絶叫するベガ
悲しい夢を見た。
世界が終わる夢だった。
世界を終わらせる夢だった。
私がその引き金を引いたのだ。
夢の中で流れた涙は、現実の頬を濡らして、私のことを目覚めさせた。
見上げた天井はいつも通りで、カーテンの隙間から差し込む光は、この時期に似合いな眩さを誇っていた。ああ、今日も朝が来たのだ。
真昼を思わせる日差しは、まだ午前八時のものだった。
道行く人は皆、不快そうに眉をひそめ、しかし歩調を緩めることなく行進を続けていく。涼しい顔をしているのは空だけだ。彼(彼女?)の方が、太陽には近いはずなのに。
アスファルトとかいうホットプレートは、今日もジウジウと人々を焼く。いい感じに焼き上がった人間たちは、社会という名の怪物に食い物にされていくのだ。
きっと例外はないのだろう。だからせめてもの抵抗として、私はローファーを鳴らして学校へ向かった。
その代償は、学校にいる時間が少し長くなってしまうことだった。
周りには私と同じような格好をした、同じような年頃の人間で溢れていた。少子化と騒がれて久しいが、ここはやっぱり、人が多くて息苦しい。笑い合っている彼ら彼女らは、息苦しくはないのだろうか。生き苦しくはないのだろうか?
校舎の中は涼しかった。こんな巨大なコンクリートを丸々冷やしてしまうのだから、最近の空調設備は大したものだった。それから二重に作られた窓と、断熱効果の高い建材もだ。科学の力バンザイ。お金の力バンザイ。
靴箱の寸前まで来ると、駅の自動改札みたいなゲートがあった。私がそれに近づくと、二重になっている改札扉のうちの手前のものが開き、私を招き入れる。一瞬だけ私は改札内に閉じ込められ(といっても歩調を緩める必要はないが)、しかしすぐに奥の扉が開いた。鞄の中に入れてあったスマートフォンが鳴動し、私の登校が確認されていた。
始業時間までに登校が確認されないと、スマートフォンに問い合わせが自動送信される仕組みだ。実に素晴らしい科学の力だった。実に実に実に素晴らしい科学の力だった。
ため息を吐きつつ私は下駄箱の扉を開ける。
その瞬間に何かが零れ落ちた。私はまたため息を吐いた。
「あ、またもらってる」
「……見世物じゃないから」
あの子の声に、私は自然と顔が険しくなる。彼女は事実を言っただけなのだが、わざわざ指摘する必要もないではないかと思わずにはいられない。
「なら……読み物?」
「……食べる?」
「食べ物では……ないと思う」
「悩みのタネだから、土に埋めたら育つかも」
「悩んでないくせに」
科学の力バンザイなこの時代に、古風なものだ。私は何通目か分からない手紙を拾い上げた。この場に放置しておいて、土に還ってくれればいいのに。
セミの鳴き声は遠い。
締め切られたカーテンは白く光っている。太陽はまだ輝いているようだ。日である彼女に日曜日はないらしい。来る日も来る日も、狂いもせずに規則正しく、宇宙を回り続けている。いや、太陽は回っていないんだった。ああでも、銀河規模でみれば、太陽もどこかを中心に回っているのかもしれない。
遠くの空で花火が上がる音がする。それが約束の日を告げていた。私はそっと体を起こす。
「うぅ……暑……う」
隣で彼女がうめく。見ればまだ眠っているようだった。つまり今のは寝言だ。寝汗で顔に貼り付いた髪がなまめかしい。もっと見ていたい気もするが、熱中症になられるのも困るので、私は冷房のスイッチを入れた。
「……」
彼女と眠るとき、私はあの夢を見ない。
あの悲しい、世界が終わる、世界を終わらせる夢だ。
私にとってそれは、かけがえのない安らぎに違いなかった。
「さて」
感謝すべきお寝坊さんのためにも、私は朝食をつくろうとベッドから立ち上がる。
――はずだったのだが、私の視界は再び天井を見上げていた。
「起きてたの?」
「いま覚めた」
彼女が私の手を掴んで、再びベッドに引き戻していた。
私は再び彼女の香りに包まれ、そして彼女のぬくもりに触れる。大気の熱とは違って心地よかった。冷房が効き始めたから余計にだった。
「もう少し一緒に寝てよう」
「朝ごはんを作らないと」
「もっと美味しそうなのが目の前にあるから……ブランチでいい」
「ばか」
彼女が少しだけ体を起こして、仰向けの私を覗き込む。澄んだ瞳が私を見つめる。そして私の顔にかかった髪を細い指で避けてから――私の唇を奪った。
息が詰まる。心臓が破裂しそうになる。いつまでたってもこうだ。
空気を求めるように彼女の唇を求める。溺れていく。昨日も散々味わったはずなのに、二人ともまだ足りないようだった。いや、きっとこの空腹感は、いつまでたっても満たされないのだろう。そんな気がした。
でも、それでいい気がした。
夜になった。
今夜はいつもの夜より賑やかだ。
行き交う人。楽し気な声。軽快になる下駄の音。香る屋台。虫の音は今日ばかりはわき役だ。夜気は昼間の熱気を微かに含んで、しかし浴衣にはちょうど良かった。
「じゃーん。似合う?」
「当然でしょ。誰が選んだと思ってるの」
彼女は黒地に金魚があしらわれた浴衣をきていた。
夜の色が溶け込んだ水中に、金魚が尾ひれを揺らしながら泳ぐ様が連想される。涼し気で、動的なのに、しかし静かだ。
「あなたも似合ってるよ」
「当たりまえでしょ。誰に選んでもらったと思ってるの」
「えへへ」
どちらともなく互いの手を取る。ぎゅっと握る。これはあくまで、はぐれないようにするためであって、そういうことではないのだ。うん。
「いこう、花火が始まっちゃう」
「ここまでくればどこでも見られるじゃん、ゆっくりいこ」
「映画館で隅の席に座る趣味はないの」
「先生ぇー、二人一緒ならどこでもいいと思うのですがぁ?」
考えてみれば、移動中は彼女の手を握っていられる。
歩調を緩める理由はそれだけで十分だった。
「ラブレターをくれた人たちに見つかったら、きっと驚くか、嘆くかだろうね」
「……ぅ」
「ははは、そんなに心配することないよ。ラブレターに応えない理由と、私と一緒にいる理由は、必ずしも連動しないから」
「でも、そうともとれるわけでしょ。世間は邪推が好きすぎる」
本当に嫌だ。吐き気がする。
どうして世間はこうも、秘密を暴くのが好きなのだろう。そのエネルギーをどうして気遣いに回せないのだろう。
「……私はそれに耐えきれるほど強くない、きっと」
世界は簡単に壊れてしまう。終わってしまう。
彼女だけが全てではないと人は言うかもしれないが、私にとっては彼女がすべてだ。彼女が世界だ。世界のすべてだ。彼女を失うことは、世界が終わるも同義だった。
花火が上がる。
空で弾ける。
それは超新星の爆発に、世界の滅びによく似ていた。
「……っ」
思わず彼女の手を握りしめる。たぶん痛いほどだったと思う。それでも彼女は優しく握り返してくれていた。
「そんなことはないよ」
「あなたといつまでいられるだろうって考えると怖くなる」
微かに鼻がツンとする。涙が少しだけ溜まって、川沿いに広がる夜景をぼやけさせた。
その様子を察した彼女は、人の流れから離れたところへ私を連れていく。そして幼児をあやすように耳元で囁く。
「ずっと一緒にいるよ。いられるよ」
「あの夢は本当は、私の願望なんじゃないかって」
「仮にそうだとしても、そんなに心配する必要はないよ」
「どうして」
「世界は終わるよ。でもね――」
再び花火が空で広がり、周囲が明るく照らされた、その瞬間だった。
「……!?」
彼女の唇が、私の唇を奪っていた。
「ちょ!? こんなところでやめ――んむっ……!」
私の小さな悲鳴は、花火の音にかき消された。
「ぷはっ、な、なに考えてるの!」
「大丈夫だよ。誰も見てない。みんな花火を見てる」
「だからって……ひゃむっ……!」
強引な口づけ。
私はこくりと喉を鳴らす。
つながれた両手はしっかりと握りしめられ、振りほどけない。唇は張り付いてしまって離れない。人の足音や祭りの喧騒が聞こえなくなる。彼女しか感じられなくなっていく。夜空に咲く火の花と、それを踊らせる彼女の瞳は、そのどちらが美しいだろう。
どちらの方が儚いだろう。
「少し、いいですか」
彼女が私に声をかけてきたのは、花火の日から数日経った塾の休憩室でだった。
すとんと落ちた長い黒髪が美しい、私と同じ制服を着た子だった。思えばどこか見覚えがある。名前は分からない。リボンの色で後輩とわかる。
「ごめんなさい。わたし、見てしまって」
「?」
「花火の日、あなたとあなたの――恋人がしていたこと」
「! うわぁ!」
私はバッグに入れようとしていた参考書とノートを盛大にぶちまけた。
慌ててそれを拾い出すと、彼女はそれを手伝ってくれた。その間にも私の全身からは、大量の冷や汗が噴き出していた。
いつかこんな日が来る定めだったのだろう。
もう彼女に触れることができないかもしれないと思うと、冷や汗よりも多くの涙が、いつしか瞳に溜まっていた。
「えっ、ちょ……あの……」
私の涙に困惑している彼女の手を引き、私は休憩室をあとにする。
そして人気のない階段室で立ち止まると、私は夢中で頭を下げていた。
「……お願い。何でもするから、私たちのことは秘密にしておいて……!」
それは祈りだった。懇願だった。今なら拳銃を突きつけられて、銃口をしゃぶれと言われたらしゃぶったに違いなかった。
返事を聞きたくなかった。地面に頭をこすりつけて、耳をふさいでひたすら祈りたいほどだった。
「……先輩にわたしは悪魔か何かに見えているのかもしれないけど、違うんです。話を聞いてください」
彼女が私の手を握る。私が顔を上げると、彼女は微かに微笑んで手を離した。だがすぐに無表情に戻った。こわばらせた、というのが適切だろうか。
「あの……わたし、その――」
彼女の呼吸が乱れる。しかし深呼吸をして持ち直した。
「……好きな……子がいて」
「!」
「相談に、のってもらえないかな、って……」
美しい黒髪と対照的な白い肌に、ほんのり淡く、朱が差した。
冷たい感じの美人という印象だったが、こうなればだれでも――かわいい、ものなのかもしれない。
「……な、なんだぁ……そんなことかぁ……!」
「そっ、そんなことって何ですかっ。わ、わたしがどれだけ――」
「あ、ああ! ごめん! そんなつもりじゃ!」
私は慌てて取り繕う。
彼女は恨めしそうに私を睨んだ。スカートのすそを握りしめて震えていた。
「ホントごめんね。ちょっとびっくりして。あと怖くって」
「怖い……?」
「うん……私とあの子ことがみんなにバレたら、どうなっちゃうんだろうって。何もかもダメになってしまうんじゃないかって」
彼女の手にそっとふれ、スカートを握りしめていた拳をほどく。そっと握る。
「あの子は答えを知っていたみたいなんだけど、訊きそびれちゃって」
しかし今はもうわかる。
目の前の後輩の顔を、そしてその瞳に映る自分の顔を見れば。
思えば、私と出会う前のあの子も、こんな気持ちだったのかもしれない。
そう考えると、今すぐあの子を抱きしめたい衝動が湧き上がっていた。
「少し待ってね。せっかくだから、あの子も一緒にいた方が力になれると思うから」
私は彼女に電話をかける。ほとんどノータイムで応答があった。事情を話すと、彼女は快く待ち合わせに応じた。
彼女はくすくすと笑って、嬉しそうに、電話越しに語りかける。
『ねぇ、どう、新しい世界は?』
彼女は何もかもお見通しだ。私のことはお見通しだ。
「悪くないよ」
『そう。よかった。じゃあ、またあとで』
世界は滅びるかもしれない。
今の世界は滅びるかもしれない。
しかしまたすぐ、新しい世界が待っているのだ。
なんだ、もっと早く、教えてくれても良かったのに。
Fin.
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