ホイールヒルにクジラがいるうちに
『もうすぐつく』
メッセージアプリの短い文字列。
世渡り上手な彼女にしては意外だった。なんというか、もっとスタンプとか使ってもよさそうなのに、地元の友達とはどうしているのだろう。どれだけ過去のメッセージを遡ってもそんな感じだった。
『落ち着いたら知らせて』
『知らせる』
「……、」
返事がそっけなすぎて、少し可笑しい。スマートフォンの画面を見つめながら微笑みが漏れた。が、誰かに見られないうちにすぐに真顔に戻した。
「うん、よし」
ソファから起き上がって玄関にむかった。建物の奥にいるであろう家族に聞こえるか聞こえないかの声で「ちょっとそこまで」と言って、サンダルを履いて外に出る。足早に道を進み、少し開けたところにある階段を昇ると、小高い丘を見渡した。
大きな雲が――クジラが今日もそこにいた。
「……」
草原の丘に大きな影を落として、悠々と空を泳いでいた。吹き渡る気流もものともせず、ゆったりとその身を浮かべている。晴れ渡る空も好きだけど、やっぱり私はこの空が好きだった。前はそうでもなかったけど、【あの夏】から、私はこの景色が好きになった。
それはもう数年も前のこと。中学校からの帰り道、まだ陽の高い時間帯、通りがかった公園のベンチに彼女は座っていた。
(……綺麗なひと)
それが彼女の第一印象。
黒くて長い髪がすとんと垂直に落ちて、前髪も後髪も綺麗に切りそろえられていた。白いワンピースと麦わら帽子がよく似合っていた。線も細くて、色白で、なんというか、この街には普段いない感じの子で、たぶん都会から避暑にやってきたのだろうと推測できた。ここは昔からそういう場所なのだし。
横顔から察する眉目は秀麗だった。そしてそれはその通りだった。どこかのお金持ちのご令嬢に違いなかった。
(わたしとは、違う世界のひとだ)
思わず一瞬立ち止まったけど、私はすぐに歩き出した。だけど、彼女があまりにも綺麗だったので、時折視線を彼女へ泳がせてしまっていた。
それがいけなかった。
『……』
『!』
急に振り向いた彼女と目が合った。慌てて目を反らして、確認のためもう一度彼女の方を見ると、彼女はまだ私を見つめていた。無表情で。もう一回同じことをしてみたけど結果は同じだった。
私は自分の鞄にすがりながら、こう言ってしまった。
『あの……なに、か……?』
『……』
すっと彼女が立ち上がった。
そしてすたすたとこちらへ近づいてくる。
彼女は私より背が高くて、間近に立たれると、麦わら帽子のせいもあって私に影が落ちた。影の中でも輝く大粒の瞳が、じっとこちらを覗きこんでいた。
彼女が手持ちのバッグをまさぐる。そして何かを差し出した。私は思わず身構える。
『ひぃっ』
スマートフォンだった。
『一番近いバス停の場所、教えてもらえないかしら。高原のこのホテルのとこまで行きたいんだけど、調べても分からなくって』
私はひとまず胸をなでおろした。しかし心拍数は上がったままで、冷や汗を流しつつスマートフォンを覗き込んだ。
『……あ』
そのホテルには見覚えがあった。
『ここ……私の家の近く……です』
『そうなの? じゃあ、最寄りのバス停も分かる?』
『……』
少し迷ったけど、運が悪いとバスの中で鉢合わせて気まずくなりそうなので、私は覚悟を決めて提案した。
『わ、わたしも同じバス停で降りるので、その……一緒に、行きます……か?』
彼女はいい匂いがした。
バスを降りて分かれたあと、そんな感想を抱いていた。自分でもどうかと思う。
だけどそれが印象的だったのは間違いなかったようで、次の日の私は、覚えのある香りに気付いて顔を上げたのだった。
『あ……』
『昨日はありがとう』
彼女だった。昨日とは違って、襟のあるシャツにパンツというかっちりとした服装をしている。ヒールのついた白いサンダルが素敵だった。ありがとうという割には、微笑みもしない無表情だけど、美人なので何をしても絵になった。
そしてここはコンビニだ。立ち読みしていて、顔を上げてみたらこれだ。
『外から見つけたから』
『そう……なんですか』
『敬語じゃなくていいわ。たぶん、同じくらいの年だもの』
確認してみると、その通り同い年だった。
『このあたりの子って、いつもどうしてるの』
『どうって……』
『遊ぶのとか、暇つぶしとか』
『……コンビニで立ち読み?』
彼女は一瞬フリーズしたみたいだった。気持ちは分かる。
『退屈。なにここ』
『ゆっくりしに来るところだし……』
ここはいわゆる避暑地だ。都会の喧騒を離れ、心身を休めるために人は来る。だから都会的な、例えばゲーセンとかカラオケとかはほとんどない。逆にホテルとか別荘とか、温泉とか美術館とかゴルフクラブならいくらでもある。あと、幼児児童向けのアミューズメント施設とかも、いくらでも。つまり中高校生とかはあまりお呼びでなかった。
『どうしてここへ?』
『親と。無理やり』
『災難だったね』
『一番無難な選択だったの。これでも』
彼女は大きなため息を吐いた。
『早く大人になりたい』
大人びた顔でこぼす。
『でもそう思うたびに、自分が子供だってわかって嫌になる』
『わたしと比べたら、すごく大人っぽいと思うよ。わたしは、好きだなぁ……』
『……』
彼女は何か驚いた様子だった。
『?』
口が半開きになっていた。理由はよくわからない。私が首をかしげていると、彼女は表情を元に戻し、深呼吸をしていた。
『ねえ、よかったら、しばらく付き合って。一人でうろうろするよりは、退屈しない気がする』
『え……でもわたし、あんまり遊びとかは、その……わからなくて』
『いい。一緒にいてくれれば』
『あと、今月お小遣いもきびしくて……』
『それは大丈夫』
彼女は昨日みたいにバッグをあさり、財布と、その中から薄い何かを取り出した。
『好きなだけ使っていいって言われてる』
『ぶ……ぶらっくかーど……』
やっぱりこのひと、お金持ちだ……。
こうして逃げ道を失った私は、彼女の後ろをとろとろコソコソ歩いて回ることになった。普段こんな綺麗な人と接する機会がないので、完全に気後れしていた。おまけに彼女が足を踏み入れるお店が、普段私が絶対近づかないようなオシャレなカフェだったり、高級品を扱う服飾店だったりするので、完全に借りてきたネコ状態だった。ときどき思わず彼女にすがっては、すぐに気が付いて離れて謝ったりしている。
『探せばあるものね。いいお店』
『……いえに帰りたい』
目の前にある紅茶、一杯のお値段なんと 2,500円(税別)。いちおう一番安いのを選んだ。カップとソーサーも金色の装飾でキラキラしてて、触っただけでお金をとられそうだ。カップの中の紅茶に映った私の顔は青ざめていた。
『あなた、このあたりに住んでるんでしょう? お家は何かやっていたりするの?』
『あ……えっと……一応……飲食店兼民宿……的な……?』
『へぇ。今度お邪魔しようかしら』
『勘弁してください……』
あなたみたいな人が満足するおもてなしができるとは思えないごちゃごちゃした小さな宿なんです許してください、いや、ほんとに……。
『この時期は繁忙期なんじゃないの』
『はい……なので、避難してきてます……この時期だけは手伝わされるので』
『同情するわ』
来た方と来られた方、しかし互いに不都合と感じる二人が向かい合って、なんなんだろう、わたしたち。
『……』
いいお値段なだけあってか、カップに注がれた紅茶は良い色をしていた。透き通っていて、琥珀みたいだった。香りもとても豊かだ。
(これ、飲んでいいのかな……)
飲んだ瞬間、代金を請求されたらどうしよう。それとも置き去りにされたりして……などと考えていると。
『どうしたの。大丈夫よ。ちゃんと代金は持つ。付き合ってくれてるお礼。それとも、私が選んだお店の紅茶が飲めない?』
『い、いえ! そんなことは! い、いただきます……!』
なお、味は全くしなかったようだ。
そのあと無事会計を済ませ、私たちはお店を出た。
その頃にはもう、山の尾根に太陽が隠れかけていた。光にも微かにオレンジが混じっている。空気も冷えてきていた。
『あなた、家はどこ? タクシーで送るわ』
『そんな! だ、大丈夫だから! ていうか近所だし!』
『でも……』
『あの、いろいろごちそうさまでしたっ。いい経験ができましたっ。それでは……!』
『待って』
逃げるように……というか、実際に逃げ出そうとして背中を向けた私の手を、彼女は掴んだ。
『あの、よかったら』
相変わらず無表情だけど、その時の彼女の、理由の分からない必死さだけは、わたしに確かに伝わっていた。
『明日も、付き合ってもらえないかしら』
それから私たちは、何度の夏を共に過ごしただろうか。
という長い回想をしていた時、私のスマートフォンがポケットで震えた。
『着いた』
足取りを軽く歩き出す。階段を小走りで駆け下り、太陽で熱せられたアスファルトに着地する。地元の人しか使わない、植木で隠れた丸太の階段をさらに降りると、バスの通る道に出た。白いつば広帽を陽射しで輝かせた、太陽の花を咲かせたような女の子がいた。出会った頃と比べると、年々少しずつ背が延びているようだった。一方わたしは、彼女を見上げる時の顔の角度が年々増しているのだった。
「お待たせ。あと、久しぶり」
「うん」
どうしたって無表情。少しも楽しそうに見えないけど、何度もここへ足を運んでくれるその行動を信じよう。
「ご家族は?」
「今年は来ない」
「? そうなんだ。じゃあ、あの広い別荘に一人だね」
初めて会った時、ホテルを目指していたようだったので、てっきりホテルに泊まっているのだとばかり思っていたけど、それは誤解だと後々判明した。あのホテルの近くに別荘があり、そこで避暑をしていたのだ。ホテルは目印でしかなかった。彼女はますますお嬢様だった。
「今日もいるわね」
「あ、うん」
彼女は空を見上げて言った。ホイールヒルを泳ぐクジラの一部が、山と木々の隙間に見えていた。
「行ってみる?」
「そうね、せっかくだし」
「近道、教えるね」
さっき降りてきた階段を戻る。彼女はわたしの後についてきた。構図としては少しめずらしかった。
階段をのぼる間に、ぽつぽつと会話をした。彼女の近況とか、わたしの近況とか、学校の授業進度の話とか、テストの結果とか、他愛もないことだ。
「そういえば、荷物は?」
彼女はやや大きめの肩掛けバッグを持っているだけだった。数日は滞在するはずだから、荷物がこれだけとは思えないんだけど……。
「先に送ったわ」
「……1人で来たんだよね? 荷物受け取るなら、別荘に向かったほうがいいんじゃ……?」
「大丈夫。いいから行きましょう」
そうして彼女は、わたしを追い抜いて、丘を見渡すポイントへと進んでいった。
ひと通りあたりを歩き回って、またちょっとお高いカフェにいざなわれたと思いきや、注文した紅茶が冷めてしまった頃。
陽が傾き始めた。それはわたしたちにとって、ひとつの別れの合図だった。
「時間かな」
「ええ」
互いに注文したものを飲み干し、会計を済ませる(ちなみ今回は自分で代金を払った)。外へ出ると、避暑地にふさわしい涼しい風が吹いていた。
「じゃあ、また明日」
「ええ」
わたしたちはそれぞれ違う方向へ歩き出す……と、思いきや。
「あれ、こっち?」
「実は、今日泊まるところは別荘じゃないの」
「え、そうなんだ。ホテルでもとったの?」
彼女はうなずく。
「どこ? 送るよ」
そんな彼女が差し出したスマートフォン。そこに表示されていたのは、見覚えがありすぎるホテル――というか、民宿だった。
「……え?」
彼女が今日泊まるのは、他でもない。
「これ……わたしんち……?」
わたしの家族が営む民宿だった。
宿泊者名簿を確認すると、確かに彼女の名前があった。おまけに数日滞在する予定になっている。絶句とはこのことだった。
「あの……ご家族は……?」
「一人で来たわ」
「そ、そうですか……」
「部屋に案内してもらってもいいかしら」
「……はい」
「荷物は持ってもらえるの」
「ウチそういうのやってないです……」
彼女はそんなこと百も承知のようだった。わたしが答える前に歩き出していたし……。
「あの、どうして……」
「どっち?」
「あ、右です……階段のぼって左」
「ありがと」
「なんで……うちなの……」
どこか他の高級ホテルに泊まればいいのに……お金はあるんだろうし。
「親に黙って来たわ」
「……はい? 」
「今年は海外に行くとかいうから、つい」
つい。
「『駆け落ちします』ってメッセージを残しておいたわ」
見せつけられるアプリの画面。
「うわ……」
ほんとうに書いてある。メッセージの直後から今まで、大量の不在着信が入っていた。
「……えぇー……?」
その晩は、なんというか異質だった。
うちの晩ごはんは、宿泊者に広間に集まってもらって、一斉に食事をしてもらう。家族連れのお客さんとか、山登りのお客さんとか、とにかくいろんな人が泊ってくれるけど、たいてい全員を巻き込んだ宴会になってしまうのが常だった。そしてそれは今日もだった、のだが……。
「……なんだコレ」
雑多な宴会場に、ひとりだけやけに綺麗な人がいる。広間の一角が異様に華やいでいる。この部屋、スポットライトとかあったっけ? と思うくらい。あるいは、プロジェクターか何かで投射される立体映像みたいだった。現実感が一枚足りないのだ。
「……」
笑ってる。
微笑んでいるのくらいは見たことある。けど、あそこまではっきりと笑みを浮かべているのを見るのは初めてだった。そっと口元を隠し、肩を揺らして笑う姿は麗しく、キスゲの花を思わせた。
わたしといるときは、あんな笑顔見せないのに。
(……綺麗だったな)
私は天井を見つめながら、晩の光景を思い出していた。
(なんだか、幻みたい……)
彼女は夏だけの幻。
夏にだけわたしの前に現れて、そして去っていく。
まるで、風が運ぶ秋の冷気に溶かされるみたいに。
網戸から流れ込む空気は、すでに少し冷たかった。ベッドに寝転がっていると、毛布を体の上にかけたくなった。
ヴーヴー。
「……ん」
スマートフォンが震える。誰かからメッセージが届いていた。このタイミングでメッセージを送ってくる人なんて、ひとりしかいないけど。
『そっちに行ってもいい?』
少し迷ったけど、部屋を見られて失うプライドもなかった。
「無断外泊はまずいと思うよ」
「無断じゃない。ちゃんと伝えてある。それに本気なら、警察に連絡するとか書いてくるはず。今日は諦めてくれたみたい」
温かいミルクティーを飲みながら、彼女は相変わらずの無表情で反論した。私の勉強机の椅子に座ってもらっているけど、背筋がぴんと伸びていて、優雅だ。
「……楽しかった?」
「?」
「夕御飯の時」
「べつに」
「やっぱり」
「何が可笑しいの」
「あんなに笑ってたのに……ふふ」
少し笑ってしまっていた。彼女は微かに不満げだ。無表情だけど、わかる。
「……となり、座ってもいい?」
彼女は私の返事を待たず、私のとなり――つまりベッドの上に腰かけた。そしてそっと、体を寄せた。じゃれるように、わたしの肩に頭がのせられる。真っ先に覚えた、彼女のあの香りを強く感じる。
「生きづらそう」
「だからここに来てる」
「――うわっ」
気を抜いた、ほんの一瞬だった。
いつの間にか、わたしは背中をベッドに預け、彼女はわたしに影を落としていた。顔に触れる彼女の髪がくすぐったい。
それにしても……ああ、彼女はどんな風に眺めても、とてもきれいだ。
「……無断外泊より、まずいと思う」
「もっと悪いコトをすれば、罪が薄まるかも」
「罪を重ねるのまちがいだよ」
「比重は軽くなる。それに、そもそもこれを罪と呼ぶのがまちがいだもの」
「勝手なことばっかり――んむっ……」
触れ合う肌。
高原を足早に訪ねる冷気を、確かな熱が押しのけていく。
唇が離れて、頬を上気させた彼女の顔が見て取れた。
「……わたしがわたしでいられるのは、あなたの前でだけ」
「うん」
「わたしはもっと、わたしでいたい」
「うん」
「お願い。もっとわたしを受け入れて。こんな、素ではろくに笑えない人間だけど」
「……うん。受け入れる。わたしはあなたを拒まない」
「わたしの全てを受け入れて」
私からも手を伸ばす。彼女の頬の輪郭を撫でるよう、そして包み込む。
「あなただけなの」
「……うん。大丈夫」
抱き寄せる。体が重なる。彼女の重みを感じた。
その重みと熱を抱きしめながら、彼女の耳元で、囁く。
「わたしはずっと待ってる。夏を待ってる。ホイールヒルにクジラが来るのを、ずっと待ってる」
彼女を片手で抱きしめつつ、リモコンに手を伸ばして、部屋の照明を落とす。窓からの青い光が、私たちを微かに照らした。
だけど、すぐに光が遮られる。空で何かが泳いで、月の光を遮ったのだ。
(ああ……今日もいる)
視界の端で盗み見る。窓の外、丘の上で泳ぐ、あの悠々とした巨体を。
(あれがいるうちは、大丈夫)
一層強く抱きしめる。
(……彼女はここにいる)
今だけだ。
今のうちだけだ。
(だからせめて)
目を閉じて祈った。
世のあまねくに祈った。
(ホイールヒルにクジラがいるうちに……)
fin.
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