死神の手

 妹のことを想うと夜も眠れなくなる。

 いつ峯快晴の手によって、または別の刑事の手によって、彼女の罪が暴かれて明るみになり、逮捕されてしまうか―そう考えるだけで気が狂いそうだった。

 自然と慢性的な不眠症になり目の下に隈ができてしまった。化粧で誤魔化しているけど、何とか眠れた朝、顔を洗うときに鏡を見ると、げっそりと痩せてしまった自分にゾッとする。

 しかし周りは私が司法試験の勉強で寝る間も惜しんで勉強していると勘違いしてくれてたらしい。大学の友人に「あの頃は常に眠そうだったよね」と指摘されて初めて気づいたことだけど。


 精神的に最も不安定だったのはこの時期だったのかもしれない。思えば妹が逮捕されて裁判にかけられたときはなんとか死刑から逃れさせようと必死になっていたから、気がおかしくなる暇がなかったのだ。


 それでも私は周りに寝不足以上のことを勘付かれたりしなかった。苛立ちを友人や他人に見せたりしなかった。不安な気持ちを吐露することもなかった。ましてや妹の罪を告白するなんてもってのほかだった。


 秘密とは人間が思っている以上に抱えられないものだ。どんなに小さい隠し事も次第に肥大していく。それが殺人行為を隠すものなら言うまでもないだろう。それを隠し通すことができたのは私の精神が頑強かつ異常だったからだ。いやそうは言っても寝不足になったのだからそれほど強くて狂ってはいなかったのだろう。


 異常だったのは妹だった。彼女は私以上にプレッシャーを感じていたのに普段通りの生活を続けた。呼吸をするように無自覚で嘘を吐き続けたのだ。自分は誰一人殺してませんと態度に表していた。確かに妹の生活態度に問題は見られなかった。真面目で優等生な医大生を演じていたのだ。


 こちらが気を揉んでいるのに、なんてずぶといんだ――そう思ったけど実際のところは違っていた。妹には殺人者の自覚がなかったのだ。本当に自分は誰も殺していないと考えていたのだ。


 確かに直接手を下したのは母のときしかなかった。水尾や大木雄二を殺したのは間違いなく妹だけど、直接手は下していなかったのだ。だから罪悪感が薄れていたのだろう。


 直接手を下すことになるのは、彼女が医大を卒業して開業医――平坂光ひらさかひかりの師事を受けることになってからの話だ。それ以前の殺人行為は母を除いて全て直接的な殺人ではないと明言しておく。とは言っても妹が殺人者ということは変わりないし、何の救いにもならないけど。


 さて。妹が恩師と呼んだ人間、平坂光に出会ったのは私が弁護士になって、裁判において無罪を勝ち取った同日のことだった。私が弁護士となったとき、妹は家を出て一人で暮らしていたので、彼女が平坂光――いや平坂先生と呼ぼう――に師事していたのを知ったのはそのときが初めてだった。


 当時、私は父の友人で弁護士事務所の所長、鶴見信吾先生を頼って働いていた。鶴見先生は私が司法試験の勉強をしてたときやその後の進路について悩んでいたとき、何かと世話をしてくれたのだ。


「政治さんの娘の面倒を見るのは、友人の役目だよ」


 感謝するたびにそう言って誤魔化してたけど、根が善人なのは隠しきれなかった。だから私は鶴見先生の事務所に入ったのだ。

 そして任された最初の事件は刑事裁判だった。


「えー、被告人であり被害者の息子、新沼仁にいぬまじんは定職に就かず、日々を無為に過ごしていた、いわゆるニートです」


 目の前の検事、海老川えびかわはそう言いながら神経質に眼鏡の位置を直した。


「事件の当日、被害者の新沼勝也にいぬまかつやと些細なことで口論となり、被害者のコレクションである陶器で撲殺。そのまま現場から逃走し、二日後にネットカフェで発見されました。また犯行時刻、倒れている被害者の死体を配達業者が見ていました」


 私は隣に居る新沼仁の様子をちらりと見た。おどおどしていて、何も言えないようだった。

 しかし拘置所では彼は無罪を訴えていた。だから私も無罪を信じていた。


「金庫からは数百万の現金が盗られており、被告人が何らかの方法でどこかに隠したと検察は考えております」


 いわゆる強盗殺人罪だ。強盗殺人罪は殺人より罪が重く、無期懲役か死刑しか執行されない。


「検察は被告人に対して死刑を求刑します」


 そう言って海老川は席に着いた。

 私は立ち上がり、裁判長に向けて言う。


「証人の配達業者の社員、須貝勇人すがいゆうとさんに質問させてください」

「いいでしょう。証人は証言台に」


 須貝が証言台に立つのを見て、私はすぐさま訊ねた。


「あなたが被害者の死体を見たのはいつですか?」

「午後二時くらいです」

「どうして二時くらいだと?」

「その時間に新沼さんのお隣に届け物を配達していました。指定された時間だったので、間違いありません」


 うん。ここまでは隣の住人の言うとおりだ。


「しかしあなたが警察に連絡したのは二時半です。どうして三十分も時間が空いたのでしょうか?」

「それは……気が動転してしまって……」


 すかさず海老川が「死体を見て動転することは当然です」と口を挟んだ。


「なるほど。ではあなたは塀の外から被害者の死体を見た。間違いないでしょうか?」


 私は確認するように訊ねる。


「隣の家に配達をしたのだから、新沼さんの家に入ることはありませんね?」

「も、もちろんです」


 須貝が頷いた瞬間、私は「おかしいですね」とすかさず言った。


「新沼さんは資産家です。金庫に数百万という大金があり、持ち家も大きく、庭も広い。もちろん塀も高いですね」

「裁判長、弁護人の意図が分かりません。裁判に関係のないことです」


 裁判長から「弁護人は分かりやすく言いなさい」と注意を受けた。


「でははっきり言いましょう。塀の外からは被害者の死体は決して見られないのです」


 ざわめく傍聴席。裁判長が「静粛に!」と言う。


「塀の外から見られない? 確かに大きな塀はありますが、須貝さんの身長は百七十六センチ。塀の高さは百六十センチ。十分見えるでしょう」


 私は「見えると言ってもぎりぎりでしょうね」と前置きしてから決定的な一言を言う。


「事件当日、被害者の庭には布団が干してありました。ちょうど須貝さんが見たという角度に。ですから被害者の死体を確認できたはずがないんですよ」


 どよめく法廷。


「配達記録によると須貝さんは被害者の家辺りの配達を任されていました。ですから塀から被害者の様子を見ることが可能だと知っていたのでしょう。しかし事件前日、被害者の息子、被告人の兄夫婦が被害者宅に遊びに来ていました。その際、お孫さんがお漏らしをしてしまい、布団を洗わざるを得なかった。だから布団が干してあったのです。これは家族のみならず家政婦さんからも証言していただけました」


 徐々に顔色が青くなる須貝。海老川も「弁護人! 何が言いたいんだ!」と焦っている。


「弁護側は証人の証言が矛盾しており、犯行時間が異なっていることを主張します。つまり午後二時前後にアリバイのない被告人が犯行を及んだとは限らないということです」


 そして最後に須貝に訊ねた。


「あなたはどうしてあるべき布団のことを証言しなかったのですか?」

「そ、それは……」

「それをお答えできない場合はあなたの証言に信憑性がなくなります」


 私は裁判長に「以上の点から被告人の無罪を主張します」と訴えた。




 その日の内に新沼仁の無罪は確定した。しかも犯人が証人の須貝だったことも判明した。


「あはは。まるでドラマのようだね。姉さん」


 雑多に集まった記者たち。そのほとぼりが冷めるまで裁判所の奥の部屋に居た私にそう投げかけたのは、妹だった。


「どうやってここに?」

「ずっと裁判見てたからね。すぐにどっか行くのも分かった。ま、僕にして見れば簡単だよ」


 そうだった。妹は『答え』が分かるのだ。完全記憶能力を持っているのに失念してしまった。


「それで、何の用なの? 久しぶりじゃない」

「姉さんに紹介したい人が居るんだ。僕の恩師の平坂光先生」

「ふうん。どこにいるの?」

「今トイレに居るよ。もうすぐここに来ると思う」


 妹がそう言った瞬間、部屋の扉が開いた。


「いや。すまないね。この歳になると近くなる」


 平坂先生の印象は初老で総白髪の男性で――


「あなたが吟くんの姉だね。初めまして――」


 とても人を殺すように見えない、優しそうな笑顔――


「私の名は平坂光。よろしく」


 でも実際は――


「初めまして。松永司です」


 自己紹介しながら差し伸べられた手を握った。


 それが何十人と殺した死神の手だとは思わなかった。

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