理解すること
私の妹を――松永吟を理解することを諦めたのは中学二年生のゴールデンウィーク明けの頃だった。
それ以前は妹を理解しようと愚かにも考えていた。今から思えば愚考だし愚行にすぎないのだけど、当時まだ未熟だった私は、姉らしく二人きりの姉妹として妹を分かろうとしていた――分かり合おうと試みていたのだ。
そうすれば母を殺した理由も分かるだろうと勝手に思い込んでいた。
人間の恐怖の根源は無理解と不知であると誰に教えられることなく、本能的に分かっていた。まあこういう文言を使っている時点で、幼い私にとって妹は恐怖の対象であることは誰にだって分かるだろう。
もしかすると自分も妹に殺されることを怖れていたのかもしれない。あの小さな殺人者が夜中に首を絞めて殺すんじゃないかと想像するとゾッとする。
しかしそうはならなかった。妹は結局私を殺すことはなかった。
何故だろう? 妹の致命傷になりえる殺人行為を目の前で見ていた私をどうして殺さないのだろう。決して忘れることのない私を殺すことこそ、安心と安全を得られる唯一の方法のはずなのに。
私が絶対に言わないと妹は知っていたのだろうか。彼女の能力のおかげか、もしくは臆病な私の性格を彼女が熟知していたからだろうか。
だけど一つだけ言えるのは、化け物みたいな妹でも――罪悪感を覚えることがあるということだ。
母の葬儀が終わり一ヶ月が経った後から、妹は既に個室を与えられていたのにも関わらず、私と一緒に寝たがった。初めは目覚めると妹がベッドに潜りこんでいた。私の悲鳴で妹も目覚めると一言だけ呟いた。
「ごめんなさい」
何に対してのごめんなさいなのか。きっとこのときは、母を殺したことではなく、ベッドに潜り込んだことを謝っていたのだろう。私は震えながら、一緒に寝てあげるから黙って這入らないでと言ってしまった。すると今度から私が就寝前に一緒に寝てほしいと言ってくるようになった。
初めは嫌だったけど、断ると殺されそうだったから要望に答えてあげた。
だけど必ず妹が寝付いてから眠るようにした。どんなに睡魔に襲われても自分の身を守るために必要なことだった。
しかしそこでようやく気づけたのだ。
妹がうなされていることに。
妹が苦しげな表情をしていることに。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
小さな声で繰り返し言う妹に私は複雑な感情を覚えた。母を殺した憎むべき相手なのに。
でも、吟は血を分けた妹だ。
しかも自分の罪を後悔している。
なんて可哀想なんだと思った。
そして、突然気づいてしまった。
今なら、妹を、殺せる。
誰にも邪魔をされずに。
後々のことを考えると、ここで殺しておけば多数の被害者が生まれずに済んだのかもしれない――いや、確実に生まれなかった。
でも、私は殺せなかった。
私は妹の首を絞めるのではなく、小さな両手を包み込むように握ってあげた。
すると妹は落ち着きを取り戻したように安らかな表情へと戻ったのだ。
私は妹を理解しようと思うようになったのはここからだった。
小さな殺人者ではなく。
親殺しの悪魔ではなく。
そして化け物ではなく。
たった一人の妹として、理解しようと決めたのだ。
母が死んで二年後、妹は都内の某有名私立幼稚園を卒園し、そのまま系列の私立小学校に入学した。一年早く入学した私は妹が学校生活を普通に過ごせるのか心配だった。
「司、吟。勉強も大切だが自分に適したものを極めなさい。それが将来、役に立つ」
父が言っていることは幼心でもよく理解できた。学校での勉強など私たち姉妹にとっては容易いことだったのだ。
全ての事柄を覚えられる、完全記憶能力を持つ私。
全ての問題を正答できる、答えを見出すものの妹。
思えば頭脳が普通の人間より特異な進化を遂げている私たちにとって、いかに優れたエリートだろうが、家庭教師をたくさんつけられるお金持ちだろうが、相手にならなかった。
私たちが通っている学校は女子だけで、おそらくエスカレーター式に進学すれば女子大だから、共学というものを知らないで生きることになる。でも実際は、妹は高校で、私は大学で男子と机を並べることとなった。
小学校時代はあまり特筆すべきことはない。私にも友人は少なからず居たし、妹も少ないけど居たらしい。勉強さえできれば学校は楽しいものだし、有名私立小学校だから変な教員も居なかった。
だから――妹を理解しようと思っていた私は小学校の五年あまりを妹の観察に費やした。
「姉さん。僕はね、この話が好きなんだ」
妹は自分を『僕』と呼んだ。私はやめなさいというのだけど、結局直ることはなかった。それはまるで男の子が話すような口調だった。
見た目は真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばしたお人形さんみたいなのに、口調のせいでアンバランスさを生んだ。それを大多数の人は気味が悪いと思い、一部の人には好感を得ていた。
それから妹は私のことを姉さんと呼んだ。姉を慕うような性格ではないと思うけど、はっきり言って、司と名前で呼んでもおかしくないけど、妹は私を姉さんと呼ぶ。
当時の彼女が興味を持ったのは漫画だった。
とにかく漫画と呼べるものをこよなく愛した。
特にお気に入りだったのは手塚治虫の『ブラックジャック』だった。
「へえ。吟はこの話がお気に入りなんだ」
「そう。『ふたりの黒い医者』というエピソードが好きなんだ」
私は漫画を好まなかった。むしろ小説のほうが好きだった。理由は分からないけど、妹に漫画に対する興味を奪い取られたように、一切の関心がなかった。
それに小説のほうがいろんな想像ができて飽きなかったし、漫画だとそれができないのが好きじゃなかったのかもしれない。
まあこれは私の嗜好の問題だった。
「僕は将来、こんな風に人を助けたいな」
そう笑顔で語る妹を私は何故か不気味に思った。何か歯車が狂っているような、大きな間違いが起こっているような、言葉にできない不安があった。
私がその漫画を読んだのは妹が言っていた『人を助ける』ことを行なっていた最中のことだった。このとき、ようやく妹の言っていた真意が理解できたのだ。
妹は手先が器用で裁縫や料理が得意だった。私もそれなりにできるけど妹には勝てなかった。
特にお菓子作りが得意だった。小学三年生でお菓子作りを極めた妹は将来パティシエになるんじゃないかとばかり思うほどだった。
もしもその職種を選んでいれば、そのままの意味で人を助けていただろう。
私は小学校時代を比較的まともだった妹と過ごしていた。妹の話を聞き、妹の薦めた漫画は読まず、妹と一緒に映画を観たり、妹の笑顔を見て、妹の友達と会ったり、逆に私の友達を会わせたりして、穏やかな生活を送っていたのだ。
それが一変したのは、妹が中学一年生になったときだった。
気づいたのは早かったけど、それでも遅すぎたというのが正直な感想だった。
中学校に上がると小学校からの進学組と外部から入学した編入組が居た。優劣や人数に差異はないけど、なんとなく噛み合わない感じがあった。
そんな中、私は上手く立ち回っていた。人の表情を良く観察し、記憶していれば人間関係は理解できた。この人にはこう言えばいい。この人とこの人は合わないのだと覚えていればケンカにはならない。
そうやって自分の人間関係を構築し、人脈を広げていくと、生徒会からスカウトされた。
そして遂に次期生徒会長に推薦されるまで至ったのだ。
「あなたは優秀だけど、それを隠すのが上手ね」
先代の生徒会長の言葉だけどそれは私の人となりを理解した言葉でもあった。
有能を晒すのは愚かしい。
無能を演じるのはおかしい。
かといって平凡な人間に魅力を感じる者はいない。
要はバランスなのだ。人にとって魅力的に見えるように計算することが肝心なんだ。
奇異な人間、異常な人間は弾かれることを私は父を見て分かっていた。
それができなかった――しようとしなかった妹がいじめに遭うのは当然のことだった。
中学校は小学校と違い、善悪の区別ができているのにも関わらず、いじめは起こりやすい。それは人は人をいじめることに快感を覚えるからだ。悪の魅力に取り付かれているからだ。
はっきり言って中学生ほど頭の悪く、そしてずる賢い生物は居ない。
もちろん、妹に原因がないわけではない。
異常な人間――化け物は弾かれる。それは世の真理でもある。
自分の異常性を隠すこともない妹がどうなったのか。実際に起こった出来事を語ることにしよう。
「ねえ。松永さんの妹、吟ちゃんだっけ? 彼女いじめられているらしいわ」
ゴールデンウィーク明けの学校。昼休み。
友人に話があると言われて聞かされた内容に私は驚愕した。
「それって本当なの?」
「うん。というか知らなかったの?」
「妹とは学校で会わないし、学年も違うから……いや、誰がいじめているの?」
出た名前は編入組の生徒たちだった。というかクラス全体でいじめられているらしい。
私は友人にお礼を言った後、妹のクラスに向かった。入学してから二ヶ月も経ってないのに、いじめなんて。いや、良いほうに考えよう。早期発見できて良かったと考えるべきだ。自然と早足になるけど走らない。廊下は走ってはいけないからだ。
妹のクラスに着いて扉を開けた。
そこで、いじめが行なわれていた。
いや、いじめなんかじゃない。
それは――迫害だった。
落書きだらけの机。刻まれた教科書。汚らしい汚物。机の上には枯れた花が差された花瓶。紙くずやゴミが妹の周りに散乱している。
その机の前で、椅子に座って妹は平然と持ち込み禁止の漫画を読んでいた。
周りの生徒の怒声を受け流していた。というか周りの生徒は怒声というより悲鳴をあげていたような気がする。
そうだろう。異常な化け物を一緒に授業を受けたくないだろう。一緒のクラスに居たくないだろう。
私にはまるで彼女たちが懇願しているように思えた。
誰か、助けてくれ――と。
「君たち、何をしてるの!」
黙って見ているわけにもいかず、クラスの中に入った。するといじめていた生徒たちは私を見て道を開けた。そしてどうしてこの人がここに居るんだみたいな顔になる。おそらく私と吟の関係を知らなかったのだろう。
「吟、大丈夫? ていうかなんで言わなかったの!」
私は妹に問いかけると「僕は気にしてないから」と冷静に言う。よく身体を見てみると暴力は振るわれてないみたいだ。女子だからだろうか。それとも触ることすら嫌なんだろうか。
「あなたたち。もう妹をいじめるのはやめなさい」
怒鳴りたい気持ちで一杯だったけど、あくまでも冷静に話し合おうと試みた。
すると主犯の一人が言い訳を言ってきた。
「この子、異常なのよ! こうでもしないと怖いのよ!」
いじめることで恨みを買うことも分からないのだろうか。
それともそれ以上に妹が異常だからだろうか。
私はなんとか説得をしようとするけど、誰も耳を貸さなかった。それどころか、主犯の生徒――
私の頬を思いっきり叩いたのだ。
机を巻き込みながら倒れる私。
早く立ち上がらないとまた暴力を振るわれる――
「――今、何をしたんだい?」
くらくらする頭。頬に手を当てながら上体を起こすと妹が私の前に立っていた。
「――っ! 松永!」
「僕に何をしても構わない。どんないじめをしようが構わない。だけど――」
このとき、初めて妹の怒りを見た気がする。怒気を発するのではなく、まるで冷たい憎しみを抱くような。
それを背中から感じた。
「姉さんを殴ったことは絶対に許せない」
静まり返った教室から私は妹を連れ出した。その後、児童相談室に連れていって、しばらくここに通うように言った。妹は黙って頷いた。その後、いじめのことを先生に報告して、自分のクラスで授業を受けて、それから妹と一緒に帰った。
生徒会の仕事は休ませてもらった。そんな気分じゃなかった。
それから何日もしないうちに、主犯の生徒、水尾は行方不明となり、それから五日後に死体となって見つかった。
死体は河に流されて、下流で見つかった。橋から飛び降りての自殺とされた。
どうしてこうなったのだろう。四六時中妹と一緒に居たのに。
いや、夜中は別々だったし、家を抜け出して、水尾をどんな手段か分からないけど、呼び出して殺したのかもしれない。
あるいは本当に自殺かもしれなかった。異常な化け物に恨まれた恐怖に負けたのかもしれない。
でも一つだけ言えるのは、水尾の死体が見つかったときに妹がこう呟いたのだ。
「ああ、良かった」
それを聞いた瞬間、私は妹を理解することをやめた。
諦めたというより放棄したと言えるだろう。
全力で投げ出してしまった。
代わりに――受け入れることにした。
そういうものだと受け入れることにしたのだ。
理解できないまま、愛そうと決めたのだ。
母を殺した幼い妹も。
水尾を殺したかもしれない今の妹も。
ベッドで震えながら寝るあの頃の妹も愛することに決めたのだ。
どんな人間が敵でも最後まで味方で居ようと決めたのだ。
そしてその感情は妹が死刑になるまで続いた。
いや死刑になった後も続くのだった。
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