スターマイン
この街ではひと夏に二回、花火大会が行われる。
一つは街の中央を流れる大河の河川敷で行われる花火大会で、もう一つは市街から少し離れた砂浜で行われる花火大会だ。それぞれ「川花」「海花」と呼ばれ、街の夏を彩っている。
「はぁ?」
その誘いは唐突だった。雑音を無視し続けた自分の耳が、ついに壊れたのかと思った。
「な、なんて?」
「川花の日、十八時半に、駅まで来て」
本当は、「ごめんなさい、なんでもないわ」といってほしかった。言った瞬間後悔したであろう言葉を誤魔化すチャンスを与えたのにも関わらず、彼女は躊躇なく繰り返したのだ。
「あの、どうして――」
「じゃあ当日の十八時半に。待ってるから。あなたが来るまで」
彼女はそのまま立ち去ってしまった。私は汗をぬぐうのも忘れて、彼女を後ろ姿を見送った。制服のスカートが、長く麗しい黒髪が、熱風に吹かれて、強くたなびく。
「……何なの」
疑問を一緒に飲み込むかのように、私は冷えたスポーツドリンクをあおった。液体が胃の中に流れ込み、体中の細胞に染みわたる快感を覚えた。練習は苦しいが、休憩中や練習終わりに飲むスポーツドリンクの美味しさは、どんなものにも代えがたい。
「川花」
そういえばこの三年間、そんなこと一度も考えたことが無かった。練習が終わったらもうへとへとで、家に帰って、お風呂に入って、ごはんを食べたらもう即ベッドインだ。
花火の音? 目覚ましを毎朝三つもかけている私にとっては、星の囁きも同然だ。私を一発で起こしたいなら、活火山くらい用意してくれないと。
もう一口、スポーツドリンクを飲む。その拍子に後輩が私を呼んだ。
「今いく!」
バッグの上に水筒を投げ捨て、口を拭ってから走り出す。建物の影から日向に出ると、夏の日射しがじりじりと肌を焼いた。母がうるさいので日焼け止めは塗ってある。
「はぁっ、はぁっ」
両膝に手をついて、私は荒い呼吸を繰り返した。
胸に満ちる空気は冷えて感じた。自分の体の方が熱いのだ。
コーチが今の走りのタイムを伝えてくる。新記録。このままの調子でいけば大会優勝は間違いないらしい。私より、コーチや後輩の方が嬉しそうなのが面白い。後輩から差し出されたタオルで汗を拭きながら、私は木陰に座りこんだ。
ふと、校舎の方に目をやった。窓際に彼女が立ってこちらを見ていた。
電灯のついていない薄暗い室内から、黒い瞳を瞬きさせることもなく、じっとこちらを見つめていた。ともすれば幽霊のようだ。
実際、彼女は幽霊と思えるほど肌が白い。病的といってもいい。身のこなしは静かで、いつも物音一つ立てずに立ちふるまう。いつのまにかそこにいる。
【宇宙】を初めて認識した人類の気持ちが理解できる。その存在に気が付いた瞬間、彼女の存在感は果てしなく膨れ上がる。それは超新星爆発のようでもあるし、ブラックホールのようでもある。気圧されるのに、引き込まれるのだ。
そう、彼女の魅力は宇宙そのものだ。星々が織り成す美しさ、尽きることの無い謎、点在する可能性という名の希望と、距離と呼ばれる絶望は、太古から人々を魅きつけて止まない。私たちは彼女に魅了され続けている。
そんな彼女が、私に一体何の用?
時刻は午後の七時が目前だった。傾いた太陽は、街の北に広がる山々に身を隠しかけている。最後の悪あがきとばかりに放たれた夕陽からのレーザービームが、街の中央にそびえる高層ビル群だけを焼いていた。吸い込む空気は排ガスで汚れていて、端的にいえばサイテーだ。
部活の帰り路。
中心街でバスを降り、自転車置き場までを歩く道すがらにそれはある。
眩い光が煌々と灯る、一面ガラス張りの、氷みたいな建築物。その中では何百人もの学生たちが、机に向かって身体を前のめりにさせている。外からの視線なんて気にしていない。気にしている暇など無いのだろう。その光景を眺めながら、私はいつも同じ感想を抱く。
映画のようだ。
もう一万年くらい、そんな感想を抱き続けている。でも、スパイクとかが入ったこのクソ重いバッグと比べれば、重さは無いも同然なので、あと百万年くらい抱えていても平気だと思う。
ガラスの向こうは、私にはまるで縁が無いし、彼らは外を知覚しない。
銀幕と客席。
テレビとお茶の間。
現場と会議室。
そんなカンジ。だから今日も通り過ぎる。
「あ」
しかし私は足を止めた。
何故かって?
彼女がスクリーンの中にいたからだ。
「……へぇ」
意外といえば意外だった。何となく、彼女は勉強も運動も、もっといえば食事も必要ないと思っていたから。いや、そんなはずはないんだろうけど。
彼女が塾内の教室で勉強していた。恐らくは自習室だ。塾にはそういうのがあると聞いたことがある。自習室の窓際の席に座っているのだ。制服姿で。
天井から床まで全部ガラス張りなものだから、彼女の全身を拝むことができた。あの麗しの黒髪も、白くほっそりと伸びた足も、その足先を包んでいる黒のソックスも。
「下からスカートの中、見えちゃわないのかな……って、真っ先に浮かんだのがそんな感想かよわたしぃー!」
私は頭を抱えた。うずくまった。通行人の視線を気にする余裕なんて無かった。オッサンみたいな思考に陥ったのが非常に悔しい。私は輝かしき青春の化身・ジョシコーセーであるぞ。ちょっとバカな自覚はあるけれど。勉強苦手だし。
――くぅ。
「…………お腹空いた」
つぶやいてから立ち上がる。そう、ごはんを食べて忘れよう。寝よう。
そして明日が来ればまた走ることができる。そうすればみんな忘れられる。どうしても忘れたい、ってわけじゃないケド、考えるべきことでもないことって、まれによくあると思うのだ。
「約束、忘れないでいてくれたのね」
臙脂の生地に白い花があしらわれた浴衣姿で、彼女は現れた。
「それに、あなたの方が待っているだなんて……驚いたわ」
「……そっちが三十分遅刻してんじゃん。もう花火始まってんじゃん」
一発目の花火が上がり、ちょうど帰ろうとしたところで呼び止められたあたり、きっと近くからこちらを見ていたのだろう。死ぬほど趣味が悪い女だ。
「……」
ただ、その……浴衣に浮き上がる身体のラインとか、汗を吸ったのか少しだけ湿って艶めく前髪とか、ご自慢であろう黒髪が結われて見えるようになったうなじとかが、すごく、普段と違って、特別だ。
「なんていうか……似合ってる、ね。すごく」
「すごくって、どのくらいなのかしら?」
遠い明りに照らされた薄闇の中で彼女は尋ねた。
何とも答えづらい問いかけだったが、私は自分の気持ちを音にする。
「……どきどき、するくらい」
予想外の言葉だったらしい。彼女は少しだけ目を瞠らせた。近くを通った自動車のヘッドライトに照らされて、浴衣姿の彼女が夜にはっきりと浮かび上がる。その瞬間に見せた彼女の微笑みは、とても危険で、怪しげで、けどそれゆえに魅力的な、とにかく一生忘れられそうにないものだった。
花火大会は河川敷で行われている。
そのせいか、歩行者天国になった橋の上は人の洪水状態だった。台風の後の川の流れと比べて、どちらの方が激しいだろうか。自分が泳がなければならない無数の人波より、眺めていれば済む川の増水の方がマシなような気がする。
「たくさん人がいるのね」
「あの塾の中よりはマシでしょ。ああもう、人多過ぎ帰りたい……」
「だめよ」
彼女が私の手をきゅっと握った。
「帰らないで」
その時の彼女の眼差しの真剣さは、塾で勉強していた時のそれより、遥かに思いがこもったものだった。
「それに、はぐれるといけないわ」
「……帰らないよ。帰りたいけど」
「本当?」
「誰だって、テストなんて受けたくないけど、受けるでしょ。それと一緒」
「約束は約束?」
「そ」
「ふふ。好きよ、あなたのそういうところ。やっぱり好き。思ったとおり」
「ち、近いからっ。それに何言い出すの」
手を握られていただけだったのに、いつのまにか腕を組まされていた。人間嫌いな雰囲気出してるクセに、距離を詰めるのうまいとか反則だと思う。
それから、この気を失いそうなほど甘美な香り。
焼けた火薬の匂いで満ちたこの場所で、こんなに甘い匂い、砂漠のオアシスも同然だ。いくらでも受け入れてしまう。
「……ねぇ」
花火が上がった。弾けた。自分の顔のすぐそばに、彼女の顔が浮かび上がった。
「何で私を誘ったの」
橋の欄干に、彼女に掴まれていない方の手を置く。昼間の熱気が少しだけ残っていた。
「話したことだって、無かったのに」
一瞬の沈黙の後、彼女は口を開いた。
「だからよ。話してみたかったの、あなたと」
「……話?」
「私とあなたって、全然違うわ。あなたの人生はタータントラックの上にあって、私の人生は机の上にある……出会うはずの無いものが出会った時どうなるのか気になったというのが、私があなたを誘った理由。ダメだった?」
「ダメじゃあ、ないけど……」
そんな理由のために花の女子高生時代における花火大会に一緒に行くというカードを私に切るって女子高生としてどうなの?
思考を吹き飛ばすような轟音が響く。身体の中を反響して、私の中に眠る何かを呼び起こそうとでもいうのだろうか。
「綺麗」
彼女がぽつりとこぼした。不思議にも彼女は頭上を見上げてはいなかった。
彼女は欄干から、足下に悠々と伸びる大河の流れを見下ろしていた。静かな流れの川面に、空に咲く花火が映っていた。
「花火の中で花火を見られたら、それはもう素敵なのでしょうね」
「大ヤケドするのでは?」
「あなたは見たいと思わないの?」
「今時はホラ、えーと……ドローン? とかいうやつ使えばイケるでしょ」
「自分の目で、という意味よ」
彼女はそこで一旦言葉を切った。何発かの花火が打ち上がるのを眺めた。私はその間、彼女の横顔を見たり、あるいは、内側から見た花火はどんな光景だろうと夢想した。それは星空とどちらが綺麗だろうか?
彼女はぽつりと言った。
「ねぇ、あなたも一緒に行かない?」
「……は?」
「あなたも行きましょう? あの光の中へ。きっと、とても綺麗だわ」
「ハハっ、どうやってよ?」
おかしなことを言い出したと思った。だけど、彼女の目を見た瞬間、それが冗談でも何でもないということがすぐに分かった。
本気の目をしていた。
陸上の大会で共に走ってきた、他校の生徒たちのそれと同じ目だった。
「簡単よ」
彼女は私の顔を覗き込む。
撫でるように、舐めるように、私の耳元に口を近づけて――囁く。
「ほら、そこにある」
彼女は橋の下、たっぷりと水を湛えた大河を指差した。水面では今も花火が弾けている。
「な、なに言ってるの? 本気?」
いや、彼女は間違いなく本気だ。私がそのことを理解していることを彼女は理解している。だから否定も肯定もしてこない。真っ直ぐに私に向けられる眼差しが、「分かってるでしょ?」と言っている。暑さだけでは説明できない汗が溢れた。冷や汗だ。
「……無理。無理だよ」
私は彼女の手を振り払う。止まり木を失った彼女の手が、悲しげに夜に浮かんだ。
「意味わかんない。何でそんなことしなくちゃいけないの!」
今度は私が彼女の手を捕まえる。そうしなくては、たちまちどこかへ行ってしまいそうだからだ。
「帰ろう? 話ならいくらでも聞いてあげられるから。何なら明日の練習休んだっていいから。ほら、行こう」
私は主導権を握ってから歩き出した。いや、歩き出そうとした。それができなかったのは、彼女も私の手を振り払ったから。
私に掴まれていた手首を、彼女は冷めた瞳で見つめていた。
「……分かったわ」
髪止めを外しながら言う。彼女の麗しい黒髪が、夜に溶けるように広がった。
「あなたも向こう側へ行きたいのかと思っていたのだけど、そうじゃないみたい」
浴衣姿のまま、彼女は器用に欄干へ腰かける。こんな状況じゃなければ最高に絵になっていたのに。
「さよなら。楽しかったわ」
すぐ近くで花火が上がった。
スターマインだ。
けたたましい爆音と光。そして衝撃が周囲を埋め尽くした。
その中に混じった水音を聞いた者は、はたしているだろうか?
Fin.
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