プロキオン・オーバードライブ!

「なんでそんなに速く走りたいの?」

 マシンを整備する彼女に聞いてみた。

「考えたことない」

 彼女はこちらを見ない。キャップの中に髪が押し込められているせいで、日焼けしていない白いうなじが晒されていた。思わず視線が引っ張られる。

「……くやしいからかも、勝てないと。レースだし」

「ふーん」

 工具を置き、別の工具を手に取った。その2つの工具がどう違うのか、私は判別できなかった。

「ところでお腹すいたんだけど、もう帰らない?」

「少なくとも、早く帰るためにこのオートバイが速いわけじゃないのはたしかね」

「まだやんのー? あーもー……」

 ガレージの片隅にある棚に向かった。もう何度読んだか分からないコミックを手に取り、ベッド代わりになる長いソファに寝転がった。コミックはやっぱりというか、バイクのマンガだった。



 彼女は愛車を【プロキオン】と呼んでいる。

 商品としての名前はもっと全然違う名前だった。メタルブルーの外装が印象的な、フルカウル? のスーパースポーツだ。ライトやウインカー、ミラーといった部品は取り付けられておらず、完全にレース仕様となっている。当然公道では走行できない。

 だから彼女は通学用にセカンドバイクを所有している。クラッチ操作のいらないビッグスクーターだ。排気量が250ccで二人乗りが可能なため、後部座席にはもっぱら私が積まれている。普段はべたべたするとやんわり押しのけてくる彼女だが、この時ばかりは多少強く抱き着いても怒らない。

 梅雨が明け、ようやく二輪の季節が戻ってきた。空は青く晴れ渡り、日差しは朝とは思えないほどに地上を照らしていた。走っているうちはまだいいが、信号とかで停車するともう暑くてたまったものではない。

「……バイクってもっと涼しいものだと思ってたのになぁ」

「え? 何?」

 風切り音で聞こえないらしい。

「私のカノジョが冷たいって言ってたんですぅー」

「クールなところも好きって言ってくれたじゃない」

「好き好き~」

 抱きつくついでに、彼女の背中に顔をすり付けてみる。もちろんメットごしだが。エンジンの振動に混じって、普段より早くなった彼女の鼓動が伝わってきそうだった。ほんとは直に耳をあてて聞いてみたいけど、彼女はフルフェイス以外のヘルメットを私に許さない。

「……来週だっけ、次のレース」

「来週の土曜」

「晴れるといいね」

「私もそう思う」

 彼女は空を見上げた。つられて顔を上げると、太陽がそこで待っていた。強い光線に頭がくらくらする。

「来てくれる? 応援」

「むしろ連れてってね」

 彼女のバイクは彼女の両親が車で運んでくれる。私たちはバイクにタンデムして二人で会場入りする予定だ。

「学校の帰り、ショップに寄って良い? 新しいスーツ届くから」

 スーツというと、レース用のツナギのことだ。

 衣服のバタつきを嫌う彼女は、かなりタイトめにスーツを着こなす。体のラインが出まくるので、正直私としてはあまり面白くなかった。いや、まぁ、スーツ姿も最高にカッコいいんだけど。

「ついでにお茶しよ。コーヒーとかも飲めるとこでしょ?」

「今日の楽しみが増えた」

「うわっ!」

 信号が青に変わって、私たちは勢いよく発進した。

「はしゃぐな!」

「無理」

「ちょっ」

 バンク角を深めにとって、バイクは高速でカーブに飛び込んでいった。エンジンは大きくうなり声を上げ、まるで彼女の心臓の高鳴りを代弁するかのようだった。



 会場はいつ来てもにぎやかだ。

 アマチュアのレースであっても、大人数が集まるイベントには変わりない。露店やらバイク用品のブース、新作オートバイの展示やらでサーキットはごった返している。

 集まる人々も様々で、愛車と体一つで待機している人や、チームで準備を進める人々もいる。中学生っぽい男の子もいれば、白髪でシワの深い老人だっていた。大学生の集まりみたいなチームもいれば、本職が趣味に本気を出しているような一台もあった。誰もかれも個性的だ。

 しかしながら、彼女はその中でも特に異彩を放っていた。

 女子高生、美人、すらりとした体躯、美しい黒髪、その傍らにあるメタルブルーのモンスターバイク――マンガみたいなシチュエーションだ。その美貌に見惚れている輩もいれば、マシンを注視して真剣な顔で意見を交換しているチームもいた。

 周囲から向けられる様々な視線を無視し、彼女は黙々とマシンの最終チェックをしている。何をどうチェックしているのかは分からない。私は、タイヤに溝が無くてツルツルだ、なんて感想しか浮かばなかった。

「晴れて良かったね」

「うん。タイヤもすぐ暖められる。必要もないかも」

「怪我だけはしないでね」

「大丈夫よ。プロテクターも入ってるし」

「そういう問題じゃないでしょ。あと、わくわくし過ぎ」

「わかる?」

 たぶん他の人には分からない。だけど今の彼女は、すぐにでもバイクにまたがって走り出したいくらいウズウズしている。下手にバイクを与えたら空でも飛んでしまいそうだ。

「運転手がいないと、私帰れないんだからね」

「……その手があったわね」

「真面目な顔で言うな」

「ふふふ」

 彼女が肩を揺らして笑ったその時、会場にアナウンスが流された。ついにレースが始まるのだ。コース内にいた人たちが、次々とその場をあとにする。

「じゃあ、頑張ってね」

「うん、行ってくる」

 ホワイトのヘルメットをかぶると、彼女はプロキオンのハンドルを掴んだ。それを確認した私は、バイクのスタンドを引き抜いてから彼女から離れた。名残を惜しみながらも背を向けると、背後から爆発のようなエンジン音が鳴り響いた。それは血潮を滾らせる名馬のいななきか、あるいは人の身をすくませる怪物の咆哮に似ていた。



 レースは終盤に差し掛かっていた。

 状態は2台のデットヒート。彼女と、誰とも知らないフレアオレンジのマシンがせめぎ合っている。相手は眩い燈の中で、虹色のミラーシールドを光らせていた。その苛烈な走りは、精緻で、デジタルで、滑るように静的で、極端に無駄がそぎ落とされた彼女の走りとは対照的だ。しかし、どちらも速い。

 互いが互いを盗み見る。コーナーのたびに追い抜き、追い抜かれ、直線に入ればエンジンをけたたましく吹き上がらせた。正直心臓に悪い場面も多かった。どちらも限界ギリギリの世界を走っていた。

 私の手はいつの間にか祈りの形になっていた。破裂しそうな心臓を胸の前で押さえている。バクバクと動く心臓は、彼女たちの乗るバイクのエンジンに感情移入していた。

 コーナーのたびにマシンが地面に横たわる。かと思えばすっと起き上がって、反対方向にまた倒れては次のコーナーをクリアしていく。同時に張り出される肘や膝は、今にも地面を擦りそうだ。いや、擦っている。ザリザリとした感触を幻覚する。しかし実際の感覚を、私はきっと知りえない。

 二台が直線に入っていく。全開にされたスロットルに応えるように、バイクは瞬く間にトップスピードに至り、猛スピードで目の前を通り過ぎていった。ビリビリと震える空気に観客たちが湧き上がる。ラップタイムは今日一番の数字を叩き出した。

 最終ラップだ。観客の関心は、もちろんトップ争いに集中していた。メタルブルーとフレアオレンジが、閃光のようにサーキットを駆ける。

 最初のコーナー、次のコーナー、ストレート。U字のカーブを抜けると、さらにきついヘアピンが待っている。そのまま道なりに走り、二台は最終コーナーに迫っていた。

 波打つような曲線が重なり、さらにやや下り坂になったコーナーだ。順序はフレアオレンジが1、彼女が2。フレアオレンジはここを守り切れば、彼女はここで追い抜けば勝利が見える。

 祈りながらサーキットの大型ディスプレイを見つめた。彼女たちを追い回すドローンが、大迫力の映像を届けていた。

 ストレートの終わりにカーブの入り口が見えた。二台はもう互いを見ていなかった。たぶん、もう互いの位置が分かるのだろう。いままでになく低く構えられた姿勢が、ラストスパートを物語る。

 カーブに飛び込む。二台が飛び込む。

「!」

 瞬間、フレアオレンジが微かに宙へ浮き上がった。

 対して彼女は、大地に引き付けられるかのように路面にタイヤをくっつけていた。タイヤの回転が逃げず、速度を落とさないままカーブを曲がり切る。そのままフレアオレンジを抜き去った! 後から聞いた話によると、0.1秒単位の操作が必要な動きだったそうだ。

 最終コーナーを抜け、後は直線だ。彼女の前にはもう誰もいない。

 スロットル全開のメタルブルーの光が、チェッカーフラッグをはためかせた。

 大会記録!

 そんな文字列が、大型ディスプレイに浮かび上がっていた。



「優勝おめで――ってうわあ!?」

 彼女を出迎えるや否や、私は彼女に飛びつかれていた。

 なんとか後ろに倒れずに済んだものの、彼女の抱擁は終わらない。

「……勝ったわ」

「……うん」

「嬉しい」

「わたしも」

 彼女の体は細い。本当に、あんな怪物マシンを操っているだなんて信じられない。それにずっと排ガスが渦巻くコース上にいたのに、彼女からは甘い匂いが絶えなかった。

「私、分かった」

「?」

「速く走りたい理由」

 彼女が私を抱きしめたまま、耳元で告げた。


「何よりはやく、あなたに会いたい」


「!」

「勝った時、そう思った。そう分かった」

「……ばかだね」

「どうして?」

「そんなに急がなくても、私はいつもそばにいるのに」

「……それもそうね」

「そうだよ――……ふっ。あははは」

「ふっ、ふふふ」

 互いを抱き締め合ったまま、私たちは笑った。周りで見ている人たちのことも忘れて、さえずるように、歌うように。

「急ぎ過ぎてバイク暴走させないでよ」

「大丈夫よ。そんなにとぼけてないわ」

「どうだか」

「なんでそんなこと言うのよ」

「言うよ」

「私が信用できない?」

「そうじゃなくってさ」

「なんなのよ、もう」

「ごめんごめん、ふふっ」

 だって。

 だって、私の。

「じゃあ、改めまして」

「なにが改めてよ」

 私の、あなたが好きだって気持ちは。

「優勝、おめでとう」


 いつだって、暴走寸前なんだから。



 fin.


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凍結渚の椅子 月啼人鳥 @gt_penguin

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