16・胡蝶の夢 と 思わぬ里帰り の 話(後編)
16-1
◆◇◆◇◆◇
「また即答か」
「はい」
影ノ館の一室で、マーシャはアーリェンと向き合う。ここが夢か現かは分からない。その両方なのかもしれない。元より彼女の目の前にいるのは、寓話生命体である妖精の王だ。
「……バドリオンか誰かが、貴様に余計なことを教えたのか?」
「いいえ」
だが、たとえそうであってもはっきりさせておかねばならないことがある。
「不可解だな。人間とは過去を積み重ねて自らを形作るもの。寓話として位置し、常に変わらず刹那であり続ける我らと異なることは知っている。ならばなぜ、貴様は自らの過去が空白でありながらそこまで悠然としていられる?」
疑問を投げかけるアーリェンに対し、マーシャはほほ笑む。
「なぜ笑う?」
「アーリェン様は常にすべてをご存じのようなお顔でしたが、同時にひどく退屈そうでした。子供心に、まるで死人のようだと思ったことだってあります」
「ここは影ノ館。集うのは影と死に近き者たちだ」
「ですが、今のアーリェン様はまるで少年のように活き活きしていらっしゃいます。未知とはいつだって、殿方の心を沸き立たせるのですね」
「見てきたように語るのだな」
アーリェンの言葉に、力強くマーシャはうなずく。
「いつも、見ていましたから。ここを離れ、ロンディーグで働いていた間、ずっと」
それはマーシャにとって、決して忘れられない事実だ。今も目を閉じれば、ありありと思い描ける光景である。
「ご質問にお答えしましょう。今の私には、帰るべき場所があるからです」
◆◇◆◇◆◇
「な、なぜ私がこのようなことを…………」
その頃、エルロイドはマーシャの眠るベッドの脇で、忙しく立ったりひざまずいたりを繰り返していた。しかも、密室であるにもかかわらず周囲をやたらと見回しているため、落ち着かないことおびただしい。
「マーシャ! 助手でありながら私を放り出して熟睡している君が悪いのだからな!」
エルロイドが唐突に叫ぶものの、やはり仰向けに眠ったままマーシャは身動き一つしない。血色がよいのが唯一の救いだ。彼女の体勢は一歩間違えると、柩の中で永劫の眠りについた死人という、縁起でもないものを連想してしまう。
「……いや、悪いのは私だ」
立ち上がったのもつかの間、すぐに彼は落ち込んだ様子でひざまずく。
今のエルロイドに、マーシャの眠りを責める気はない。いや、余裕はない。何しろ、彼女がこうやって眠ったまま起きてこないのは、ほかでもないエルロイドの紳士らしからぬ行動が原因だったのだから。
「君を起こすのは、君をこき使うためではない。君を働かせるためでもない」
そう呟きつつ、彼は遠慮がちに毛布と寝台の間に手を入れる。
「――君に、目を覚ましてもらいたいだけだ」
エルロイドは、そっと毛布の中から自分の手を抜いた。その手が握っているのは、完全に弛緩したマーシャの片手だ。
「そのためなら、私は――――」
彼はその白い手を穴の開くほど見つめる。それなりに家事や仕事をしている手だが、不思議と荒れているようには見えないきれいな手だ。
自分は何をしているのだろう。エルロイドの中の理性的かつ保守的な部分が警鐘を鳴らしている。それは迷信の産物であり、愚かな俗習且つ下らない童話の真似である、と。しかし、彼は意図してその警告に耳を貸さず、徹底的に無視を決め込む。実に理知的ではなく、紳士的ではなく、さらには文明的ではないと普段の彼ならば批判するだろう。
たとえ自己嫌悪にかられようとも、エルロイドは一縷の望みに賭けたかった。マーシャを目覚めさせる方法として、思いつくことはどのようなことであろうとも試したかった。一人の人間にここまで入れ込むことが、この偏屈な教授の人生で始めてであることに、今の彼は気づいていない。
「マーシャ…………」
――そっと、彼はその手の甲に口を付けた。
◆◇◆◇◆◇
「私はロンディーグで、ヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授の助手をしております。ですから、ここに戻るわけにはいきません」
高らかに、マーシャは妖精王アルヌェンに対してそう宣言した。曖昧な現と夢の間で、人間と妖精、生と死、光と影の交錯する影ノ館で、その言葉は何よりも己を決定づけ、正しくその有り様を定める誓いの言葉だ。
「そして、だからこそ今の私に消された過去は重すぎます」
アーリェンは右目を眇める。
「必要ない、とは言わないのだな」
「アーリェン様が真実を隠すのは、それなりの理由があってのこと。助手として多忙を極めながら、同時に自分の過去を振り返るのは少々手にあまります。時が来れば、いずれ自ずから明らかになるでしょう」
「なぜそう言える?」
そう問われ、マーシャは笑みを浮かべる。
「アーリェン様が、私にお教えしたい顔をしていらっしゃいますから。秘密を黙っているのはお辛いでしょう?」
何ともちゃっかりした彼女の言葉に、しばしアーリェンは呆れた様子だった。
「……貴様の口の達者さは、奴にそっくりだ」
ややあって、彼は軽く宙を仰ぎつつそんな事を言う。
マーシャはあえて、その「奴」が誰なのかを尋ねない。ただ、アーリェンの口調には、まるで悪友かはた迷惑な旧友を呼ぶかのような親しさが見え隠れしている。
「お前がそこまで入れ込むとは、新しい主人は相当な聖人君子のようだな」
「まさか。その逆ですよ」
表情一つ変えずにマーシャはそう言うが、逆にアーリェンは驚く。
「逆だと?」
「とんでもない方です。強引で、わがままで、我が道を行く人で、人の迷惑を顧みず、研究さえできればそれでいいような、まるで大きな子供のような人ですよ」
マーシャはなぜそこまで主人をけなしつつ、それでいて慕うのか、アーリェンには理解できないようだ。
「自分の主人をそこまでけなすとはな。ならばなぜ貴様はそんな奴に義理立てする?」
「あの方は、私を必要としていらっしゃるからです。私と、私のこの目を」
マーシャは、おもむろに自分の左目を指差す。
「ほかでもないアーリェン様の授けた、この目を」
あやふやな記憶。マーシャの記憶は、どれだけ遡ってもここ影ノ館から始まる。それ以前を知らず、それに疑問を抱くことさえなかった。自分はここに引き取られた、と信じてきた。
その曖昧な記憶の始まりから、彼女の左目はこの色だった。この世のものではない妖精を見てしまう目。同僚は皆、その目は妖精王の付けた徴だ、と言ったものだ。
「それはお前にとって祝福であり、呪いであり、烙印となり、聖痕となる。どう転ぶか分からんぞ」
神話や伝承、そして妖精王は語る。ヒトを超えた力は救いと滅びの両方をもたらす、と。
「どのようなものであろうとも、あの方ならばきっと人々の役に立つものに変えて下さるでしょう。私は信じています」
「たいした信頼だな」
「ずっと、側で見てきましたから」
そう、マーシャ・ダニスレートはずっと見てきた。あのはた迷惑な教授が、自らの破天荒な道のりの果てに、多くの人々を導く里程標を築こうとしている後ろ姿を、ずっと。
それは、何ともドタバタとした、とんでもない日々だ。トラブルが日常茶飯事の日々と言ってもいいかもしれない。ここ影ノ館の静けさとは対極にある毎日。だが、それはマーシャにとって、とても居心地のよい喧噪でもある。あの紳士と共に歩む日々は、不意に迷い込んだ懐かしき職場よりもまばゆく輝いている。
◆◇◆◇◆◇
「――――ならば、立ち去るがいい」
しばらくの沈黙の後、深いため息と共にアーリェンはそう言った。妖精の王は、ただ一人の人間の思いを変えることを諦めたのだ。
「元より、貴様を影ノ国に戻す気はない。ここは今、危難に見舞われている。貴様のような奴がいるとかえって邪魔だ」
果たしてその言葉がどこまで本当なのか、マーシャは分からない。
「アーリェン様、でしたら……」
「人間如きの気遣いは無用。これは妖精の問題だ」
助力を願い出ようとしたマーシャの言葉を、彼は切って捨てる。あるいは、最初に彼が妖精郷の危難を口にしたら、マーシャはここに残ることを一考したかもしれない。だとすれば、やはり初めからアーリェンはマーシャを手元に戻すつもりがなかったのだろうか。
「そもそもこれは泡沫の夢。すべからく夢は覚め、そして覚めてしまえば夢は忘れるものだ」
アーリェンはマーシャの前を横切り、自室のドアを開ける。その先に廊下はなく、真っ暗闇しかない。だがそれは恐ろしく異質なものではない。一日働いた充足感と共に部屋の照明を消したときに現れる闇のような、温かさと穏やかさに満ちている。
「さあ、行け。貴様を必要としている者が待っているぞ」
引き寄せられるかのようにして、マーシャの体はドアの向こうへと吸い込まれていく。ろくに別れの言葉さえ、告げられないまま。
「因果が巡るのならば再び会おう、マーシャ・ダニスレート。いや――」
アーリェンの口が動くのが見えたが、マーシャはその続きを聞き取ることはかなわなかった。
◆◇◆◇◆◇
「アーリェン様、よろしかったのですか?」
マーシャがいなくなってから、入室したバドリオンが尋ねる。
「一度地に落ちた菓子を拾い上げて口に運ぶ趣味はない」
アーリェンの返事はそっけない。だが、彼は彼なりに再会を楽しんでいた。
「でも、まさかこんな形でマーシャちゃんに会うなんて思いもよりませんでした」
サーヴァニの言葉にも同意できる。
「夢を辿って幼くなって来るとはな。奴にとっては、一夜の夢の出来事だろう」
彼女にとってコールウォーンの日々は、幼い日の思い出になったようだ。今の彼女はロンディーグにいる。そしてそここそが彼女の居場所になったのだと、アーリェンははっきりと理解した。
「ゼネディカ、貴様の孫はずいぶん面白く育っているぞ」
彼は小声でそう呟くのだった。
◆◇◆◇◆◇
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