罪の告白
話を聞いてみれば平坂先生は開業医で小さな診療所を営んでいるらしい。
法律の専門家として言わせてもらえば、診療所と病院の違いは規模の違いに他ならない。病床、いわゆる患者が使用するベッドの数が二十以上あれば病院なだけで、診療所だからと言って施設が充実していないわけでもない。むしろそこらの病院よりも名医が居ることもある。
平坂先生は名医らしいが、あまり良い生活をしていないらしい。安物のスーツに安価な革靴を履いていて腕時計もしていない。私が物の価値を判断できるのは亡き父の教育の賜物だった。
「吟くんは非常に優秀な医者だね。それに優しい子だ」
記者たちが居なくなってから私は二人と一緒に夕食を食べに行くことになった。近くのファミレスで食事していると、真向かいに座っていた平坂先生は妹をそう評したのだ。
私は妹が優しいという言葉に引っかかったが、外面は中学校と比べて良くなったので誤解してしまったのだろう。
妹は基本的に私以外の人間には優しくない。ただの見せかけである。
「吟は医師免許を取った後、すぐに平坂先生の下で働いてるんですよね。挨拶が遅れて申し訳ございません」
「いや。忙しいと聞いていたから大丈夫だよ」
妹のことを優しいと言ったけど、平坂先生のほうがだいぶ優しいと思う。物腰が柔らかくて、紳士的で、穏やかだった。私は先生に好感を抱いた。
「平坂先生の担当はなんですか?」
「主に内科と皮膚科だね。でも吟くんが手伝ってくれるから最近は皮膚科を担当しているよ」
妹の担当は内科だった。手先が器用だからてっきり外科を選ぶと思ったけど、どうやら外れてしまったようだ。
妹は「平坂先生は大学病院の教授だった人なんだ」と注文したハンバーグを切り分けながら言う。
「医学生のとき、新発田教授って人から平坂先生の話を聞いて実際に会ってみたら『理想的な先生』だったから、師事させてもらってる」
理想的な先生。このときの私は本当の意味が分からなかった。てっきり技術とか心構えのことを言っているのだとばかり思っていた。
「そうなの。良かったね、吟」
「姉さんも鶴見さんのところで働いてるんでしょう?」
「まだ駆け出しだから事務とかが主だけどね」
「じゃあ今日が初めての裁判?」
妹の言葉に頷くと「初めての裁判にしては見事だったね」と平坂先生は笑った。
「実に堂々としていた」
「物凄く緊張してましたけどね。傍聴席に居た二人の顔が見えなかったですし」
「へえ。姉さんでも緊張することあるんだ」
そんな会話をしてこの日は解散となった。妹は自分のマンションに帰って、私は実家へと帰宅した。
平坂先生がどう優秀なのかピンと来なかった。とても良い人という印象しかなかった。
それが大きな間違いだと気づくのは、そう遠くなかった。
それから私は連日大忙しになった。
基本的に日本の裁判で無罪を勝ち取るのは難しい。それは警察が優秀だからである。誤認逮捕や冤罪を防ぐために証拠を積み重ねて被疑者を逮捕するのだから当然だけど。
だから新沼仁の無罪は偶然と幸運に過ぎないのだ。いくら私が優秀で異常な人間でも罪を犯した人間を無罪にすることなんてできやしない。
けれど人間は勘違いする生き物で、世間はまるで私が必ず無罪を取れる弁護士であるかのように認識してしまったのだ。
「これから大変になるね。そうだ、今の内にどちらか決めたほうがいい」
鳴り続ける電話に辟易しながら、鶴見先生の話を聞く私。
「どちらか、というと刑事か民事か、ということですか?」
「そのとおり。どちらをメインにするかで方向性が定まるし、依頼も来やすくなる」
私は迷うことなく「民事にします」と言った。刑事と比べてそれほど大変ではないし、明らかに有罪である被告人を弁護しなくて良いと考えたからだ。
鶴見先生は「分かった。では民事の仕事を回すよ」と寛容に頷いてくれた。
しかし私はこのとき知らなかったのだ。
また刑事事件を扱うことになるなんて。
明らかに有罪である人間――妹を弁護しなければいけなくなるなんて。
私が二十七歳のとき、平坂先生が自殺した。そう聞かされたのは先生が亡くなって翌日のことだった。
もしかしてまた妹が――そう思ったけど、人に興味ないと思っていた妹が意気消沈していたのを見て違うと分かった。
診療所は一旦、閉鎖された。平坂先生には奥さんとお子さんが居なかったので自然とそうなった。だけど妹が跡を継ぐと先生の葬式で聞かされた。
葬式には人がほとんど来なかった。あの優しい人柄だし、大学病院の教授だったから教え子とか来るとばかり思い込んでいた。
来た人も義理や親戚だからという理由ばかりだった。本当に悲しんでいるのは妹だけだった。
「平坂先生は手術ミスで患者を殺した過去があるんだ」
葬式が終わって実家に来た妹は喪服のまま、ぽつりと呟いた。
「だから人が来なかったのね」
「先生は優しい人だった。あんな寂しい葬式で送られる人じゃなかった」
妹は顔を伏せたまま、それだけ言った。
実を言うと妹と会うのは一年ぶりだった。だけど一年前と比べてとても痩せていて顔色も悪かった。目の下には隈ができていた。診療所とはそんなに忙しいのだろうか。
「まあ悪い人じゃなかったね。一度しか会っていないけど」
私が慰めるように言うと妹は「先生は悪人だったよ」と顔を上げて睨んできた。
とても恐い顔だった。中学生のとき、水尾が私を殴ったときと同じ顔をしていた。
「どうしたの? そんな恐い顔をして」
「……ごめん。姉さん」
妹はそのまま黙ってしまった。私は妹の傍に座った。
「……姉さん。僕は人殺しだ」
長い沈黙の後、突然妹は告白した。
「……うん。知ってる」
「母さんを殺したのを見てたよね」
「うん。覚えてる」
「それ以外にも殺したんだ」
私は「水尾や大木とか?」と言った。動揺はしなかった。声も震えなかった。
「そいつらは違うよ。いや、殺したのは殺したけど、直接は殺してない」
「……どういう意味?」
妹は「未必の故意って姉さんなら知っているよね」とどこか断定的に訊ねた。
未必の故意とは人が死んだり怪我したりと危険になるような行為をそう思いながら放置する行動や心理状態である。具体的に言えば道端にゴミを『ここに置いたら車が横転するだろう』と思いながら置いて、実際に車が横転したらその人物は故意犯として裁かれる。
場合によっては量刑が軽くなることもあるが、立派な犯罪である。
「うん。知ってるけど」
「僕はそれに該当するかもしれない」
妹の言っていることはいまいちピンと来なかった。
「水尾の場合は溺死するように仕向けた。水尾の友人を騙って川に誘き寄せて、足を滑らせるように工夫した。大木の場合は屋上から飛び降りるように仕向けた。そうやって何人も何十人も殺してきた」
ここで峯快晴の言ってたことが分かった。妹は直接手を下さずに大勢の人間を殺してきたんだ。
「じゃあ、平坂先生は? 直接殺してなくても間接的に?」
「ううん。平坂先生は自殺。原因は僕じゃない」
「じゃあなんで――」
今秘密にしていたことを言ったの? そう訊くはずが口からは違うことを言ってしまった。
「なんで、先生は自殺したの?」
妹は短く答えた。
「罪の意識」
もしかして手術ミスのことだろうか? 訊ねようとした私に妹がバックから一冊の日記帳のようなものを取り出した。そして手渡す。
「これは?」
「先生の日記。僕も協力してたことが書かれていたから、持ってきた」
協力? 私は妹に促されて読み始めた。
『九月十日。今日もまた安楽死を願う人がやってきた。まだ十八の少女だった。何度も説得したが結局執行することになった。とりあえず準備があると言って三日後にまた来るように言った。怖くなったら来なくていいと伝えると少女は笑顔で分かりましたと答えた。ああ、また殺すことになるのか』
『九月十三日。少女を殺した。遺体はいつものように処分した。何か言い残すことはないか訊ねると何もないと答えた。そして執行するときにありがとうと礼を言われた。私にはそんな資格はない。ただの人殺しだ。少女の顔が脳裏に浮かぶ。また眠れなくなるだろう』
適当に開いたページにはそのようなことが書かれていた。
「平坂先生は、まさか、安楽死を?」
「うん」
「協力って、吟も?」
「……うん」
今更だけど手が震えた。妹が殺人者だと分かっていたけど、実際に聞かされるのは――
「なんで、こんなことを――」
「僕の理想のためだよ」
妹の顔を見た。
悲しそうで儚そうで。
それでいて、虚しそうだった。
「姉さん。聞いてくれる? 僕の理想を」
私は呆然としながら、妹の話を聞くことになった。
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