15-2



 ◆◇◆◇◆◇



「ふあぁ……眠い」


 極めて矛盾した表現だが、夢の中でマーシャは目を覚ました。ここ数日ずっと続いている、眠りの中で起きるという独特の感覚が五感を苛立たせる。正直に言えば、不愉快と表現してもいい感覚だ。この感覚に平然と慣れ親しみ、あまつさえ率先して明晰な夢を活用しようとするエルロイドの神経は、明らかに異常である。


「あ……そうだっけ。教授に呼ばれて…………」


 夢の中で、マーシャはベッドから起き上がる。夜眠ったと思ったら、すぐさま夢の中で目を覚ます。こんな生活を続けていれば、熟睡した感覚など皆無だ。


「もう少し寝ていたいけど……。教授がお待ちだし…………」


 もごもごと呟きつつ、マーシャは寝間着から着替える。


 寝ぼけ眼をこすりつつも、何とかマーシャは身支度を調えた。これから不安定な経路を通って、エルロイドの夢へとお邪魔しなくてはいけない。ひっきりなしに訴えかける睡眠欲を責任感からねじ伏せ、マーシャは自室のドアを開けた。だが、その先にあるのはまた自室だった。


「え?」


 マーシャの両目は、ベッドで寝ている自分をはっきりと見た。



 ◆◇◆◇◆◇



 吹き抜ける風に、マーシャは目を細めた。照りつける爽やかな陽光が眩しい。顔を上げると、中天に輝く太陽。遠くには森。辺りはのどかな牧草地が広がっている。綿のような羊の群れ。記憶が蘇ってくる。大事な過去なのに、なぜかろくに顧みることのなかった記憶が。


「ここは……?」


 ここはコールウォーン。そのはずれにある「呼びかけの丘」だ。


「早く戻らないと……。旦那様を待たせちゃっている……」


 マーシャは牧草地に背を向け、細い道に沿って丘を登り始めた。古来より現世と妖精郷の境目とされる場所に、一軒の館が人知れず建っている。マーシャは何の疑いもなく、そこへと向かっていた。そして、いつの間にか彼女の背格好は縮み、十代の初め程度の年齢にまで戻っているのだった。



 ◆◇◆◇◆◇



 そのころ、いつまで経っても姿を現さないマーシャに、エルロイドがしびれを切らしていた。他人の夢と自分の夢とを結ぶ細くて不可解な経路。マーシャ曰く「雲の上を流れる糖蜜の道」を平然と渡りきり、彼はマーシャの夢の入り口に来ている。そこでエルロイドを出迎えたのは、ロンディーグにある自分の屋敷だった。


「それにしても……まるでおとぎ話だな」


 だが、それは単なるエルロイド邸ではない。屋敷すべて、すなわち門扉から庭から外壁から屋根から煙突に至るまで、刺々しく黒いイバラがびっしりと覆っているのだ。太さは最大のところで人間の胴体ほどもある。細いところでも腕ほどもあるのだ。それが屋敷を覆い尽くし、誰も入れないようにしている。


「さしずめ私は救いの手を差し伸べる王子か? 心底馬鹿馬鹿しい」


 エルロイドは自己嫌悪にかられたのか、苦虫を噛み潰したような顔をする。確かにこれは有名なおとぎ話、『イバラの森の眠り姫』のパロディだ。物語の中で姫は百年の眠りにつき、城はイバラで覆われる。ある日やって来る王子が、イバラを切り開き姫を助け出すのだ。


 だが、ここにいるのは王子ではない。恐らくマーシャは屋敷の中にいる。そして中に入ろうと画策しているのは、不可能を理不尽で踏破し、無理が通れば道理が引っ込むを体現するヘンリッジ・サイニング・エルロイド教授なのである。


「小賢しい。私を阻もうとしてもそうはいかんぞ」


 エルロイドはそう呟きつつ、周囲を改めて見回すのだった。



 ◆◇◆◇◆◇



「バドリオンさん! それにサーヴァニさん!」


 館の入り口で、マーシャは同じくここで働いている二人と出くわした。


「……おや、これはこれは」


 バドリオンと呼ばれた白髪白髯の執事は、一瞬驚いた顔をしたもののすぐにいつもの穏やかな顔に戻る。


「えっ? ええっ!?」


 だが、もう一人はそうではなかった。


「マーシャちゃん!? なんでです?」


 光耀王国出身の褐色の肌をした長身の女性は、目を見開いて露骨に驚きを表現する。


「マーシャさんではないですか」

「ごめんなさい、遅くなっちゃって」


 バドリオンの言葉に、ぺこりと幼いマーシャは頭を下げた。


「どうしてここに来たんですか? しかも、その格好は……」


 サーヴァニがさらに彼女に問い尋ねる。


「え? その格好……?」


 マーシャはきょとんとする。サーヴァニの質問が心底理解できない。


「旦那様……怒ってますよね?」


 しかし、彼女にはサーヴァニの奇妙な質問よりも気掛かりなことがある。自分は館の主に用事を仰せつかっていたのに、放り出して今まで遊んでいた。マーシャはそう思い込んでいた。


「そうですね……」


 否定も肯定もせず、バドリオンはしばらく白い顎髭を撫でつつ考え込む。


「実際に、会いに行ってみるのはいかがでしょうか?」

「……バドリオンさんも怒ってます?」

「怒ってはいませんよ。けれども、少々困惑しています」

「困惑?」


 マーシャは首を傾げた。謹厳実直を地で行く彼にも、困惑することがあるのだろうか。


「ええ、当然です! だってマーシャちゃんは……」


 さらに言いかけたサーヴァニを、バドリオンは制する。


「まあまあ、サーヴァニ。詳しいことは、旦那様がお決めになるでしょう」

「は、はい。そうですね……」


 二人の様子にややマーシャはいぶかしげな顔をしたが、それ以上関心はなかった。


「まあいいけど。私、旦那様に会ってきます!」



 ◆◇◆◇◆◇



「マーシャ! マーシャではないですか!」


 館に足を踏み入れた幼いマーシャだったが、速効で出くわしたのは見るからに厳しそうな老齢の侍女だった。


「うわ……ビルケットさんだ」

「何か言いましたか、マーシャ」


 とっさに柱の陰に隠れようするマーシャを、ビルケットと呼ばれた侍女は一瞬で見つけて近づく。彼女はこの館で働く侍女たちの長だ。


「なんでもありませんっ」


 逃げ隠れしてもお説教されるだけなのは骨身に染みているため、マーシャは大人しく柱の影から出てくる。


「どうしてここに? それにその格好は何ですか?」


 ビルケットの疑問に、マーシャはまたかと思う。


「……みんな同じこと聞くよね。どうして?」


 そう言っても彼女の表情が変わらないため、マーシャは頭を下げる。


「すみません。ちょっと外で遊んでました……」


 自分でそう言うと、改めてマーシャは外見に自信がなくなる。靴が土で汚れていたり、スカートの裾に干し草でもつけていると、ビルケットからきつく叱られていたからだ。


「おかしくありませんか?」


 その場でくるりと回ってみると、とりあえずビルケットはうなずく。


「一応、身だしなみは合格です」


 気難しく頑固そのものといった彼女の表情が、少しだけ緩む。


「それよりも……本当にマーシャなのですか?」

「そうですよ。さっきからバドリオンさんもサーヴァニさんも変なこと言ってばっかりです。みんな私を忘れちゃったんですか?」


 マーシャがそう言うと、呆れたようにビルケットは息を吐く。


「そんなことありませんよ。あなたのようなおてんば娘を、この館の住人が忘れるはずなどありません。旦那様にご迷惑をおかけした日々、あなたも忘れてはいないでしょうね」

「う~、は、反省してます……」


 そう言われると、マーシャの脳裏に昔日の記憶が次々と蘇ってくる。大抵は自分が何かドジを踏んで、それをビルケットに怒られている絵柄だ。


 それなのに。


「本当に、あなたがいなくなってから、この館は灯が消えたようでした……」

「ビ、ビルケットさん?」


 マーシャにとって厳しく怖い存在でしかなかったビルケットが、そっと彼女を抱きしめる。


「どのような因果の乱れでしょうね? まさか幼いあなたに再び会えるなんて」


 意味が分からず、マーシャは彼女の手の中で目を白黒させるだけだ。


「でも、歪みは必ず正されるもの」


 けれども、すぐにビルケットはマーシャを解放する。すぐに彼女の顔は、マーシャが見慣れた厳しい侍女の長へと戻る。


「さあ、旦那様に挨拶してきなさい」


 一度うなずくと、マーシャは二階へ登る階段に足をのせる。


「それと……」

「はい?」


 振り返ると、ビルケットはかすかに笑っていた。


「お帰りなさい、マーシャ」



 ◆◇◆◇◆◇



「入れ」


 館の奥にある一室のドアをノックすると、すぐに返事があった。


「失礼します……」


 おっかなびっくり幼いマーシャが入ると、そこに館の主人はいた。


「マーシャ……?」


 本棚に向かっていた彼の手から、分厚い大冊が滑り落ちて床に音を立てる。


「あの……遅れて大変申し訳ありませんっ。反省していますっ」


 とにかく、マーシャは頭を下げて謝る。


「どうして、ここに来たのだ」

「え?」


 だが、返ってきた返事は思いもよらないものだった。


「貴様は国元に帰らせたはず……いや、そもそもその姿形は……」

「だ、旦那様? 何を言ってるんですか?」


 今日の館の住人は皆おかしい。全員、マーシャのことを見るや否や驚くのだ。首を傾げるマーシャに、足早に館の主人は近づく。


「いや、待て」


 しばらく彼女をじっと見てから、彼はうなずく。


「なるほど。夢を通ってここに来たのか。現世の中で一番妖精郷に近い場所とは、人の見る夢の中。過去の記憶を辿り、ここに行き着いたようだな」


 その細長い指が開かれ、マーシャの顔に彼の手が触れる。右目を手の平で塞ぐような形だ。


「さあ、目を覚ませ。半分だけ、その目を開くがいい」


 彼の言葉が呼び水となって、マーシャの中で分離していた過去と現在の記憶が混ざり合う。


「アーリェン様……。お久しぶりです」


 姿形も現在のそれに戻ったマーシャは、かつての主人に改めて挨拶した。


「息災にしているようだな、マーシャ・ダニスレート」


 白皙の肌に赤い瞳を持つ館の主は、怖気を振るうような笑みでもって彼女の挨拶に答えた。



 ◆◇◆◇◆◇



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