彗星、のち、流星
先輩は突然部活をやめた。
高校最後の大会を目前にした、いつもどおりに暑い夏の日だった。
ピンポーン。
「……」
私は今日も、先輩の家の呼び鈴を鳴らした。
するとすぐに先輩のお母さんが出てきてくれる。
「先輩は、ご在宅ですか?」
先輩のお母さんは、ごめんね、今日ももう出かけちゃったの、と、申し訳なさそうに言った。
「あの、どちらへ」
お母さんは首を横に振った。どこに行ったのか分からないか、あるいは、口止めをされているのか。いや、先輩がそんなことをするとは思いたくないけれど。
「わかりました。ありがとうございました」
私は先輩の家をあとにした。
「……どこにいっちゃったんですか、先輩」
今日だけで何万回目か分からないメッセージを、私は先輩に送った。
先輩が部活をやめたことの衝撃は、私たちの部活だけでなく、学校全体や県内の全ての陸上部に衝撃を与えた。
なにせ、彼女は紛れもないスターだったのだ。彗星のごとく現れた先輩の記録に黒星は無く、大会記録は常に塗り替えられ、越えるべきは自分自身しかいない――そんな彼女が、高校最後の大会を目前にしてグラウンドから去ったのだから当然だ。
もちろんそのことを喜んだ者はいた。北高のアイツや、県東部のアイツがそうだ。だけど悲しんだ人もいたし、真偽を確かめるために直接乗りこんで来て、怒りの涙を流した市立女子のあの人だっていた。それほどに彼女の存在は大きかった。
彼女がグラウンドから去った理由を、誰も知らない。
「すみません……」
いつも以上に激しいコーチからの叱責に対し、私は謝ることしかできなかった。最近タイムの落ち方が半端ではないのだ。コーチの怒りも当然だと思う。
もっとも、コーチが異様に荒れているのは、先輩がいなくなったからだろう。きっと悔しくてたまらないのだ。先輩がいなくなったのは自分のせいだと、もしかしたら思っているのかもしれない。
「はい……気が緩んでる、んだと思います……」
コーチの怒鳴り声に怒りを覚えることはなかった。気持ちが痛いほどわかるから。やつあたりくらい受け入れてあげたかった。
「……はい。失礼します……ありがとうございました」
今日はもう帰って良いそうだ。だけど帰ったりしない。部の練習に参加しないだけで、自分のペースで練習は続けるのだ。
でもその前に、私は木陰に入って水分を補給した。ボトルの中身は冷やした水道水だが、熱中症対策のために少しだけ塩を溶かしてある。
私はそのまま座りこんだ。そして木に寄りかかった。木の下から、炎天下で練習を続ける部員達を眺めた。
この木陰は、先輩がよく休んでいた木陰だった。先輩もこうやって、私たちの姿を眺めていたのだろう。他の部員たちの中に混じった私のことを、少しくらいは気にとめてくれていただろうか? だったらうれしいなと思うけれど。
「よしっ」
私はボトルを置いてからグラウンドに駆け出す。陽は高く、気温も高いが、先輩がそれに嘆いた姿は見たことが無い。だったら私も、そうして見せなければ、先輩のようにはなれないと思った。
「暑い……」
ダメだった。泣く子と暑さには勝てない。
練習が終わっても、私が帰路につくことはなかった。私にはまだやるべきことがあった。
「はぁー……涼しいー……」
自動ドアをくぐった瞬間、贅沢な冷気に体が溺れた。夜になっても冷めない身体の熱が、たちまち引いていくようだった。
「こんばんはぁ」
受付のお姉さんに挨拶しながらエントランスを通り抜ける。それから一階の休憩スペースで休んでいた顔見知りにも。
夏期講習。
学習塾が夏休み中の学生に提供しているサービスだ。夏休み以降の学校での学習内容を短期間で先取りし、スタートダッシュをキメようというコンセプトの下、実施されている。受講したいわけではなかったが、母が勝手に申し込んでしまった以上、お金がもったいないので受講している。効果は未知数だ。
教室に入って、空いてる席に腰をかける。とたんに体へ疲れがのしかかった。重くずっしりとした、このまま机や床に沈んでいってしまいそうな疲労感だった。寝ろといわれればすぐに眠れた。
その睡魔を追い払うような音。講師が教室に入ってきて、ドアを閉めた音だった。皆が慌ただしく着席し、すぐさま講義が始まった。
「疲れる……」
講義を終えた時の私の体は、ひどい疲労感を覚えていた。どうしてか分からないが、部活終わりより消耗している。慣れないことはするべきではないということだろうか。
時間は夜の九時。でも塾の中は煌々と明かりが灯っている。全ての講義が終わった後、全ての教室が自習室として開放されるのだ。だから、それを目当てに多くの生徒が居残って自習をしている。冷房も効いているし、講師もいるのだから、これ以上の環境もなかなか無いのだろう。
でも私は一刻も早くお風呂に入りたいので、早々に塾を後にすることにしている。それにもうこれ以上体力を消耗したら家に帰れない自信があった。
自習室で机にかじりついている生徒たちを横目に、私は塾を後に――しようとして、足を止めた。
「え」
自習室の片隅。
部屋の奥。
一番後ろの窓際の席に、探し求めていた顔を見つけたのだ。
「――ぇんぱい……先輩!」
私は周囲の迷惑も考えず、力いっぱいドアを開けた。自習をしていた生徒たちが、迷惑そうに私を見たが、どうでもよかった。
「先輩! 先輩がなんでここに! って、そんなことはどうでもよくって……ええと、ええと……!」
先輩に言いたかったこと、聞きたかったことがたくさんあったはずなのに、口がうまく動いてくれない。思考が空転してしまう。そうしているうちにどんどん言葉がこぼれ落ちていってしまう。
先輩は私の顔を見て、ぽかんとした表情を見せた。かつての先輩が持っていた快活さは一切消え失せ、まるで、炎に焼かれて溶けかけたマネキンのようだった。
「あなた……どうして……何か、用?」
私のことは分かってくれたらしい。でも、まるで生気を感じられない。目の下に濃いクマもできてしまっている。
一体どうしてしまったというのだ。
「な、なんでここにいるんですかっ? いきなり部活やめちゃって、みんなすごく驚いて、わけわかんなくて……じゅ、受験ですか? でも先輩だったら陸上の記録だけでも進学には困らないでしょう! どうして部活を――っ」
私は言葉を失った。息を飲んだ。喉が変な音を立てて細まり、呼吸を拒絶した。
先輩はもう窓の外を眺めていた。頬杖をついて、足下を行き交う人たちを見下ろす置物と化していた。私のことなど忘れてしまったかのようだ。実際、ガラスに映った虚ろな瞳が、私に向けられることはもう、無かったのだから。
私は部屋に戻るや否や、ベッドに倒れ込んだ。部活による肉体的疲労と塾での精神的疲労、そして、変わり果てた先輩を見てしまったショックで立っていられなかった。母が部屋にやってきて、ごはんを食べるように言ってくるが、どうにも身体が起き上がらない。耳には聞こえているのだが、返事をする気力すらなかった。母は諦めて戻っていった。
部屋の空気は静かに淀んでいる。熱帯夜だ。私は暗闇の中でエアコンのリモコンを探した。手探りだ。でも手の届く範囲にリモコンがなかったようなのでやめた。
制服を脱がなくては。ごはんを食べなければ。明日の準備をしなければ。
私の頭を無数のTo Do リストが埋めていく。どうしてこんなにもやることがあるのだろう。いつもやっているはずなのに、どうして今日はできないのだろう。
「――っ」
生気を失った先輩の顔がフラッシュバックする。
悪夢のようだ。
いや、これはきっとひどい悪夢なのだ。疲れが見せている悪夢なのだ。
明日も先輩は塾にいるだろうか? いるのであれば、また声を掛けてみよう。話を聞いて、できることなら元気づけたい。かつて先輩が私をしてくれたみたいに。
私は体にムチを打って起き上がる。這いずるようにタンスに近づき、下から二段目の引き出しを開ける。色とりどりのタオルがぎっしりと詰まっていた。
先輩が使ってくれたタオルだ。先輩は私がタオルを差し出すと、「ありがとう」と笑ってタオルを受け取ってくれた。私はその笑顔が堪らなく好きだった。
私はタンスのタオルを一つだけ取り出す。そしてなんとかベッドまで戻った。ベッドに沈む身体はひどく重い。
「……先輩」
タオルを抱きしめ、その匂いを胸一杯に吸い込む。
だがそれで、この胸の空白が満たされることは、ない。
練習中、木陰で休んでいた私が目撃したのは、教室の窓からこちらを見つめる先輩の姿だった。
「……先輩」
まだ練習があるにも関わらず、私はその教室へ走った。
電気も点いておらず、空調も稼働していない、先輩以外は誰もいない教室に、先輩はいた。椅子の背もたれにぐったりと体重を預けながら、あの生気のない眼差しで外を眺めていた。
「あの……一緒にまた、走りませんか? 走ればきっと――」
先輩は前みたいに戻ってくれる? あの太陽のような笑みを向けてくれるだろうか?
そんな保証がどこにあるだろうか?
「う、うつ病なら病院に行きましょう。あれは脳内物質の分泌異常が原因の……風邪みたいなものです」
先輩の様子が、うつ病のそれとよく似ていることにはすぐに気が付いた。だから病気についても少し調べた。原因は何か分からないが、部活をやめたことから判断するに。
「走るの……嫌いになってしまったんですか……?」
それは、考えられる限り最悪の事態だ。なにせ、私と先輩の間には、走ること以外の接点が無いのだから。
私は自分の問いかけに後悔した。これでもし、「そうだ」とでも答えられてしまえば、自分はもうどうしたって先輩に歩み寄ることができないからだ。何も知らないフリして、無神経な後輩でいられれば、いつまでも先輩のそばにいられたかもしれないのに。
涙がにじむのがわかった。こぼれてはいないが、瞳の上に涙が溜まって、視界がゆがむ。
「――……好きだよ」
先輩がぽつりと言った。私ははっと顔を上げる。先輩は窓枠に頬杖をついて、窓の外を眺めていた。
「走るのは、今でも好き……地面を蹴る感触も、空気を切る風の気持ち良さも、吸い込むと熱かったり冷たかったりする空気も、全部好き……愛してる」
私は思わず叫びそうになった。でもその前に、先輩が付け加えた。
「でもそれじゃあ、分かりそうになかったから……」
「な、何が、ですか……?」
しばしの沈黙の後、先輩は口を開いた。
「あの子の気持ち」
私は気が付いたら走り出していた。靴を履き替えるのも忘れていた。いつの間にか学校の裏手を流れる川の土手の上にいて、バカみたいに息を切らして、今にも倒れそうだった。
あの子?
あの子ってだれ!?
先輩があんな風になったのは、その子のせいだっていうの!?
「ッッ」
歯ぎしりの音がうるさい。それが自分のものだって気付くのに時間がかかった。握りこぶしが手のひらに爪を立てていて、ぬるりとした血の感触が汗と混じった。
夕日は遥か遠くにある。ヒグラシが鳴いていた。風に微かに冷気が混じっていて、季節の移ろいを感じる。土手を覆う草々を優しく撫でていく。
先輩が誰かと一緒に花火大会へ行った。
その情報を手に入れた時、私は確信した。
その子だ。
その子が先輩を変えてしまったんだ。
私は【その子】が誰なのか特定するために奔走した。部活を休んだりもした。先輩に直接訊いてしまえば話は早いが、そんな傷を抉るような真似はできなかった。
そんな中、私は奇妙な話を耳にした。
花火大会の日、花火を打ち上げている最中の橋の上で、ひどく取り乱している先輩を目撃した人たちがいたのだ。なんでも、川に人が落ちたと、先輩が必死に主張していたという。
先輩の主張を受け、花火の運営委員会並びに警察が、夜を徹して、川に落ちたという少女を探したという。しかし、少女が見つかることは無かったし、少女が落ちた痕跡もみつかっていない。
さらに不思議なことに、川に落ちたというその子が、どこの誰なのか分かっていなかった。
「……?」
私はつい首を傾げる。
先輩が【その子】と花火大会に行っていたのはたしかなようだ。でも、【その子】がだれか分からないとはどういうことだろうか。先輩に聞けばすぐに分かるだろうし、警察がそれをしないわけは無い。
一体なにが起こったというのだろう?
一体なにが起こっているのだろう?
そんな疑問を振り切るように、私はいつしか部活に没頭するようになった。
時折校舎に目を向けると、薄暗い教室の中から、虚ろな目の先輩が、ぼぅっとこちらを眺めていた。そんな先輩を見ていられなくて、私はグラウンドの木陰で休むのをやめ、校舎裏の日陰で休むようになった。
「……花火、誘ってみようかな……川花は誘えなかったし」
この街では、ひと夏に二回、花火大会が行われる。一つは街の中央を流れる大河の河川敷で行われる花火大会で、もう一つは市街から少し離れた砂浜で行われる花火大会だ。それぞれ「川花」「海花」と呼ばれ、街の夏を彩っている。
「少しは元気……出してくれるかな、先輩」
私は校舎への出入り口を見つめながら迷った。行くなら今だ。鉄は熱いうちだ。
そんな私に、背後からの、声。
「海花の日、十八時半に、駅まで来て」
「え」
「じゃあ当日の十八時半に。待ってるから。あなたが来るまで」
彼女はそのまま立ち去ってしまった。私は汗をぬぐうのも忘れて、彼女を後ろ姿を見送った。制服のスカートが、長く麗しい黒髪が、熱風に吹かれて、強くたなびいた。
私は彼女のことを知っている。いつから知っているのか定かではないが、確かに知っている。なにせとびきりの美少女だから。だけど接点は今まで無かったし、彼女から私に接点を求める理由はさらに存在しない。
たった今の光景がフラッシュバックする。
彼女は幽霊と思えるほど肌が白い。病的といってもいい。身のこなしは静かで、いつも物音一つ立てずに立ちふるまう。いつのまにかそこにいる。
【宇宙】を初めて認識した人類の気持ちが理解できる。その存在に気が付いた瞬間、彼女の存在感は果てしなく膨れ上がる。それは超新星爆発のようでもあるし、ブラックホールのようでもある。気圧されるのに、引き込まれるのだ。
そう、彼女の魅力は宇宙そのものだ。星々が織り成す美しさ、尽きることの無い謎、点在する可能性という名の希望と、距離と呼ばれる絶望は、太古から人々を魅きつけて止まない。
私たちは彼女に魅了され続けている。
Fin.
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