嘆きのリゲル

 黄昏と暁の景色は似ている。

「はっ……はっ……はっ……」

 あの坂道を駆け上がるとき、どこまでも真っ直ぐに伸びた道路をバイクで飛ばすとき、あるいはあの波打ち際でふと水中から顔を出したとき、これはどちらだろうとよく考える。

 息の乱れた胸が必死に空気を吸い込んで、空気よりも熱い体から溢れる汗をぬぐう。風は気まぐれに私に手を貸したが、水底からは常に誰かが私の足を引っ張ろうとしていた。

 追跡と逃走。

 はたから見た時、私はどちらに見えるだろう? 空を飛ぶ鳥は空を飛べるのだろうか? あるいは空を飛ぶしかないのだろうか?

「はっ……はっ……はっ――」

 そんなことを考えながら、私は今日も駆けずっていた。

 あの日、あの時、あの頃の、彼女が見ていた景色に、少しでも近づきたくて。

 彼女が見ていた景色を知りたくて。



 追憶にあるのは瞬間だけ。

 私の前をただ通り過ぎていく。

 緩やかなカーブの先から現れたかと思うと一気に加速。突風を纏って突き抜けていく。

 彼女は私に手を振るわけでも微笑むわけでもない。ただ視線だけを動かして、アイウェア越しに私を一瞥していくのだ。

 過ぎゆく瞳の煌めきはまるで流星のようだ。その流星に祈らない日は無かった。

 河川敷の道路を飛ばすバイク。

 アスファルトの道路には砂が溜まっていて、ざりざりとした感触がサドルを通じて体に伝わる。下手にハンドルを切ったり、カーブでバンクをきつくさせたりしたら、滑って転げてしまうだろう。

 少し視線を遠くに投げれば、水をたゆたわせた川面が銀河のように揺れていた。そして夏の日差しの下、子供たちは水際で戯れている。跳ねる雫、散乱する光、子供たちの弾ける笑顔――その全てが輝いていた。

 ダウンチューブに取り付けたケージからボトルを取り出す。ボトルをほとんど垂直にする勢いで、中身を口に含んでいた。安物だから保温効果がなく、ぬるいスポーツドリンクが喉を濡らした。勢いあまって少しむせた。あの人のように美しくは飲めない。

 じりじりと照り付ける日差しが、ハンドルに延ばされた手を焼いている。日焼け止めを塗ってはいるが、気休めくらいにしかなりそうにない。目に入りそうなった汗を、私は素早く手でぬぐった。

 道が広がり、数百メートルにわたって直線が続くエリアに入った。私はDHバーをぎゅっと握り、体を思い切り前傾させた。視界が下がり、空気の抵抗が減って、自転車が鳥のように風に乗る。風を切る。全ての景色が過ぎ去っていく。悲しみも、涙も置き去りにして。

 置き去りにしてくれて。



 思い出は静寂しか許さない。

 塩素の匂い。ガラスの向こう、水の中。流麗に泳ぐ美しい体。

 逆さまに降る雪のような泡粒のイルミネーション。遠く透き通った淡い青。

 本来は水泳部員が、水泳フォームを確認するためのスペース。水族館のようなたたずまい。少しだけ暗い。女子高だからできる独特の設備に違いない。この巡り合わせに感謝しない日はなかった。

 降り注ぐ光は祝福のようで、その中で踊る彼女の姿は神聖そのものだ。時折たゆたうその様子は、彼女が水に溶ける序章のようで少し怖かった。触れることができたなら、後先考えずに手を伸ばしていただろう。彼女が溶けて消えてしまわないように。ガラスがあって良かったのだと思う。

 しかし一方で、私は確かに願っていたのだ。このまま私も水に飛び込んで、溶けて彼女と混ざり合ってしまいたいと。

 だけど今の私の身体は、氷のように冷えていた。そのせいか体はまだ固体のままだった。いくら手足を動かしても、すぐそばから体温が水に吸われていった。波は時に頭上から打ち付け、時に横から押し流す。口に入った海水は、やはり涙の味に少し似ていた。

 それが悪いことだとは思わない。涙をのんだ時、それが海の味だと思ってしまえば、その涙が些細なことに思えるから。この海が受け入れてきた涙のすべてに比べれば、ちっぽけなものに思えるから。

 彼女を真似て、時にたゆたう。波間に漂う。空を見上げる。競泳水着が体を締め付けている。ゴーグルの上の水滴がプリズムになって、見かけの空にハロを描いていた。天上に広がる光の環は、今にも私を空に引き上げてくれそうな気がした。彼女に近い、あの空へ。もっとも、今の私は海の底の方が近いのだけれど。



 それは鼓動を思わせる。

 単調なリズム。端正なリズム。淡々と続く。

 音の間隔は均等で、足を踏み出すたびに精神が研ぎ澄まされていく。

 手足の感覚は間もなく消え失せるだろう。風を切る音は聞こえなくなり、巨大な熱気すらを振り切って、やがて全身が高揚感に包まれるのだ。

 この昂ぶりの中に、彼女は何を見たのだろう。何を思い、何を考えていたのだろう。

 あの揺れるポニーテールのように楽しげなことだろうか? それとも、ぬぐわれた汗のように輝かしいことだろうか? 静謐な眼差しが見据える、影の無い未来だろうか?

 彼女は未来を信じていただろう。私ですらも信じていたのだから。

 明日は必ず来た。小テストが嫌だから、明日が来ませんようにと願う程度には。

 今でも明日は来る。彼女がいない日々は、もう必要は無いというのに。

 私はいつも後ろを向いている。しかし前にしか進むことができない。

 そのはずなのに。

 あの地平線は、水平線は、あの星は、いつまでたっても近くならなかった。

 進むしかない。だけど私はいつまでもこの場所にいる。まるでゲームのバグのよう。私の足はそう遠くまで走れないし、私の息はそう深くまでもつわけでもない。まして空が飛べるわけでもなかった。見苦しく、地面をのたうち回るしかなかった。

 所詮私はその程度。彼女とは違う。

 どうして神様は、こんな中途半端に私を作ったのだろう。

 どうして神様は、私ではなく、彼女を選んだのだろう。

 あるいは、私が選ばれなかったのだろうか。

 それなら少しは、救いがあるのかもしれない。

 それなら少しは、私に巣くうこの悲しみも、和らいでくれるかもしれない。

 この胸の苦しさと、足運びのペースを間違えた時の息苦しさとが区別できなくなる。

 そんな明日がいつか来るのだろうか。

 海と川が交わるところ、陸の切れ目で立ち止まり、荒い息を整えながら、私はそんなことを思っていた。

「あの」

 声。

 それは確かに懐かしかった。

 今まで頭の中でしか聞こえなかった声によく似ていたのだ。

「やめて、もらえませんか……」

 顔は逆光で見えない。

 暮れる水平線を背にしたシルエット――少女の影が、私に語りかけている。

 それが誰なのかはすぐに分かった。

 少女は彼女にあまりにもよく似ていた。

 顔が見えなくてもわかる。手の長さが、足のラインが、バストからウエストにかけての曲線が、髪の質感が、匂いが、魂が! 彼女を証明している。それを感じ取ることができる。

 どこかの光を反射して、彼女の右手の中の鋭い何かが光った。

「姉さんの真似は、やめてください……!」

 彼女の背後に夕闇が見える。空と海が混ざっている。

「でないと私……私――狂ってしまいそうです……!」

 黄昏に包まれて、空と海の境目が無くなっていく。

 正常が、異常が。

 正気が、狂気が。

 善が、悪が。

 幸が、不幸が。

 愛が、憎しみが。

 あらゆる境目が溶けていく。

 この瞬間、世界には過去も未来もなく、巡行と逆行も微かに失われた。

 そして私はふと思ったのだ。

 黄昏と暁が似ているのならば、生と死も、あるいは近類なのだろうか、と。

 少女の瞳から柔らかな光が落ちる間に。鋭い光が私の核に迫る間に。

 衝撃と共に体から力が抜ける。地面に倒れる。命が流れ出す。

 かろうじて動いた瞳を動かして、空と海、昼と夜、光と闇、あるいは生と死が混じり合った彼方を見出す。

 あの日、あの時、あの頃の、彼女が見ていた景色に、少しでも近づきたくて。

 彼女が見ていた景色を知りたくて。


                                    Fin.

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