12-2
◆◇◆◇◆◇
「――マーシャさん、怒ってます?」
エルロイドが一方的にマーシャとの別行動を勧告した後。黙々と掃除をする彼女に対し、恐る恐るといった感じで侍女のキュイが尋ねる。
「いいえ」
キュイの方を向くマーシャは、一見すると普段と何ら変わりない。
「悪いのは教授のご期待に添えなかった私ですので」
だが、明らかにその身にまとう空気は冷たかった。
「うぅ……。どう見ても怒ってるんですけど」
「ですから、私は少しも怒っていませんので」
そう断言されてしまうと、キュイにとってはとりつく島もない。
「いや、その……」
続いて、彼女の後ろからフォローを入れたのは、エルロイドの執事であるシディである。
「旦那様の執事のオレが言うのも何だけどさ。…………気にするなって」
主人を常に立てるシディだが、今回ばかりはマーシャに同情していた。さすがに、エルロイドの怒りが理不尽だと思っているらしい。
「私は気にしていませんので」
それに対し、マーシャは短く答えるときびすを返した。
「皆さん、戻りますよ」
「はーい」
「待ってー」
「行くよー」
彼女の後を、騒動の元凶となった妖精たちがちょこちょことついていく。
◆◇◆◇◆◇
一方、マーシャを自宅に置いてきぼりにし、一人エルロイドはドランフォート大学の研究室で椅子に腰掛けていた。
「……ふん、実に静かだ」
磨かれた窓から青空を眺めつつ、彼は一人呟く。
「静かなのはよい。心が落ち着く」
返答のない完全なる沈黙に、エルロイドは満足げに目を細めた。
「これなら仕事もはかどるに違いない」
――初日である。
◆◇◆◇◆◇
――二日目。
「まったく、本来こうあるべきだったのだ」
書庫から持ち出した大冊を机の上に並べつつ、エルロイドは充実しきった表情でそんな言葉を口にする。
「私としたことが下らないことに時間を浪費していた」
今のエルロイドにとって、マーシャと取り巻きの妖精のいない空間は大変居心地がよいらしい。
「今から遅れを取り戻そう」
◆◇◆◇◆◇
――三日目。
「ふふん、素晴らしい成果だ」
エルロイドは仕事の手を休め、午後のティータイムを満喫している。
「こうしてみると、大学も捨てたものではないな」
誰にも邪魔されることのない環境下で、彼の集中力は驚異的な持続力を見せていた。
「何より、我ながら自分の才知に驚かされる」
エルロイドが自画自賛するのも無理はないようだ。
◆◇◆◇◆◇
――四日目。
「おや、シディか」
階下の食堂で朝食を済ませ、仕事にかかろうと机に向かったエルロイドの元を、執事のシディが訪れていた。
「ご不便はないかと、僭越ながら伺わせていただきました」
「いいや、大丈夫だ。わざわざ足を運ばせて時間を無駄にさせたな」
敬意のこもった態度を取るシディに、明朗快活な表情でエルロイドは応える。
「とんでもない。むしろ執事としての職務をしばらく果たしておりませんので、心苦しく思います」
もっとも、シディがそう言うのも当然である。エルロイドが急遽自宅から避難して既に四日目である。自宅に待機した執事としては、主人の身の回りが気にならないはずがない。
「気にする必要はない。降ってわいた休日と思って堪能するといい」
「そのようなわけにはいきません。いつ旦那様が戻られてもよいように、家人一同お待ちしております」
「そうか……」
家人一同、というシディの発言を聞き、かすかにエルロイドの表情が曇る。
「マー……」
「は?」
彼の声が小さく、慌ててシディが聞き直す。
「いや、何でもない」
だが、エルロイドは首を左右に振ってそれ以上の追求をさせなかった。
「何かご必要なものがございましたら、すぐに用立てますが?」
「ああ、その点においては大丈夫だ。何しろここにこもってからというもの、実に調子がいいのだよ」
たちまちエルロイドは上機嫌に戻る。
「というより、本来の私はこうあるべきだったのだ。いや、こうだった、と表現するべきだな」
彼はやおら立ち上がると、胸を張って歩き出す。
「資料に囲まれ、一人熟考し、霊感に身を任せ、洞察を書き記す。すべてが静寂と秩序の元に行われ、何一つ混沌はない。孤独とは孤高であり、故に充足している」
うっとりとした表情で、エルロイドは演説を続ける。今の自分が、彼には理想の姿なのだろう。優秀な識者、完璧な秀才、研究に打ち込む博識。それがエルロイドの描く究極の自画像である。
「つまり、今の私は大変満足している。安心したまえ、シディ」
シディの方を向く彼の顔は、どこまでも晴れやかだ。
「旦那様がそうお感じになるのでしたら、私としても何も申すことはありません。安心しました」
「うむ、そうだろう。そうだろうな、シディ」
一礼するシディに、鷹揚にエルロイドは何度も頷いてみせるのであった。
◆◇◆◇◆◇
――四日目の午後。
「少し疲れたのか?」
しかし、異変は突然起きてしまう。
「能率が落ちるのはよくない」
読んでいた『西部沼沢地における魔女信仰』を閉じ、エルロイドは眼鏡をはずす。どうにも本の内容が頭に入ってこない。
「休息も必要と言うことか……」
軽く伸びをする彼の顔には、まだ深刻さはない。
◆◇◆◇◆◇
――五日目。
「調子が出ないな」
研究室の床に靴音を立てながら、エルロイドは意味もなくその場をぐるぐると回る。初日から三日目までの調子のよさが、今ではすっかり失われていた。
「壁に突き当たるのが早すぎる」
彼の言葉通り、考察はすっかり袋小路に入り、まるっきり進展していないのだ。
「時間を無駄にはしたくないな」
◆◇◆◇◆◇
――六日目。
「何という効率の悪さだ…………」
とうとう、エルロイドは机に肘をつき、絶望したかのように顔を覆ってしまっていた。
「自分で自分が嫌になるのは久しぶりだな」
もはや、完膚無きまでに集中力は失われている。
「情けない、こんなことではいかん!」
彼は自分を叱咤するべく大声を上げるのだが、それは完全に無意味だった。
◆◇◆◇◆◇
――七日目。
「完全に袋小路だ……」
呆然とした様子で、エルロイドは椅子に座ったまま宙を仰ぐ。
「何なのだこれは!? いったいどのような妨害が行われている!」
かんしゃくを起こしてみても、研究室に反応する存在は皆無である。
「あまりにも理不尽だぞ、なあマーシャ」
横を向く彼の目は、何処か遠くを見ていた。
「マーシャ……」
◆◇◆◇◆◇
――七日目の午後。
「……シディか、よく来たな」
手持ちぶさたすぎて無意味に本棚を整理しているエルロイドの元を、シディが再び訪れていた。
「旦那様……。もしかして、お加減がよろしくないのでしょうか?」
数日会わなかっただけでやつれてしまった雰囲気の主人を見て、慌ててシディが駆け寄る。
「いや、そうではない」
「顔色が悪く見えますが、お風邪でも……」
「違うと言っている。私は壮健だ。肉体においては、だがな」
そう言うと、エルロイドは自嘲したように力なく笑う。
「お前が帰ってから、しばらく調子が悪くてな。昨日と今日にいたっては目も当てられない」
本を棚に戻す手を休め、改めて彼は自分の若き執事の方に向き直る。
「情けない。これでは初歩的な問題にすら頭を抱えてのたうち回る、この大学の劣等生どもと大差ないな。奴らのことが笑えんよ」
「そのようなことはありません。学生でありながら知性を磨くことを放棄した連中と、偉大な研究に身を捧げる旦那様との間では天と地ほどの開きがあります」
エルロイドの自己憐憫に対し、シディは否定の形で即答する。
「心情と立場においてはそうかもしれないな。だが、結果はどうだ?」
けれども、エルロイドはなおも首を振る。
「志や目標など、いくらでも美辞麗句でごまかせる。重要なのは結果だ。そして実際、総合して評価するならば、この一週間の仕事はさんさんたるものだ。順調なのは前半だけ。後半は目も当てられん。正真正銘の徒労、時間の無駄だったな」
「そのようなことは……」
「気遣い感謝する、シディ。だが、これが現実であり事実だ」
そう言われてしまうと、もはやシディに返す言葉はない。
「心中、お察しいたします」
頭を下げた自分の執事をしばらく眺めてから、エルロイドは口を開く。
「……シディ。マーシャはどうしている?」
「どうしている、と申しますと?」
「私はそのままの意味で言っているのだが」
「旦那様がおられるときと何も変わらず、侍女としての務めを果たしております」
「何も変わらず、か?」
「はい、そうですが」
「……ふん。まったくもって不愉快な話だ」
口ではそう言っているのだが、ようやくそれまでげっそりしていたエルロイドの顔に血色が戻ってくる。口調にもどことなく力が戻ってきた。
それを目にして、改めてシディは口を開いた。
「……旦那様、出過ぎた真似と重々承知しておりますが、一言申し上げさせていただきます」
主人の沈黙が先を促していると理解し、彼はさらに先を続けた。
「そろそろ、自宅に戻られた方がよろしいかと」
シディがこうして、エルロイドに何かしら提案することはあまりない。
「――シディ」
「無礼な発言、申し訳ありません」
即座に謝罪するシディを、エルロイドは手で止める。
「この私が、たかが自分にとって耳の痛い発言をされた程度で憤激する小人物だと思っているのかね? 私は効率を第一に求める人間だ。個人の感情や矜持など、それが時間を無駄にし効率を悪くするのならば、意味など何一つ見出さない」
「では……」
つい一週間前、研究対象である妖精に対して激昂した人物の物言いとしては少々首を傾げたくなるような発言だが、エルロイドは吹っ切れた様子でシディに対してうなずいた。
「ああ、そろそろ頃合いだ。帰ろうではないか。どうやら、私はやり残したことをきちんと終えなければ、調子を取り戻せないようだからな」
◆◇◆◇◆◇
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