バイナリのように踊ろう


「ねぇ、一緒に弾いてよ」


 まさか断らないよね?

 そんな態度であなたは誘う。誘うというより脅迫に近い。音楽室の前を通り過ぎるほんの一瞬、ピアノがポロンと鳴って私を引き留める。何度振り切ろうと思っても、未だにそれは成功していない。

 前髪の隙間から彼女を見てみれば、こっちを向いてすらいなかった。長いまつ毛の奥の瞳は、鍵盤の隙間のさらに奥、ハンマーが叩いた弦の振動を見つめているかのようだった。私の後ろにいる誰に言っているのかもしれないと振り返ってみたけど、やはりというか、誰もいなかった。その間にも私の返事を急かすかのように、適当にけんが打ち鳴らされる。

「……ぅ」

 睨まれた。まつ毛の長い、存在感のある眼差しは、ただそれだけで私を委縮させるには十分だ。それに睨まれては、もはやヘビとカエルだった。もちろんカエルは私だ。

 鞄で体をガードするのをやめて、できるだけ小さな歩幅でピアノに、彼女に近づいていく。それがせめてもの抵抗だった。眼も合わせられない。

 ピアノの近くまで来ると、彼女が少し横にずれて椅子の上にスペースを作った。ぽんぽんと椅子を叩くのは、ここに座れという意味だ。

「っ……」

 意を決して鞄を置く。そして椅子に座った。

 彼女の隣に座った。

 肩が触れる。彼女の体温と体の柔らかさが異様に生々しかった。

「いい子いい子。始めから素直にそうしてよ」

「ひぃ……す、すみません……」

「別に怒ってないよ」

 彼女が私の頭をなでる。嫌とか心地よいとかそういう次元ではなく、緊張させられてしまって何がなんだか分からない。

「いつものヤツ、頼むよ。弾きたいけど、弾けなくてさ、一人じゃ」

「う、うん……」

 何なんだろう。この人は。

 茶髪だし、パーマかかってるし、メイクしてるし、スカートだって異様に短いし、ピアス、マニキュアも。校則が無いがゆえに校則違反ではないのだが、この学校で築かれてきた常識とはかけ離れている。

 そんな彼女が、放課後のだれもいない音楽室で、一人でピアノを弾いている。見た目からしたらとてもピアノなんて弾きそうにないのに。それもたった一打で分かるほど、美しく、繊細に。

 鍵盤にそっと手を置いた。その隣に、彼女の指が添えられた。細くて長い、綺麗な指だった。思わず見とれてしまいそうなほどの。

(……マニキュアなんていらないのに)

 なんてことは、口が裂けても言わないけど。

「何か言いたそうだ」

「べ、べつにっ」

「興味あるなら後でマニキュアつけてみる?」

「結構です!」

「あはは」

 人の気も知らないで。

 でも、まあいい。

 一曲だ。一曲だけ弾けば、彼女は満足して解放してくれる。こんなやり取りを続けていたら身が持たない。

 息を整える。彼女から溢れる気配に波長を合わせた。静寂の先、楽譜の空白、ピアノの弦すらも呼吸を止めたその一瞬に、そっと鍵は打ち鳴らされた。



 目をつけられたのが運の尽きだった。

 先生に頼まれて音楽室の鍵を閉めにきた私を出迎えたのは、きれいなピアノの旋律と、学校一番の問題児だった。

 この学校ははっきり言って名門だ。生徒は名家とお金持ちと秀才しかいない。

 彼女はその筆頭。名家でお金持ちで秀才で、ついでにスポーツ万能だった。美術系の技能も高く、伝統作法にも明るい。

 だからこそ、常識はずれの見目振る舞いのせいで一際台無しになっている。他の生徒は明確に拒絶を示すわけではないが、積極的に関わりはしない。

 子供時代からコネクションづくりに勤しめる環境なのにそれをせず、それを望まない。普通にしていれば、彼女なら友達も恋人も選び放題なのに。ご両親は何も言わないのだろうか。

 繰り返すが生徒は名家とお金持ちと秀才しかいない。だからこそ生徒は基本的に信頼され、ゆえに校則も存在しない。常識とマナーと暗黙の了解がルールであり、それを知らぬ者はここでは生きてはいけないのだ。

 生きていけないはずなのだ。

 なのに彼女は学内を泳ぐ。ワルツのように軽快に。

 決定的に敵対しないし、本格的に踏み外さない。致命的に間違えもせず、誰にも束縛されず、捉えどころなく、踊るように日々を過ごす。

 私にはできない芸当だ。

「弾ける?」

「……?」

「ピアノ。弾けるでしょ」

 たぶんうちの学校では、ピアノを弾けない人を探す方が難しい。誰もがその程度の教育は受けている。

「……あの……閉めます、音楽室」

「固いこといわないでよ」

「あ、あなたがゆるいんです」

「ハッ、なるほど。ユルいね。初めていわれたよ」

「!」

 思えばそれが失言だった。私は慌てて口元を覆ったが、飛び出した言葉は戻ってこない。表立って彼女を批判した生徒なんて、ピアノを弾けない生徒より少ないに違いなかった。

「分かった。閉めよう、音楽室」

 彼女は椅子から立ち上がった。そして

「!?」

「はい、閉めた♪」

 彼女は愉快そうに笑みを浮かべた。彼女の瞳に唖然とした私の姿が映っていた。

「ちょっ」

「おっと」

 私が錠に手を伸ばすと、その手を彼女に捕まえられた。そして彼女の踏んだステップに釣られてくるりと体の向きを変えさせられたと思えば、私はもうピアノのすぐそばにいた。

「さあどうぞ。お座りください」

「……!……!」

 あざやか過ぎる流れに思考が追いつかない。文句を言いたいけど言葉が出なくて、口がぱくぱく、目は白黒してしまっていた。両肩押さえられ半ば強引に、私は椅子に座らされた。続けざまに彼女が隣に座る。

「どの曲が好き?」

「……弾けるなんて言ってません」

「今うまく弾けない曲があってさぁ。付き合ってよ、連弾」

「…あの」

 私がピアノを弾けないとすら思わない。実際弾けるから良いけれど、なぜそうも確信できるのだろう。

「……どうしてそんなに身勝手なんですか」

 もし私が数少ないピアノを弾けなかった人間だった時、その問いにどんな感情を抱くか、彼女は想像しないのだろうか。

「身勝手ね。そんな風に映るんだ」

「だってそうでしょう。みんなあなたみたいに好き勝手してないです」

「この学校の連中は窮屈すぎる」

 彼女は肩をすくめた。

「家柄だとかエスカレータ組だとか、優秀だとかそうじゃないとか、あれは正しいとかこれは正しくないとか、良いコトだから完璧にこなすとか、ダメなコトだから一切やらないとか……ゼロかイチかばっかりだ」

 黒鍵を叩く。

 それは白鍵と白鍵の間。イチとイチの間の音だ。

「全部の答えが見えてるつもりになってる。ピアノの方がまだ柔軟だと思うね」

「……してはいけないことはあるでしょう」

「じゃあ髪はどのくらい茶色になったらいけないんだ?」

「それは……わかりませんけど……」

「なら教えよう。生徒指導の先生は色見本でOKな範囲を定めている。というか、私が日に日に髪の色を明るくしていって、NGを出された時点で決めさせた」

「えっ」

「ちなみに私の今の髪色ならぎりぎりOKだそうだ」

「ええっ」

 その明るさで?

「納得したら、少しくらい付き合っておくれよ」

「……」

 納得……したとは言い難い。

 けど、これ以上反論できないのはたしかだった。

「……少しだけですからね」

「上等上等」 

 彼女は上機嫌に笑った。


 

 チャイコフスキー。花のワルツだ。

 初めて連弾させられた時と同じ曲だった。というかこればかりだ。いつになったら彼女は弾けるようになるのだろう。

 出だしの音が多く、一人で弾くには結構無理が必要な曲で、連弾で弾かれることも多い。もとはオーケストラの曲だし、一つの楽器で弾こうと思えば当然だった。

 鍵を叩きつつ、横目に彼女を盗み見る。心地よさそうに目を閉じ、体を緩やかに揺らしていた。浮かべる微笑は見惚れるほどに美しい。夕陽に照らされてさらに輝きを増していた。

「……っ」

 花のようだ。

 色鮮やかで、甘い香りがして、そっと風に揺れては、いつだって日差しの下で笑っている。そしてまわりには同じような花がたくさん……にだってできるはずなのに。

 曲が中盤にさし掛かる。私たちの指は淀みなく鍵を打っていた。

 鍵盤の上で弾むはダンスのよう。

 そう、それはさながらワルツのステップに似て。

「……」

 横目で睨んで非難してみる。

 羨ましくないといえば嘘になる。憤りだって感じている。

 彼女は何でも持っているし、何にだってなれるはずだ。

 だけどそうはしない。宝の持ち腐れもいいところだ。仮に私がいくら望んでも手に入らず、成れず、諦める他ない高みに、彼女なら手が届くはずなのに。

 ゼロとイチの間なんて探さずに、敷かれているであろう2本のレールの上を車輪で進んでいけばいいのだ。レールの真ん中を歩く必要なんてない。

 線路脇に生えた雑草に目をとめる必要も意味もない。彼女と比べれば雑草も同然な私に関わる必要なんてない。

 彼女が花なら、私は地衣類コケだ。彼女が鳥なら、私は深海魚だろう。この学校の日陰で生きてる。彼女の近くにいるのは不自然だ。住むべき世界が違って、生き方も違うのだ。 

 たまたま言葉ピアノが通じたから、かろうじて会話ができているだけ。本当だったら、同じ環境で呼吸をすることすらままならないだろう。現に私は、彼女と一緒にいるだけなのに、こんなにも息苦しいのだから。

 胸が苦しいのだから。

「っ……?! 」

 はたと音が減った。そして次は演奏が止まった。

 鍵盤上の私の手に、彼女がそっと手を重ねていたのだ。

「あ、あの……ッ」

 思わず手を引く。だけどしっかりと握られていて逃げられない。そしてその間にも、指と指が絡められていく。

「! こっ、困ります!」

 ガダンっ!

 彼女の手をなんとか振り払って席を立つ。勢い余って近くの座席にぶつかった。立ち上がる拍子に打ち鳴らした不協和音が、微かに空気に漂っていた。

「……っ」

 彼女を睨みつける。抗議の視線は、しかし今度は目を反らされていた。私が振り払った手は、行き場を失って空中に浮いていた。床に置いてあった鞄を持ち上げると、私は逃げるように音楽室を後にしたのだった。

 


 別の日、私の足はまた止められた。

 でもそれは音楽室ではなかった。

 学校から少し離れた、大きな駅の構内にあるストリートピアノ――誰でも弾けるように設置されたピアノのことだ――のそばだった。

 私は放課後の雑踏の中で確かに拾ったのだ。

 あの、一打だけで分かる、彼女の音を。

「……」

 音のした方を見る。彼女がいた。グランドピアノの椅子に腰かけている。

 それから……誰だろうか。近くに大人の女性がたたずんでいる。表情は芳しくない。眉間にしわが寄っていた。

 どこかで見たことがあるような気がした。学校の先生だろうか。でもあんな人がいただろうか?

「……あ」

 ふと思い当たる。そしてその予感を証明するように、女性が彼女の手を掴んだ。無理やりピアノから立ち上がらせようとしている。微かに聞こえる声と唇の動きから「いいから家に帰るわよ」と言っているのだと分かった。

 彼女は関さない。女性を無視して右手だけでピアノを打ち続ける。音が歯抜けになった花のワルツだ。

 二人の様子に人だかりができる。それが余計に女性を焦らせ、彼女の手を引く力を強くさせる。いいから早く来なさい、と。しかし彼女はピアノにすがり付くかのように鍵を打ち続けていた。

 それはまるで、助けを求めるかのようで


 気が付くと、私は彼女の隣に座っていた。


「……!」

 突然私が登場したことで、女性は唖然として動きを止めていた。その隙に彼女は女性の手を振り払った。

 刹那の内に息を整える。彼女から溢れる気配に波長を合わせた。静寂の先、楽譜の空白、ピアノの弦すらも呼吸を止めたその一瞬に、そっと鍵を打ち鳴らす。ピアノから音があふれ出した。

 空気が波紋して響く。空間を揺らす。雑踏の間をくぐって、駅の内側に染み渡っていく。一人、また一人と、ピアノの前で足を止め、観衆が出来上がっていった。目配せをする。彼女は不敵に笑い、私にウインクしてみせた。顔が熱くなるのが分かって、私は慌てて顔を背ける。だけどそちらには観衆の視線があって、こちらを見ている人と目が合ってしまった。私は慌てて顔を伏せた。だけど指の運びだけは止めなかった。

 曲が終わった時、構内は拍手と歓声で埋め尽くされた。駅を通り過ぎる列車の音さえ掻き消えていた。注目を浴びて身を縮めている私とは裏腹に、彼女は笑顔で手を振って答えていた。

「よし、じゃあ逃げよう」

「えっ? わっ、きゃああああっ」

 彼女が私の手を引いて駆け出す。ご丁寧に私の鞄は彼女が回収済みだった。観衆の中に突っ込み、すり抜け、駅の出口まで一直線に走っていった。



 彼女に手を引かれるまま走ること、私たちは街中の公園に辿り着いていた。ずいぶんと走った気がする。

「助かったよ。ありがとう」

「……」

 ベンチに並んで腰かけたころ、彼女は一言そういった。

「まさか急に帰ってくるとは思わなかったよ、ウチの母親」

 巻き込まれていい迷惑だ。そんな意味を込めて睨んでみる。しかし暖簾に腕押し、ぬかに釘だった。彼女は嬉しそうな笑みを崩さない。

「やっぱり……お母さんだったんですね」

「普段はほったらかしのクセに、会うと小言ばかりだ。嫌気が差す」

 彼女の母親ということは、学校にも結構な影響力があるだろう。顔を覚えられてしまっただろうか。今後どんな圧力があるか分かったものではない。すでに気分は憂鬱になり始めていた。

「……まさか助けてくれるとは思わなかった」

 彼女は寂し気にこぼした。存在感のあるあの眼差しも、今は少し遠い。

「キミにとっては、死力を尽くすような行動だったはずだ」

「……」

「どうして、キミは……その……」

 らしくもない。

 彼女は前髪をいじりながら言葉をしりすぼみにさせた。少し頬も赤い。こちらをちらちらと眼差す視線には、期待が混じっているように見えた。

 でもきっと、私がこれから放つ言葉は、彼女が期待するような言葉ではないに違いなかった。

「……あなたには」

 彼女が顔を上げる。私は顔をふせていたけど、気配で分かった。

「あなたには、自由でいてほしい、の」

「……自由?」

 決定的に敵対しないし、本格的に踏み外さない。致命的に間違えもせず、誰にも束縛されず、捉えどころなく、踊るように日々を過ごす……あなたはそういう時が、一番輝いている気がするから。

「……」

 なんていう言葉がすらすらと出てくるはずもなく、黙り込んだみたいになってしまった。彼女は泣きそうになった顔を何とか平常に戻した。

 そんな彼女が、すがるように私の手を取る。

「言葉が、ダメなら……」

 ゆっくりと、彼女の顔が近づいてくる。何をしようとしているのかすぐに分かった。分かったけど――。

「……っ、だ、だめ……っ」

 体を逃がす。顔を背けた。

「あっ、あなたといると、おかしくなってしまうから……っ」

 息をしたくてもできなくて、落ち着こうにも胸の鼓動は早くなっていく。逃げ出したくても逃げ出せない。本当に、なんの病気かと思うくらい。

「今の私には、一緒にピアノを弾くだけで、精一杯だよ……っ」

「……つかず、離れず、か」

 手を放し、彼女は背もたれに背中を預けて天を仰いだ。夜空が東から迫ってきていた。星も少し見えていた。

「……連星バイナリみたいだ」

 つかず、離れず。

 互いのまわりを、くるくると。

 それはまるでダンスのように。

「ははは……じれったい。じれったいね。でもそれもいい」

 彼女が立ち上がる。その表情は不思議と晴れやかだった。

「もう少し踊らされてやるさ。キミはどこにも行かない。今はそれでいい。なにせ連星は――」

 彼女は白い歯を光らせて笑った。

「ひかれ合うものだからね」

 その言葉に反論できなかった。

 何一つ声が出なかった。

 それはつまり。

 つまり私は、私たちは、どうしようもなく。


 どうしようもなく、彼女の言う通りなのだろう。


 fin.

 


 

 

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