16-2
◆◇◆◇◆◇
「…………ん」
マーシャは目を開ける。ぼんやりと意識が戻ってくるが、まだ自分がどこにいるのか、何をしているのかはっきりしない。片手に違和感を感じ、彼女はそちらにゆっくりと目を向ける。
「……教授?」
自分の片手を、どういうわけかベッドにひざまずいた姿勢のエルロイドが持っている。しかも……。
「マ、マーシャ!? 目を覚ましたのか!?」
彼女の言葉に、ものすごい慌てようでエルロイドは手を離す。といっても放り出すのではなく、毛布の上に彼女の手をちゃんと降ろす。
「……教授、私の手にいったい何を……?」
「いや、その、これはだな、昔から言い伝えられてきた逸話に基づいて、決して下らない目的があったわけではなく…………」
何やら言い訳めいたことをエルロイドは言っているが、残念ながらすべて徒労である。マーシャは一部始終をちゃんと見ていた。そもそも、自分の手にきちんと感触が残っている。
「……私の手にキスしましたね」
「口を付けただけだ」
「それをキスというのですが?」
胡乱な目で見つめるマーシャを、そっぽを向いたエルロイドは横目でにらむ。
「下らん。枝葉末節にこだわるのは馬鹿げているぞ。君がいつまで経っても寝ているから、いろいろと目を覚ます方法を模索していただけだ」
「それがキスですか」
「昔話にあるだろう。眠りについた姫は王子の口付けで目を覚ます。ふん、恋に恋する女児を言葉巧みに夢中にさせる実に低俗で安直で無粋な内容だ。馬鹿馬鹿しい」
自分を王子に、マーシャを姫に例えたことに凄まじい自己嫌悪を覚えたらしく、エルロイドは今までに見たことがないほどの苦い顔をする。不愉快そのものの彼から顔を逸らし、マーシャは自分の手の甲を見る。手とはいえ、異性にキスされたのは初めてだ。だが、まさか相手が彼とは思わなかった。しかも、こんなロマンチックのかけらもない方法で。
◆◇◆◇◆◇
どうやら、自分はここで寝ていたらしい。周囲の曖昧な雰囲気は、この空間が夢であると主張している。夢の中でも寝ていたとは、余程自分は疲れていたらしい。そして、エルロイドは自分を起こそうとして手を尽くしたらしい。その方法がキスとは、何とも凄まじい論理の飛躍だ。けれども、その瞬間を想像するとマーシャの頬が急に赤くなる。
「だが、ほっとしたよ」
思いのほか優しい言葉をかけられて、マーシャは彼の方を見た。
「このまま君が目を覚まさないのではないかと、我ながら弱気な妄想に駆られてしまった。今後、このようなことのないように」
彼のような人間が、弱気な妄想とやらをするのだろうか。マーシャはかすかに疑問を抱いたが、大人しくうなずく。
「はい、教授……」
だが、ここで彼女の目は少しだけ覚める。
「あ、そうでした。じゃあ、もう起きますね。お仕事が待ってますから……」
ベッドから起き上がろうとしたマーシャだったが、意外なことにエルロイドはそれを制する。
「いや、そのままでいい」
「え?」
常ならば急ぐように言う彼だが、今夜は妙なこともあるものだ、とマーシャは驚きに目を見開く。
「私は君の労苦も知らずに、君を酷使しすぎたようだ。確かに凡人にとって、就寝後もなお脳を活動させるのは大変だっただろう。本当に、気遣ってやれずにすまなかった」
続いてエルロイドの口から出てきた言葉に、さらにマーシャはびっくりする。どういう風の吹き回しか、今夜の彼は紳士すぎると言ってもいい。
「教授……」
けれども、何となく彼の言葉に甘えたくなってしまうから不思議なものだ。
「だから、今日はもう休みなさい。今後、君を夢の中にまで呼びつけることはしない。ゆっくり休み、明日の活動に備えるように。それが私の助手としての務めだ」
こんなことまで囁いてくれるのだから、マーシャが嬉しくならないはずがない。
「……ああ、分かりました」
だからこそ、再び横になったマーシャは呟く。
「これ、夢なんですね」
「は? はぁ!?」
父性さえ漂わせていたエルロイドの顔が急変する。
「こんなに教授が物わかりがよくて親切なはずないですから。あなたは、私の作った夢の中の登場人物ですね」
「なっ! な、何という無礼なことを君は言うのだ! そ、それでは普段の私の意固地で不親切だと言っているようなものだぞ!」
「普段の教授は、さっきみたいなことはしませんから」
少しだけ片手の甲を見せると、たちまちエルロイドはたじろぐ。
「あ、あれは単なる気の迷いだ! マーシャ、君は私の気遣いをむげにするつもりかね!」
結局、これがいつものヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授である。彼とのやり取りは、マーシャにとって長旅から帰宅したときの私室のように懐かしく、心地よい。
「何とでもどうぞ。夢は夢ですから。覚めたら忘れてしまうのが夢なんですよ」
そう言うと、マーシャは手で口を覆いつつあくびをする。
「だって本当に、まだ眠くて…………」
◆◇◆◇◆◇
エルロイドの見ている側で、マーシャは再び気持ちよさそうに寝入ってしまった。
「……また寝てしまったか」
彼の言葉にも、マーシャが何かしら反応する様子はない。
「まあ、そもそも私はそう命じたのだ。何もおかしなことではないな。助手として君は優秀だぞ、マーシャ」
彼は格好をつけてそんなことを言うが、すぐに誰も反応しないのに気づく。
「覚めたら忘れてしまうのが夢、か……」
エルロイドは、ベッドの脇から立ち上がりながら独りごちる。ならばこのやり取りも、マーシャは朝目覚めたら忘れてしまうのだろうか。例えば、彼女の手の甲にキスしたことも。
「ああ、ぜひ忘れてくれ、マーシャ」
彼はそう言うと、静かにその場を後にするのであった。ほんの少しだけ、名残惜しそうに。
◆◇◆◇◆◇
――それから時は流れる。
「お帰りなさいませ、教授」
ロンディーグ駅に到着した機関車の車両から、エルロイドが降りてくるのを目ざとくマーシャは見つけた。
「うむ。出迎えご苦労、マーシャ」
出かけるときと何ら変わりない様子のエルロイドは、言葉少なに彼女の言葉に反応する。出張は終わり、彼はロンディーグに帰ってきた。
「出張先はどうでしたか?」
「悪くはない。それなりに有益な情報は得られた」
「お体の方は?」
「健康そのものだ。君がいなかったからと言って、私が不摂生をするような人間に見えるかね?」
「まさか、教授はいつだって紳士です」
「そのとおりだ。よく分かっているではないか」
駅のホームを歩きつつ、二人はてきぱきと現状を確認する。
「……教授?」
「何だね」
だが、マーシャは不自然なことに気づいた。こんなことは、ロンディーグを出立する前のエルロイドには見られなかった行動だ。
「……教授?」
「だから何だね。しつこいぞ」
エルロイドは、苛立たしげに石畳をステッキで突く。
「どうしてこちらをご覧にならないのですか?」
マーシャは彼の方をじっと見る。
「ふん、何を言っている。理解不能だ」
マーシャの言葉通り、先程から妙にエルロイドはマーシャの方を見ようとしない。正確には、彼女の顔に視線が行こうとすると、あからさまに逸らすのだ。
「先程から、不自然に私から目を逸らすように見えるのですが…………」
だが、頑としてエルロイドは認めようとしない。
「君の気のせいだ。そうに決まっている」
そう言われては、マーシャとしても従わざるを得ない。何しろ、彼女はエルロイドの助手であり、侍女でもあるのだ。
「では、そういうことにしておきます」
さっさと疑問を打ち切って前を向くマーシャだが、そうすると逆にエルロイドの方が彼女の方をじっと見る。
「……本当に覚えていないのかね?」
ややあってから、エルロイドは彼にしては珍しく遠慮がちに尋ねてきた。だが、あまりにも断片的な疑問のため答えようがない。
「何をです?」
マーシャは逆に尋ねる。彼女の平然とした様子に、ますますエルロイドは遠慮した様子を見せたが、やがて思いきった様子で早口で聞いてきた。
「私が以前、君の夢の中に入ったときのことだ。君は目が覚めたら忘れてしまうと言ったが、本当だな? そうだな? そうに違いないな?」
どうやら、その時のことを未だにエルロイドは気にしていたようだ。彼女が夢の中でのやり取りを覚えているのかどうかが、出張先でもずっと頭の片隅から離れなかったらしい。
「さあ、どちらでしょうか。教授は、どちらだとお思いですか?」
彼の疑問に対する答えは、マーシャの思わせぶりな答えだった。
「なっ……!」
面白いようにエルロイドの顔色が変わる。
「では君は、あの時私がしでかしたことを覚えているのだな。そうなんだな?」
「しでかした? 何をです?」
「今の君に教える必要などない!」
相当焦った様子で、エルロイドはステッキを手から取り落とす。
「とにかく、どうなんだ!? はっきりしたまえ!」
「ふふっ。何のことでしょうか。記憶にあるようなないような――――」
花がほころぶように笑いながら、マーシャは足早にその場を後にする。
「待て! 待ちたまえ!」
大あわてでステッキを拾い上げ、エルロイドは彼女の後を追う。
「マーシャ、君は私の侍女であり助手でありながら私をからかうつもりかね! 待つんだ! まずは立ち止まって話を……!」
二人の通った後を、小さな妖精たちが楽しそうに飛び去っていく。それは人の夢に住まう妖精だ。
――こうして、二人の歩む道は現実でも寄り添っていく。その道が分かたれず一つに重なるのは、もう少し先の話のようだが。
◆◇◆◇◆◇
(おわり)
エルロイド教授の妖精的事件簿 高田正人 @Snakecharmer
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