第2話 偏屈VSおせっかい
すやすやとすがすがしい朝をぐっすり眠りながら過ごしていると、耳をつんざく不快な音が俺を目覚めさせた。音源は間違いなく俺のスマホからである。しかし、目覚ましをセットした覚えなどない。
眠たい目をこすりながら画面を見ると、電話の呼び出し音であることを理解した。画面には柳ことねと表示されている。
そういえばこの間、電話番号も交換したのだったと思い出す。
電話をすることなどめったに、いや正確には電話がかかってくることなどほとんどなかったので、その音が電話の着信音だということに、音を聞くだけでは気づかなかったのだ。
テレビもつけっぱなしにしていたようで、そこではトムとジェリーが放送されていた。今日もトムとジェリーは仲良くけんかをしている。実にほほえましい光景だ。
電話のコールは未だに鳴りやまない。まだ寝起きなので頭も回らず、一体何の用かと思いその電話に出てしまったのが愚かであった。
「なんだよ、朝っぱらから」
「なんだよじゃないです! もうホームルーム終わってます。今どこらへんですか?」
「どこらへんだと言われても、我が家だが。今BSでトムとジェリーを見てる」
「なにやってるんですか! 完全に遅刻じゃないですか! とにかく急いで来てください!」
寝起きの俺の頭にはきつすぎる怒声が電話越しで飛んでくる。
そこで昨日、柳が俺を管理するとかほざいていた事を思い出した。
「……今日は三時間目からいく」
「だめです! 意味不明です。とにかくすぐ準備してきてください。でも朝ごはんは食べなきゃだめですよ? そろそろ一時間目が始まるんで、電話きりますよ。もし来なかったら怒りますからね?」
こいつが怒ってもおそらく全然怖くないだろう。
とりあえず適当に返事をして電話を切った。思ったよりもなかなかに面倒くさくなりそうだったが、決めたことを守るのが責任ある人間としての正しいあり方である。俺は今日三時間目から行くと決めたので、あともう少し寝ることにした。もう少しだけ……。
目が覚めると、二時間目がもう中盤にさしかかろうという時間帯だった。しまった。これでは三時間目にもおそらく間に合わない。とんだ大失態だ。
しかし、過ぎたことは仕方がない。人生を上手くやっていくには、過去の失敗にこだわり過ぎないのも大事なことだ。四時間目には間に合うようにベストを尽くせばよいのだ。
そうして俺はゆっくりと登校の準備を始めた。もうこの時間帯だと電車も混んでないので電車で行くことにしよう。
ふとスマホを見ると、柳からのLINEのメッセージが十件を超えていた。着信履歴はもっとたまっている。既読状態にするとさらに送られてきそうなので未読無視することにする。
およそ電車に揺られること、乗り換えも含め四十分。数分歩いて、やっとこさ、学校にたどり着く。今はもう三時間目も三十分以上経過しているので教室に行っても仕方ないと、校舎裏の適当なところに腰かけながら、三時間目修了のチャイムを待って教室へと向かうと、まだ遠くに見える俺のクラスの教室の前の廊下に立ち尽くしている柳と目があった。
その瞬間、柳はむっと頬を膨らませ、目つきも鋭くなった。
いつも穏やかな彼女らしくない顔つきだが、どこかぎこちない。頑張って怒った様子を見せようとする気持ちが伝わってきた。
柳は一度も目をそらそうとせず、早歩きでドシドシと俺に駆け寄ってきた。栗色の綺麗な髪が肩の上で揺れる。
そして俺の真正面まで来ると、ジト目になり冷ややかな声であいさつをした。
「おはようございます。相田くん」
「うむ。おはよう」
今から四時間目が始まろうかというこの時間帯が、おはやいのかどうかは定かではなかったが、おはようと言われたので、おはようと答えた。
「相田くん、電話でなんて言ってましたっけ?」
はて、何と言ったかなと、額を指で抑えて今日の電話での会話を頭の中で反芻した。
「ええっと……トムとジェリーを見てるって……」
「三時間目から来るって言ってましたよね?」
「い、言った気もするな」
「三時間目にも間に合ってないじゃないですか!」
肩を震わせて柳は甲高い声でどなった。
「い、色々とあったんだよ」
俺は必死に弁解するが、取り合ってもらえそうにもない。
「単に寝坊しただけですよね?」
「学習に睡眠は大事なことだ。睡眠不足だと、記憶力も集中力も落ちるからな」
「言い訳はいいです。明日からは絶対に遅刻しちゃだめですよ! もちろんホームルームに間に合う時間にです。あと、はい、お弁当です」
ぽんと、明るい柄の袋に入った弁当箱を俺に渡した。
「うむ、す、すまんな」
昨日の発言が嘘だと思ったわけではないが、本当に作ってくれるとは、と改めて驚いた。
その後も遅刻に関してわーきゃーと口うるさいことを言われたが、なんとか受け流しつつ四時間目を迎え、昼休みになった。
はあ。と心の中でため息をつきながら、いつもの昼食の席につくと、小山と桜井もやってきた。
「よう。今日は俺よりも遅かったな」
俺の顔を見るなり、茶化すように小山が言ってくる。どうやら小山は珍しく一時間目から来ていたらしい。わけを聞くと今日の一時間目の授業の古文はもうすでにあと四回休んだらアウトというところまできているようだ。
こいつらに見られないようにこっそりと、明るい弁当の袋をほどき、鞄に隠す。
箱だけを取り出して弁当を開けると、色とりどりでいかにも健康によさそうな盛り合わせの弁当だった。まさに柳が作ったという感じ。
たこさんウインナーからつまむと、なるほど、普通にうまいと言える。
「あれ、お前今日弁当なんだ?」
「ま、まあな」
二人とも珍しげな顔で見ていたが、それ以上は追及してこなかったので助かった。さすがにクラスメイトの女子に作ってもらっていると言うのは抵抗がある。
そんな俺の心中などこいつらは知る由もなく、小山は大きなあくびをして、一人で呟いた。
「一時間目から来るとだりいなあ。まあ今日の五,六時間目は文化祭の準備だから余裕で寝れるけど」
気だるそうに言う小山の発言を聞いて、俺の耳はピクリと反応した。
「おい、今なんと言った?」
「……? 余裕で寝れるって」
「違う、その前だ」
まるで洋画のワンシーンようなやり取りを演じて、うれしい事実を発見した。
「今日の五,六時間目は、文化祭の準備らしいよ。出し物なんにするかとか、役決めとか」
小山に代わって桜井が説明する。
まったくそんな下らないことに二時間も割くのかと呆れてしまうが、俺にとっては吉報だった。
「でかしたぞ小山。少しは使えるじゃないか」
「そうほめるなよ」
「そんなに文化祭が楽しみなの?」桜井が尋ねる。
「まさか。文化祭準備なんかサボっても欠席には入らんからな。なんの気兼ねもなく帰れる」
「ああ。なるほどね」
最初からそう知っていればわざわざ四時間目のためだけに学校に来ることにもなかっただろうに。自分の情報収集力のなさを悔やむ。
昼飯を食い終わると、俺はそそくさと荷物をたたんだ。もちろんのこと、学校を抜け出すためだ。
今日講習はないため、小明塾には行かず、カフェで自習し、早めに帰宅してゆっくりゴロゴロするという、壮大な計画を俺は立てた。
周りが昼休みでがやがやしている中、自分の席ではないところで友人たちと食事をしている柳をチラ見して様子を窺った。こちらに気付いている様子はない。
弁当箱を柳の席にこっそり置くと、下駄箱に向かった。
そこで靴に履き替え、校舎裏からフェンスによじ登って、外に出る予定だ。なぜわざわざそんな遠回りをするかというと、この学校は昼休みには正門に教師が見張りに着くからだ。荒れた学校なだけあってよほど学校を抜け出す不良が多いのだろう。
そういう不良のせいで俺のような真面目に勉強したい一心で学校を抜け出す生徒が迷惑を受けるのは、実に腹立たしいことである。
そう思いながら下駄箱で靴に履き替えようとしたところで、後ろから俺を呼び止める聞き覚えのある声に、俺の体は硬直した。
「相田くん」
背筋が寒くなるような、冷たい声音。
反射的に振り向くと大方の予想通り、そこにいたのは柳だ。腕を組んで、仁王立ちの姿勢をとっている。あまりにも柳の性格と不釣り合いの姿勢だった。しかし、目つきにはどこか鋭さがある。
くそっ、気付いてない振りをしてたのか……。意外と油断できないやつだ。
「どこにいくんですか?」
母親が悪事をした子を追い詰めるような声のトーンだった。
「そ、そこらへんで勉強しようと思ってな。今から帰るとこだ」
正直にそう答えたが、やはり、眉根を上げて怒られた。
「ダメです! 勉強するためでも、勝手に帰ったらダメです!」
相変わらず頭の固いお嬢さんだ。ここは仮病で通そう。
「柳……実はな……ごほっ、今ちょっと熱っぽいんだ……ごほっ……だから五、六時間目にでるのは……ごほっ、正直きついんだ……ごほっごほっ、おえーっ」
途中で咳を払い、涙ながらにそう訴えたが、俺の名演技にも、非情な柳の表情はピクリとも動かない。
「だったら、保健室に行けばいいです」
「俺の病はとてもここの保険医の手に負える代物じゃないんだ……ごほっ、今すぐ病院に行かないと……ごほっごほっ、ぼげっー」
「そんなばればれの嘘ついたってダメです! これから文化祭の準備もあるんですよ!」
くそったれ。なぜばれたんだ。天然の柳ならすんなり騙せると思ったがどうやら少し甘く見すぎていたようだ。こうなると真っ向から行くしかない。
「俺は出ない。言ったろ、本気でこの高校からそれなりの大学目指すなら、勉強だけに集中する。それくらいの心意気がいるんだ」
「それでもだめです! それに文化祭には出た方がいいですよ! 絶対に楽しいですって! お友達を増やすチャンスですよ!」
柳は諭すように言うが、俺も考えを改める気はない。
「余計なお世話だ! そして俺はこの手の行事を楽しいと思ったことが一度もない!」
「それは相田くんの取り組む姿勢が悪いんです。いっつも不機嫌そうな顔してるから、何でもつまんなく感じちゃうんです!」
柳のその一言で、しんと、空気が凍てつく。
柳も、言った瞬間にしまったというような表情になった。
彼女の言っていることには俺も自覚はあるのだが、他人から言われると、少し癪に障る。難しいお年頃なのだ。
「悪いな。目つきが悪いのは生まれつきでね。非常に申し訳ないよ」
俺が皮肉めいて言うと柳は、慌てたように両手をてんやわんやさせて弁明した。
「ご、ごめんなさい。そ、そんなつもりじゃなくて……相田くん、せっかくかっこいいのに、不愛想だから、みんな怖がっちゃうんです。いつも笑えば絶対に人気者になれますよ!」
「俺がいつも笑ってたらどうだ。想像してみろ」
柳は目線を上にあげ、顎に手を当てて考える仕草を見せると、すぐさま、うっと顔を歪めた。これはこれで失礼だと思うが。
「と、とにかく、途中で学校を抜けるのは、校則違反です。担任の田村先生もよく相田くんが勝手に帰って困っています……」
柳はだんだん語気も目つきも弱くなっていく。口喧嘩に慣れていない証拠だ。
これは勝てる勝負だ。ここらへんでこちらからもしかけよう。
「校則違反ならお前もしてるだろ?」
「え?」
柳は小さな首をかしげ、まるで不可解といった顔する。どうやら俺が何のことを言っているのか分かっていないらしい。
「お前、髪染めてるだろ。なんかウェーブもかかってるし。それも立派な違反なんじゃないか?」
これでやっと気づいたようで、柳ははっと驚いた様子を見せると、今度は恥ずかしそうに、その端正な顔を赤らめた。照れ隠しからか、両手でその指摘された髪の毛を隠すように抑えている。
「あ、あの、こ、これは、そ、その……」
頑張って言い訳をしようとしているが言葉が出てこないようだ。しかし別に俺も彼女の髪のことを咎める気はこれっぽっちもない。
この学校には名義上、髪を染めてはいけない。という校則は確かに存在する。しかし、この学校が荒れていることもあり、髪を染める生徒は山ほどいて、それをわざわざ注意する教師もほとんどおらず、生徒手帳にただ書いているだけの形だけの校則になっているというのが現状だ。
そして今、最初に彼女に抱いていた違和感の正体が分かった。それは髪とスカート丈だ。都立の高校の女子生徒の制服のスカート丈の長さは基本的に自由。よって生徒によってその長さは異なるが、いわゆる、遊んでそうなおっちゃらけた女子生徒ほど短くする傾向があり、逆に大人しくて清楚な印象を与える生徒ほど標準的な長さになりがちだ。髪の色ももちろんそうで、真面目そうなやつほど黒髪率が高い。
ところがこの柳はどう見ても大人しめで真面目な方、いや真面目すぎるくらいなのにもかかわらず、髪は栗色で、スカート丈も決して短いわけではないが、彼女のイメージからすると、もう少し長い方が彼女らしい。
この年頃の女子なら全然おかしなことではないのだが、超がつくほど真面目な柳がそうしていることに違和感を覚えたのだ。だがなぜ、彼女がそのような少し背伸びした感じの恰好をするかはおおよそ検討がついていた。
意地の悪いような笑みを浮かべながら、小ばかにした感じで俺は指摘した。
「お前、高校デビューしようとしただろ?」
「!」
柳の目が大きくなり、全身がびくっと動いた。
どうやら図星のようだ。
「いやいや、俺はいいと思うぞ? そういうお年頃なんだからさ」
俺は意地の悪い笑みを浮かべて、恥ずかしがる柳の姿をまじまじと見つめる。
「う……ううう……」
もうすでに赤かった柳の顔がさらに真っ赤になり、その赤みは耳たぶの先まで及んでいった。それを隠すように彼女がうつむいたので、よしと思い、この隙に逃げようと試みたが、そこで彼女も顔を上げた。
「待って下さい!」
「なんだよ?」
「も、もし帰ったら、相田くんが授業中にたまにスマホで、えっ、あ、あだるとなサイトを見てることっ、みんなに言います!」
「……!」
ばかな、なぜそれを……。
さてはこいつ、後ろから覗いてたな……。ちょうど彼女の席は俺の一つ斜め後ろという最も覗きやすい位置だ。
「見かけによらず、悪い趣味してるなお前……」
「授業中にあんなもの見てる人に言われたくないです!」
ぐうの音も出なかった。こうして俺は仕方なく、五、六時間目の文化祭準備に出なければならなくなってしまったのであった。
しぶしぶ柳と教室まで向かい、大人しく席に着く。不意をついて走って逃げようかとも考えたが、終始、柳は俺の制服の袖をぎゅっと掴んでいたので、逃げようにも逃げられなかった。
そしていざ始まってみると、文化祭の出し物は意外にもスムーズに決まった。至ってシンプルに焼きそばを作って売るということになった。要するに出店だ。
しかし困ったことに、俺にもシフトが分担され、料理、接客をある程度やらなければならなくなったのだ。どうせ儲かった金も手に入らない仕事でここまでやらなければならないのには本当に気がめいってしまう。ああ面倒くせえ。
文化祭の初回打ち合わせが終わって解散すると、俺と柳はまた以前来たカフェに来ていた。もちろん勉強のためである。
柳に頼まれた通り、今まで小明塾の講習でやったところを教えていたのだが、柳は俺の思っていた以上に飲み込みが早く、心底驚いていた。
「お前やっぱほんとは頭いいんだな」
「い、いえ、相田くんが色々アドバイスをしてくださるからです」
柳が照れつつも謙遜していると、ふと思い出したように俺に質問を投げかけた。
「そういえば、相田くんはどうしてうちに転校してきたんですか? 親御さんのお仕事の関係でしょうか? あ、でも前の学校も確か都内でしたよね?」
無邪気な目で見つめる柳に対し、俺は視線を窓の方に移し、少しの間を置く。橙色の夕日が少し、眩しかった。
「まあ色々だ」
本当の事をいちいち説明するのも億劫だったので、その場では適当にお茶を濁すことにした。それと同時に、聞き覚えのある声が響いた。
「あ、いた」
声のした方を見ると、階段から上がってきて俺たちの方へ向かってくる人影が見える。
俺の元同級生、梶野由紀だ。人目を引く綺麗で凛とした顔立ちと、制服のスカートからのぞく、すらっとした長い足が目に入る。
先ほどここで柳と勉強していると教えたら、自分も行くと言い出したのだ。
「あっ、こんにちは由紀さん」
「うん、ことねちゃん」
梶野は柳と仲睦まじく挨拶しながら、柳のとなりの席に腰かけた。美少女二人、並んで座ると、なかなか壮観だ。そしてその正面には、こんな美少年まで。実に絵になる風景と言える。
席に着いた梶野はテーブルの上の書物に目を向けた。
「へえー世界史やってるんだ」
「はい。でもわたし、世界史はちょっと苦手なんですよね……」
少し弱気そうに柳が言うと、賛同するように梶野もうんうんと頷く。
「確かに覚えることいっぱいで大変よね。私も苦手かな」
「苦手もなにも、お前に得意教科なんてないだろ」
俺が冷静に事実を指摘すると、梶野はぎろっと俺を睨む。
「ほんと、いちいちうっさいわね」
それに賛同するように、柳もうんうんと頷く。
思わず口から出てしまったが、確かに今のは不必要な一言だったかもしれん。梶野の気を紛らわすために、ここいらで俺のうんちくでも披露することにしよう。
「世界史は面白いエピソードとか知ると結構面白くなるぞ」
「ふーん、例えば」
と言うものの梶野は全く期待していないような顔つきだ。それに対して柳はいかにも興味津々といった眼差しで俺の目を見つめてくる。
「アメリカの昔の大統領にジャクソンてのがいてな。そいつは貧乏の生まれでろくに学校も行けなかったんだが、努力して弁護士になって、その後大統領にまでのぼりつめたんだ」
話途中に二人を見ると、梶野も少し興味を持ったようで、耳を傾けていた。柳はこの時点で、「すごいです……」と感嘆の声を上げていた。いや、話の肝はここからなんだが……。
「それでもジャクソンは、なにせ幼少期にまともに学校に通えてなかったからな、時々簡単な英語のつづりを間違えることがあったんだ。それで法案を可決するときに、可決の意味を示すALL CORRECTのつづりを間違えちまったんだ。ALLのAを「O」にCORRECTのCを「K」にしちまったんだ」
どうだ? とばかりに二人を見下ろすが、どうやらまだ理解できていないようだ。
「それがなんなのよ?」
「はあ。まだわかんねえのか」
思わず呆れてため息をつく俺を見て、梶野はなおのこと顔を険しくする。
「もったいぶってないで、早く言いなさいよ」
「そのふたつの頭文字を取ったらなんになる?」
二人は、首をひねり、視線を上に向けたりして、ええっと、と、少しの時間、頭の中で考えを張り巡らせていた。するとすぐに「あっ」と、答えに気付いたように声を上げた。
「O.Kだ!」
「O.Kになりますね!」
その通り日本でもよく日常会話で使われる、了承の意味を表すO.Kは、それが由来で誕生したと言われている。まあ、この話は俺が取っている世界史の講師の受け売りなのだが。
納得したように、感嘆の声を二人は上げていた。その表情を見て俺も満足し、渾身のどや顔で二人を見下した。
「どうだ? まいったか?」
「はい。すっごく面白いし、タメになりました!」
うんうん。柳ちゃんは純粋で素直でとっても良い子である。それに比べてツンデレっ子の梶野の方は少し悔しそうに唸っていた。
「そ、そんなのテストじゃでないし……」
「このひねくれもんめが」
「あんただけには言われたくない!」
梶野が顔を真っ赤にし、俺を指さす。
「まあまあ。二人とも落ち着いてください」
「ねえ、ことねちゃん、こいつそっちの学校でもこんな感じなの? ちゃんとお友達はいるのかしら。わたしとても心配だわ」
答えを分かりきっているくせに白々しく、梶野は大げさにいやみったれる。
「え、ええとですね」
聞かれた柳は、しどろもどろで返答に詰まったが、その様子はもう答えを言っているに等しいだろう。
「相田くんは……、真面目で学業も優秀で……」
「ふむふむ。人間関係の方はどうですか?」
これではまるで三者面談である。
それにしても、くそ……梶野の楽しそうなニヤニヤ笑いに腹が立つ。
「え、ええと、全くお友達がいらっしゃらないわけではないんですが、そんなには……」
そこで虚しく言葉は切れ、柳は目を伏してしまう。
「あちゃー。これは悪いことを聞いてしまいましたー」
梶野は困った顔で、こつんと自分の頭を叩いた。実にわざとらしい。
「だ、だまれ小娘。俺は勉強に集中するためにあえて作らないんだ!」
「はいはーい。よくわかりました」
俺は悔しさのあまり、拳をぎりぎりと握りしめていると、そんな哀れな俺を見かねてか、柳が擁護をしてくれた。
「で、でも、相田くん、転校してきたときは、女の子たちから、すごく人気があったんですよ。うわあ、イケメンが来たって」
ふふんと俺の鼻が高くなる。
「そうだともそうだとも。おいこら、ちゃんと聞いてんのか」
無関心そうにストローでチュウチュウとドリンクを飲む梶野に喚起すると、梶野はテーブルに両肘をつき、達観したような口調で
「聞いてる聞いてる。で、それで? 今も毎日、女の子たちに取り囲まれる生活なのかしら?」
「ぐっ……」
「いえ……、話しかけても、相田くんすごい素っ気なくて、適当な返事しかしないし、話しかけると、絶対に不機嫌そうな顔で、イヤホンつけて机で勉強始めちゃうから、みんな段々と寄り付かなくなっちゃって……」
説明せんでもいいことをべらべらと柳は語る。
「あらあら。それじゃあお友達もできないわね」
梶野は肩をすくめてやれやれといったポーズを取った。
それにも腹が立ったが、それにしても、そんなに俺は不機嫌そうな顔をしていただろうか。確かに勉強している時に話しかけられるとイラっとはするが……。
そう一人で自分の行動を見つめなおしていると、柳が顔を赤くして、窺うように、俺を見つめているのに気付いた。
何事だと思って視線を返すと、控えめに、柳は言葉を拾った。
「わ、わたしだって、最初、頑張って話しかけたのに……」
「え? そ、そうだっけ?」
こめかみに手をあてて、記憶を探るが全く覚えがない。前回の口論が初めての会話だとばかり思っていた。
「お、覚えてないんですか?」
「す、すまん。まったく」
柳の表情が暗く沈み、俺はなんだか申し訳ない気持ちになる。
「ど、どんな会話したっけ? き、聞いたら思い出すかも」
顔を上げて、柳が少し涙を浮かべた目で俺を見つめた。そ、そんな目で見られても……。
「……わたしが、休み時間に、相田くんに聞いたんです。どちらの学校からいらっしゃったんですか? って、そしたら……」
『そしたら?』
俺と梶野が声を重ねて、柳に顔を近づけた。まるで、怪談の落ちを聞くような様相であるが、ところがなんと、これが俺の話だというから驚きだ。
「一度もこっちを見ないで、ずーっと下を向いたまま、すっごくめんどくさそうに、「あっち」って適当なとこ指さして、言ったんです……」
な、なんと感じの悪い奴だろう! この控えめな性格の柳が勇気を振り絞って話しかけたというのに! そりゃあ周りから嫌われるに決まってる。ところがなんと、これが俺の話だというから驚きだ。
梶野は言うまでもなく、うわあと、ドン引きしている。
言われてみればそんなこともあったような……。柳をちらっと見てみると、目が赤くなっており、俺の罪悪感が少し膨らんだ。
「……そ、それ本当に俺か?」
「そんな人、相田くんしかいません!」
涙ながらにそう訴える柳は、どこか健気だった。
「でも……」
「ん?」
「相田くん、ほんとはそんなに悪い人じゃありませんでした。こないだも色んなこと教えてくれて、本を買うのも、手伝ってくれて……だから、クラスでもそういう風にすれば、みんなの誤解もとけますよ」
真摯に俺の顔を見つめながらそう言う柳を見ると、どこか気恥ずかしくなって何も言えなかった。
少しはその意見を参考にするのも、悪くないかもしれない。
その日はなんの変哲も無い、ごく普通の一日になるはずだったのだが、あろうことか俺の不注意のせいでとんでもない厄日となってしまったのだった。
事情を説明するには、その日の朝まで時間をさかのぼらなければならない。
俺はいつも通りぐっすり寝て、三時間目から登校する予定だったのだが、またもや柳からの電話でたたき起こされた。
電話をマナーモードにしておけばよいだろうという指摘をされるかもしれないが、電話を無視して遅刻していくと、これ以上なくしつこくお説教を食らってしまうのである。俺をダメ人間にしないよう管理すると勝手に約束されたあの日からこういう日々は続いていたが、弁当も作ってもらっているので、なかなか文句も言えなかった。
しかしそのせいか、俺の遅刻回数は著しく減るようになった。これはやはり、俺にとって良いことだと受け止めるべきなのだろうが、この日に限ってはトラブルを引き起こす要因となってしまったのだった。
事件は一時間目に起きた。
「今すぐそれをしまえ」
そう俺にきつい口調で言い放ったのは、倫理を担当している増田教諭。俺は授業中、英語の単語帳の単語をひたすら紙に何度も書き写していた。眠い時は思考力が欠けているので、問題を解くのではなく、ひたすら暗記をするのが俺のルールなのだ。
今の俺のように、授業中に他の勉強をすることを一般的に内職と呼ぶ。内職をすることに関して、咎める教師とそうでない教師がいるが、この増田は前者なのだ。
中でも増田はかなりそれに対して厳しい教師であった。
しかし俺も迂闊だった。この増田はこの学校で最も面倒な教師であり、とてつもなく頭の固いことで知られている。以前にも増田の授業で内職して注意されたことがあり、それ以降、増田の授業ではばれないように慎重にやっていたのだが、今日の俺は朝、電話で叩き起こされ、睡眠時間があまり取れなかったことからも、集中力を欠いており、完全に気を抜いていた。
そして、問題なのはここからだ。
普段だったら、この状況でも特に何も起きないはずだった。しかし今日に限っては、睡眠不足でイライラしていたせいか、増田の冷たい一言で、俺は完全に頭に血がのぼってしまったのだ。
「なんでですか?」
眉をよせて、増田を睨む。
「今は倫理の時間だからだ。英語の時間じゃない」
「俺は受験に倫理は使わないんですよ」
増田はまるで機械かのように、表情をほとんど変えない。
「そんなのは関係ない。授業はちゃんと聞け」
頑固な物言いに、俺もヒートアップしてしまった。
「なぜです? 俺にとっては何の役にも立たないんですが」
「なんだと」
その時後ろから背中を指でつつかれる感触があった。
小声で「相田くん! 相田くん!」というささやきが聞こえる。
そんな声も無視して、俺と増田の口論は続く。
教室内も少しざわつき始めた。
「あなたのは授業というより、自分の政治思想を押し付けてるだけですよね?」
そこで、増田にも自覚があったのか少し顔を歪めた。
増田は時折、授業中に自分の政治思想を、あたかも正しい理論だというように、生徒たちに押し付ける傾向があった。俺は元々そのことで増田に不満を持っていたのもあって、完全に喧嘩腰の口調になっていた。
「教師はあくまで中道の立場で授業を行うべきじゃないんですか? あなたその時点で教師失格なんですよ」
この言葉で増田も完全にぶちぎれたようで、普段ほとんど変えない顔を真っ赤にし鬼の形相へと変貌を遂げた。
「なんだ貴様その態度は! それが年上の人間に対する物言いか!」
俺の言葉を否定しないということは、やはり自覚はあったのだろう。
「俺より年食ってたら俺より偉いんですか?」
「年上には敬意を払う、そんな常識も知らんのか?」
俺は日本特有の年功序列が死ぬほど嫌いだ。年寄りをいたわれという考え方には共感できるが、年を取っているだけで、まるで人間として上であるかのような、尊重しなければならないという考え方が理解できない。年だけとっている愚かな人間などいくらでもいる。
だが、そういう考え方の奴を一発でだまらせるフレーズを俺は昔生み出したのである。
「言っときますけど」
言葉を続けようとする俺を、増田は未だに鬼のような目つきで、座っている俺を上から見下すようににらみつける。
「バカでも年だけはとれるんですよ?」
これで完全に何かが吹っ切れたようで、増田が何語かもわからない言葉で咆哮した。その怒声で周囲のクラスメイトたちも肩を震わせ、教室にはなんとも言えない不穏な空気が充満した。
増田は椅子に座っている俺の胸倉を掴み、体を引き上げた。それと同時に椅子が倒れ、激しい音を立てる。
増田はそのままの勢いで腕ごと拳を大きく振り上げた。目と拳の照準は完全に俺の顔面をとらえている。ただ俺も顔面パンチなど喰らいたくないので、それを手で受け止められるよう、全身の神経を集中させた。
増田もそうだろうが、俺も体中が熱くなって、アドレナリンが放出しまくっているのが分かった。頭の中を血が普段の倍速で駆け回っているような感覚にとらわれる。先ほどまでの眠気がまるで嘘のようだ。
教室のざわつきが消え、場が緊張感に包まれる中、増田の拳が直進を始め、俺もガードの準備を始める。
その時だった。
閉まっていた教室の黒板側の扉が盛大に開かれ、ザザーっと学校の引き戸特有の音が教室に鳴り響く。
そこにいた者すべてが不意をつかれ、おそらく全員がそちらの方を振り向いただろう。もちろん俺と増田も例外ではない。
「ちーっす」
入ってきたのは、小山だった。
その後の沈黙はいったいどのくらい続いただろうか。教室は、まるで時が止まったかのような静寂に満ちている。
「あれ……」
小山は場の空気に殺されたように、あっけにとられている。だがその小山の登場のおかげで冷静さを取りもどしたのは、増田だった。
固めていた拳をほどき、俺の胸倉から手を放つと静かに黒板の方へ戻っていった。
「早く席につきなさい」
その後、まるで何事も無かったかのように授業は進められた。
授業終了のチャイムが鳴ると、それとほぼ同時に増田も速攻で教室を後にした。授業中も俺の方を向くことは無かった。
それにしても、今回ばかりはさすがに俺も肝を冷やした。短気は損気。俺と増田両方に言える事だろう。
と、一人で反省会を行っていると、何者かに後ろから急に腕をつかまれて強引に廊下まで運び出された。
「なにやってるんですか!?」
思った通り、柳だ。小さな口を精一杯開き、拳を握っている。
「なにもかにも……見てなかったのか?」
「見てましたよもちろん! 途中で何度も止めようと注意したじゃないですか!」
さっきの増田に続いてこちらも鬼のように俺に怒鳴りつける。だがこっちの鬼は少しかわいかった。
「お、俺もお前に叩き起こされて睡眠不足でイライラしてたんだ」
「わたしのせいにしないでください!」
言い訳をするとさらに怒られる。これもいつもと変わらないことだ。
「もう少しで相田くん、殴られてたかもしれないんですよ……」
激怒していた様子から一転、わが子を心配する母のような顔で俺に言った。その目には少し涙が浮かんでいる。
ここで反省の言葉を述べるのも、なんだか負けた気がするので、つい負け惜しみのようなことを言ってしまった。
「そうなってたら、あいつの方が後で大変だっただろうな」
「!」
柳は俺の言った言葉に驚嘆し、信じられないと言わんばかりに涙の浮かんでいる目を丸くする。
「……本気で言ってるんですか?」
柳の目が、鋭く険しいものへと変わる。その瞳の中には、本気の怒りが見えた。それに気おされて、不覚にも俺はたじろいでしまった。
「今から、謝りにいきますよ!」
「は!? そ、それだけは勘弁してくれ!」
「しません!」
柳は俺の学ランの袖をぎゅっと掴み、ぐいぐいと廊下を進んだ。
すれ違う者たち全員が、珍しい動物でも見るかのように、好奇の目で見つめてきた。俺はあまりに恥ずかしかったが、柳はまるで気にも留めないように、そのままの調子でぐいぐいと俺を職員室まで運んだ。
「失礼します。増田先生はいらっしゃいますでしょうか?」
柳がガラガラとよく職員室の戸を開け、礼儀よく訪ねる。しかし、俺の袖はまだ強くつかまれたままだ。
このままではまずい。俺はその場で学ランを脱ぎ捨て、一目散に駆けだした。
「あっ! こら!」
振り向くと、柳が魚をくわえたドラ猫を追いかけるサザエさんのような声をあげて、俺の脱ぎ捨てた学ランを抱えながら追いかけてきた。しかし、速さで俺に敵うわけもなく、みるみるうちに、差が大きく開いていった。
走りながらひとまず安心していると、突如、目の前にあった職員専用のトイレから、何者かが急に出てきてぶつかりかけたが、一歩手前で俺はなんとか足を止めた。
「げっ」
はっと相手の顔を見上げると、絶句した。
太い眉にいかにも頑固そうな強面の顔。増田であった。眉間にしわを寄せて俺をじっと睨みつけている。
しばし沈黙が保たれると、追いかけて来た柳が息を切らして、やってきた。
「はあっ、はあっ、もう、逃がしませんよ……あれ?」
柳もこの状況に気付き、気まずげな表情を浮かべる。そして増田がついに口を開いた。
「相田、職員室に来い。話がある」
どっと、肩に何かがのしかかるような重みを感じた。
「それで、反省はしたのか?」
職員室で自分の椅子にどっしりと座っている増田は、目を細めながら聞く。
「ええ。それはもう、相田くんはあれからものすごく、反省していて……」
「お前に聞いてるんだ相田!」
どんっと机を叩き、低い声で怒鳴る。その声で驚いたのか隣に立っている柳の体が、ビクンと震え、怯えた表情になった。
どうでもいいが、なぜおまえがここにいるんだ?
まあそれはさておき、これはもうどうしようもない。大人しくしておこう。
「はい……すいませんでした」
増田は腕を組み、静かに目を伏せた。果たしてこれで納得してくれただろうか。
「相田……お前が真剣に受験勉強をしているのは知ってる。この学校からだと、それなりに大変だろう。だから応援はしてやりたい。だがな、あくまで分別はわきまえろ。礼儀を身に着けんまま大学に行っても、何も成長せんぞ」
なぜか、この言葉は妙に身に入った。俺は何とも言えぬ気持ちになって、静かに視線を落とす。その様子を、柳が横目で窺がっているのが分かった。
「その様子だと、ちゃんと反省しているようだな……」
増田はそう言うと、なぜか今度は、俺に対し、深々と頭を下げた。
「俺も、さっきはすまなかった。あれは、教師として、絶対にやってはいけない事だった。それと、授業中、政治思想を押し付けているっていうのも、その通りだ。もう今後はそういうことはしないつもりだ。本当に、申し訳ない」
予期せぬ増田の態度に思わず、大きく心が揺らいだ。この時本当の意味で、俺は自分の過ちに気付かされた。人はなぜこういう時に、涙が出そうになってしまうのだろう。
増田が顔を上げて、少し笑って俺の方を見る。
「あと、アドバイスだが、もう少しお前は楽しそうな顔をした方がいいな。いっつもあんなしかめっ面では、友達もできんぞ。まあ、俺が言えたことではないがな」
その言葉で、隣の柳も少し微笑む。
「もういい。勉強、がんばれよ」
「はい。本当に、先ほどはすいませんでした。それでは、失礼します」
俺は頭を下げて、背を向けた。柳もそれに続くと、職員室を出る際、また声を掛けられた。
「相田、いいガールフレンドをもったな。大事にしろよ」
振り向くと、増田や他の教員たちも微笑みながら、俺たちの方を見ていた。
急に恥ずかしさがこみ上げる。隣の柳を見ると、柳も顔が真っ赤になっていた。
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