15・胡蝶の夢 と 思わぬ里帰り の 話(前編)
15-1
◆◇◆◇◆◇
そこはひどく奇妙な場所だった。時折四方八方からかすかな人の声が聞こえたり、何もない空間にぼんやりと数式らしきものが漂っている。色彩はやや単調で暗く、まるで一枚の写真の中にいるかのようだ。人の声はどれもこれも意味不明の囁きでしかなく、耳を澄まそうとしてもすぐに消えてしまう。マーシャが今いるのは、豪華な応接室だ。
向かいの椅子に腰掛けたエルロイドが指を鳴らすと、側のテーブルにティーセットが瞬時に出現する。
「教授、すっかりこの場所に適応していらっしゃいますね」
マーシャの言葉に、彼が唾棄する魔法のような妙技を見せたエルロイドは悠然としている。
「これは私の夢だ。私が私の夢に馴染むのは当然に決まっている。君は違うのかね?」
「歩いてこちらに来るだけで一苦労ですよ。雲の上で流れる糖蜜の道を歩くような気分です」
「そうか、難儀なものだな。だが、得難い経験だろう?」
そう、ここはどうやらエルロイドの夢の中だ。マーシャはそこに招待された身らしい。二日前から、マーシャが就寝するとその精神らしきものが体から離れ、エルロイドの夢の中に入っていくのだ。
「古代のシャーマンや霊媒師などは、恐らく他者との共感能力を有する人種だったのだろう。自他を隔てる精神の壁が薄く、他者の記憶、感情、想像、思考を自分のことのように感じ取ることができていたのだ。そして今、私たちもそれに類する体験ができている。何という幸運か!」
ひとしきり感動してから、エルロイドはマーシャの方を上機嫌で見る。
「マーシャ、君はそう思わないのか?」
「他人の頭の中にお邪魔するのは、どうも居心地が悪くて……。本当によろしいのですか?」
だが、他人の夢の中、ひいては頭の中にいるということは、その人の記憶、つまり多くの秘密に一番近い場所にいることだ。うっかり彼の秘密をのぞき見てしまうのではと思うと、マーシャはどうしても萎縮してしまう。
「構わん。ことさら君に隠さねばならないことなど、優秀な私にはない。仮にあったとしても、私は自分の情報管理はきちんとできている。現実の君のように、ここでもリラックスしたまえ」
「……それでは、お言葉に甘えて」
そこまで言われて、ようやくマーシャは少し肩の力を抜く。エルロイドの私室に招待されただけだ、と自分に言い聞かせつつ。
◆◇◆◇◆◇
出張中のエルロイドが夢の中にマーシャを招くのは、単に茶会を開くためではない。彼はマーシャに、向こうで集めた妖精関連の情報や考察を話して聞かせていたのだ。本来それらは、彼がロンディーグに帰ってきてから行うことである。時間の節約とばかりに、彼は夢の中でその作業を前倒ししていた。付き合わされるマーシャはいい迷惑である。
「まさか、君と共にここを散歩する日が来るとはな」
一通り作業を終え、気分転換とばかりにエルロイドはマーシャと散歩に出ていた。周囲はロンディーグほどではないものの、発展した町のように見える。
「現実よりも先に、夢の中で訪れるとは思いませんでした」
「よい町だろう? 私の生まれ故郷、ストゥルハーネンは」
エルロイドは平然とそう言う。ここは彼の夢の中である。そして同時に、ここは彼の郷里の町、ストゥルハーネンを再現した場所でもあるらしい。マーシャはそこを訪れたことがないので比べようがないが、彼の言葉を信じればおおよそ現実のストゥルハーネンと大差ないそうだ。
「でも、誰もいませんね」
マーシャは近くのパブを覗いてみる。
「さすがの私でも、自分以外の人間を勝手に脳内に住まわせるほど寛大ではない。そもそも私が他人の何を知っている? 外見、氏名、年齢、職業、家族構成。そのようなものをいくら知ったところで、他者の個性を理解することなどできんよ」
無人の店内を眺めているマーシャを横目に、エルロイドはステッキを振りつつ講義を始めた。
「はた目から見た聖人が実はとんでもない悪党であり、逆に札付きの悪人が実は虫も殺さぬ淑女である可能性だって皆無ではない。もっとも、善悪の両極端を単純に結びつけること自体、陳腐で使い古された手段だがな」
要するに、エルロイドは自分の記憶から故郷を再現はできたが、そこの住民までは再現する気はなかったらしい。
「ふむ、今日の私はいつになく多弁のようだ。やはり、夢の中とはいえ君に会えるのは嬉しいものだな」
ひとしきり喋り終えてから、彼は長広舌に律儀に付き合ったマーシャに対し、珍しくはにかんだような笑みを見せた。おまけに、「君に会えるのは嬉しい」ときたものだ。出張でしばらく別れていたので、彼女のありがたみを実感したらしい。
「私は少し疲れますけどね。朝起きてもなんだか寝た気がしなくて疲労がたまりそうです」
しかし、エルロイドの暴走気味の知性に夢の中でも付き合わされている女性は、しれっとそんなことを言う。彼を喜ばせることよりも、毎晩寝てからもなお仕事に駆り出される実状を訴えることを優先したらしい。
「それを聞いて安心したよ」
「どうしてです?」
「もしかすると、君もまた私の夢が作り出した存在ではないかと、少々疑っていたところだ。妖精の仕業であるとは言え、他者と夢を通じて交感するなど神秘の領域だろう?」
エルロイドは彼女のつれない言葉にも気分を害さず、くるりとステッキを回すとマーシャをまっすぐに見つめる。
「マーシャ・ダニスレート、君は果たして本物のマーシャかね?」
彼の鋭い眼差しが、怖じることなくマーシャに向けられる。かすかに、マーシャはたじろいだ。
「わ、私は……」
自己の真実性に疑問を投げかけられたからではない。思いのほか、エルロイドのその目は怜悧で、刃物のような硬質さを帯びていたからだ。その目には見覚えがある。初めて彼と出会った日。警察で初めてマーシャを見た、あの学者の目だ。
「ああ、君は本物だ。私には分かる」
しかし、すぐに彼の双眸には温かさが戻る。
「先程の問いかけに対し、私にとって都合のよい返答をしない君は本物だ」
「どういうことでしょう?」
「私が君に会えて嬉しいと言えば、普通ならば『私も同感です』と答えるものなのだ。しかし君ははっきりと自分の意見を述べた。私の期待などお構いなしに」
一人で納得しているエルロイドに、マーシャは首を傾げる。
「……誉められているんでしょうか。それとも遠回しに非難されているんでしょうか?」
だが、エルロイドは答えない。機嫌良く笑いながら、彼はさらに付け加える。
「それに、君は明らかに私の夢の外からやって来た、生身の人間だ。私には分かる」
「どうして分かるんです?」
「優秀な私にとっては造作もないことだ。そうだろう?」
「比較対象がないので、私には何とも言えませんが」
マーシャの気のない返答にも、エルロイドが機嫌を損ねた様子はない。
「さあ、そろそろ戻ろう」
「はい、分かりました」
エルロイドに続こうとして、かすかにマーシャはよろめく。だが、それにエルロイドが気づくことはなかった。
◆◇◆◇◆◇
「えええぇーっ!?」
「そんなに驚くことかしら、キュイ」
次の日の朝。眠い目をこすりつつ、マーシャは食卓に着いた。夢の中でも現実と同じように働いたせいで、寝た気がしない。
「だって、だってだってだって、それはすごいことですよ!」
顔色の悪さを同僚のキュイに指摘され、マーシャは一通り近況を話したのだが、返ってきた反応がこれだ。
「考えてみればそうかもね。他人の夢を行き来できるなんて、普通じゃ考えられないことよ」
夢を通じてエルロイドとやり取りしているという話を聞いても、キュイは頭ごなしに否定はしない。だが、驚くのも当然だろうとマーシャは思う。
「そうじゃないです、そうじゃないんですよー!」
しかし、彼女は大げさな動作でマーシャの予想を否定する。
「そんなプライベートな場所に招待するくらい、旦那様はマーシャさんのことを信頼していらっしゃるんですよ。ええ、すごいです!」
力強く両手の拳を握りしめて、キュイは文字通り力説する。
「そういうものかしら?」
マーシャは実感が沸かない。そもそもエルロイドが夢の中に自分を招待したのは、単に時間を無駄にしたくないためだろう。
「考えてみて下さいよ。マーシャさんは、誰か知らない人に頭の中を覗かれたくないでしょ? だって、もしかしたら勝手に恥ずかしい思い出を見られちゃうかもしれないんですよ?」
「そうね。それだけは遠慮しておきたいわ」
キュイの言葉に対し、マーシャは同意する。自分の記憶を他人に覗かれるなど、考えただけでぞっとする出来事だ。
「なのに旦那様は、マーシャさんを自分の夢にお招きしているんでしょ。これが信頼されてなくて何だって言うんです? すごいことですよこれは!」
キュイは当然のような顔をしてそう言うが、今一歩マーシャの心には響かない。何しろ、エルロイドは文字通りの変人である。信頼などという殊勝な言葉が脳内にあるのかすら疑わしい。
「じゃあ、私も逆に招待してみようかしら」
「むむ、旦那様の信頼に応えようっていうんですね。健気ですねえ、マーシャさん。微力ながら応援します! しちゃいます!」
何気なくマーシャはそう言ったのだが、キュイの琴線に触れたらしくさらに彼女は盛り上がっている。
「別に、教授は私のことをことさら信用しているわけじゃないわ」
冷めた口調でマーシャは自分の考えを口にする。
「教授は、自分のことを完全にコントロールできているって自信があるから、私を招いたのよ。それに、とにかく話をすることで考えをまとめたいみたい」
「そうかもしれませんけど……」
キュイはやや不満そうだったが、反論することはなかった。何しろ、とにかくマーシャが眠そうだったからだ。
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