第一章

 「停住!」

 「うわっ?」

 後ろから大声をかけられ、僕は縮み上がった。女性の声。広東語だろう、意味は分からない。だが、強い口調だった。慌てて振り返る。

 「・・・・・・!」

 そこに居たのは、僕と同じくらいの年齢の少女だった。けれど、

 (何て目をしているんだ)

 僕の生まれた国では見たことの無いほど、強い視線だった。真っ直ぐにこちらを睨む瞳は、迸る感情を抑えつけられずに燃え盛っているようだった。

 「ええと、何でしょう」

 その目に押されて、思わず敬語になってしまう。そもそも、日本語で返してどうするんだ? そんな僕の胸ぐらを掴みあげる少女。

 (硬い。何だ、機械の手?)

 ほとんど手だけの力で引寄せられた少女の身体からは汗と、そして機械油の臭いがした。良く見れば、その服も街中で見た普通の人々とは違い、そこかしこが擦り切れ傷んでいるようだった。

 「〇△□×」

 何を言っているかはわからなかったけれど、その濁点の多い強い口調は、こちらを罵倒しているものだということだけは分かった。


 この街に着いたとき、僕は飛行機の腹を見上げていた。

 「本当に、ビルすれすれを飛んでいたんだ・・・・・・」

 ついさっきまで機体の中から見下ろしていた飛行場から、逆から見たその光景。

 これから、数年を過ごす予定の街は、見る物すべてが新鮮だった。


 鞄を、盗られないよう、肩から斜めに掛け、まっすぐにタクシー乗り場に向かう。手を挙げ、止まった車両に乗り込むと、目的地を告げた。

 「?」

 発音が悪いのか、振り返った運転手が首を横に振るが、ここまでは想定通り。上着のポケットから地名を記したメモを取り出し、指差して見せると、今度は、頷いて前を向いてくれたのだった。

 (ああ、自由にはなせたら。急な話だったものなぁ)


 母から、中学卒業後に、この異国の地に引っ越すという予定を伝えられたのは、年が明けてすぐのことだった。生まれた日本という国から出たことはなく、他国の言葉についても本気で学んだことはまだ無かった。

 「ごめんね、純也。あなたが暮らせるだけの稼ぎがあれば良かったのだけれど」

 保護者がいる母子家庭ではかえって受けられない扶助があり、日本で僕一人だけで残って暮らすことはできなかった。僕が働いて稼ぐにも学歴が要る。その学歴を得る為に必要な学費が高すぎて進学できない、そんな矛盾に対して憤りを示しながらも、母は現実的な努力の方も止めようとはせず、一人息子の僕を海外の学校に進ませる、という方法を見つけてきたのだった。


 辿り着いたのは、香港。その中のビル街に、目的地はあった。タクシーから降りると、僕は、街中に降り立った。見上げたのは一基の高層ビル。曲線を多用した(※風水に悪いとかで、尖った角はなるべく用いないらしい)この最上階に、僕の下宿先の大家は住んでいるらしい。

 受付で、名前を告げると――自分の名前の中国読みだけはなんとか覚えてきた――エレベーターを指し示された。うなずいて一人で行こうとすると、受付嬢は席を立ちスペースを出ると、階数ボタンまで押してくれたのだった。

 「えっと、多謝」

 「・・・・・・」

 にこりと笑った受付のお姉さんの前で、鋼鉄の扉がゆっくりと閉じていった。


 エレベーターが止まり、降り立ったフロア。あたりを見渡すと、壁に、案内地図が。それを見て目的地を確認すると、一番近くの扉へ向かう。両開きの木製で、会社というよりはお屋敷の入口のような外観をしていた。

 ノックする。

 「失礼します」

 「入りたまえ」

 日本語――しかし、訛りは感じられた――が返ってくる。僕は、重い扉を押し開けたのだった。


 「よく来たね、まずは座りたまえ」

 そこに待っていたのは、スーツ姿の男性だった。30代か40代くらい? 日本人なら、そのくらいの歳だろう、銀フレームの眼鏡をかけている。

 「あの、よろしくお願いします」

 頭を下げてから、ソファに座る。革は柔らかく、予想以上にお尻が沈んだ。


 中国語と日本語、それぞれの言葉で書かれた、二組の賃貸契約書を見せられる。契約者は母なのだが、入居者の僕のサインも必要とのことだった。

 手続きを済ませると、彼はにこやかに笑った。

 「ようこそ、香港へ」


 新居の鍵と、そこまでの道順を受け取り、僕は、ビルを退去した(※受付のお姉さんは、帰り際にも笑って手を振ってくれた)。ビル街から、屋台のような出店が並ぶ通りを過ぎする、道がだんだん細くなってくる。あと1ブロックでたどり着ける、というところまできて、僕は近道を見つけた。地図には載っていないが、ここを通れば、斜めにショートカットできるだろう。足を踏み出す。

 こうして、僕は彼女に止められたのだった。


 「えっと、すみません」

 胸倉を掴まれたまま、頭を下げる。必死に身振り手振りで意思を伝えようとする自分のこっけいな仕草は、酔っぱらったオジサンみたいだな、と思ったけれど、笑う余裕は全然なかった。

 少女は、言葉の通じない僕を見上げ、面倒そうな顔をした。

 「……Can You Speak English?」

 「え、あ、はい」

 今度、彼女の口から発せられたのは英語だった。まるで、学校の英語の授業のような、一単語ずつを区切っての発音だったけれど。

 「そうか、君は、特甲児童なのか」


 特甲児童――。

 それは、児童福祉の充実と労働人口の確保の両面から実施された、”行政サービス”である。四肢や内臓器官を疾患若しくは紛失した児童に対して、各国政府は、それを補うものとして、機械化手術を承認した。大人を超える力を身に着けた彼ら彼女らは、警察で軍隊で、ある者は戦闘員として、ある者は情報員として、存分にその力を発揮している。いや、機械化されたテロリストや兵士が跋扈する現代、対抗手段として必須の存在であるといえよう。


 ……という、話を、前に聞いたことがあった。


 「中国にもいる、ということは知っていたけれど……」

 「? Speak,English!」

 「あー、Yes、Yes、Just a little.Well……」

 学校でしか学んだことのない、彼女と同じくらいたどたどしい英語で答える。互いに、四苦八苦しながら、意思疎通が何とか始まったのだった。


 (つまり、この道は危ないってことか)

 何とか、彼女は、僕が入ろうとしていた道への進入を止めようとしていたことが、理解できて、僕は彼女に頭を下げた。

 「サンキュー。えっと、プリーズ、テル・ミー、アナザー、ウェイ?」

 「……フォロー、ミー.」

 思い切りカタカナ発音の英語に気恥ずかしくなりながら、それでも何とか他に道が無いか彼女に尋ねると、また面倒くさそうな顔をしたものの、彼女は顎をしゃくって歩きだしたのだった。

 (そっか、香港の人がみんな英語を使える、というわけじゃないんだ)

 僕は、この街について、また一つ、知識を得た。


 (※ここから続き)


 

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