最初で最後の懺悔を君に
セザール
第1話 偏屈な男
少し前までの蒸し暑さは消え去り、心地よい風が肌を包む高校二年の秋。
退屈なホームルームの途中、机に肘をつきながら何気なく窓の方を向くと、部活へと向かう生徒、友達と楽しそうに談笑しながら帰路に向かう生徒たちの姿が見えた。
一般的に言って、今が青春の真っ盛りであることは自分でも理解している。高校二年ももう後半とはいえ、ほとんどの生徒は本腰を入れて受験に備えてはいないだろう。しかし、自分の人生を長期的な視点で見た時、今この瞬間こそ最もストイックでなくてはならない。勝負とは、周りが気を抜いている時にこそ、差をつける絶好の機会なのだから。
孤独でも構わない。学問とは本来、そういうもののはずだ。
学校で全ての授業を終え、担任の田村が聞きにくい声でボソボソと話すいつものホームルームが始まると、どこか不機嫌そうな顔つきをした相田祐一は、やっと帰れると言わんばかりに解放感をさらけ出す生徒たちの喧騒の中、早々と荷物をたたんだ。
……やっと今日も、おわりか。まったく、こんな無駄なホームルームにいったいいつまで時間をかけているんだ。こんなマンネリと化した連絡事項を真剣に聞いているのは、俺の斜め後ろの席の真面目な女子生徒くらいのもんだろう。この騒がしい中で、ちゃんと聞こえているのかは甚だ謎ではあるが。
しばらくしてやっと長い話が終わり、解散が告げられると、祐一は鞄を抱えて早足でトイレに行き、用を足した。手を洗い、鏡をのぞき込むと、二重の鋭い目つきが同じように祐一
の顔をのぞく。
細く高い鼻筋に、西洋人のような茶色い瞳は、獲物を射止めるかのように凛々しく、まさに精悍な顔立ちという表現がぴったりである。祐一自身、自分が、美形に分類される容姿であると自覚していた。
とは言うものの、祐一がこの学校で女子たちからもてているのかというと、実はそうではない。理由は明白で、呆れるほどにひねくれた性格と、学校内では勉強しかせず、ほとんど他人と交流をもたないことにある。
祐一は半年ほど前、、近くの名門私立高校から、ここ都立竹代高校に転校し、校内の注目を浴びた。高校で転校というのは珍しく、それだけで注目の的となるのは必然なのだが、祐一のようなルックスだとさらに拍車がかかった。
当初は別のクラスからも祐一を見るために男女問わず人がたかり、交流を試みようと声をかえたが、祐一の驚くほどの塩対応っぷりに、大抵の人間はすぐに立ち去り、まるで近づこうとはしなくなってしまった。そして一週間後には祐一の周りにほとんど人間はいなくなった。
しかし祐一は、そんなことは気にもとめていなかった。
……今俺の頭の中は、受験のことでいっぱいであり、恋愛や友人との遊びになんぞに現を抜かす予定などないのだから。
まあ、こういう排他的な思考だからこそ、人々は俺を避けるのだろうが。
祐一は下駄箱で靴を履き替え、そそくさと学校を出て、学校の最寄り駅である鶯谷駅にて山手線の上野方面行きの電車に乗りこむ。電車で揺られることおよそ十分程度。その間は座席で英単語長を開き、電車の心地よいリズムに乗りながら、英単語の暗記に勤しんだ。
予備校の最寄り駅で降り、徒歩で五分もかからないうちに、目的地である大手予備校、小明塾に到着する。
ここには高二の五月ごろ、竹代高校に転校して一か月経ったくらいから通っている。しかしまだ受講する講習までには時間があるので、六階のラウンジで飲み物でも買おうと、一階ロビー奥のエレベーターのボタンを押した。
ラウンジにはカウンター席とテーブル席があり、塾生は食事、友人との談笑、休憩等の際に、ラウンジを利用する。今日のこの時間帯は、受講生の多い講習の前ということもあってラウンジは割と混み合っていた。
自販機でホットテティーを買い、空いているカウンター席に座って、適当にスマホをいじったり、単語帳などで勉強したりしながら、講習が始まるまでの有意義な時間を一人で楽しんでいると、突然、その健やかな時間を切り裂く乱入者が、後ろから祐一の肩を叩いた。
しかし、人物の見当はつく。
「おっす」
その声の方を振り向くと、想定していた通り、梶野由紀だった。その端正な顔立ちと、細い眉の下にある、意志の強そうな大きく黒い瞳が、祐一の視線とぶつかる。
なぜ彼女と分かったのかというと、この予備校で祐一に話しかけてくる人間など、彼女くらいしかいないからだ。もっと正確に言うと、日常生活全般において、祐一とコミュニケーションを取ろうとするようなもの好きは、梶野を含めて数人くらいしかいない。
この梶野由紀は中学の時の同級生であり、祐一が転校する前の高校での同級生でもあった。いわゆる腐れ縁というやつだ。
梶野はそこまで長くない艶のある黒髪をポニーテールにしており、そのスポーティーな印象は中学の時から変わらない。都内でも有数の進学校、光星高校のオシャレと名高い制服に身を包み、そのチェックの入ったスカートからは、すらっとした長い足がのぞき、彼女のスタイルの良さをより際立たせている。これで胸もあれば完璧だったのだが、さすがにそこまでは上手くはいかなったようだ。
この梶野由紀はなぜか祐一にだけは暴力的で口が悪いが、黙っていれば美人の部類に入るのは間違いない。彼女と肩を並べて歩くと、すれ違う男どもの視線が集まるのがよく分かる。
中学時代、梶野は元々そんなに勉強のできる方ではなかったので、三年になってバスケ部を引退した後、俺と同じく光星高校を志望すると聞いた時は驚いたものだった。
当時、同じクラスだった俺に散々俺に勉強を教えてくれとしつこく泣きついてきたので、毎日のように勉強の面倒を見てやり、見事合格に導いてやったのだが、今となっては、そのことに感謝の意を示すどころか、会うたびに毒を吐くような有様だ。
しかし今となっては無様にも光星高校の学力レベルについていけずに苦労しているようで、彼女も今ここに通っているという。実にいい気味である。
その梶野はカウンターのテーブルにドサッとスクール鞄を置くと、何も言わずに祐一の隣の席に腰かけた。
「あんた、今日の予習ちゃんとやってきた? 今日のとこけっこうきつくない?」
「そうか? 別段、難しいとも思わなかったけどな」
祐一と梶野が話しているのは今日の英語の講習のことだ。
「まじか……英語は苦手なのよね。ほら、わたしジャパニーズのやまとなでしこだし」
おそらく、本当にやまとなでしこと称されるような女性は、自分のことをやまとなでしこだとは言わないだろう。
「おまえ、どこ目指してんだっけ?」
「ソフィアよ」
「……スフイア?」
「ソフィアよ! 上智よ! 上智」
梶野が声を荒立てて訂正する。ソフィアもスフィアも似たようなもんだろうが……。
「でもお前、上智志望なら、なおさら英語やんなきゃだめだろう」
上智大学の入試は高い英語力を求められることで有名だ。
「ううう、そうなのよねえ……」
「まあまだ高二なんだ。なんとかなるなる」
そうやって適当に慰めると、その雑な扱いが逆に彼女の癪に障ったようで、鋭い目つきを俺にぶつけた。
「いつかあんたよりも絶対頭よくなってやる……」
梶野は高らかに宣戦布告すると、ぷいっと顔を今日使う英語のテキストの方に移した。その後は互いに今日の予習や単語の暗記などをしていると、意外と時間が速く進み、もう講習開始三十分前になっている事に気がついた。
「そろそろいくぞ」
「え、もう?」
梶野は目を丸くして、椅子から立ち上がった俺を見つめた。
「俺は席にはこだわりがあるんだよ」
「はいはい。わかりました」
ここ小明塾では授業の際に座る席は基本的には自由席となっている。よって授業に対する意識の高い者はだいたい前列、低い者は後ろの方へと流れる傾向がある。
かくいう俺はというと、真ん中よりも少し前くらいの一番端の席を指定席としている。この位置が最も黒板を見やすいからだ。
意識は高いか? もちろんだ。ここの誰よりも高い自信がある。だが席は一番前ではない。一番前は首と目が疲れやすいのだ。そして人間は端っこの席が大好きなのである。俺はその中でも過激派であり、前に俺の特等席を取ろうとした奴にガンを飛ばし見事奪い取った経歴を持つ。
相田祐一という男の特徴としてもう一つ、自他共に認める美形ではあるのだが、目つきが鋭いあまりか、どうも学校の人間たちから常に不機嫌だと思われているらしい。これも人が寄り付かなくなる原因のひとつだろう。
この高二対象の英語クラスはおよそ一三〇名程度の塾生が受講していて、もうすでに四割くらいの生徒は教室に現れ、淡々と講習の予習をしている。その顔つきには真剣さが見られ、近くで音を立てるのもはばかられた。
ここが学校と予備校の決定的な差であろう。学校の授業だと、受け身な姿勢になりがちなため、どうしても予備校に比べて緊張感が劣ってしまう。それに対して、予備校は、自分の意志で来ているし、金もかかっているためそれを無駄にしたくない。という思いもあり、自然と積極的に取り組むようになる。
しかも今、自分の通っている高校はあまり偏差値の高い学校でないため、自分で勉強をしなければ大きく進学校の生徒たちに遅れをとってしまう。俺はすでに私立文系での進学を決め、使う科目も絞られていたので、完全に意識を受験一本に向けて、この小明塾に積極的に通っていた。
あれこれ考えながらしばらくすると、前の扉が静かに開き、講師が教室に入ってきた。それと同時に生徒たちの視線が前方に集中し、教室全体にさらなる緊張感が走った。
講習が終わると、各自、どこか緊張感の抜けた様子を見せ、今まで静かだった教室内も少しざわつく。
俺と梶野も適当に言葉を交わしながら荷物をたたむと、共に帰宅のために駅まで向かった。
外に出ると辺りはもう暗く、秋と冬の狭間の夜風が肌を包んだ。講習は百二十分もあるので、集中して聞くと、終わったころには頭も体も疲れていて、外に出てこうして風を浴びるだけで心身共にリフレッシュされる。その風を梶野も正面から受け、気持ちよさそうに髪をなびかせていた。
「今日の授業、面白かったわね」
「お前の場合明日にゃ全部忘れてそうだけどな」
「あんたも今日までの記憶、全部忘れたい?」
にこやかに微笑みながら、梶野は右手でこぶしを握る。
「ま、まあ確かに、よかったな……」
完全にひるんでしまった祐一は殴られたくなかったので適当にごまかすと、梶野は呆れた顔で「はあ」とため息をついて、心配そうな顔で俺に問いかけた。
「それよりあんた、今の学校の方では……その、大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
祐一は、梶野の質問の本意を充分に理解していたが、あえて気付いていないふりをした。
「だから……その、うちにいた時みたいになってないわよね」
“うち”とは彼女が今通っていて、祐一が以前まで通っていた光星高校のことだろう。
「別になんもねえよ。余計なお世話だ」
気を遣ってくれることに対して、つい照れ隠しで強い口調になってしまった。それで梶野はむすっと膨れる。
「あんたのそういうとこ、ほんっと可愛くない! せっかく人が心配してあげてんのに!」
別に可愛くなる必要もないと思ったが、これ以上言うともっと怒りそうなのでやめておいた。
「そんなんだから、いつまでたっても友達できないのよ」
「それこそ余計なお世話だ」
祐一と梶野は互いにぷいと顔をそむけ、歩を進めた。
しかし内心では、梶野が自分を心配してくれていることが、密かに嬉しかった。
最近買ったロードバイクで、快晴の下、都内の道路を駆けていく通学は想像以上に快適だった。足でペダルを走らせ、加速度を増す度に走る高揚感がたまらない。朝の風は心地よく、さらにこうも天気がよいと、このままサイクリングでどこか遠いところまで行きたくなる衝動に駆られる。ほんの少し前までは地獄のような満員電車に揺られながら登校していたことを思うと、こつこつ小遣いをためながら節約生活を続け、奮発してこのロードバイクを買ってよかった。心からそう思う。
しかし、こうも優雅に登校しているものの、時刻はもう九時を回ろうとしていた。
うむ。完全に遅刻だな。
今日は木曜だから……一時間目は現国のはず……。まだそんなにさぼってない科目だ。
授業開始から三十分までに教室に入れば、遅刻として扱われ、三回の遅刻で欠席となる。進級には三分の二以上の出席が必要だから……。
過去の遅刻歴を頭の隅から引き出しながら、祐一は頭の中で計算をした。
幸い二学期の木曜はまだ遅刻五回で済んでいるためまだまだ大丈夫のはずだ。今から普通に学校にむかっても十分程度の遅刻は回避できない。そんなときはギリギリ二十八分くらいに行くのがコスパがよいというものである。
しかし、悠々と音楽に乗りながら学校周辺のさびれた下町の風景を楽しむ時間稼ぎのサイクリングは、あっという間に終わりの時を告げた。
憂鬱な気持ちで、祐一が在籍している、竹代高校の門をくぐる。
大幅に遅れて教室に入るとなると、初めのころは周りの視線が気になったが、今ではもう慣れてしまったし、もはや常習犯なので周りももうそんなに気にしていないだろう。
そもそもこの学校は一般的に、「荒れている」と称されるような学校で、自分以外にも遅刻常習犯はごまんといる。
教室に入り、教師に今来たことを言いに黒板の方に行っても、案の定ほとんどのクラスメイトたちは、スマホをいじったり、机に突っ伏して寝ていたりなど、気にする素振りを見せなかった。
……ただ、一人を除いて。
それが始まったのはいつ頃からだっただろうか。明確には覚えていないが、ここ最近、斜め後ろの席のある人物からの視線を、妙に強く感じる。遅刻して教室に入った瞬間からそれは始まり、席についてもなお、まじまじとその視線を背で感じるのだ。不意を突き、ちらっとその方を振り向くと、目が合い、向こうがささっとすぐに目をそらして黒板の方を見る。これがもはや日課となっていた。俺の素行がそんなに気に食わないのだろうか?
しかし、なぜ俺だけ……? 俺と同じことをしている奴なら他にいくらでもいるではないか。
その行動を不可解に思いながらも、祐一は気持ちを切り替え、いつものように授業を無視した自分の勉強、いわゆる「内職」を始めた。
しかし、その後ろからの視線は、授業中もたびたび背中で感じた。
ギリギリ遅刻とされる時間帯に来ただけあって授業は、あっと言う間にで終わってしまった。会話を交わす相手もいないので、とりあえず用を足そうと、祐一は席を立つ。
……その瞬間だった。
「あ、あの相田くん」
突然後ろから、力の無い、緊張気味な声で名を呼ばれ、祐一は反射的に振り返った。
視線を少し落とした先にある、くりっとした、丸いつぶらな瞳が、祐一のそれと邂逅する。それと同時に、祐一は顔をしかめた。
この人は……俺の斜め後ろの席の、確か名前は、柳ことねさん……だったっけか。この荒れた学校には似合わない、ほんわかした柔らかな雰囲気のおとなしい人で、顔もかなり可愛いく、声をかけられた男子は、さぞ気持ちが舞い上がることだろう。
しかしこんな美少女に話しかけられたのにも関わらず、祐一が顔をしかめたのは、実はこの柳さんこそ、最近よく祐一を後ろから凝視している犯人だからである。
その栗色の髪はぎりぎり肩にかかるくらいの長さで、毛先には少しウェーブがかかっている。身長は150センチくらいと小柄で、年下だと言われてもすんなり受け入れるだろう。しかし雰囲気や佇まいは上品で、どこかのお嬢様かのような面影まである。なんの変哲もないここの学校指定のセーラー服も、彼女が着ると、映えて見えた。
しかも同じ美形でも、梶野とは違って胸もそれなりにあった。
柳さんはこのクラスで、いや、この学校全体という規模で考えても、おそらく一番真面目な生徒だろう。この人と今まで話したことは多分なかった思うが、それは、祐一でもわかるほどだ。この荒れた学校に彼女がいるのは、ライオンの檻の中に一匹だけウサギがまじっているようなものだから、どうしても目に留まる。
しかも噂では、成績も上位だと聞いたことがある。この人ならもっといい高校にも行けたと思うが、なぜここに来たのだろうかと、以前から少し疑問に思っていた。
そしてこの柳さんには、とりわけそこまで気になるわけではないが、初めて見た時からある種の違和感を俺は覚えていた。
その柳さんは、祐一に声をかけてしばらく間を置いた後、小さく口を開いた。
「相田くん、この前も遅刻してましたよね……。あんまり遅刻重ねちゃうと、出席日数が足りなくなって進級できなくなっちゃうから、その、相田くん、せっかく頭いいのにそんなことになっちゃったら……その、もったいないと思って」
まるでギャルゲーに出てくる委員長キャラを大人しめにしたような感じで言われ、祐一は思わず目を丸めた。現実でもこんなシチュエーションがあるんだなと思わず感慨に浸る。
「気遣ってくれるのはありがたいけど、俺はちゃんとそこらへん計算してサボってるから大丈夫だ」
「でも、やっぱり授業にはちゃんと出た方がいいと思うし……」
意外にも柳さんは、食い下がってきた。
「自分で勝手に勉強してる方が効率いい」
祐一は癖で思わず、冷たい口調で言い放ってしまった。反応を窺うと、柳さんは少し返答に窮した様子だったが、負けじと顔を上げて反論してきた。
「そんなこと……ないと思います。私なんかが言っても説得力ないと思われるかもしれませんが、授業はちゃんと聞けば案外面白いことも多いし、いつかきっと役に立つと思い……ます」
言葉には強さがないが、見た目に反して意外にも頑固な人だった。しかし、頑固なのは俺も同じだ。
「いつかっていつ?」
「そ、それは……わからないですけど……」
ただでさえ、たぬきにすら食べられかねない、脆そうな雰囲気を醸し出している人なのに、その顔からさらに自信が消え去っていく。
「いつ役に立つか分からないことに時間をかけるよりも、明確に利益になることに労力を費やす方が合理的だと思うけど」
「そ、そんなの屁理屈です」
「屁理屈じゃない。理屈だ。それに、俺以外にもさぼってる奴なんて山ほどいるだろ。なんで俺にだけにつっかかるんだよ」
「そ、それは……」
論争がヒートアップしてくると、周囲の注目を浴びて、ひそひそと何かを言われていることに気が付いた。確かに俺と柳さん、珍しい組み合わせだ。しかもこの構図、周囲の人間たちの俺へのイメージを考えると、完全に俺が柳さんをいじめているようにしか見えない。
面倒だな。と思っていると、ようやく二時間目開始のチャイムがなってくれた。いつもは短すぎると不満に思っていた休憩時間も、今回だけは役に立った。祐一ははまるで何事もなかったかのように椅子に座る。
周りのクラスメイトたちが好奇心を孕んだ表情を浮かべている中、その的となっている柳さんだけが、まだ何か言いたげな顔をしていた。
二時間目の授業は英語だった。いつもと同じように、授業などそっちのけで、ひたすら机に向かって自己流の勉強をしていると、二十分が経った頃だろうか。このクラスの最多遅刻記録保持者であり、今もなおその記録を伸ばさんとしている小山憲人が登校してきた。
小山が教室に入ると、その派手な金髪で、全員の注目を集める。こう述べると荒れた学校特有の不良かと思われるかもしれないがそんな事はない。不良の雰囲気を出したいだけの、よくいる痛い子だ。本職の不良とは程遠い。
「うぃーす」
その姿、遅刻などなんとも思っていない素振りにはどこか誇りと自信が伝わってきて、まぶしく見えてしまう。
英語担当の若い女教師が出席簿に印をつけると呆れ顔で小山に忠告した。
「小山君、わかってるとは思うけど君そろそろやばいよ」
「わ、わかってますって」
そう言ってはいるものの、あいつは本当に欠席日数の上限を理解しているのか、かなり怪しいところではある。遅刻は三度重ねると欠席扱いとなり、欠席数が上限に達すると、その授業では内心点で1がつく。たしか1の数が何個かに達すると、進級できない仕組みだったはずだ。
その小山はというと、授業中でもすやすやと幸せそうに寝ていた。
ほれ、俺以上にひどい奴がいるだろうが。という意図をもって、斜め後ろの席の柳さんの方を振り向き、得意の鋭い眼光で睨みつけながら小山の方向に首をくいっとひねると、柳さんもそれに気付いたが、俺の意図をまるで理解していないのか、顔を赤くして照れながら、首を傾けながらにこっと微笑んだ。
おい、挨拶してんじゃねえんだよ。しかもさっき口論したことを忘れたのか。
と、怪訝に思っていたが、そこで一つ、ある仮説が俺の頭をよぎった。
……まさか彼女は、今のを仲直りの合図とでも受け取ったのだろうか? いやまさか。こんな愛想の悪い仲直りの合図などあるわけがない。と思ったが、彼女の満足げな表情を見るに、どうもそうらしい。
俺は呆れながら、静かに首を前に戻した。
彼女は真面目だが、どこか少し抜けているというか、天然じみた感じがある。ほとんど話したことも無かったが、遠目で見ていてもなんとなくそれは伝わってきた。今のがまさにその象徴だろう。
四時間目までの授業が終わると、昼休みになり、俺と小山はいつもの左後ろの席の方にかたまる。昼食を共にするメンバーは固定されていて、昼休みになるとここに集まるのが習慣となっている。基本的に俺と小山、もう一人は桜井という男で、別のクラスの人間だが、小山と親しいのでこのクラスに昼食を取りにくるのだ。
小山と、その桜井。この二人がこの学校では俺とまともに交流しているといえる人間である。
昼休みが始まって十分もたつと、桜井が現れて、ランチタイムが始まる。
今日の朝、学校にくる前にコンビニで買った弁当を開きながら俺が最初に言葉を発した。
「小山、お前、またバイトか?」
これは、また遅くまでバイトして遅刻したのか? という意味である。
「イエス。正直今日は学校来れただけでも奇跡」
自嘲的な笑みを浮かべながら小山は言った。
小山は卒業後、調理の専門学校に進む予定で、学費はすべて自分で稼ごうとしているらしい。そのためかなりの頻度で夜遅くまで家の近くの居酒屋でバイトをしているようだ。
その心がけは同学年の身としては素直に尊敬するが、ここまで遅刻を重ねると、流石にこっちが心配になってくる。俺が言うのもあれだが。
「バイトかー、大学はいったらやんなきゃだよなー」
この男が桜井。小山とは違い、特に特徴のない、普通の高校生である。しかし実は桜井は、なかなか学業優秀で、この学校では珍しく大学進学を希望している。時折、俺と同じ予備校の模試を受けているようだ。
その後も三人でべらべらとくだらない雑談をしていると、ふと、教室のちょうど対称の位置で友人たちと食事をしている柳さんと目が合い、その瞬間、慌てたように過剰にも目をそらされてしまった。あの様子だと、どうやらまた俺の方を凝視していたらしい。
まじであの人になんかしたっけな……。
今日の授業とホームルームが終わり、他の生徒が帰宅や部活に向かっている中、俺は机に伏していた。今日は予備校での授業がないので、今から何をしようかと、こうして一人で思索しているのだ。小山たちと一緒に帰ろうかとも思ったが、小山と桜井は今日軽音部の練習があるらしい。つまり彼らは軽音部に所属しているわけだが、俺にはあいつらが優雅に楽器を演奏する姿がまるで想像できない……。
あの二人は基本的に多忙であるため、学校では俺は大抵一人で過ごすのがデフォルトになっている。
こういう日の放課後は、予備校か、どこかのカフェにいって自習するというのが俺の習慣だ。たまに映画を見に行ったり、ロードで東京の街をサイクリングしたりもする。が、今はあまり注目の作品もないし、風を切りたい気分でもなかったので自習することにしよう。
そうなると小明塾かカフェかの選択になる。だが俺の通う小明塾は秋葉原にあり、今日はロードバイクで通学したので、そこまで行くと帰りが遅くなるためカフェに決めた。
消去法で決めたとはいえ、カフェでの勉強は決して嫌いじゃない。一人で過ごしやすい場所だし、なにより集中できる。勉強は毎回同じ所ではなく、たまには別の場所でやる方がより集中できるのだ。
そうと決めるとリュックに荷物を全部つめ、出発の準備を始める。その時、完全に油断していた俺は、後ろからの忍び寄る気配に全く気付かなかった。
「あ、あの相田くん」
聞き覚えのあるフレーズとこの声。すぐさま耳がピクリと反応した。
振り向くと、やはり今日一悶着あった柳さんがそこにいた。今日の朝と同様、どこか緊張している面持ちだ。
まだ教室には半分くらい生徒が残っていたのでまったく存在に気付かなかった。さっきの討論の決着をつけに来たのだろうか? その執念深さに、俺は少し引いてしまう。
「な、なんだ?」
「こ、このあと予備校にいくんですか?」
なんで俺が予備校に通っているのを知っているのだ? と一瞬思ったが、しょっちゅう教室内で桜井と受験の話をしているので一度くらい聞かれたことがあってもおかしくはない。
「いや、今日は授業ないからカフェで自習しようと思ってるんだけど……」
「ほ、ほんとですか!?」
なぜか柳さんは頬を緩ませ、嬉しそうな顔をした。そこまで俺との決着をつけたかったのか……と恐れおののいていると、展開は予想斜め上に動いた。
「あの、わ、私も、勉強にご一緒していいですか?」
唐突な展開に俺は戸惑う。
「え? な、なんで? 勉強なら、一人の方がいいと思うけど……」
そう答えると柳さんの表情から、段々と歓喜の色が消えていく。
「め、迷惑ですか?」
「いや、迷惑ってわけじゃないけど、なんで俺と?」
そう聞くと視線を泳がせて、言いだす言葉を考えているような仕草を見せた。そして少し間をおいてようやく、おそらく本題であろうことを彼女は告げる。
「あの、わ、わたし、相田くんに勉強を教えてほしいんです」
「へ?」
「だ、だめですか?」
「いや、だめってわけじゃないけど、柳さんなら別に教わんなくても、こないだの中間も、確か学年三位だったんだろ?」
まあ一位はもちろんこの俺だが。
「が、学校の定期試験じゃなくて、ちゃんとしたテストで点をとりたいんです!」
ちゃんとした、とはどういうことだろうか。俺が予備校に行っていることを知っていたことからも考えると、予備校の模試のことを言っているのだろうか。
「それは、予備校の模試ってことか? って、お前、受けたことあるの?」
「はい。お恥ずかしい話なんですが、その時、ひどい成績をとってしまって……」
やはり予備校の模試のことか……ん、待てよ? そこで俺の頭の中に、一つの疑惑が浮かんだ。
「どこの模試を受けたんだ?」
「小明塾です」
なるほど、やはりそうか。と一人で合点がいく。今日の俺の推理力は冴えているようだ。
説明しよう。予備校の模試は受けてしばらくすると、成績表が送られてくる。そこには偏差値や志望校の合格判定、どういう分野を多く間違えたかの分布など様々なデータが記されている。そしてそこには全国順位とともに、校内順位というものも記載されている。それは受験した生徒が通っている学校の中での、模試を受けた生徒間での順位というわけだ。
要するに、小明塾の模試を受けたこの竹代高校の生徒の人数とその中での自分の順位が分かるということだ。しかし、この荒れた学校でわざわざ予備校の模試を受ける生徒は極めて少ない。俺が把握していた中では、俺と桜井の二人だけのはず……だったのだ。
ところが前回の模試では竹代高校の生徒の受験者は三人と記されていた。
校内での平均点も出るので俺と桜井で点数を教えあって計算したが、その謎の一人の点数は確かにお粗末なものであった。だが国語だけは点数が極端に高く、あろうことか俺すらも上回っていたのだ。それでかなりのショックを受けたので、誰なのかずっと気になっていたのだが、まさか犯人の方から名乗り出てくるとは想定外だった。
「お前、大学受験するのか?」
「は、はい。私なんかがって思うかもしれませんが……」
あまりに卑屈な態度を取るのでこちらの方が少し参ってしまう。
「い、いやそういうつもりで言ったわけじゃない。ただ、ここの学校で予備校の模試を受ける奴なんて珍しいと思ったからな」
この学校は偏差値がそんなに高くないこともあって、生徒の進学に対する意識が低い。一般受験で大学進学を目指す生徒はほとんどいないと聞いている。
「はい。私も、最近まで全然そんなこと考えていなかったのですが……」
そこまで言ったところで、柳さんは言葉が詰まる。
何か大学を目指すきっかけでもあったのだろうか。しかしそこまでは聞かなかった。
特に誘いを断る理由も思いつかなかったので、午前中にドンパチをかましたこの柳さんと一緒に勉強することとなってしまった。
唐突に勉強を教えてくれと頼まれた俺はいつも行く家の近くのカフェではなく、学校から徒歩五分程度の駅近くのカフェに柳さんと入った。俺はいつもどおり、一番値段の安いアイスコーヒーのSサイズを注文する。柳さんは……なんかこう……いかにも女子高生が好みそうな、なんとかフラペチーノを頼んでいた。
階段で二階に上るとすぐさま一番奥の窓際の席を陣取る。前にも述べたように、人間は基本的に端の席を好む。中でも俺は過激派であり、決して妥協を許さない。もちろんここのカフェの一番端の窓際の席は、この店がオープンする前から俺の席だと決まっているのだ。
飲み物をテーブルに置き、椅子に座る。お互いに荷物を置くと、先に口を開いたのは柳さんだった。
「相田くんは、よくここで勉強するんですか?」
「いや、ここは遅刻確定して時間つぶすときにしかこないな」
柳さんの眉がぴくりと動く。俺はすぐに言う相手を間違えたことに気付いた。
「相田くん、さぼりすぎたら、本当に進級できなくなっちゃいますよ」
「だ、だから計算してるから大丈夫だって。それより柳さんはどこの大学目指してんだ?」
こんな所で論争して周りの客から変な視線を浴びるのも嫌だったので話をすり替えた。
「そ、それが、まだなんにも決めてないんです」
「国立か私立かも?」
「は、はい。あ、でも国立の方が難しいっていうのは知ってます」
なるほど、真面目な子ではあるんだが、受験知識は皆無のようだ。
「でも、うちのクラスにいるってことは文系なんだろ?」
「はい。これでも私、国語だけは昔から得意なんです」
それはもう身をもって知っている。とは言えなかった。
「だとしたら道はひとつ。私立文系だな。俺もそうだし」
「シリツブンケイ? 私立で文系ってことですか?」
「ああ。俺たちにとってはこれしかない。一番楽だしな」
「どうしてですか?」
「一番負担が軽いからだ。ていうかうちの学校じゃ国立は厳しい」
「どうしてですか?」
「国立は科目数が多いからな。その点私立は三科目だけでいいから、予備校の授業だけでカバーできる」
ここで初めて、今日買ったアイスコーヒーを口にする。シロップを4つも入れると、さすがに甘かった。
俺がコーヒーを口にする間、柳さんは、下の方を向きながらどこか一点を真剣に見つめた後、大きく口を開いた。
「じゃあわたし、相田くんと同じ予備校に通います!」
あまりに唐突すぎる発言に、思わず、口の物を吹き出しかけた。
「は? なんで?」
「入谷です」
「すぐ近くじゃないか」
竹代高校は鶯谷駅、日暮里駅から徒歩五分圏内に位置する。秋葉原は山手線で鶯谷から三駅であり、竹代高校からかなり近い。そして入谷は鶯谷駅のすぐ近場である。竹代高校に通うのにはとても便利そうだ。
そこで、まさか、と俺の中に一つの仮説が浮かんだ。いや、この人ならありえるな。
「柳さんってもしかして家が近いからあの学校を選んだのか?」
実際そういう人間は多い。家からの距離も学校を決める重要なポイントではあると思うが、それだけで高校を選んでしまうのは、賢い選択とは思えない。
「え、えーと、うーん、まあそれもありましたけど……」
しかしその反応から察するに、どうやら違うところに主な原因があるようだ。
「勉強が嫌いって感じにも見えないけどな」
柳さんは、俺が知っている範囲だけでも、かなり真面目に授業を受けているし、素行も良い。成績も学校自体のレベルが高くないとはいえ、常に上位をキープしている。そういう人が荒れた学校に来るのは、まあ無いことは無いのだが、理由は気になった。
「はい。勉強は中学の時も別に嫌いではなかったです。別にそんなに成績がいいわけでもなかったですけど……」
「じゃあなんで竹代に来たんだ? 近くでもっと頭のいいとこはいくらでもあっただろ?」
「まあ、そうなんですが……」
柳さんはもごもごと口を動かし、どうもはっきりしない回答しかしなかった。
言いにくい理由でもあるのだろうか。なんだか好奇心を刺激され、ついつい返答を急かすような態度を取ってしまう。
「そこまで聞かされると、気になるじゃないか」
その俺の言葉に引っ張られるように、柳さんは重たい口を開いた。
「は、はい……実は……」
ここまで聞いた瞬間、俺の中で一つの答えが頭をよぎり、自分の愚かさを悔いた。
自分では頭がいいつもりでもこういう何気ない時にぼろが出てしまう。
人は自分では他人を傷つけるつもりがなくても、無意識に傷つける。その罪の意識のない言葉が、言われる側は最も傷つく。
俺だってそのことは身をもって知っていたはずだった。
こういう場合、考えられる要因はただ一つ。彼女の家は裕福ではないのだ。偏差値の高い高校を受ける場合、当然落ちるリスクが伴う。例え、模試でいい判定を取っていても本番では何が起きるか分からない。受験生の大半は公立高校が第一志望である。家が経済的に苦しいならなおさらだ。そして公立におちた場合は必然的に、滑り止めで受けた私立に行くことになる。
私立高校に通うとなると、かかる費用は公立とは比べ物にならない。そうなると、初めから落ちるリスクがほとんどない偏差値の低い公立高校を選ばざるを得ない。学力のある人間であったとしても。
なぜこのぐらいのことに気が付かなかったのか。彼女の発言を止めようと思った時には、もう言が発せられていた。
「た、竹代にはプールの授業がなかったので……」
「は?」
このとき俺はそうとう間の抜けた顔をしていた自信がある。そのぐらい予想外の発言だったのだ。
確かに竹代高校では水泳の授業はない。そもそも敷地面積が狭いので、プール自体が学校に存在しない。
「そ、そんなことで学校を決めたのか?」
「そ、そんなことじゃありません! 私にとっては偏差値よりも重大なことだったんです!」
「もしかして、泳げないのか?」
「い、いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
うつむいている様子から、理由を話すのを嫌がっているのは火を見るよりも明らかだが、ここまでくると気になってしょうがない。さっきの反省はもう忘れた。なにがなんでも聞き出してやる。好奇心とは何とも罪な感情だろう。
「じゃあなぜだ?」
「う……」
そこをつかれると痛いと言わんばかりに、柳さんはうめき声をあげる。そんなに言いたくないのか……ますます気になるではないか。
柳さんは顔を赤くして、うつむきがちになる。そうすると栗色の前髪が彼女の目を隠す。
「み、水着が恥ずかしくて……」
「は?」
この展開ももう二回目、しかもついさっきやったばかりである。
「が、学校の水着って体のラインがはっきり出るんで、それが凄く恥ずかしくて……小学校の時はそこまで気にならなかったんですけど、中学くらいからは水泳の授業は地獄みたいでした……」
過去のトラウマを思い出しているのか、ぐったりとうなだれている。水泳の時にそんなことを一度も気にしたこともなかったが……。まあこれは女子特有の悩みなのだろう。
しかし気になるのは、柳さんはどう見ても肥満体型ではない。むしろへこむべき所はへこんでいて出る所は出ている。一般的にいってスタイルがいいと言われる方に分類されるのではなかろうか。体は細く小柄だが、同学年の中では胸囲はある方のはずだ。クラスの他の女子もそうだが、普段見慣れている梶野と比べても視線を顔から落とした時に見える風景が全然違う。日和山と富士山のごとく異なる。
ちなみに日和山とは宮城県仙台石城野区に位置する、日本で一番低いと言われている山だ。
まあ確かにスクール水着では胸の大きさも顕著に出るから、特に柳さんのような控えめな性格だと恥ずかしく感じるのかもしれない。というよりおそらくは、ただ単に公衆の面前での肌の露出を恥ずかしがっているだけだろう。
水泳の時、梶野など、あんなつつましい胸でも堂々と楽しそうに泳いでいたというのに……。
「こ、この話はもういいんで、予備校の話にもどしましょう!」
「お、おう。まあ、入谷に住んでんなら、秋葉の小明塾でいいだろ。あそこが一番近い大手だと思うし。それに同じ予備校に知り合いはいた方がいいと思うぞ。あそこなら俺の友達もいるから、知り合えば色々聞けるだろ」
「えっ! 相田くん、お友達いたんですか!? ……あっ! いやっ、そのっ……」
柳さんは言葉途中で、自分の過ちに気付いたように、わわっと慌てて口をふさいだ。
どうやら彼女は思った事をすぐ口に出してしまう素直な子らしい。最近の若者にしては珍しい。実にいいことだ。
……皮肉や嫌味で言われるよりこういう純粋な反応が一番ぐさっと来るな。
「まあ、向こうが友達と思ってるかはわからんが、俺は友達のつもりでいたよ」
「ちっ、ちちち違うんです。ご、誤解です! そ、その、予備校ってギスギスした雰囲気がありそうだから、友達とか、つくりにくいんじゃないかなーと思ったんです! あ、相田くんは特にすごく勉強熱心で、いつも集中してるから……その、が、学校では小山くんとか桜井くんとか小山くんとかとよくお話ししてるし、友達がいないなんて思ってないですよ! さっきのは言葉のあやで!」
目線と両手をてんやわんやさせて、早口で一生懸命弁解しているが、聞いてもむなしくなるだけである。しかも小山二回登場したし。まあ、周囲の俺のイメージとしては俺の友達は小山と桜井しかいない。ということか。事実なので何とも言えないが。
「そいつは中学からの知り合いだ」
「な、なるほど。」
「女同士、俺よりも相談に適してるかもな」
またも柳さんが目を丸くさせて驚いている。おそらくだが、俺に友達がいるというだけでも衝撃なのに、それが女だということがさらに衝撃だったのだろう。確かに俺は今の学校で女子とはほとんどしゃべっていない。
「俺が勝手に友達と思ってるだけかも、わからんがな」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ほんとうにごめんなさい!」
テーブルに頭をぶつけそうな勢いで頭を上下に揺らしながら柳さんは謝罪の意を示した。
それと同時に彼女の栗色の髪が俺の顔に近づき、甘い香りを鼻がとらえる。
これ以上いじめるのも可哀そうになってきたので、この辺にしておこう。
「明日学校終わったら暇か?」
柳さんは、未だに申し訳なさを顔で表しながら、かろうじて返事をする。
「……は、はい」
「じゃあ、明日俺が通ってる小明塾にこいよ。俺もちょうど講習あるし」
すると半分驚いたような顔を見せる。
「え、いいんですか?」
「見学以上に参考になるもんなんてないだろ。そこで雰囲気見て気に入れば、入ればいいんじゃないか? 道分かんないだろうから一緒に行ってやるよ」
彼女は俺の慈悲深さに感動したのか、唖然とし、フリーズしていた。そしてその数秒後にやっと口を開いた。
「あ! す、すいません。そこまでしてもらえるなんて思ってなくて。ぜ、是非お願いしします!」
そう言い、彼女はぺこりと頭を下げる。
本当に、俺はなぜそこまでしてやるのだろうか。今日初めて話したばかりの人間に……。
おそらく、ここ最近は会話をする人間が限定されていたので、新しく話せる人間ができてうれしかったのかもしれない。
……いや、正直に言うと、彼女のルックスによるところが大きいだろう。先ほどから目が合う度に実は胸がどきりとしていた。
「じゃあそろそろ勉強するか」
「は、はい」
お互いそれぞれ勉強道具やらを出し、黙々と勉強を始めたが、柳さんの方を見て、俺はふと、あることが気になった。
「何を勉強するつもりだ?」
「え、とりあえず苦手な物理を復習しようと思ったんですが……」
「国立を目指す気なのか?」
「い、いえ、さっきの相田くんのお話しを聞いて、私も私立文系でいこうと思いました。でも、とりあえず次のテストのこともあるので物理からやろうかと」
「そんなもんやらんでいい。まず真っ先に英語をやれ」
「え、でも……」
「でももヘチマもない! もう学校の定期試験の勉強はいらん。とにかく受験科目の勉強だけすればいい」
「え、じゃあ相田くんも、受験で使わない教科はやってないんですか?」
「ほぼやってないし、授業も聞いてない」
「それなのに、いっつも学年一位が取れるんですか?」
「前日にちょろっとやれば、余裕でいける」
「す、すごいです」
はえーといった感じで感心しているが、こんなの実際大したことはない。転校する前の学校では順位は真ん中より下だったし、そもそも俺も学力はそこまで高い方ではない。ただこの学校に来たことによって受験以外に目標がなくなり、勉強に精を出すようになっただけである。事実、俺は前の学校では勉強など試験前以外は全くと言っていい程、していなかった。
「あと、教科書の復習もしなくていい」
「え、でも、受験って教科書の範囲からでるんじゃないんですか?」
俺は偉そうに腕を組みながら姿勢を崩して、説明を続ける。
「実はな、教科書は受験のためにつくられてない。あくまでカリキュラムを満たすためにあるもんだ。基礎を学ぶ分にはいいが、本屋に売ってる問題集の方が受験にはよっぽど向いてる。まあ当たりはずれはあるがな」
そう言うと、柳さんが何かを思い出したかのように、ポンと手を叩いた。
「そういえば、相田くんが学校の教科書使って勉強してるとこ、見たことないです。いっつも難しそうな参考書やってるなっておもってました」
正確には参考書じゃなくて問題集なのだが、今はそれを指摘するのはいいだろう。
「明日ついでに、本屋にもいくか。秋葉のヨドバシにでっかいのがあるから」
秋葉原の小明塾は駅のすぐ近くにあるので必然、ヨドバシカメラからも近い。
「そんなことまでしてもらって……ご迷惑じゃないですか?」
別に苦ではないと俺は答えた。俺自身、用はなくても本屋を見て回るのは嫌いでない。特に大きな書店だと、あらゆるジャンルの本や雑誌があるので、立ち見して回るだけでなかなか面白い。勉強に疲れた時など、気分転換でよく散策することも多い。
「あと、ある程度、志望校のレベルも考えといた方がいい。まずは、私立文系だとどんな大学があるのかを調べるのが先だな。あとはまあ学部もな。まあ学部は今はそんなに真剣に考えなくてもとは思うが……」
そう話していると、柳さんがじっと真剣なまなざしで俺の目を見ていることに気づいた。普段少しぼんやりしている分、こういう表情を見ると、ギャップで少しドキッとしてしまう。
「相田くんは……どこを目指しているんですか?」
その口から出てきたのは意外にも、何の変哲のない質問だった。
淡々と、その質問に答える。
「早稲田の法学部だ」
俺は、竹代高校に転校が決まった日からそう決意していた。理由は単純で、私立文系のトップだからというだけである。学部に関してはそこまでこだわりはない。しいて言うなら法という響きに憧れたからだろうか。
答えを聞いた柳さんが目をまんまるく見開いて、驚いてはいるが納得もしているような表情を見せている。まあ確かに、あの学校でそのぐらいの大学を目指す奴はいないだろうから、珍しいのだろう。
俺が以前までいた光星高校でも、早稲田レベルに行くのは成績上位の人間たちばかりだった。そう簡単に受かるような大学でないのは俺だって分かっている。
「やっぱり、相田くんはすごいですね……。早稲田なんて私からしたら、完全に別の世界のように感じます」
賞賛というより感嘆に近い言葉を柳さんは発した。
「んな大げさな。目指すだけならサルでもできる」
俺がそういうと、柳さんが下の方をじっと見つめて、なにか考え込んでいた。
すると小声で、「目指すだけなら……」と俺が言った言葉を復唱していたようだった。
「どうした?」
横やりを入れると、授業中寝ている時に急に起こされたかのように、体をびくっとさせ、顔を上げる。
「す、すいません! な、なんでもないです」
なんでもないようには見えなかったが、それ以上追及するのも面倒だった。
ちらりと店内の時計をみると意外と時間がたっていたので、もう帰ろうと提案すると、彼女も異存はないようだった。
店を出ると、夕日も沈みかけていた。秋風もこの時間帯だと涼しいではなく、寒い領域に入る。
「今日は本当にありがとうございました。貴重なお時間を割いちゃって、私なんかの相談に乗っていただいて……」
柳さんは本当に申し訳無さそうな顔でお辞儀をして礼を述べる。
あの荒れた学校にいるのが不思議なほど礼儀正しく、素直な子だ。なぜこんなできた子があんな学校に入ってしまったのか不思議でならない……あ、水泳のせいか。というより水着のせいか。
ふと、今日のやりとりを思い出し、思わず彼女の水着姿を連想してしまう。なかなか悪い物ではなかった。
妄想でぼーっとしていたのか、おそらくまた間の抜けた顔をしていた俺を、柳さんがじっとのぞき込んできた。
「あの、相田くん?」
そこで俺は我に返り、咳払いをしてごまかす。
もう呼び捨てでもいいだろう。
「おい柳、LINE教えてもらっていいか?」
自分で言ったものの、まだ連絡先すら交換していなかったことに驚いた。今日急に話しかけられ、勉強することになったが、割と親しみやすく気軽に会話をしたので、今まで交流がなかったという実感がまるでわかない。もう何か月も前から知り合っていたような感覚があった。
「え? い、いいんですか?」
「まあそりゃあ、お互い知ってた方が便利だろう」
「そ、そうですよね!」
柳は嬉しそうにスマホを取り出して、俺とLINEを交換した。提案した張本人である俺は人と連絡先を交換する事が余りにも久しかったので、段取りにかなり戸惑ってしまった。
その後、彼女からスマホの電話番号も聞かれた。LINEがあれば要らないだろうと言ったが、記念に欲しいと嘆願された。何の記念なのか全く見当もつかなかったが、女子はあらゆることに記念をつけたがる生き物だと知っていたので、特に追及もしなかった。
その後駅前で別れた。いつもは俺も電車で帰るのだが、今日はロードバイクでの登校だったので必然、帰りもロードバイクになる。
自宅に着く頃には、LINEのメッセージが彼女からの分だけで四つあり、今日相談にのった礼と失言に対する謝罪と顔文字がびっしりと記されていた。
翌日、約束通り、学校の授業が終わると、俺は柳と小明塾に向かうため、共に日暮里駅まで足を運んでいた。
「あの」
「ん?」
「わたしは別にどっちでもいいんですけど、秋葉に行くなら鶯谷駅からの方が近くないですか?」
ここ近辺から秋葉原駅に向かうとなると、山手線で行くのが最も手っ取り早い。鶯谷駅は秋葉原から三駅目に位置し、日暮里は四駅目なので必然、鶯谷駅からの方が近いし、学校からも鶯谷駅の方が若干ではあるが近い。
だがしかし、鶯谷は日本生粋のラブホテル街であり、そこを女子と一緒に、しかも制服姿であるくのはどこか抵抗があったため、あえて何も言わずに遠回りをしていたのである。
そのぐらいのことは察してくれてもいいはずだが、彼女は入谷というここの近所での生活が長いためか、そういう観念がないのだろう。
「鶯谷だと、周りから変な勘違いされるかもだろ」
「え? 勘違い?」
やはりこの様子だと、説明しないと分かってくれなさそうだ。
「あ、あそこはラブホ街だろ。だからあそこ行くまでの道のりを通りたくねえんだよ」
「……あっ! す、すみません」
ようやく俺の意図を理解した柳は、恥ずかしそうに顔を赤らめてうつむく。指摘したこっちも恥ずかしい。
日暮里駅について、秋葉原方面への山手線に乗車した。この時間だとだいたい、ぎりぎり座れないくらいの混み具合だが、十分程度で着くので大して苦ではない。
「秋葉原に予備校があるって、結構意外ですよね」
「まあ、確かにな」
秋葉原という場所は一般的に、電気街やオタクの聖地という印象が強い。お堅いイメージのある予備校がそこに位置するというのは確かに、意外だという意見もうなずける。
その後も他愛もない世間話をしているうちに、秋葉原駅に着いた。
「えーっと、どっちからでればいいんでしょうか?」
「電気街口じゃないぞ。こっちだ」
そう言って昭和通り口から出る。小明塾の場所は駅から近いとはいえ、初めて行く人間にとっては少し分かりにくいかも知れない。
昭和通り口を出て、すぐ向かいの左手に書泉タワーという書店があり、その書泉タワーのある通りの反対側に小明塾が位置する。さあ、向かおうかというところで、ふとあることを思い出した。
「そういや、まだ問題集やら買ってなかったな」
「は、はい。でもお時間大丈夫ですか?」
スマホを開き、時間を見ると、まだ四時半だった。授業は七時からなので、まだまだ余裕がある。
こういう講習までの空き時間は、いつもはだいたい自習するか、ラウンジでだらだらするのが恒例となっているが、たまにはこういうのも悪くない。そうこうして俺らは、ヨドバシカメラの書店へ向かった。
もちろん書泉タワーの方が近いのだが、書泉タワーは、漫画やライトノベルなどのオタク層向けのジャンルがメインなので、学習用参考書などは取り揃えていないのだ。
ヨドバシに着き、エスカレーターで書店のエリアに到着すると、すぐに学習参考書コーナーへと足を運ぶ。
そこにはずらりと、あらゆる科目の参考書や問題集がところせましと並んでいた。
「うわあ、いっぱいありますね」
見たままの率直な感想を柳は述べた。
確かに、昨今の学習参考書は余りにも数が多すぎる。よってこの中から選ぶとなるとかなり骨が折れるし、いい物を見つけるのも難しい。
しかもこういう風にうまく気を引くような並べ方をされるとついつい、要らないものまで買ってしまいがちだ。書店に並ぶ参考書などは、これを買えば成績が上がりそうだと思わせるような不思議な魅力がある。帯に書かれている宣伝文句にも妙な説得力を感じてしまう。
だからこういう時は、あらかじめ買うものを頭の中にリストアップしておくのが得策だ。
「買うのはもうほとんど決まってる。最優先なのは英語だ」
「昨日も思ったんですけど……どうして英語が一番大事なんですか?」
そういえば言ってなかったなと、昨日の会話を思い出す。
「文系だと英語が一番メインの科目だからだ。私立となるとさらにその重要度が増す。私立文系だと、ほとんどの大学が英語の配点を高くしているからな。私立文系で英語が出来ないってのは話にならない」
「なるほど……でも英語だけでもこんなにいっぱいありますけど……」
柳は、ずらりと並んでいる参考書や単語帳を端から端まで視線を動かして眺めていた。
「買うのは、単語帳と文法の問題集だけでいい。まずはな」
そういって俺は、数ある本の中から、『システム英単語basic』と『next stage』という文法書を取り出し、彼女に手渡した。
「ええっと、どうしてこれなんですか?」
二冊を手に取り、表紙を見比べながら柳は尋ねた。
「単語帳は受験に関してはそれが一番いい。載ってる例文が受験向きなのと、シンプルに使いやすい。『DUO』なんかも有名だが、あれは受験よりもビジネス英語対策の方に近い」
と、博識ぶりながらどや顔で説明したが、これは小明塾の俺が取っている英語の講習の講師から聞いたことをそのまま引用しただけである。まあ、こういう教材に関しては予備校講師に聞くのが一番だ。
「単語帳は学校で使ってるターゲットじゃダメなんですか?」
「いいや、決してだめじゃない。だがターゲットに入ってなくてこっちにだけ入ってるやつもある。語彙力はあるに越したことはないからな。だいたい覚えて来たら、ターゲットもやればいい」
言い終えると、大事なことを聞き忘れていたと頭の中で思い出した。
「そういえば柳、だいたいの志望校は決めたのか?」
受験に限らず、努力というものは目標がなければ継続することは難しい。そういう意味で志望校の目標を定めることは、問題集等を揃えることより大事だといっても過言ではない。
「……はい」
少し考えるような仕草をして、柳は答えた。どこか決意を固めたようなその様子は、普段の彼女とは違った印象を覚えた。
「どこだ?」
間髪入れずに俺は聞く。しかし、そこで出てきた言葉は、予想しかねたものだった。
「早稲田……です。私も早稲田を目指します。学部とかは、まだ決めてないんですけど……」
心底、驚いてしまった。この感じだと、冗談などではなさそうだ。
しかしなぜ彼女が早稲田を? 俺が昨日早稲田を目指しているといったことに原因があるのだろうか。
俺が驚嘆している様子は、丸々顔に出ていたのだろう。どうも、彼女には驚かされることが多い。その俺の様子を見てか、柳は恥ずかしそうに小さく口を開く。
「わ、わたしなんかが、身の程知らずにって思うかも知れないですけど……」
「い、いや、そういうわけじゃないが、ただびっくりしてな……でもなんで早稲田に?」
「そ、それは、わたしも、なんとなく昔から早稲田っていいなーって思ってたからです。相田くんと志望校被るなんて、き、奇遇ですね!」
などと供述しているが、この人の嘘ほどわかりやすいものは無い。それに昨日、別の世界のように感じるとか言っていたような……。
「そ、それに、目指すだけならサルでもできますし!」
「まあ、確かにそう言ったが……」
「わたしみたいなのでも、死ぬ気で一生懸命頑張れば、絶対に無理なことでは、な、ないと、お、思います……」
と、だんだん語気が弱くなっていく。
「別に無理なんて思わねえよ。俺たちはまだ高二なんだ。受験まであと一年以上ある。それに早稲田とはいえ、私文は私文。三科目徹底的にやればいいだけだ」
私文とは私立文系の略称である。
高二のまだ冬休みに入ってないこの時期から受験に本格的に意識を向けている学生は、進学校でも意外と少ない。俺も元々、三年になってから取り組めばいいと思っていたが、思わぬアクシデントで竹代高校に来ることになってしまい、このままではまずいと、こんな時期から焦り始めて、勉強に取り組むことになったのである。そういう点ではあの学校に来たことは逆に良かったのかも知れない。
「むしろ、私立志望で真剣に受験勉強する人間にとっては、うちみたいな高校の方が逆に有利だと、俺は思ってる」
思うようにしている。と言った方が正確だが。
柳はきょとんと首を傾げ、意外そうな顔をした。
「え、どうしてですか? 進学校の方が絶対よさそうだと思うんですけど」
「さて、それはなぜか……」
まるで、予備校の講師のような口調で切り出してしまう。案外俺も影響を受けやすいのだろうか。
柳は特に気にせず、興味津々で目を輝かせながら聞く姿勢を見せている。
「まず一つ目、偏差値の低いとこだと、高いところに比べて、当たり前だが定期試験の難易度が低い。これは意外とでかい」
すると、納得いってないのか柳はうーんと首をかしげる。
「定期試験が難しい方が、難しい問題に慣れて、頭がよくなる気がするんですけど……」
まったく、これだから素人は……。
ちっちっちと指を振り、小ばかにするように肩をすくめる。
「はあ、分かってねえなあ」と、付け加えて言うと、柳はムッと頬を膨らませ、眉を動かす。少し怒ったぞと表現したつもりだろうが、小さい子供が怒ったみたいで、恐いどころか少し愛嬌を感じた。こいつは怒るのが下手だな。
「じゃ、じゃあどういうことなんですか?」柳は語尾を強めて言う。
「昨日も言ったろ。定期試験の勉強はしなくていい。あれは一般受験で進学を目指す人間にとってはぶっちゃけ重荷だ。かといってあまりにも点が低すぎたら、進級に響く。そこでうまく赤点を避けつつ、手を抜かなきゃならない。それが進学校だと試験範囲も広いから、手を抜くとしてもそれなりに時間を割かなきゃならないが、うちぐらいのレベルなら、一日か二日もありゃ赤点なんて転んでも取らねえ。そういう意味で、進学校に比べて余計な負担が少ないからそれは利点だと言える」
そう俺が説明すると、柳は先の怒ったような顔から不安げな表情へと変わって、おそるおそる俺に質問を投げかけた。
「う、うちの学校の試験ってそんなに、簡単なんですか?」
確かに、俺みたいに偏差値の離れた学校を渡った人間にしかその差はわかりにくいかもしれない。
「まあそうだな。問題の質もそうだが、まず圧倒的に試験範囲の広さが違う。俺の前の学校も別に超進学校ってわけでも無かったが、少なくとも五倍は範囲が広かった」
「そ、そうなんですか……」
事実を知った柳は少しショックそうだったが、そんなことも気にせず、俺は次へと説明を続ける。
「そしてもう一つ、これは竹代高校特有の特徴かもわからんが、とにかく校則が緩い。そして教師も緩い奴が多い。一部例外はいるがな。よってさぼりまくれるし、内職もできる! これは実に素晴らしい!」
「学校をさぼるのはダメですよ! 相田くんはいくらなんでもさぼりすぎです! 出席日数が足りなくて留年しちゃいますよ! 今日も注意したはずです!」
さっきまでの様子から一転、柳はわが子を叱りつける母親のような言葉を投げかけた。
彼女の言う通り、今日も二時間目の授業がギリギリ遅刻扱いにされる時間帯から、見事な重役登校をかまし、この柳から休み時間に注意を受けた。
ちなみに小山は昼休み終了直前にやってきたというのに、彼女はまるで気にも留めていない様子でご機嫌に鼻歌を歌いながら、スマホで小明塾のホームページを眺めていた。
「俺が留年なんかするかよ。ちゃんと、進級できる範囲でさぼってるって言ったろ」
「そういう問題じゃないです! むしろそういう考え方がよくないんです!」
ああなんて非合理的なんだ……。合理主義かつ、けんかっ早い俺の性格がまた炸裂してしまいそうだ。
「小山なんか今日四時間目にすら間に合ってなかっただろ。俺にはワーワー言ってたくせに、あいつが来たときは呑気に鼻歌歌ってたじゃねえか」
すると柳は痛いとこを突かれたとばかりにぎこちなく後退すると、その後急に顔を真っ赤にした。
「そ、それは……って、き、聞いてたんですか!?」
「というよりは聞こえてきた。予備校のホームページなんてそんなに見て楽しめるもんでもないと思うけどな」
意地の悪い笑みを浮かべつつ、彼女が割りと目立っていたということを俺なりに優しく教えてあげた。事実、あれは少し注目を浴びていた。
それを聞いた柳は両手で顔を抑えて、表情を隠していたが、指の隙間からも赤くなっているのがよく見える。
そしてふと、周囲から奇異の視線を浴びていることに気づいた。声が少し大きかったかもしれない……。俺じゃなくて、こいつが……。
とにもかくにもこんな場所で視線を浴びるのは恥ずかしすぎる。とっとと買い物を済ませようと話を進めた。
「と、とにかく、あの学校にいることは別に不利じゃないってことだ」
柳はまだ顔を抑えてうつむいているが、おかまいなしに説明を続ける。
「あとは国語と社会科目だが……社会はまあ世界史か日本史のどっちかってことになるな」
大学によっては政治経済や地理でも受けられるところはあるが、歴史系で受験できないところはまずないと言っていい。文系は日本史か世界史のどっちか必ずやるのは基本である。
そこでやっと柳は顔を上げて、俺に視線を合わせる。しかしまだほんのりと顔が赤い。
「せ、世界史でいきます。今授業でやってるのも世界史ですし……」
「そうだな。世界史は問題集だけ買えばいい。参考書は絶対にいらん。学校で使ってる山川の教科書で充分だ」
世界史とはやはり知識メインの科目となってくるので、まずは流れを覚えるのが第一。
教科書よりも問題集の方がよいと言ったが、日本史、世界史に限っては別だ。そして世界史の教科書はどこの学校でも大抵、山川出版の教科書を使う。歴史に関しては学校での学力差が関係ないからだろう。
「確か相田くんも世界史でしたよね? どうして世界史にしたんですか?」
「そうだな……日本史の知識は中学でやった分だけで充分に一般教養を満たしてると思うし、何より日本っていう小さな枠組みより、世界全体の歴史を知ってる方が今起きてる戦争とか宗教、民族問題の原因とかもわかりやすくなるし、そっちの方が教養として重みがあると思ったからだ」
言い終わり、柳の顔を見てみると、目は俺の方に向いてはいるが、その実はどこか別の遠いところを見ているようだった。どうやら、思ったより熱く語りすぎてしまったらしい。
おーいと、目の前で手を振ると、ようやく目覚めて口を開いた。
「あ、す、すいません。……。やっぱり、相田くんは頭いい人なんだなーって思いました。うちの学校でそういうふうに科目を選ぶ人は……いないと思います」
いかにも感心した面持ちで柳は言う。少し照れくさくなったので、俺は頭をかいて、そっぽを向いた。
対して柳はしばらく黙りこくって考え込む表情を見せると、言葉を発した。
「私……今まで全然何も考えてこなかったんだなって……思いました。やっぱり、ちゃんと勉強しないと、何も知らないまま大人になっちゃうのかな……」
自らを責めるような、そんな声音だった。
そして柳のその言葉で、まだ根本的なことを聞いていなかったことを思い出した。
「そういえば、お前はなんで急に受験勉強を意識し始めたんだ?」
言い終わった瞬間、びくっと、柳の体が硬直したのがわかった。そして即座にこれは何か言いにくい理由があるに違いないと確信した。彼女ほどわかりやすい反応をする人間はそうはもいない。だが一つ分からないのは、受験勉強を始めることに、言いたくないような理由があるのだろうかということである。
「そ、それは……」
柳はごにょごにょと言葉を詰まらせ、明らかに真意を打ち明けるのをためらっていた。
昨日のように、またも俺は好奇心を刺激され、真相を聞き出そうとすると、彼女に助け舟を出すかのように、そこに乱入してきた者がいた。
「おーい、何してんの?」
見慣れた短いポニーテールが視界に入る。梶野由紀だ。
突然の来訪に驚く俺を尻目に、梶野は俺たちのすぐそばで珍しい物でも見るように立ち尽くしていた。まさかこんなところで遭遇するとは……。
梶野は俺と柳をまじまじと見つめてますます不思議そうに目を丸める。
「お前いたのか。何してんだ?」俺がそう聞くと、
「本を見てるに決まってるじゃない。本屋なんだから」
言われてみればその通り。
「それよりあなた大丈夫? 何か変なことされなかった?」
梶野は柳の方を向いて、心配そうに尋ねる。
「え、ええと……あの……」
一方の柳は、俺と梶野の顔を交互に見て、困惑の表情を見せる。もちろん梶野とは初対面のはずなので、この急な展開についていけないのも無理はないが、早く否定してもらわないと本当に俺が変なことをしていたように思われるから困る。
「こいつが昨日言った、前の学校で同じだったやつだ。あと、運悪く中学も同じだったな」
梶野が一瞬こちらを睨んだ気もしたが、特に気にしない。
今の紹介で柳も納得したようで、安心した顔つきを見せる。だが梶野の方は柳のことはもちろん知っているわけがないなので、同じように紹介した。
「この人は俺の今の学校の友達だ。色々、勉強のことについて教えてた」
そう聞いた梶野は、この世の終わりのニュースを見たかのような、驚嘆の表情をわざとらしく浮かべた。
「う、うそでしょ……あんたに友達なんていたの?」
よくもまあ、こんなにも失礼すぎる感想を本人の目の前で悪びれもせず言えるものだなと、思わず感心してしまう。
「そういえば、昨日同じことを誰かにも言われたな」
と、目を細めて柳の顔を見ると、さっと目をそらされる。額には少し焦りの汗が出ていた。
昨日からの事の成り行きを梶野に説明すると、梶野と柳は互いに自己紹介をしあった。
「ええっと、こいつとは不覚にも同じ中学で、不幸なことに高校も一緒だった、梶野由紀です。よろしく」
こっちが言いてえよ。
「は、はい。相田くんと同じ、竹代高校に通ってる柳ことねです。よろしくお願いします」
二人があいさつを済ますと、梶野が俺に近づき、耳元で内緒話をするように話しかけてきた。
「えっと、確かあんたの今の学校って……」
そこまでで彼女の心中を察した俺は言葉を途中で遮って答えた。
「ああ。いわゆるヤンキー校だ」
「……よね? 全然そんな感じしないけど」
やはり、荒れている学校は偏見を持たれやすい。男子はヤンキー、女子はギャルといったようなイメージが強いのではなかろうか。転校してみてわかったが、実はそうでもなく、一分は典型的な奴がいるものの、ほとんどは普通そうな生徒が占めているのだ。
ともあれ、そういうイメージを持って柳と対面すると、梶野のような反応をするのも無理はない。
「ああ。お前とは全然ちがって、素直でいい奴だぞ」
瞬間、足の指先に急激に痛みが走った。
「ごめんなさいね。全然いい子じゃなくて」
うふふと不気味に笑いながら、俺の足をぐりぐりと踏みつぶす。
しかもただ踏むのではなく、一番痛みを感じやすい足の小指をピンポイントで狙ってきているからたちが悪かった。
そんな黒いことが行われているとも知らず、純粋な柳は不思議そうな顔で俺たちを見ており、空気を読んで梶野が話を戻した。
「あっごめんなさい。ええっと、柳さんは今日体験授業を受けるわけじゃないのよね?」
「はい。とりあえず、塾の雰囲気とかを見ようと思って。体験授業とかの申し込みとかもまだしてないんで……」
そう柳が答えると、梶野がふと思いついたように提案した。
「じゃあ、今日私たちと一緒に受ければ?」
「え? で、でも、私まだ入塾もしてませんし、それって悪いことなんじゃ……」
おそるおそる柳が聞くが、梶野は全くそんなことを気にする素振りもない。
「絶対ばれないから大丈夫よ。特に私たちといれば! 一回くらい大丈夫でしょ!」
実は彼女の意見は密かに俺も考えていた。
百聞は一見にしかず。実際に講習を受けるのが一番いいのは間違いないのだ。それに、講習は点呼を取ることもしないので、さも自然な顔で堂々と居座っていれば塾生でないのに受けていてもばれないとは思う。
「まあ、そうだな。一回程度じゃばれないと思うし、俺らがいればなおさら大丈夫だろ。使うテキストは俺のをコピーさせてやるよ。それに今は十月の頭だ。どうせ入るなら月ごとで金払うんだから、受けない方がもったいない」
そう言っても、柳の不安そうな表情は変わらなかったが、しばらく考えた末、どうやら柳は俺たちの言う通りにすることにしたようだ。
その後、柳は今日、俺が購入を勧めた本の会計を済ませるためにレジに向かった。残された俺と梶野は下に降りるためのエスカレーターのそばのイスで待つ。
「びっくりしたわよ、あんたがあんな可愛い子連れてるから。話聞いてもっと驚いたけど」
「そんなにか?」
「うん。急に勉強教えてって頼まれるまでは、一度も話したことなかったんでしょ?」
「ああ。最初はおれもビビった。あまりに唐突だったからな」
そう言って梶野の方を見ると、何かもの言いたげな表情を浮かべていた。
「でもあんた、あの子にはなんか優しいわね。自分からテキストコピーさせるなんて……私が前忘れたときは、なーんにも言わなかったくせに」
そう言うと梶野はふてくされたように、ぷいと顔をそむけた。普段俺に生意気な態度を取っているので、あまり俺も気づかいなどはしない。しかし、たまに見せるこういう態度は、ちょっと可愛いなと思ったりもする。
「だったらお前もちゃんと、あいつみたいに礼儀正しくするんだな」
「あんたにだけは絶対やだ!」
こういうところは本当に可愛くないな……。
「でも柳さん、勉強苦手そうには見えないけど……まあ、ちょっと抜けてそうだけど」
うーむ、この短時間で柳の天然を見抜くとは……。いや、それよりも柳の方が全身からそういうオーラを出していると言うべきか。
「ああ。彼女はちょっと事情があってあの学校にいる。勉強に対する意識も高いし、超がつくほど真面目だ。確かに抜けてるとこはあるが、意志は強いと思う」
それは俺が一番実感したことだった。
柳は、表面上は弱く、頼りなさそうだが、中身の芯の部分は結構強いと思う。これは客観的に示せるものではないが、昨日からそれなりに会話をして何となくそう感じた。
しばらくすると、会計を済ませ、駆け足でこちらに向かってくる柳の姿が見えた。合流するとそのままエスカレーターで下に降り、三人で小明塾へと足を運んだ。
「ここなんですか……思ってたより、すごい立派です……」
小明塾秋葉原館は、オフィスビルの三階から六階を陣取っているので、看板がなければただの会社に見える。しかもビルが建てられてまだそんなに経っていないので、かなり綺麗な状態だ。よくある普通の塾の校舎を想像していたら、かなりのギャップを感じるだろう。
その後三人でエレベーターに乗り、ラウンジがある六階へと向かった。五階にもラウンジはあるが、今日の英語の講習は六階の教室で行われるため、六階の方が都合が良かった。
ラウンジはエレベーターを降りて廊下を横切ると、すぐ正面にある、廊下右手に進むと今日俺たちが講習で使う大教室、左に進むと小さめの教室と個別自習室が並んでいる。
ラウンジに入りテーブル席に腰かけると、柳が目を輝かせて感嘆の声を上げていた。
「イメージしてたより、すっごく綺麗で、なんかオシャレですね!」
「オシャレとはまた違うと思うが、俺もここの雰囲気は好きだな」
建物そのものが新築に近いため、ここのラウンジも綺麗で、どこか落ち着く雰囲気を出している。
椅子に座ったものの、首を動かしながら柳は360度、色々なところを小さな子供のように好奇心をあらわにしながら眺めている。するとある一点を見つめたところで、首の動きが止まった。
どうやら壁に貼られている紙を見ているようだ。あれには一枚一枚に、去年の難関大学合格者の名前と合格した大学と学部学科名、そしてその合格者の通っていた高校名も載ってある。
実はこれは他の階にも貼られていて、全部合わせるとかなりの数になるので、塾生に去年こんなにもここから合格者が出たのだという印象を抱かせている。それがモチベーションの向上にもつながるので中々いい工夫だなと思う。
「すごくいっぱい貼られてますね。あんなにここから合格した人がいるんですか」
「他の階にもあるぞ。この秋葉校だけの合格者だけなのに結構あるな」
へえ。とますます感心しているようだった。
「それより、テキストコピーしてこいよ。今貸してやるから。コピー機は三階にある」
コピーを終えた柳が、戻ってくると、そそくさと講習のある教室に向かう。
教室に入ると、すでに教室には半分以上の生徒がいたが、幸運にも俺の指定席をぶんどるような愚か者はいなかった。
駆け足で指定席に着くと、梶野はやれやれと呆れた様子で柳とついてきて、俺の指定席に続いている席に座った。
筆記用具やテキストの準備をしながらチラッと柳の方を見ると、やはり緊張した面持ちだ。初めての予備校の授業で、なおかつまだ正規の生徒ではないのだ。ばれるのではないかという心配もしているのだろう。
しかしそれ以上に、この教室の雰囲気にのまれているのだと思う。こういう全員が真剣に臨むような、しかも百三十程の人数で受ける授業など初めてであろうから、堅くなるのも無理はない。
講師が教室に入るといつものように、ざわめきが急に消え、教室全体が何とも言えない緊張感に包まれる。
講義中、何度か柳の顔を見ていたが、一度も目が合うことは無かった。彼女はまるで今まで見たこともないような物を見るかのように目を輝かせて、講師と黒板の文字だけを決して見落とさないようにと、じっと見つめ集中していた。
講習が終わると、やはり柳は入塾する決意をしたようで、そのまま教務へ手続きへと向かった。取る講習としては、俺が取るように言った、英語、古文、世界史の三つで、三つとも俺と同じ講習のものを勧めた。なぜなら、俺は厳密に色々な講師を研究して情報を得たうえで講習を選んだので、俺の取っている講習はかなり質の高いものばかりだからだ。
駅までの帰り道、柳は活き活きとしていた。
「どうだったよ?」
「はい! 想像以上に面白かったです! なんか、教え方が面白くて、それから……」
今日の講習の話だけで、よくそこまで話せるなと感心するほど、柳はいつになく、よくしゃべっていた。
そこまで満足してもらえると、誘った甲斐があったというものだ。
「どうだ? 学校さぼって、ここと自習だけに徹した方が効率良いと思うだろ?」
「い、いえ、そんなことは……」
と、柳は否定するが、顔には焦りの色が見え、その様子を見かねた梶野が仲裁に入る。
「あんたの性格の悪さを押し付けるのはやめなさい。こんな純粋な子に」
「正論を言ってるだけだ」
「はいはい。わかったわかった」
俺の扱いに慣れている梶野は、適当にあしらう。
講習が終わって帰る時間は九時半を過ぎるので、空はもうとっくに暗く、夜風も冷たい。周りには俺たちと同様に駅に向かう他の学生や、仕事終わりのサラリーマンの姿もまばらに見える。
駅に着くと、梶野は俺と柳とは路線が違うので、中ですぐ別れることとなる。
「梶野さん。今日は色々とありがとうございました」
同学年に対する礼としては、丁寧すぎる挨拶を柳はする。
「いえいえ、こっちこそ。これからもよろしくね!」
「礼を言われることなんかお前してないだろ。気付いたら勝手に一緒にいただけだ」
と、俺が率直な感想を述べると、先ほどまでの明るい笑顔から一転し、眉根を寄せて、つかみかかりそうな目つきで俺を睨んだ。
「ほんといっつも一言多いわね……」
「そうですよ。相田くんのそういうところは治した方がいいと思います」
ド天然の柳にすら、呆れられてしまった。治すって病気みたいに言わないでほしいんだが……。
そんな挨拶を交わしながら、梶野とはそこで別れた。
その後、山手線の電車を待つホームで、終始、柳は神妙な顔つきをしていた。
俺はそれを怪訝に思い、「どうした?」と聞くと、柳は遠慮がちに口を開いた。
「あの、相田くんに、お願いがあるんですが……」
「なんだ?」
「今日の授業は第九講でしたよね……だから、もちろん、できる範囲でいいんで、今までの分を、わたしに教えてもらえないでしょうか? ずうずうしいお願いなんですが……面倒だったら、全然、かまわないんですけど……」
そう言い、深々と頭を下げた。彼女は人に頻繁に頼みごとをする人ではないだろう。何でもなるべく人に頼らず、自分で何とかしようとするような、そういう人だ。彼女との付き合いはまだほんの数日程度に過ぎないが、そういう人柄は短い時間でも伝わってくる。
得てして、そういう人の頼み事ほど断りにくいものだ。
「まあ、別にかまわんぞ」
「ほ、ほんとですか?」
顔を上げ、俺の目を嬉しそうに上目づかいで見つめてくると、俺はどことなく照れくさくなって、目をそらしてしまった。
「ま、まあ、俺にとってもいい復習になるからな。別にお前だけのためじゃない」
「あ、ありがとうございます。もちろんわたしもできる限りのお返しをします」
ほう。いったい何をしてくれるのだろうか。頭の中で色々な妄想をしてみる。まさか、そこそこエロいことをさせてくれるんじゃないかという思案が頭をよぎったが、そんな下心は儚く散ることとなった。
「これからずっと、相田くんがダメにならないように、私が管理します」
「は?」
「遅刻しないよう、毎朝私が、電話をします」
パードゥン? 彼女は一体何をのたまわっているんだ? ダメになるって、俺は食材か何かなのか?
「途中で相田くんが学校を抜け出そうとしたら、ちゃんと止めます」
確か彼女は、俺の聞いた限りではお返しをすると言ったはずだ。お返しをするとは、この場合、何か自分にとって利益になる事をしてもらう代わりに、自分も相手に対し何か利益となる事をすることを意味するはずである。
ところがどっこい、彼女の今の発言からすると、俺には不利益しかない。
「おっしゃってる意味がさっぱり分からんのだが……」
「このままだと相田くんは、頭はよくても人間としてダメになってしまいます。だからちゃんとした人間になるように、私が更生させます」
真剣なまなざしで、意を決したように柳は告げた。
「いらん世話だ」
「いいえ。します。決めたことです」
珍しく強気な態度だった。
「あ、あと、相田くんのお弁当を作ってあげます!」
「は、はい? なんでまた……」
「だって相田くん、いっつも売店のパンとか、コンビニのお弁当とかじゃないですか。あれじゃ体にあんまりよくありません。わたし両親が共働きで自分のお弁当毎朝作ってるんで、相田くんのも、教えてもらうお礼にもつくってあげます!」
と高らかに宣言しているが、たかが勉強を教える程度でそこまでしてもらうのも、さすがに気が引けてしまった。俺だって最低限の分別というものを持ち合わせている。それに何より同じクラスの女子に弁当を作ってもらうのには、どこか気恥ずかしさがあった。
「いや、さすがそこまでせんでも……」
「いいんです! 一人分作るのも二人分作るのも大して変わりませんし、それに、わたしだけの分より、二人分作るための方が、早起きする甲斐もあります!」
胸の前で手をグーにする柳を見るに、どうやら本気のようだ。
そこまで頑として言われると、断るのもなんだか申し訳ない。
まあ俺も最近はコンビニ弁当やパンにも飽きていたし、健康についてもそれなりに気にしていたので、この誘いは乗った方がよいだろう。
「じゃあ……たのむ」
「はい!」
満面の笑みで返事をする柳はとても嬉しそうだった。
西日暮里で電車を乗り換え、混み合った千代田線に乗って、綾瀬駅で降り、我が家であるマンションに着く頃には、もう時間も遅くなっていた。玄関をくぐると、部屋は真っ暗で、静寂に満ちていた。
輝度の問題ではなく、この家は明るくない。もうずっと、何年も前からだ。
妹はもう部屋で寝ていて、親父はまだ帰ってないようだ。
部屋の電気をつけると、いつものように仏壇に向かった。
「ただいま」
そこには屈託のない笑みを浮かべている明るい母の写真がある。
「今日は予備校もあって色々疲れたよ。あと、昨日も言った同じクラスの子が、明日から弁当を作ってくれるらしいんだ。助かるけど、少しこっぱずかしい気もするかな。少しおせっかいだけど、やっぱり悪い子ではないと思う」
今日の報告を終えると、シャワーを浴びに向かった。
俺の母は俺が小学二年生の時に、交通事故で他界した。
「交通事故」ニュースなどでもよく聞く、耳慣れた単語だったが、自分の周囲にそれが降りかかるなど、当時の俺は全くもって予想していなかった。
俺は、母が大好きだった。世界一愛していたと言っても過言ではない。母は優しく、どんな時も俺と家族の事を思ってくれる人だった。俺だけでなく、父も妹も母を愛しており、母は相田家の心臓だった。
その母が死んだショックは余りにも大きかった。俺は、言葉にはできないほどの絶望と喪失感を味わった。死のうと思ったことは何度もあった。当時の俺にとって母は、自らの命となんら変わりなかった。
それ以降、我が家からそれまでの明るさは消え去り、今もなお、あの時の明かりが灯されることはない。
父とも妹とも、もう何年も話をしていない。いや、共に生活していく上で最低限必要な会話はしているのだが、心の底から、家族として、腹を割って本音で話をしたのは、母の死以降、一度もした覚えがない。
風呂場を出て、軽く食事を取ると、自分の部屋に行き、何も考えずテレビをつけた。しかし内容は頭に入ってこず、ただただ映像だけが視界に入ってくるだけだった。体の疲れもあって、ベッドに入った瞬間に睡魔が襲って来る。
明日は三時間目くらいから行けばいいか……。
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