妹の進路と父の言葉
将来について考えるのが早かったのは妹だった。
それは私にとっては意外なことだった。
妹は賢くて聡明だったけど、どこか考えなしなところがあった。後先考えないところがあった。まず何かをして、後からこうすれば良かったかなと考えるところがあった。
だからエスカレーター式に進学できる高校に行かず、別の進学校を受験すると聞いたときは驚きを禁じえなかった。しかも中学二年生の時点だった。
「やっぱりいじめが原因なの?」
デリカシーのない言い方だけど、妹に対してはストレートな物言いが良いと今までの生活から分かっていた。
妹に対してのいじめはまだ続いていた。いじめと言っても、誰も話しかけないという女子特有の陰湿ないじめだけど。それは水尾が死んでしまったことや妹が平然と受け流していたからだった。つまるところ、恐怖によってだった。
「そうじゃないよ。僕の将来について考えたら、そうしたほうがいいと思ったんだ」
妹は自分の知恵や知識、頭脳や思考を最大限に活かせる方法を既に知っていた。
彼女の中では理論はできていたらしい。後は実践だけだった。
でも当時は妹の考えていることがさっぱり分からなかった。
「よく分からないのだけど」
「うん。僕は理系向きだから理系の大学に進学しようと思って。でもこのまま進学しても望んだ理系学部に入れないからね」
そういえば大学には理学部しかなかったっけ。
「吟は将来、何になりたいの?」
「医者になりたいんだ」
吟の言葉を飲み込むのに時間がかかってしまった。今ではありえないことだけど、てっきり漫画家になりたいとばかり思っていたのだ。手先が器用だし、そこそこ絵も描けるからだ。
「医者になってどうするのよ」
「やりたいことなんてないよ。ただ楽に金が稼げるし、社会的地位も高いしね」
このとき嘘を吐かれてしまった。そう気づくのはだいぶ先のことだった。
妹にはやりたいことが明確にあったし。
楽がしたいという欲求が皆無だったし。
お金を稼ぐことなんて興味なかったし。
社会的地位なんて見向きもしなかった。
妹の興味やその方向は真っ直ぐ突き進んでいた。
それは結局、行き止まりに過ぎなかったけど。
その晩、私は久しぶりに帰ってきた父に妹が語った進路を報告した。妹自身が言えば良いのだけど、この頃の妹は父とあまり話さなかった。嫌っていたわけではないけど、どこか苦手意識があったのかもしれない。天才が天才を厭うのは歴史上でもよくあることだ。
しかし単純に考えて、妹にも思春期や反抗期があったのかもしれない。今となっては真相は闇の中だ。
「そうか。なら理系の特進クラスならいいかもしれないな」
父はテレビでバラエティを観ながら、そう呟いた。
「それはどうしてなの?」
「……人間は頭の良さで四種類に分類できる。司、考えなさい」
唐突な問いに、私はしばらく悩んで「馬鹿と普通と天才と……後は分からない」と言う。
父は「まったく違うよ」と否定した。
「いいかい? 劣等と平凡、秀才と異常に分かれるんだ」
「はあ……」
「そして私たちは異常に分類される」
私たちとは家族のことを指していた。まさか自分も含まれるとは思わなかったけど、よくよく考えてみれば完全記憶能力も異常だなと思い返した。
「吟がいじめられたのは、彼女が異常で周りに平凡か劣等な人間しか居なかったからだ。まあ秀才もいただろうけど、そんなのは一握りだ。劣等な人間は異常な人間を敵視するし平凡な人間は怯えてしまう。今から考えると水尾さんは劣等だったのかもしれないね」
珍しく饒舌な父の話を聞きながら私は「だから吟は特進クラスに入りたいの?」と訊く。すると父は「そのとおりだね」と答えた。
「異常に憧れを抱くのは秀才だけだ。彼らは天才ではないゆえに逸脱した者に憧れる。羨ましく思う。ある意味愚か者だけどね」
そして父はテレビを観ながら「見なさい、司」と一人の大物司会者を指差した。確か大御所と呼ばれるお笑い芸人だった。
「彼は芸人として一流だ。もちろん人間としても一流だろう。こうして人を操り、人を笑わせて、人を喜ばせて収入を得ている」
「それが一流だってこと? それゆえにあの人は異常だってこと?」
「まあ確かに彼は異常だろう。しかし異常な人間は異常な世界でしか天下を取れない。お笑い界という特殊な世界でしかね。もしも彼が一般企業に勤めたら、私が思うに良くて課長クラスで終わるだろう」
「つまり人には人の相応しい世界があるってこと? 吟の場合が特進クラスってわけ?」
父は「そのとおりだ」と答えた。
テレビの司会者は演出なのか知らないけど、若手芸人と同じゲームに挑戦させられてしまっている。その様子を見ながら父はこうも言う。
「この普通の世界の頂点に立てる人間は秀才でも異常でもない。もちろん劣等でもない。平凡な人間だ。それは単に数の多いという呆れた理由からだ。民主主義というくだらない政治制度のせいだからだ。しかし世界を矛盾たらしめているのは、その平凡な人間がいくらでも居て、代わりのいくらでも利く代替品であり、大量製品でもあるからだ。欠陥品や故障品ではない、完成品としての平凡なんだ」
そして父はつまらなそうにテレビを見続ける。
「私たちのような異常な人間は普通の世界では生きられない。司。君も普通に生きられない人間だ。吟のように今のうちに進路を考えなさい」
私は父と同じ目線には立ちたくないと思った。彼は人を見下していない。見上げてもいない。ただ真っ直ぐ価値を見定めている。そしておそろしく冷静に計るのだ。もしくは謀るのだ。この人間は自分にとって有益か無益かと。
もしも私が父にとって無益だと断じられたら――そう考えるだけでおそろしかった。
番組は終盤に差し迫っていた。
司会者が何故か罰ゲームを受けていた。
歳を取っても、たとえ異常であっても、こういうことはしたくないなと思った。
したくないことは山ほどあるけど、したいことは何にもなかった。
このまま穏やかに生きていけたら良かった。
植物ではなく静物として時を止めたまま生きられたら幸せだった。
だけどそれが許される人間などいない。
それがたとえ異常な人間であっても。
私が異常な人間のクセに普通に高等科に進学して一年が経った頃。
妹は都内で有名な某進学校に入学した。
しかもトップの成績で。
妹の高校の入学式。私は父の代わりに保護者として出席した。
入学生代表として挨拶する妹を見て、なんというか感無量だった。
妹は挨拶文を見ながら挨拶していたけど、その気になればあれくらいの文章は暗唱できただろう。私に劣るとはいえ、そのくらいの暗記力はあるはずだ。
入学式はつつがなく終わり、私は妹の帰りを待った。実は私にも学校の授業があったけど、入学式に出席するためにサボってしまった。まあ担任の先生に事情を話して許可を貰ったので、正確にはサボりではないのだけど。
少し遅れて、妹が校舎から出てきた。何人か女の子を連れている。
私は手を挙げて「おーい」と言う。すると妹は嬉しそうに私に駆け寄った。
「姉さん。来てたんだ」
「当たり前でしょ。ちゃんとあなたの挨拶聞いてたよ。その子たちは?」
「ああ、紹介するよ。僕のクラスメイトの――」
さっそく妹に友人ができたみたいだ。なんだか嬉しく思った。
まあ姉として当然だけど。
「姉さん、ご飯食べに行こうよ」
友人たちに挨拶されて、みんなと別れた後に妹が言ってきたので頷いた。
妹と一緒に歩く。駅前は近かった。
「なんとか仲良くなれそう?」
「うん。そうだね。上手くなんとか周りと合わせるようにするよ」
「そう。ならいいけど。それにしても少し遅かったね」
「ああ。挨拶文が白紙だったこと、怒られちゃった」
私は「白紙? ああ、考えながら話したのね」とさほど驚かずに言う。その程度のこと、妹ならアドリブでできるだろう。
「せっかくの素晴らしい挨拶なのに、文章を残さないのは一体どういうことだ! ってゴリラみたいな先生に怒られちゃった」
「あはは。それなら紙を用意しなかったら良かったのに」
「ちゃんと原稿を見ながらやってくださいって言われたんだよ。まさか回収するとは思わなかった」
妹でも失敗することがあるんだなあと何故かほのぼのしてしまった。
その後、妹が行きたいと言ってた駅近くのファミレスでご飯を食べた。
まあ味は美味しくはなかっけど、妹はファミレスが初めてだったらしく、楽しんでくれた。
妹は何故かドリンクバーのシステムを知らなくて「僕のコーラまだかな」と言ってた。面白がって見ていたら、周りの人間がジュースをおかわりするのを見て「えっ? 汲んできていいの?」と私に聞いてきたので、思わず噴き出してしまった。
「酷いよ姉さん!」
「あはは。ごめんごめん」
「ていうかなんで姉さんは知ってたの?」
「前にファミレスに来たことがあるのよ」
まあ友達との会話で知っていたから、妹みたいに困ることはなかったけど。
というか普通は知っていると思ったんだけどなあ。
「それで吟。今度の学校は共学だけど、どうなのよ?」
「どうって、何が?」
「男子でカッコいい人いなかったの?」
私はあまり興味がなかったけど、妹がどういう反応するのか気になったのだ。
妹は「うーん。よく分かんない」と首を捻った。
「分からないってどういうこと?」
「なんか別の生き物というか、理解できないというか、解読不可能な文章を見たような感じ? 解のない式を見たのと一緒な気もするなあ」
妹らしい反応だった。高校一年の時点では妹は男性に対して、何の興味もなく、かといって恐怖もなかった。
不可解な生物。それが第一印象だったみたいだ。
そしてその印象は変わることはなかった。
ご飯を食べ終えて、帰ろうとしたときだった。
携帯に着信が来た。
画面には秘書さんの名前が表示されていた。
「待って。秘書の石山さんから電話だ」
「父さんに何かあったのかな?」
妹の何気ない疑問に答えず、私は何の気なしに電話に出た。
「もしもし――」
「司さんですか? 秘書の石山です!」
第一秘書の石山さんがいつも冷静な彼らしからぬ慌てた声で「落ち着いて聞いてください!」と言ってくる。
なんだろう、嫌な予感がする。
そう思った直後――
「政治さまが刺されました! 意識不明の重体です! すぐに病院に来てください!」
私は何を言われたのか理解できず、次の一瞬で理解させられた。
「どうしたの? 姉さん」
もしも傍に吟が居なければ卒倒してた。
でも吟の顔を見て、冷静さをなんとか保てたのだ。
「父さんが、刺された。今病院だって」
「――えっ? 嘘でしょ?」
妹の言葉はあくまでも冷静だったけど、それは何も救いにならなかった。
「急ごう。父さんのところに行かなくちゃ」
多分、顔は真っ青になっていただろう。妹の私を見る顔で、予想がついた。
ファミレスを出て、タクシーを捕まえて、病院まで向かった。
私と妹はいつの間にか手をつないでいた。どっちが先に握ってきたのか、分からなかった。
病院に着くと、石山さんが病院の入り口近くで待っていた。
「父さんは? 父さんは大丈夫なんですか!?」
食ってかかると石山さんは「政治さまはなんとかご無事です」と答えた。
「手術は成功しました。しかし予断は許さない状況です」
「よ、良かった……」
「誰が刺したんですか?」
底冷えするような声。
妹を見ると――怒っていた。
「誰が父さんを刺したんですか?」
石山さんは素早く答えた。
「男です。拘束されました。身元は不明です。今警察の方が調べています」
父の殺害未遂。
そしてその後の捜査と裁判。
それが私の進路を決定付けることになるなんて。
今の段階では思いもよらなかった。
このときはどうしてという気持ちで一杯だったのだ。
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