もついてきていた。

 体育館の入り口付近にくると、前のイベントが終わったのか、ぞろぞろと群衆が中から出てくるところだった。その中に柳もいて、俺たちが気付くと同時に柳も俺たちを見つけたようだ。

「あ、相田くん、由紀さん。今から体育館に行くんですか?」

「ちょっとこいつの友達とやらの演奏をね」

「え、小山くんたち、これから演奏するんですか?」

 俺の友達と聞いた時点で小山と断定される当たり、俺の友人の少なさがうかがえる。

「ああ。それを聞きにな。演劇は見たのか」

「はい。それがちょうど終わって体育館から出てきたところです」

 なるほど。演劇と軽音部のライブは入れ替わりで行われるのか。やはりこの学校は敷地がせまいため、広いスペースを必要とする出し物は入れ替わりで行わざるをえないのだろう。

 そのまま柳も合流し、ライブ会場へと向かった。

「そういえば、先ほど一緒にいらっしゃったお二人は帰られたんですか?」

「うん。私はここでご飯でも食べようと思って残ったの。二人は、お昼まだだよね?」

 俺と柳が、まだだと答えると

「よし、じゃあ一緒に食べましょう。しかもことねちゃん、こいつがなんでも奢ってくれるってよ!」

「おいお前まだ俺に払わせるのか。しかもあんだけ食ってまだ食えるのか? てかなんでこいつの分まで……」

 俺がブーブー文句を言うと、梶野が獲物を狙う肉食動物のような鋭い目つきで俺をにらみ、対し俺は狙いを付けられた草食動物のようにひるんだ。

「わ、わかったよ」

「あ、あの、私までいいんですか?」

 何も知らない純粋無垢な柳は子羊のような顔で聞く。

「いいのよ。気にしないで」

 それは奢る人間が言うべき言葉じゃないのか。俺は財布の中身を憂いながら歩みを進めた。

 体育館内に入ると、下には卒業式等にもよく使用されるシートが敷かれていた。これが敷かれている時は体育館シューズでなくても、体育館に入れるわけである。

 そして前方から後ろにかけて、これまた卒業式等でよく使われるパイプ椅子がずらりと並べられている。

 演劇はやたら人気があったのか、まだ帰る支度をしている人間が多数いた。それに比べると、これから体育館に入ろうとする人の数はかなり少ないように思われる。

 そういえばあいつらは何組目の演奏なのかと思い、制服のポケットから、無理やりしまいこんでぐしゃぐしゃになった文化祭のパンフレットを取り出して確認してみた。

 軽音部の紹介のページを開く。そこで、小山たちの名が記されているグループを見つけた。

 バンド名 “GROW ” 

 明らかに某有名バンドから影響を受けてそうなバンド名だった。

 しかも演奏順は初っ端ときている。

「あいつらトップバッターじゃねえか」

 こういうのは得てして一組目が一番緊張するものである。しかし、もうすぐ開演だというのに見物人が増える気配が一向にない。俺たちを合わせて一五名程度しかいないが、俺たち以外はどうも演奏を聴くためにいるという感じではなかった。

「時間もうすぐよね? あんまり人いないけど……」

「そうですね……。さっきまでは結構いたんですけど……」

 なんだか不安な雰囲気に包まれる。ステージ上にはすでに楽器のドラムやマイクが設置されおり、これから始まるのは間違いないはずなんだが……。

 その不安を遮るように、ついに小山たちのグループが登場し、それに気づいた体育館にいた人物たちも目を向けた。その中には桜井もいて、桜井はギター、小山はボーカルをやるようだった。他のメンバーは俺の知らない他のクラスの人間で、それぞれの楽器を持ち、ポジションについている。

「あ、始まるっぽいわよ」

 小山たち一行はまるで、古い機械のようにガチガチな動きでそれぞれの位置についた。

 どう見ても完全にあがっている。見ている誰もがそう思ったであろう。といっても数名しかいないが。

 そして数秒も経たないうちに演奏が始まった。出だしからもうバラバラで、それぞれの顔にわかりやすいくらいに動揺が浮かんでいる。


 ズンチャカズン。ズンチャカズンズンズンボエー。

 テンテカテンテンテカテテンテンテン。


 一曲目の演奏が中盤に差し掛かろうというところで、俺はもう帰りたくなった。というのも、見ているこっちが恥ずかしくなるからだ。柳の友人の演劇とやらの方がよっぽどマシだったであろう。

 技術が無いということだけでなく、緊張で堅くなっているのか完全に息が合っておらず、それぞれが別の曲を演奏しているような感覚に陥る。

 小山もそれをわかっているのか自分の声で楽器の悪さを消そうとし、必要以上に大きな声を出している。それが人の少ない寂しい体育館に虚しく響いていた。

 むしろこれは客が少なくてよかったのではないか? 見渡すと、偶然居合わせた観客たちもまばらに出口に向かっている。

 恥ずかしさのあまり、とてもじゃないが梶野と柳の顔を俺は見れなかった。

「行こう」

 俺はうつむきながら二人に悲しげに告げた。

「え? あ、うん」

「で、でもいいんですか?」

「ああ」

 二人はおそらく俺の気持ちを理解しているのか、それ以上は何も言わなかった。

 この少ない人数の中、三人も同時に抜けると非常に目立ち、彼らをさらに傷つけることになるかもしれないが、これ以上ここにいるのは俺の身が持たなかった。

 ぞろぞろと出口を抜ける時、ちらっとステージを見たら、バンドのメンバー全員がこちらを見て、そのうち何人かと目が合い、俺はすぐに顔を逸らした。

 がんばれ、GROW! 負けるな、GROW!

 

 体育館から出ると、俺たち三人は呪縛から解き放たれたかのように、体をのびのびとさせ、新しい空気を吸った。

「さあ、お昼にしましょ」

 確かに昼にはちょうどいい時間で腹もすいていた。だが唯一不満なのは、こいつらに奢らねばならんということである。

「お前はもう充分食っただろ」

「だって軽い物ばかりだったんだもん」

「文化祭の模擬店なんて、そんなもんばっかだろ」

「じゃあ、お好み焼きなんかでいいんじゃない?」

 梶野がパンフレットを見ながら、お好み焼きの模擬店が出店されているクラスを指さす。 確かに文化祭の模擬店の中では、お好み焼きは一番ボリュームがあって、昼食にちょうどいいかもしれない。

「てことで、私たちの分もよろしくね」

 ウインクしながらお願いされたが、俺は未だに納得がいかない。

「わ、私の分までいいんですか?」柳は遠慮がちに聞く。

「うん。もちろん」

「いやまて、なんでだよ」

 俺がそう言うと、梶野が今日起きた出来事を柳に告げ、その内容を聞いた柳は驚き、俺に対し失望と落胆の意を示した。

「相田くん……。そんなことしたんですか……」

「いや、俺だってこいつに嫌がらせされただろうが!」

「スマイルはうちの店の正規のメニューです!」

「なんでんなもんがあるんじゃぼけ!」

「相田くんがちゃんと聞いてないのが悪いんです!」

 いつものように、完全に水掛け論になる。

 お好み焼きは、柳は最後まで遠慮したが、梶野によって結局、俺が二人分奢る事になってしまった。文化祭では教室の何室かが食事用スペースとして設けられているので、俺たちはそこで食事をとることにする。そこについてからしばらく他愛もない世間話をしていたが、梶野が急に憂鬱そうな顔を浮かべた。

「はあ。来年は受験生かー。 実感ないなー」

「そうか? まあ俺たちはもうとっくにその気分だけどな」

 俺の言葉に反応したように、柳もこくんとうなずいた。

「ほんとに? 早すぎでしょ!?」

 高二の十一月なら、受験を意識しても早すぎるという事はないだろう。

「俺たちは意識が高けえんだ。こいつももう多分お前より頭いいぞ」

 と言い、ポンと柳の頭を叩くと、柳は照れた様子で「そ、そんなことないです」と謙遜する。

 柳はそう言うものの、俺と最初に会ったときからかなり学力は向上したと思う。

 講習が無い日でも、小明塾のラウンジや、学校付近のカフェやファミレス等で最低でも二時間以上は共に勉強するのが俺たちの日課となっていて、柳はおそらく、帰宅した後も俺以上に勉強している。その懸命さは予想以上だった。次の模試では数字となって結果に表れるだろう。

「そ、そんな……私だけバカってことか……」

「そうだ、バカなりに努力したらどうだ」

「うるさい!」

 梶野はそう吐き捨てるとふてくされたように、適当な大きさに箸で切ったお好み焼きを口に運んだ。

 そして突拍子もなく、柳が呆れた様子で純粋な疑問を口にした。

「相田くんはどうしてそんなに捻くれちゃったんですか? 相田くんのお母さんもきっと大変ですよ」

 俺は少し間を置いて、答えた。

「俺の母親はもういねえよ。まあ、早くに母親を亡くしたから性格が歪んだってのはよく言われたけどな」

 言い終わると、俺たち三人の周囲の空気だけが、その場で凍った。

 柳はしばらく何も言わず、フリーズしたように、硬直していた。

 梶野も黙ったまま、どこかを見ていた。だが梶野は俺の家庭の事情をそれなりに知っているので、あえて何も口にしないだろう。

 柳は戸惑いを隠せない中、やっとのことで言葉を拾った。

「ご、ごめんなさい。わ、わたし、何にも知らなくて……それなのに、ひどいことを……」

「いや、別に気にすんなよ」

 俺がそう言っても、柳の顔からは後悔の色が消えない。

 俺とて、こんな発言をしたら空気が悪くなることくらい、分かっていた。

 しかし、柳には何となくそれを知っておいて欲しいという思いがあった。なぜかはわからないが、俺は昔から、俺と親しくなった数少ない人間には、母がいない事をそれとなく伝えたくなるクセがあった。

 心理学というのはよく分からないが、ぽっかりとあいた心の穴を埋めてほしいという感情が、俺の中にあるのかもしれない。

 梶野が空気を読んで話題を変えると、柳も徐々に元気を取り戻していった。

 お好み焼きを食べ終えると、俺と柳はまたシフトの時間が近づいたので、仕事に向かうこととなる。そうなると梶野ももう特にここにいる理由もなくなったので、この学校を後にした。

 午後の部でも、俺らのクラスの店はそれなりに繁盛していた。準備の時に俺も味見をしたがそれなりに味もよかったし、量も割と多いので、それが売れ行きがよい理由だろう。

 忙しいと時間が過ぎるのが早く感じるので、意外とすぐに交代の時間になった。俺と柳のシフトはもうないので、あとは片づけと明日の準備だけである。それまでの間、せっかくなので他のクラスの出し物などを見ようと校内をうろついていると、柳から電話があった。、心の中にある何かが吹っもと違う。いつもの活発的な感じとは正反。

「もしもし相田くん、今なにしてます?」

「ぶらぶらしてるだけだが」

「じゃあ、私たちの教室まできてもらせませんか? 相田くんの前の学校のお友達がいらしてますよ」

 ――その瞬間、思考が停止した。

 動悸が始まり、額から嫌な汗が湧き出る。

 時が止まったかのように感じた。顔から段々と血の気が引いていくのが分かる。しばらく周りの音が一切聞こえなくなり、自分の心臓の鼓動のみが体内で響いた。その音は普段よりも数倍、速度を増していた。

 おそらく……奴だろう。本能がそう告げている。虫の知らせとも言うべきか。だが、いつかこういう日が来ることは予期していた。

 行こうか行くまいか迷ったが、結局、行くことを選択した。今行かなかったにしても、どうせその内、ましてや明日来る可能性だってあるのだ。

 早いうちに事は済ませた方がよいという判断を俺は下した。



 駆け足で教室まで向かう。教室までの距離が途方もなく遠く感じた。

 廊下まで来ると、俺の心臓音はさっきよりもさらに大きく響いており、それが緊張によるものなのか、急に走ったことが原因なのかは分からなかった。

 そして教室前の廊下に――やはり、いた。

 背丈は俺とほぼ同じで、あの長い襟足。剃った眉の下にある、けだるそうな目つき。忘れたくても忘れられないあの顔。予想通りの人物。宮原一成だ。間違いない。その名を聞くだけで、過去の苦悩が思い出される。出来ればもう二度と思い出したくない、消し去りたい過去を。

 そして一人ではなく取り巻きも連れてきていることも、思った通りだった。

 その取り巻きの二人は大柄で、どことく見覚えがある。進学校にいる割には柄の悪い連中だったので目立っていたし、何度か宮原と一緒にいるのを見たことがあったからだ。

 三人とも、制服ではなく、私服で来ていた。まあ取り巻きの二人はともかく、宮原は、もう光星高校の制服を着る資格はなくしているが。

 三人で来ていることからも、今回こいつらがここに来た意図は、俺が予想したもので正解だろう。

 その三人のすぐ側に柳もいて、俺の到着に気付くと大きく手を振った。

「あ! 相田くん」

 それによって残りの三人も俺の方に顔を向ける。他の二人はどうでもいい。真っ先に宮原に目を向けると、瞬時に目が合う。

 その瞬間、俺と宮原との間に、閃光が射した。

 宮原の目には、復讐に燃える色が見えた。額に青筋を立て、右手の拳を強く握りしめている。明らかに、殺気だっていた。

 俺が近づくと、宮原は平静を装った声を発した。

「よう。久しぶりだな」

「……ああ、宮原」

 再開の挨拶を交わしたが、宮原の目は再開の喜びを分かち合うような穏やかな目ではない。その挨拶を交わすと同時に、宮原の連れである残りの二人は俺を囲むようにして、俺を逃がさないようにした。

「ここじゃなんだ。別のとこにいこうぜ」

 残りの二人に腕を掴まれながら、校舎裏の、最も人が通らない場所に連れていかれた。その様子を、柳は不思議そうに眺めていた。

 案内がスムーズだったので、おそらく俺に会う前にこの学校の地形を調べていたのだろう。

 校舎裏に着くと、宮原は周囲に人がいない事を確認してから、やっと口を開いた。

「……やっと見つけたぜ。まさかこんなバカ校に来ていたとはな。予想外だった。あの学校じゃあ、お前の転校先について色んなデマが流れててな。誰が流したか知らねえが、おかげで探すのに苦労したぜ」

 あの学校とは、俺と宮原が以前まで在籍していた光星高校の事だろう。

「そりゃ大変だったな。で、何しに来たんだ? そちらのいかつい方々は、また金で雇ったのか? お坊ちゃん」

「くだらんこと聞くな。この状況をお前が分からんわけないだろ?」

 確かにその通り。

「やっぱよお。お前ぶっ殺さねえと気が済まねえんだわ。俺が退学になったのに、お前は転校で済んで、そこで悠々と暮らしてるなんておかしいだろ?」

 眉間にこれ以上なくしわを寄せて、俺を憎々しい目で睨みながら宮原は言った。

 まったく、逆恨みもここまでくると清々しい。

「おい、こいつ抑えろ」

 宮原が取り巻き二人に指示を出すと、二人がかりで、俺の腕を後ろに回し、上半身の身動きが取れないようにした。俺は全く抵抗せず、むしろ全身を脱力させた。 

「死ね」

 宮原は腕を振り上げ、思いっきり俺の顔面を殴打した。その勢いで、顔が横に大きく揺れ、頭の中も大きく振動したが、体を抑えられていたので、倒れる事は無かった。

 意識が一瞬飛びかけ、口の中には血の味が広がる。しかし、なんとか持ち直した。

 そして二発目を俺に食らわせるため、もう一度、宮原が大きく腕を振り上げた。

 そこで俺は自由な両足をばねにして、勢いよく体を宙に浮かせる。

 宮原は俺を殴るために至近距離にいたので、蹴りを入れるのには充分な距離だ。

 どこを蹴ろうか、ずっと迷っていたのだが、自分が思っていたよりも高く足が浮いたので、顔の前部を狙うことにする。

 飛んでから蹴るまでにかかる時間が、まるでスローモーションのようにゆっくりだった。中学まではずっとサッカー部だったのでボレーシュートには慣れていたが、後ろで二人がしっかりと俺の体を支えていたことで、後ろに体重が逃げることなく、上手く蹴りを入れることが出来た。

「ぐあ!」

 俺のボレーキックは宮原の顔の側面に見事に決まった。すぐさま、宮原はしゃがみ込み、両手で蹴られた部分を抑える。

「おい、大丈夫かよ」

 取り巻き二人が俺から離れて、宮原のもとに駆け寄ったが、そこまで心配ではなさそうだ。

「てめえ殺す! おい! ぶっ殺せ!」

 宮原の雄叫びと同時に、思い出したかのように大柄の二人が身構えて俺の方に歩み寄ってくる。普通にやれば、どう見ても喧嘩をしたら俺が負けることは明白だ。しかし、俺も意地は見せたい。

 二人のうちの一人が俺に思いっきり腹をめがけて蹴りを飛ばした。反射的に俺は手でかばったが、パワーがあまりにも大きいため後ろに大きくのけぞった。

 当たった手首には痛みが走り、痙攣を始めた。

 場に独特な緊張感が走る。

 周囲を窺いながら睨み合う膠着状態が続くと、突然、そこに聞き覚えのある甲高い大きな声が響いた。

「何やってるんですか!?」

 その声の主は、柳だった。血相を変えて走ってきて、俺と二人組の間に割って入った。俺を守る意思表示なのか、両手を大きく横に広げる。

「な、なんで相田くんをいじめるんですか?」

 そう聞くと、顔を抑えながら、息を荒立てている宮原が答えた。

「そいつがクズだからだよ!」

「な、そ、それはそうかもしれませんが……」

 いや、そこは認めるのかよ……。

「で、でも、暴力はダメです!」

「どけ」 

 宮原はポケットから、勢いよく折り畳み式のナイフを取り出し、刃をこちらに向けた。

 宮原の目は完全に血走っており、もはや正気を保っていなかった。廊下で俺がこいつの顔を見た瞬間と同じように、こいつも俺を見て、心の底から湧き出たものがあったに違いない。

 しかし、まさかここまでするとは、俺も予想外だった。額から嫌な汗が流れ、背筋に寒気が走る。

 その宮原を直視した柳は、悲鳴を上げ、足を震わした。

「おい、柳! どけ!」

 後ろから乱暴に柳を引っ張ってどかすと、その隙をつくように、宮原がナイフを向けながら駆け寄ってきた。

 ――まずい。と思った矢先。

「やめんか!」

 今度はさっきの柳とは対照的な、ドスの聞いた低い声が鳴り響き、宮原の体に向かって思いっきり体当たりを食らわせた。見覚えのあるその姿は、この学校の体育教師だった。

 それに少し遅れて他の教師たちもやってきて、数人がかりで手からナイフを取り上げて、宮原を抑えつけた。

 意外にも、宮原は抵抗せず、大人しく、教師たちに連行された。宮原が連れていた取り巻き二人は、気付くともう、どこかへ去っていた。



 あの後が長かった。警察までくる騒ぎになり、一時学校は騒然とした。俺は職員室で事の顛末を教師たちに説明した後、今度は警察から事情聴取を受け、一からまた同じことを説明した。そして宮原は警察に連れていかれたが、逮捕とまではならなかったらしい。しかし、相当な厳重注意を喰らっているだろうから、もうこんなことは無いだろう。

 あのタイミングで教師たちが来たのは、俺が連れていかれる光景を見て、柳が友人に教師を連れてくるように頼んだらしい。あの場所に人が来ることは滅多にないので不思議に思っていたが、そういうことだったようだ。俺と柳で、救助に来てくれた教師たちに、何度も礼の言葉を告げた。

 そして俺は未だに、今日の出来事が信じられないでいた。

 正直、侮っていた。宮原の恨みが、まさかあそこまでだと、思っていなかった。

 いずれ俺の元に訪れるだろうという予感めいたものは、確かにあったが……。

 俺の中に眠る、光星高校でのあの事件を起こした罪悪感が、ちくりと痛んだ。



「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 予想よりもはるかに遅くなった暗い帰り道で柳がなぜか俺に半泣きでひたすら謝ってきた。

「どうしてお前が謝るんだ?」

「だって……、私が相田くんを呼んだから……」

「それは関係ねえ。どっちにしろあいつは意地でも俺を探しただろうしな。むしろお前が電話してくれたおかげで、事前に心の準備ができた……それと、まあ、助けようとしてくれて、あ、ありがとう」

 言葉の後半の方は、照れくさくて、ほぼ消えかけていた。柳は俺の感謝の言葉に一瞬、目を丸める。

「い、いえ、それはいいいんです。それより……」

 今度は神妙な面持ちで、聞くか聞くまいかためらってか、視線を泳がせながらしばらくの間をおいて、俺に聞いた。

「相田くん……前の学校で何があったんですか? それで、うちに転校してきたんですよね?」

「……なんでそう思った?」

「雰囲気で分かります。前から、相田くんにこのことを聞くと、いっつもはぐらかされるし、今日のことで確信しました。あの人が関係しているんですよね?」

 確かに以前から、柳には俺の前の学校のことをよく聞かれていた。彼女の言う通り、適当にあしらっていたのだが、薄々何かあることに気付いていたらしい。柳は天然のくせに、どこか鋭いところがある。だがまあ、都内の高校から都内の高校に転校など、それなりの理由があるに決まっているが。 

 俺はふと、虚空を仰いだ。もう空は真っ黒で、風が肌寒かった。

 静かに息を吸い、目を閉じる。

 そして、話す決意をした。

「……俺はな、あいつを退学においやったんだよ」

 透き通るような瞳で俺を見つめる柳は、しばらく黙って俺の話を聞いていた。

 

 

 俺は地元の公立の中学校を卒業すると、都内の私立の進学校、光星高校に入学した。そこで途中までは何事も無く平凡に暮らしていた。

 しかし数か月が経った頃、俺の周囲で異変が起きていることに気付く。物が消えたり、変な噂を流されたりと、高校生にしては余りにも幼稚過ぎる、下劣な嫌がらせだ。

 ほぼ初期の段階から犯人の目星はついていた。同じクラスにいた宮原一成。その動機も心当たりはあった。もともと宮原とは入学当初から、余り仲がよくなかった。同族嫌悪というものだろうか。宮原も俺と同様にどこかひねくれた性格で、とにかく馬が合わなかった。

 決定的な亀裂が生まれたのは、とある日のこと。

 くだらないことからいつものように口論が始まり、その末、クラス中の人間が見ている前で言い負かし、恥をかかせてしまった。その後、俺も熱くなっていたので、言わなくてもいいようなことを言ってしまい、宮原のプライドを大きく傷つけた。

 地味な嫌がらせはそこから始まった。ただ、宮原だけでなく、宮原の周囲にいる人間も嫌がらせに助力していた。宮原も決して友人が多い方ではなかったが、実家が金持ちなので、金にものを言わせて、周囲に見方を作るようになっていた。

 俺は敵を作りやすい性格だったので、あいつが俺の悪い噂を流すことで、俺の学校での立場も日に日に悪くなっていった。それはクラス内だけでなく、学年全体までいきわたっていたらしい。

 それを知ったのはとある日、偶然、梶野と学校からの帰りが重なり、共に下校した時の事。その梶野はどこか心配そうな顔つきで俺に尋ねた。

「ねえ。あんた、大丈夫?」

「何が?」

「何がって……」

 気まずそうに、梶野は目線を泳がす。

「お前も、なんか俺の陰口を聞いたのか」

「う……うん。ほんと……幼稚よね……あんなの誰が真に受けるのかしら。ほんとバカみたい。あんなの、気にすることないわよ」

「別に気にしてねえよ。どうせその内、飽きるだろ」

「うん……そうよね、でも、もしね、辛くなったら、私でいいから、言いなさいよ? 絶対に、なんとかしてあげるから……」

「なんだ、今日は珍しく優しいな。槍でもふるんじゃないか?」

 そのときなぜか、梶野の顔を見て言えなかった。

「……バカ」


 しかしその後も、悪い流れが消えることはなかった。学校内での居心地の悪さは、日に日に増すばかりだった。

 そしてある日、決定的な事件が起きた。

 体育の授業でバスケットボールをしていた時、突然後ろから後頭部にボールをぶつけられた。その時、宮原とその取り巻きはヘラヘラと笑いながら、醜い顔で、俺を眺めていた。

 特に、その痛みが耐えきれないほどだったというわけではない。

 しかし、俺の方を向いて嘲笑う宮原を見た瞬間に、俺の中の何かがプツンと切れた。

 今まで俺の我慢を支えていた土台が、大きな音を立てて崩れさった。

 この屑は、俺が自らの手をもってして、制裁を加えてやらなければならない。

 放っておけばその内飽きるだろうという楽観的な姿勢を取るのはそこでやめた。

 最初の頃は担任の教師に相談しようかとも思ったが、この時の担任は教鞭を取って間もなく、若いし、とても頼れる存在ではない。宮原のような柄の悪い生徒から完全になめられており、相談しても何も変わらないだろうと思ったので、頼ることはしなかった。

 そして梶野に助けを求めるということは、最初から俺の頭にはなかった。巻き込んでしまったら、あいつまでここでの立場が悪くなりかねない。そうなれば、猛勉強してここに入学した努力が報われないではないか。

 元はと言えば、俺がまいた種なのだ。自分の問題は自分の力で解決しなければならない。

 俺は作戦を考え、実行に移った。

 当初考えていた作戦は至ってシンプルで、宮原から喧嘩を仕掛けさせて、暴力事件として公にする。上手く行けば学校から何らかの処分が下され、それにプラスで俺の方からも正当防衛を盾に、一発宮原にきつい攻撃を食らわせる。というものだ。

 そこで最初に頭を悩ませたのは、それを起こす場所だ。正当防衛を完成させるには、第三者の目がなくてはならない。宮原の取り巻きだと口裏を合わされるため、偶然そこにいたような人物が望ましい。

 そこで俺は学校の屋外階段を思いついた。

 光星高校には生徒立ち入り禁止の屋外階段があり、そこは普段施錠されているのだが、放課後の時にのみ、開放されるようになっていた。

 その屋外の階段は、校庭を見渡せる部分に位置しており、校庭との距離も近い。つまりは、校庭からもその階段がよく見える。ということである。

 ここならもってこいなのではないか。そう思った俺はその屋外階段を下見に行き、あることに気付いた。

 その屋外階段の柵は、外の階段にしては非常に低かったのである。これはかなり危険なはずなのだが、おそらくその階段を使う頻度が少ないこともあり、学校側の怠慢で修理工事には至っていなかったのだ。

 それを目にしたとき、俺の頭によぎったのは、悪魔の作戦だった。

 思いついた瞬間、体が凍ったように、冷たい汗が流れ、自らに恐ろしさすら感じた。

 それを決行することに勿論、迷いはあったが、このまま何もしなければ現状は変わらない。暗く孤独な心の中で一人、意を決した。

 俺は放課後、宮原を屋外階段の三階の踊り場に呼び出すと、宮原は予想通り、仲間を三人も引き連れてのこのことやってきた。こいつは一人では俺と対面できない人間なのだ。

「なんだよ。急に用って」

 宮原の表情を見るに、急に俺から呼び出されたことに対して、ある程度の警戒はしているようだ。しかし、のこのこと律儀に呼び出されたここに来るという事は、俺の意図など到底予想もついてないに違いない。

 俺はその階段の踊り場の短い柵に背中を預け、もたれかかった。しかし、体重は完全に前面の方に寄せる。いざこうやってみると、柵は本当に低い。強めの風が吹くだけで全身がひやっとしてしまうほどだ。

 そして三階は思った以上に高さがある。上から見ると、下から見た時以上に高く感じるのはなぜだろうか。ここで少し、迷いも出た。しかし、ここまで来たらやるしかないと自らを奮い立たせる。

 その頼りない柵に背をあずけたまま、俺は何度も心で描いた作戦を実行した。

「おまえのみみっちい嫌がらせ、そろそろやめてくんないかね?」

「はあ? なんのことだよ? なんか証拠でもあんのか?」

 案の定、宮原はしらばっくれた。まあこちらも「はい。今までごめんなさい。これからはもうしません」などという言葉が聞けるとは思っていなかったので問題ない。

「俺に恥かかされたからって、ガキみてえなことしてんじゃねえよ」

「あ?」

 宮原の額に青筋が立つ。

 そこから俺はあらゆる言葉で宮原を挑発した。単純な人間ほど単純な言葉で感情が揺さぶられやすい。宮原の冷静さを欠くのは、容易い仕事だった。

 狙いの時が訪れるのも、そう時間を要しない。

 挑発を続ける俺がまだ言葉途中の時、突然宮原は激高し、俺の胸倉につかみかかった。

 荒くなった息が顔にかかる。眉間にはこれ以上ないくらいにしわが寄っていた。

 ――ここだ! この瞬間こそが、一番の肝心どころ。

俺に駆け足で向かって来たこの瞬間を、絶対に逃してはならない。そしてここは、俺にとっても、最も気を引き締めねばならない正念場だ。

「お、おい! 宮原! やめろ!」

 俺は必要以上に大きな声で叫んだ。こんな大きな声が出せたのかと、自分でも正直驚いた。

 だがそれ以上に、その声を近くで聞いていた宮原を含む四人は驚いたであろう。

 俺の大声で、校庭にいる部活動生やその顧問などの視線が、俺たちのいる屋外階段の踊り場に集まった。

 俺は俺に向かってくる宮原の力を利用し、上手く横に受け流して自らも半分柵の外に体を投げ出しながら、宮原を突き落とした。

 宮原の落ちるときのうめき声は今でも鮮明に覚えている。脳裏にこびりつくような、とっさに人間が腹の底から出すあの声。

 そして落ちた時の、不快感を煽る、生々しい嫌な音。

 三階からでも、その骨を砕く音は十分に聞こえた。

 見ていたものすべてが、言葉を失った。

 自分も体を半分外に出している恐怖を忘れるくらいに、上から見たその光景は異様だった。校庭から見ていた女子生徒の悲鳴が夕方の空に聞こえ、部活動生や教師が大声をあげて宮原の方に駆けつける。

 ――ああ、俺はなんてことを。

 顔面が蒼白になり、体中から汗が湧き出るのが自分でも分かった。瞬時にどっと後悔の念が押し寄せる。

 視界が真っ白になり、周りの音も段々と聞こえなくなった。

 頭の中を吐き気が巡り、俺はその場で嘔吐した。

 


 転落事故は宮原の自業自得という形に落ち着いた。

 あの現場は、実は俺が思ったより多くの人間が目撃していた。校庭にいた生徒の何人かが事の始まりから注視していたようで、その内の数人は、俺と宮原の事情を知っている人間もいて、そういう人間から見ると、やはり宮原が俺を落とそうとするようにしか見えなかったようだ。なにより決定的だったのは、宮原についていった三人も、宮原から喧嘩を仕掛けて勝手に落ちたと主張したのだ。事情を知っている目撃者がいる中で、宮原につくのは分が悪いと悟ったのだろう。

 学校はクラスメイトたちに事情調査を行った。クラスメイトたちからは、宮原が俺に嫌がらせをしていたのを何度も見た。という証言が多く出たようだ。

 宮原は足の骨折だけで済んだので、大事には至らなかったが、喧嘩沙汰を起こしたのと、今までの行為を咎められて退学になった。光星高校は、そういう部分にかなり厳しかった。

 宮原は最後まで俺がわざと挑発して落としたと言い張ったが、その場にいた三人がそうでないと否定するので、やはり信用されなかった。

 学校が宮原に対してした処分を見て、宮原の取り巻きは、完全に宮原を見限ったようだった。その三人は、普段から宮原に無理やり、俺に対する嫌がらせを無理強いされていたと訴え、それがより宮原の心証を悪くした。なんとも鮮やかな裏切りである。所詮、金で釣った関係など脆い。

 全ては上手く行った、いや、上手く行き過ぎたくらいだ。

 復讐は、成し遂げれば達成感や爽快感を得るだろうと思っていたが、俺の胸に残ったのはそんなものではなく。虚しさとも言い切れない、歯切れの悪い何かと、罪悪感だけだった。

 作戦を思いついたときは、考えもしなかったが、もし、もし宮原が頭から落ちていたら、即死もありえたはずだ。

 一度そう思うと、自らがしたことの重大さを、じわじわと実感するようになった。

 しかし、こうでもしなければ、現状を打破することは難しかった。俺一人で解決するには、あの手段しか、考えられなかった。そう自分に、言い訳がましく言い聞かせた。

 そして俺も学校を去った。担任からそう勧められたからだ。

 宮原の退学が決定した後、例の頼りない担任教師に生徒相談室まで呼び出された。

「今回の件、お前が仕組んだんだろ? わざと、あそこに呼んで挑発して、事故を装って突き落とした……違うか?」

 言われた瞬間、心臓が飛び出そうになった。

 瞬時に、あの三人のうち誰かが告げ口したのかと思ったが、すぐに自分で否定をする。あいつらは自分の安全のことしか考えてない。これ以上、事をややこしくしたくないはずだ。

 となると、この担任が思った以上に切れる。ということになる。

「俺はお前が宮原から色々されてたのを知っていた。でも、何も出来なかった。お前の人間性はそれなりに分かっていたから、下手に手を出さなくても、自分の力で解決するだろうって、勝手に思ってた。それは本当に申し訳ないと思ってる。本当にだ。だが、この報復は余りにもひどすぎる。別の解決法だってあったはずだ」

「…………」

「だから相田。お前もここを去れ。お前だけお咎め無しというのは、俺は許せない。俺は、生徒を、なるべく平等に扱いたい。そしてこれはお前のためでもある。どっちにしろこの学校だともう、過ごしにくいだろう」

「…………」

「相田、ちゃんと、お前のことを分かってくれる奴を見つけろ。必ずどこかにいる。もしかしたら、新しい学校で見つけられるかもしれない」

 その時、体に急に温もりが生じ、視界が何かに埋め尽くされた。一瞬何が起きたかわからなかったが、しばらくして理解した。

 何故か急に、その担任教師は俺を抱擁したのだ。

 その華奢な体から想像出来ないほど強い力だったが、その温もりにはやさしさを感じた。

「すまん。なんにもできなくて。お前だってつらかったよな。誰も助けてくれなくてよお。そんなことするまで、追い詰められてさあ。こんな頼りない担任で、ほんとにすまなかった」

 その担任教師は目を赤くさせて大声で号泣した。

 大の大人がこんなにも泣くところを見たのは、今までに一度だけだろう。

 生徒相談室の窓に映った自分を見ると、俺の目にも涙が浮かんでいた。

 静かな生徒相談室には、大の大人と、一六歳の少年の泣く声だけが響いていた。


 俺が宮原にしたこと全てを包み隠さず話したのは、柳が初めてだった。流石にその後の担任とのやり取りまでは話さなかったが、宮原をはめて退学にさせた経緯までは、誰にも話したことがない。

 なぜこいつに全てを打ち明けたのか。俺自身分からない。気付いたら、全てを語っていた。

「なんでそんなひどいことを!」こんな言葉が飛んできそうだ。

 しかし柳は、目に涙を浮かべ、しかし暖かく、俺をなでるように見つめていた。

 それには既視感があった。しばらく考えて、思いだす。

 ああ。あの時の担任教師が浮かべていた顔。あれとどことなく雰囲気が似ている。

 そして、まるであの時のやり取りを再現するかのように、柳は俺を抱きしめた。

「それは……とてもつらかったですね……。ここではもう、相田くんにそんなこと……絶対にさせませんから……」

 その時感じた温もりも、まるであの時と同じだった。

 思えばこの時から、俺は柳に対して何か特別な、何とも言えない感情を抱き始めていた。

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