許されない罪と憎むべき悪人
父の遺産のほとんどは私たち姉妹に相続された。もしもドラマや小説の世界だったら、たちの悪い親戚が集りだすのが定番で、私も一応警戒はしてたんだけど、父の生前残した遺言状のおかげで杞憂に終わった。
遺言状だけではなく、父の顧問弁護士も協力してくれたことも大きな要因だった。なんでも父の友人で、しかも個人的に恩義があるらしい。そう語るのは弁護士の鶴見信吾さんだ。彼は父の葬儀のとき参列していた。悲痛な表情だったことを覚えている。
「政治さんの親戚、そして亡くなった奥さんの親戚は君たちに干渉しないようだ」
父が死んで半月後。二人で生活をしていた家の中で鶴見さんは書類を出して、子供の私と妹に丁寧に説明してくれた。遺産がどのくらいあるのか、父が所有していた土地の管理方法、そして管理が難しい資産を効率よく売る方法など、時間をかけて教えてくれた。
鶴見さんは多分父と同世代だった。でも白髪が混じり始めている。なんというか弁護士というより会社の中間管理職の印象を受ける、スーツがよく似合う優しそうなおじさんだった。
「もしも困ったことや相談があったらなんでも言ってほしい。君たちはまだ高校生なんだろう? 悪い大人に騙されないように気をつけるんだ」
「鶴見さんが遺産管理してくれたら、僕たちは助かりますけど」
妹の厚かましいお願いに鶴見さんはやんわりと言う。
「君のお父さんはそのことを私に頼まなかった。でも代わりに未成年後見人が選出されるだろう。その人に管理してもらいなさい」
「変な人じゃなければいいですけど」
「こら、吟。そんなこと言わないの。ありがとうございます、鶴見さん」
私が礼を言うと鶴見さんは「そういえば政治さんが生前、もしかすると娘が法曹関係の道に進むかもしれないと言ってたな」と思い出したように言う。
私は父にそんな話をしたことがなかったし、それにこの時点では神田清は生きていて、弁護士になろうと決意していなかったから寝耳に水だった。
それでも裁判所に通うことで法曹関係の仕事に興味が出てきたのは事実だった。
それを見抜いていたのだろうか、父は。
「それは君のことかな、司ちゃん」
「……たまに父が怖いときがありました。全てを見透かされているようで」
そう答えると鶴見さんは「私もそうだったよ」と懐かしそうな顔をした。
「なんて言えばいいのかな。政治さんはもしかすると常人には見えていないものが見えていたのかもしれない。全てを遥か高みから見下ろしているような、そんな傑物だった」
私たち親子以外でそんな風に父を評した人を見たのは初めてだった。流石父の友人だと思った。
「もしも君が弁護士の道を選ぶのなら協力しよう。就職先に困ったら連絡してくれ。あまり大きくない個人事務所だが雇うことはできる。なんなら別の事務所を紹介してもいい」
そして私と妹に名刺を渡してくれた。
「もう政治さんに恩を返すことができなくなった私にはこれくらいしかやれることはない。君たちの幸せを祈っているよ」
帰り際、鶴見さんにそう言われた私は考える。
私たちの幸せって、なんだろう?
父が死んでからの生活は割りと平凡そのものだった。父はあまり家に帰らない人だったし、未成年後見人になった、父の元秘書で今は新進気鋭の若き政治家の石山さんから毎月渡される生活費は不自由しない程度だったし、何より妹は手のかからない子だったので、それほど負担はなかった。
私の高校生活は順調だった。友人も居て、成績は上々、孤児ということをとやかく言う人も居なかった。まあ高校生ぐらいになったら孤児だからといって虐める人間はいないし、逆に気を使われることもなかった。元々母親が早くに亡くなったこともあって、慣れていたせいもあるかもしれない。
しかしこれといった問題がなかった私の高校生活を比べて、妹の高校生活には問題があった。しかも中学校の虐めと違って加害者が妹だったのが悪かった。環境ではなく、妹に問題があったのだ。
それに気づいたのは私が大学に入学した頃だった。内部進学ではなく、国立の大学に進学した。入学費や学費のこともあったからだ。その大学の法学部で本格的に弁護士を目指すつもりだった。
弁護士になるには法学部の四年間と法科大学院の二年間の勉強、そして司法試験を合格しなければならなかった。完全記憶能力者とはいえ、普段からの勉強は疎かにできない。また高校三年生のときは大学に入るための受験勉強であまり妹のことを慮れなかった。
何を言っても言い訳になってしまうのだけど。
妹の異常な行動と邪悪な探求に気づけたのは大学一年生の秋のことだった。
気づけたのは偶然だった。友人から借りたノートを返すのを忘れてしまい、それを届けて自宅に帰る途中、妹の学校の制服を着たショートヘアの女の子が虚ろな表情で歩道橋の真ん中に立っているのを見た。顔をよく見るとどこかで会った気がする。記憶を辿ると妹が入学式の後に紹介してくれたクラスメートの一人だった。
確か名前は――
「
名前を呼ぶと私のほうにゆっくりと振り向いた。そして誰だろうという顔をする。
ああ、そうか。普通は覚えてないか。
「覚えてないと思うけど、私は松永吟の姉だよ」
「――っ! ぎ、吟ちゃんの!? どうしてここに――」
「えっと、大学の友人が近くに住んでて。もう用事は済ませたんだけどね。小西さんは?」
訊ねると次第に様子がおかしくなっていくのに気づいた。目が見開いて、呼吸が荒い。
そして身体がぶるぶる震えだしたのでこれはおかしいと思った。
「ど、どうしたのかな? 何か――」
「あ、ああ、ああああ――」
涙を流し始めて、その場に座り込んでしまった。両腕で自分の身体を抱きしめて、言葉にならない呻き声をあげる。
私は傍に近づいて「大丈夫? 何かあったの?」と言いながら背中をさすってあげた。異常な状態の小西さんが心配になったからだ。
とりあえず私は小西さんを連れて近くの公園に向かった。流石に泣いている子を歩道橋の上で放置できなかったし、何より妹のクラスメート――特進クラスだから変わらないはずだ――があんななのに一人っきりにさせるのは良くないと常識的に考えた。
公園のベンチに小西さんを座らせて、自販機で飲み物を二つ買って手渡した。なかなか受けとってくれなかったけど、背中をさすっているうちに落ち着いたのか「ありがとう、ございます」と話せるようになった。
私はペットボトルのジュースを一口含んで飲んだ後「何かあったの?」と訊ねた。
「えっと、この辺に住んでるの? 君の高校から結構離れてるけど」
「……違います。私も初めて来ました」
「うん? じゃあどうしてここに来たのかな?」
すると小西さんは「ここじゃないといけなかったんです」と小声で答えた。
「よく分からないけど、小西さんは何が目的であんなところに居たのかな?」
「…………」
今度は答えなかった。でもそれが答えにつながった。
来たことのない知らない土地。高い位置にある歩道橋。そして異常な様子。
そこから導き出されるのは一つしかなかった。
「もしかして、自殺しようとしたのかな?」
私の推測は間違っていなかった。小西さんは唇をぎゅっと噛み締めて、小刻みに震えだした。そして微かに聞こえるぐらいの小さな声で「……はい」と言った。
「何があったのか、聞かせてくれる?」
こういうときは自殺なんてしちゃいけないと頭ごなしに叱ってはいけない。まず話を聞くことが重要だと本で読んだことがある。
「あなたは、知っているんですか?」
唐突に漠然としたことを問われた私は「いや、自殺の理由なんて知らないよ」と憶測で答えた。
すると小西さんは首を横に振った。
「そうじゃないんです。あなたは、吟ちゃんのしていること、知っているんですか?」
どうして妹の名が出たのか。そしてしていることとはなんなのか。
訳が分からなかったので「ううん。妹が何をしているのか知らない」ととりあえず正直に答えた。
「吟ちゃんは、吟ちゃんは――」
小西さんは怯えていた。
何に対して?
もちろん――私の妹に対してだった。
「ゆっくりでいい。話してくれるかな?」
できるかぎりの優しさを込めたつもりだった。そして手を握ってあげる。
小西さんは自分の中の恐怖と戦いながら、私の手を強く握り返して。
そして――真実を告げた。
「吟ちゃんは、私のために、人を――殺したんです」
そしてさらに続けて言う。
「私もそれに関わっているんです。だから――死なないといけないんです」
ここで姉としての反応は否定するか怒るか、そして呆然とするかの三択だろうけど、私は「妹は何をしたの?」と訊ねてしまった。
それは妹ではなく小西さんを信用したことに他ならない。でも妹のことを理解できない代わりに受け入れている姉だからこそ、そのような反応をしてしまったのだろう。
それに促された感じで小西さんはゆっくりと話し始めた。
「吟ちゃんは優しい子です。それは分かっています。でも恐ろしいんです。おぞましいほどに。私のせいでもあるんですけど、それでも怖いんです」
「……妹は誰を殺したのかな?」
「……私は小さい頃、近所のお兄さんに悪戯されたんです」
性的な意味での悪戯だろうなと思った。
「それ以来、男の人が苦手で、関われなくて。告白されても断って。それをあるとき吟ちゃんに相談したんです。吟ちゃんなら、誰にも言わないと思ったし、それに何故か吟ちゃんになら秘密を打ち明けていいと思ったから」
「……妹はそれでなんて言ったの?」
「……私を悪戯したお兄さんのことを許せないと言いました。そしてお兄さんの名前を聞いて『分かった。ちょっと待ってて』と言ったんです。私は何を待てばいいのか分かりませんでした」
小西さんの目からぽろぽろと涙が溢れてる。
「数日後、吟ちゃんは新聞記事を私に見せました。地方の新聞です。そこに、書かれていたのは、私に悪戯をしたお兄さんの、名前でした……」
「……まさか」
小西さんは一層身体を震わせた。
「死亡記事、でした。マンションの屋上から、飛び降りたらしいです」
妹がまたやったんだ。私は確信した。
「吟ちゃんは笑顔で言いました。『良かったね。死んでくれて』と。私は、なんと言えばいいのか分かりませんでした。殺したいくらい恨んだ相手なのに、まるで自分が殺したように思えて、夜も眠れなくて――」
私は小西さんを抱きしめた。今まで誰にも言えなくてツラい思いをしてたと思うと同情する。
それは私も同じだから。同じ苦しみが分かるから。
「私は吟ちゃんに何も言えませんでした。でももっと恐ろしいことが分かったんです」
「……どんな恐ろしいことかな?」
小西さんは深呼吸して、自分を落ち着かせた。
「吟ちゃんは他にもそういうことをしているみたいなんです」
「……人を殺しているということ?」
黙って頷く小西さんに私は何も言えなかった。
そんなことをしているなんて、知らなかった。
「私は死なないといけないんです。だって、私がきっかけなんです。吟ちゃんが、あの優しい吟ちゃんが、人殺しをするようになったのは!」
そっか。小西さんは高校からの友人で、何も知らないんだ。
私は君のせいじゃないと言いたかったけど、何も言えない自分が居たことに気づく。
だから手を握ることしかできなかった。
それしかできない自分が腹立たしかった。
その後、泣き続ける小西さんをなんとか落ち着かせて、家まで送り届けた。家で出迎えてくれたのは小西さんの母親で、流石に本当のことを言えないから、適当に嘘を言って誤魔化した。
家に帰ると妹がリビングでテレビを見ていた。
「おかえり姉さん。遅かったね」」
「ただいま。ねえ、小西さんって吟のクラスメートだよね」
「うん? さっちゃんのこと? 友達だよ?」
それがどうかしたの? と妹は訊ねた。
私は意を決して言う。
「今日、小西さんに会った。彼女自殺しようとしてた」
「ふうん。それで?」
「それでって……」
妹の顔はいつもと変わらなかった。
だからなに? とでも言いたげだった。
「ねえ。吟は本当に人を――」
「姉さん、知りたいの?」
知りたいの? が死にたいの? に聞こえた気がした。
「安心してよ。姉さんは気にしなくていい」
「…………」
「大丈夫だから」
私は溜息をして、それから吟に言った。
「私はどんなことがあっても、吟の味方だから」
そう言い残してリビングから出て行く。
「ありがとう、姉さん」
その言葉は無視した。
翌日。朝食の準備をしようとリビングに行くと、吟がスマホを握り締めていた。
「おはよう。今日は早起きね」
「……姉さん。あのね――」
振り返った吟は泣いていた。
いや、泣きながら笑っていた。
「さっちゃん、死んじゃった」
「…………」
「僕のせいで、死んだんだ」
私は妹を正面から抱きしめた。
それしかできなかった。
「さっちゃんが死ななくても良かったのに。生きててほしかったなあ」
まるで食べてたお菓子が地面に落下したときの子供のような反応だった。
妹を許すべきではないだろう。憎むべきだろう。
それでも、妹を受け入れて愛するしかなかったのだ。
だって二人っきりの姉妹なんだから。
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