正しさと間違い
妹が警察に呼ばれたのは水尾が発見されて、さらに五日後のことだった。
その日は土曜日で半日授業だった。家に帰って妹と一緒に自分たちが作ったお昼ご飯を食べていると玄関のチャイムが鳴った。その日は家政婦の人が居なかったので私が防犯カメラごしに玄関の様子を見た。ここまで用心深いのは父が政治家をしていたからだ。誰が訪ねてきたのか分からずに、いきなり玄関を開けるという行為は危険を招く。
モニターに映っていたのは二人の男性だった。一人は定年間近の老人でもう一人は大学を卒業したての印象を感じさせる青年だった。
「ごめんくださーい。松永吟さんのお宅ですか?」
家のカメラに間延びした声で話しかける老人。私は警戒しながら「どちら様ですか?」と声をかけた。青年は私の声にほんの少し面食らったようだけど、老人は動揺もせずに「ああ、松永吟さんですか?」とにこやかに応じた。
「いいえ。姉の松永司です」
「ああ、すみません。妹さんいらっしゃいますよね? 代わっていただきたいのですが」
「……どうして妹が居ることを知っているんですか?」
「ああ、やっぱり居るんですね」
ああ、しくじった。怪しい二人組みに妹の所在を言ってしまった。
平凡そうな老人に引っ掛けられたのは、この頃のエリートの自覚のある私にとって屈辱的だったけど、これは老獪さのせいだと言い聞かせることで冷静さを取り戻す。
「居ますけど、あなたたちは誰ですか?」
「申し遅れました。私たちはこういう者です」
分かりやすくカメラに映るように見せたのは警察手帳だった。丁寧に中身まで見せてきた。名前は
もう一人の若い人も倣って手帳を見せてきた。名前は
「……警察の人が何の用ですか?」
「ご存知かもしれませんけど、松永さんの通っている学校の生徒が亡くなりましてね。水尾ひかりさんです。それで同じクラスの生徒である松永吟さんにお話を伺いたいと思いまして。署までご同行願えませんか?」
なんで署まで同行しなければいけないのか。話を聞くだけならこの場でも構わないはず。そう訊ねると帯広さんは困ったように頭を掻きながら「実は水尾さんが亡くなる前に妹さんと揉めていたという証言がありまして」と言ってくる。
「確かに揉めていましたけど、何か関係あるんですか?」
「ええ。些細なことでも事件解決につながりますから」
「事件? 新聞では自殺になっていましたけど」
金曜日の新聞にそう出ていたから、少々の安心と多大な罪悪感を覚えていたのだけど。
「まったく。マスコミはいい加減なことを書きますね。あれは他殺かもしれないのに」
心拍数が大きく跳ね上がる。他殺? もしかして妹が――
「姉さん。何かあったのかい? また訪問販売かな?」
後ろから妹の声と気配がして、声にならない悲鳴を上げそうになる。
振り返るともちろん妹が居た。
「吟、ちょっと今――」
「うん? 妹さんがいらっしゃるんですか?」
二度目の失敗だった。私は舌打ちしたい気分でどう誤魔化そうか悩んでいた。
「姉さん。そこに映っている人は?」
「警察の人。あなたに聞きたいことがあるんだって」
「警察? 僕は何も悪いことはしてないよ?」
「水尾さんと揉めてたことを話したいらしいのよ」
「じゃあここで話すよ」
「いや、向こうは警察署に来てほしいんだって」
妹はしばらく考えた後「そっか。じゃあ行くよ」と簡単に言った。
「本当にいいの?」
「うん。姉さんはどうする? 一緒に来る?」
「心配だから行くわ。準備して」
「分かった。ご飯にラップかけておくね」
まるで雨が降りそうだから傘を持っていくねみたいなテンションで言うものだから、妹は事の重大さに気づいていないのだろうかと心配した。
同時に勇気が湧いてきた。妹は何もやっていないからこそ、あんなに自然体で居られるんだと思えた。
私はすぐに出る準備をする旨を帯広さんに伝えた。向こうが了承したのを受けて、私は鍵や財布、携帯電話などを持って妹と一緒に家を出た。
「ああ、すみませんね。無理を言ってしまったようですね」
カメラごしではなく肉眼で見た帯広さんは白髪があって物腰も柔和そうだったけど、眼光は鋭くて背筋もぴんとしていた。もう一人の刑事、峯さんはこちらを睨んでいる。眼鏡をしていて、まるで陰険な教師のようだと思った。加えてエリートっぽいなと感じた。
「それでは車で署まで行きましょうか」
「そうですね。吟、行こう」
妹は素直に頷いた。
このときはまだ、余裕があった。父にもメールで連絡した。父はめったに私たちからの電話に出られないからメールを用いるようにしている。
だけど、まさか送ったメールのせいで、また人が死ぬなんて思わなかった。
車で署に着いた瞬間、妹は別室に連れて行かれて、私は一人で複数の婦人警官と一緒に居させられた。
婦人警官に訊ねてもはぐらかさせられた。もうすぐ終わると八回も言われた。
時折、同情するような目を彼女たちに向けられた。不愉快だった。
まるで、妹が、水尾を殺したようじゃないか。
「妹に会わせてください。これは当然の権利ですよね」
五時間経過した。婦人警官の一人が九回目のもうすぐ終わるようなことを言ってきたので「それで九回目ですよね」とぴしゃりと言ってやる。
「妹を返してもらいます。任意同行は途中で帰ってもいいはずです」
私は押さえつけようとする婦人警官に向かって「もしも私に指一本でも触れたら、あなたたちを訴えます」と言った。それによって誰も手出しできなくなった。
そして取調室に向けて走り出した。場所は分からなかったけど、とにかく走った。
このとき、私はこのまま妹を助けなければ良かったのかもしれない。もしも逮捕されても、中学一年生で十二才の妹は刑事事件にならない。少年院送りになるだけだ。もしかしたら矯正されるかもしれない。悪いことをしたら罰せられることを頭の良い彼女なら分かってくれたかもしれない。
でも同時に分からないとも今では確信していた。おそらく妹を理解できるのは誰一人居ない。血の繋がった姉の私でさえ投げ出したのだ。それなのに他人に理解できるわけがない。
しかしこのときはただ妹を助けたかったのだ。
やましい気持ちなんて、なかった。
「司、待ちなさい。がむしゃらに走っても良いことはないよ」
聞き覚えのある声。
息を切らしながら声のした方向を見ると――父が居た。
仕事で忙しいはずの父が、スーツ姿で近くに秘書を侍らせて、当然のように居た。
「父さん……どうしてここに?」
「君のメールを見たんだ。それでここに来た」
まさか父がここに居るとは思わなかった。この状況を打破してくれる唯一の大人であり、唯一の味方の父が――
「それで、どういう状況なんだい? メールで警察署に行くことは分かったけど。まさか万引きでもしたのかい?」
私は手短に今まで起こったことを話した。
吟がいじめられたこと。
注意した私を水尾が突き飛ばしたこと。
吟の怒り。
私の対応。
そして水尾の死。
「なるほど。よく分かったよ。まったく、冤罪というのはそうやって起きるものだね」
それから秘書に何やら言った。すぐさま電話する秘書を見て父は満足そうに頷いた。
私は一刻も早く妹を助けたくて父に縋った。
「父さん! 吟を助けてください!」
「大丈夫だよ。もう助けたから」
そして父は子供が悪戯をするような笑みを見せた。
「まったく、平凡な人間は考えが足らないな」
数分後、妹が私たちの目の前に帰ってきた。ちょっと疲れていたけど、私の顔を見るたび駆け寄ってきた。
「姉さん、ただいま。いやあ疲れたよ――」
「吟! ごめんね!」
私は公然の場というのに、妹を抱きしめてしまった。
人殺しの妹なのに、普通の姉として抱きしめてしまった。
私のこの反応に妹は驚いて。
それからしおらしく謝ってきた。
「姉さん……心配かけてごめんね?」
「ううん、遅くなってごめんね? 何かされなかった?」
すると後ろから「美しき姉妹愛ですね」と言われた。
帯広さんと峯さんだ。老刑事のほうは余裕たっぷりだけど、若いほうは怒り心頭に発していた。
「納得できません! だってこいつが――」
「峯くん。それ以上はいけない。証拠も何もないんだから」
「しかし――」
二人は妹を犯人と決め付けていたようだ。
妹を、私の妹を犯人扱いするなんて、許せない。
思いっきり殴りたい気分だった。
「あー、君たちが帯広さんと峯くんだね」
すると父がにこやかに笑いながら二人の刑事に近寄った。
不思議そうな顔で帯広さんは訊ねた。
「失礼ですけど、あなたは?」
「私は松永政治という。この子達の父親だよ」
帯広さんは「ああ、そうですか」とどこか納得したように頷いた。
「あなたが上司に圧力をかけたんですね」
「どうだろうね。でも私は警視総監と仲が良いから」
それだけ答えて、父は私たちを連れて帰ろうとする。
「お腹空いただろう。今日は一緒にご飯を食べよう。和食か洋食、どっちがいい?」
「ちょっと待ってください。松永さん、あなたはそれでいいんですか?」
老練で老獪な老刑事の痛恨のミスだった。ここで声をかけなければ、無事に定年を迎えられたのに。子供や孫に見送られながら大往生を遂げられたのに。
よりにもよって化け物を産んだ怪物に余計なことを言ってしまったのだ。
父は振り返って「帯広さん。少しだけ話せないかな。二人きりで」と声をかけた。
帯広さんは無謀にも応じてしまった。
「ええ。いいですよ」
「じゃあ向こうで話しましょう。峯くんも一緒に来るかい?」
父の誘いに峯さんは首を振った。
「話すことはないですよ。政治家で、自分の娘を権力で――」
「ああそう。ならいいよ」
話の途中で父は峰さんの話を打ち切った。
もしも誘いに乗ったら、彼は帯広さんと同じ末路になってしまっただろう。
「司、吟。車に乗ってなさい」
父の命令で、私たちは車の中に入って、父が来るのを待った。待つといっても三分も経たなかった。
その間、妹はなにやらそわそわしていた。
読みたい漫画があるのに、お金が足りないから買えないような態度だった。
父はにこにこしながら車に乗った。
「それで、どっちに決めたのかな?」
妹のリクエストで洋食になった。私たちは行きつけのフランス料理店に向かった。
美味しいフルコースを食べながら、一家団欒、家族水入らずの楽しいひと時を過ごした。
二日後の月曜日。
朝起きて、ニュースを観ながら朝食を食べようとテレビを点けた。
そして報道を見て、心底震えてしまった。
『次のニュースです。××警察署内で警察官である帯広篤さん五十八歳が自身の拳銃で自殺しました。土曜の午後七時のことです。遺体近くには遺書があり、筆跡鑑定がされ、自身のものと断定されました。警察関係者によると――』
私はリモコンをテーブルの上に落とした。
「あーあ、やっぱり死んじゃった」
いつの間にか近くに居た妹が残念そうに呟いた。
「もしかして、父さんが……?」
「姉さん。憶測で言っちゃ駄目だよ」
妹は私の唇に指を押し当てて言う。
「僕たちは何も知らない。父さんが帯広って刑事に何を言ったのか、何を命じたのか、何一つ知らない。父さんと一緒にご飯を食べてた時間帯に偶然自殺したのは驚きだけど、アリバイが何故か成立しているけど、そんなことは関係ないんだ」
そして妹は暗い瞳を沈ませて、私に言った。
「さあ、学校に行こう。そしてくだらなくてつまらない日常を過ごそうよ」
私は自分も罪深く感じるようになった。
妹は化け物で。
父は怪物だった。
じゃあ私は一体なんだろう?
私は妹を救うことができなかった。
父は妹を守ることができた。
何が正しくて、何が間違っているのだろう?
答えは――分からなかった。
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