苦悩と愛情

「僕は全ての答えが分かる。だからこそ――母さんを殺したんだ」


 断定的な物言い。それでいて唐突に初めての殺人を語りだした妹に、私は何も言えなかった。言えるわけが無かった。


「母さんはもう助からない。それが分かったから殺した。生命維持のための器具を弄って、母さんの命を絶ったんだ。僕は――それが正解だと思った」


 私は間違いだって言いたかった。でも言えるわけが無かった。

 だって、吟が雨の日に捨てられた仔犬のように、怯えていたから。


「初めはスカッとしたとか、逆に落ち込んだりしなかった。何も感じなかった。ただするべきことをしたって思っていた。子どもの頃に渡された知育教材のように、あるべきものを解いたのと同じだった。でもすぐに――後悔した」

「……母さんを殺したことを?」

「ううん。自分もいずれはあのように死ぬって『知ってしまったから』怖かった。だってさ、そんなの答えを見るより明らかでしょ? 人は必ず死ぬ。どんな過程でも、必ず死んじゃうんだ」


 母さんを殺した罪悪感よりも、自分が死ぬことの恐怖が勝ったんだ。

 人でなしと言い切るのは簡単だけど、化け物だって断じるのは容易いけど。

 私はそんなことを言えなかった。言えやしなかった。

 だって、そんな妹だって悲しいほど知ってしまっていたから。


「死ぬのが怖かった。何が怖いって、何も残せずに死ぬのが怖かった。そしてそれより怖かったのは――姉さんと離れ離れになるのが、怖かった」

「わ、私……と?」

「うん。僕には姉さんしか居なかったから」


 吟は私をじっと見つめる。それは見放されるのを恐れている目だった。

 私が吟を見捨てるなんてありえないけど、彼女のことを理解できなかったように、私の想いを妹は理解できなかったのだろう。答えを見出す彼女唯一の弱点――欠点とも言える――は人間の感情が分からないということだったから。


「でもさ。姉さんは優しかったよね。親殺しの僕に対して、ずっと優しかった」

「あ、当たり前でしょ……家族なんだから……」

「うん。そうだね。僕にとっての家族は姉さんしか居なかった。父さんは――気遣ってくれたけど、家族じゃなかった」

「……それはどうして?」

「なんて言えばいいんだろうね……保護、でもないな。養育、でもない。飼育――うん。飼育されている気分だったんだ」


 私は一度もそう思ったことはない。思い当たるようなことはないことはないけど、それでも父は不器用ながらも愛情を示してくれたのだ。

 だからこそ自分の娘が妻を殺したときも黙認していたし、ばれないように周りを黙殺していたのだ。

 そんな捻じ曲がった愛情も、捻くれた妹には通じなかった――皮肉にもほどがある。


「話を戻すけど、姉さんに嫌われるのは嫌だった。それこそ死んでしまいたいくらいに嫌だった。姉さんに見放されてしまったら、もうどうしようもなかったと思う。だけど――姉さんは、愛してくれたんだ」

「…………」

「僕のことを理解しなくても、受け入れてくれて――愛してくれた。それがどんなに嬉しかったのか。姉さんに想像できるかい?」


 私には――理解できないのかもしれない。

 愛を理解できないわけではない。だけど愛によって救われた妹の気持ちを完全には理解できない。


「姉さんだけには嫌われたくなかった。でもね、僕がやろうとしていることは、姉さんに嫌われると思ってた――嫌だったけど、やるしかなかった」

「やろうとしていることって、安楽死のこと?」


 吟は「半分正解」と言って笑った。


「初めは死んだほうがいい人間を殺そうと思ってたんだ。僕は世界に対して感謝もしてないし、愛情を持っていない。でも僕には分かってしまうんだ。死んだほうがいい人間が居るって。答えが分かってしまうんだよ」


 吟の身体が震えだす。笑っているのか泣いているのか、分からない表情で震えだす。


「この人間は生きててもしょうがないって思える人、姉さんだっているだろう? 僕にとっては大半の人間がそうだった。だけど我慢していた。中学生のときまでずっと。ずっとずっとずっと我慢していたんだ。でも――水尾のことは我慢できなかった」


 水尾……妹を虐めていた女生徒。

 私を殴った、女の子。


「僕にとって全てだった姉さんを傷つけた。許せなかった。絶対に許すことなんてできるわけがない。私は――水尾を殺したかった。だから殺したんだ」

「わ、私のせいで、水尾さんが……」

「姉さんのせいじゃないよ。僕が殺したかっただけなんだから!」


 そのとき吟は両手で私の手を握った。

 すべすべして綺麗な手だった。

 とても血に汚れているとは思えなかった。


「姉さんは悪くない。僕が悪いんだから」

「わ、分かったわ。分かったから……」


 私は吟を落ち着かせるように握り返した。

 吟は「高校になってからもたくさん殺した」とそのまま話を続けた。


「高校のときは、人のために殺した。さっちゃんのために性犯罪者を殺した。他にも大勢殺した。でもね、誓って言うけど僕は自分の快楽のために人は殺さない。利益や私怨のために殺したりしなかったんだ。水尾のときは例外だけど、高校のときはそれを心がけてた」

「だ、だからって――」

「分かっているよ。人殺しは良くないことだって分かっている。絶対にしてはいけないことだって分かっていたよ。それでも、僕は殺さないといけなかった」

「……なんで?」

「殺すことが正解だったからだよ。殺すことで喜んでくれる人も居る。他人の死を望む人も居る。そして死ななければいけない人が死ぬことで――確実に世の中は良くなった」


 危険な考えだ。異端な思想だ。吐き気がするほどの邪悪だ。

 そんな思考を持つ人間は私の妹だった。


「このまま続けようと思ったけど、恩師の平坂先生に会って、考えが変わったんだ」


 吟は初めて幸せそうな顔をした。とても罪の告白をしているように思えないくらい、幸せそうだった。


「平坂先生を見たとき、僕と同じだって気づいたんだ。それで調べたら安楽死をたくさんしていることが分かった。だってさ。入院患者が退院しないんだよ? それで僕も協力させてほしいって言ったとき、先生は困った顔で優しく言ってくれた」

「……なんて言ったの?」

「先生は『自ら死を望む人を助けるためにこの仕事をしている』って言ったの」


 それはつまり。

 治すことや癒すことではなく。

 むしろその逆で。

 人を殺すことで救うのだろう。


「……どうして平坂先生は死んじゃったんだろうね」


 吟は分かっていないようだった。

 罪の意識で死んだと言う事実は分かっていても。

 人を殺してきた彼女には、罪の意識などない。

 既に精神が人を超えているのだ。


「これから、続けるの?」


 私の問いに吟は「うん。続けるよ」と躊躇いもなしに答えた。


「先生の遺志は僕が引き継ぐ。たとえ世間が認めなくても、人から求められるうちは、続けていこうと思っているんだ」


 私は――ここで止めるべきだった。

 否定するべきだったんだ。

 もしくは叱ってあげるべきだった。


 でも――できなかった。

 私は臆病者だ。卑怯者だ。情けないほどどうしようもない駄目人間だ。

 ただ妹を愛するだけの、何もできない無能者だった。


「姉さん。僕っておかしいのかな?」


 最後に吟は私に問う。

 最後のチャンスだった。

 ここで間違っているとか、おかしいとか言ってあげれば、まだ間に合ったかもしれない。


 私は――妹を抱きしめた。


「姉さん……?」

「私、ずっと吟の味方だから」

「人殺しなんだよ?」

「分かってる」

「親殺しなんだよ?」

「分かってる」

「……姉さんのことを、愛しているよ」

「私も愛しているわ」


 この日、私は妹に全てをささげる決意をした。

 破滅が近いことは分かっていたけど。

 それでも私は――

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