02-3
◆◇◆◇◆◇
それからしばらく、マーシャはネズミ小人たちの言葉に耳を傾けていた。何でも、ここの靴屋の店主は幼い頃、かすかに妖精が見えていたらしい。それが分かったのは、小人の一人がネコに捕まって弄ばれているときに、まだ少年だった店主が小人を助け出したからだ。小人たちは恩返しをしたかったが、残念ながら少年は妖精がおぼろげにしか見えない。
「あのネコが捕まえたネズミ、何だか小人みたいな形だったな」
くらいの感覚だったのだろう。小人たちの言葉も聞き取ることはできない。時は流れ、すっかり少年は年を取り、今となっては稼業の靴作りも大分辛くなってきた。今こそかつての恩を返すときが来たとばかりに、小人たちは夜になると姿を現し、こうして売り物の靴を作っていたのだ。
「ふんふん、そんなことがあったんですか」
一通り小人たちが話し終えると、感心してマーシャはうなずいた。それまで異質で不気味で、人間の感性とは相容れないと思えてきた妖精だけど、中にはこうして可愛らしくて健気な種類もいるのが分かったからだ。
「ねえ、教授?」
「そのようだな」
幸い、エルロイドも興味深げにうなずいている。
だが、彼の興味はそれだけでは到底満たされなかった。エルロイドは続いて、トランクの中からピンセットとガラス瓶を取り出す。
「さて、続きは私の研究室でゆっくり聞くとしようか」
「ええっ? 連れて行くつもりなんですか?」
驚くマーシャに、エルロイドはさも当然といった顔で言い放つ。
「そうだ。実害がない以上、向こう側に放逐する必要はない。だが、ここまで妖精の実体に近づき、さらには会話までできているのだ。これを逃す手はないぞ」
エルロイドは白い手袋をはめ、顔にマスクをつけ、ガラス瓶のコルクを抜く。そして、あたかも犯罪現場から重要な証拠を採取する警吏のような動作で身構えた。
「さあ、マーシャ、しっかり逃げないように目を離さないでくれたまえよ。君の目で見つめられると、妖精たちは動きを封じられるらしい。まったく、サンプルの採取にはこれ以上ないくらいの逸材だよ、君は」
じりじりと近づくエルロイドに対し、再び小人たちは部屋の隅にまで逃げ出し、そこで目を見開いたままぶるぶると震えている。
「待って下さい。いくらなんでもそれは可哀想じゃないですか!?」
まるで実験用のハツカネズミかモルモットでも扱うかのような態度に、さすがのマーシャも自分が彼の助手であることを忘れて抗議する。それに、今ここで小人たちを連れて行ってしまっては、もう店主のために靴を作ることができなくなってしまう。
「君はなんだ? 人間だろう? そしてこの国の国民でもある。君はどちらの味方だ? 人間か? それとも妖精か?」
案の定、たちまちエルロイドは不機嫌な顔立ちになると、つけたばかりのマスクをずらしてマーシャに問いかける。
「両方です」
即答する彼女を、エルロイドは心底侮蔑した目つきで見ると吐き捨てる。
「下らん。○か×かの質問に両方で答える生徒がいるか。そんな答えは不合格だ」
「私は教授の助手ですけれども、教授の生徒さんではありません」
はっきりとマーシャがそう告げたときだ。ちょこちょこと赤い帽子をかぶった小人がマーシャの足元に近づくと、精一杯体を反らして彼女の方を見つめる。
「妖精女王の目を持つお方」
「はい、どうしました?」
その小人は、大きなつぶらな目を潤ませながら、こう言った。
「ワシらのことはお気になさらないで下され。御身が行けと命じられれば、ワシらはそれに従うまでです」
何と、小人たちはマーシャの言葉に従うと言ってきたのだ。自分から、エルロイドのサンプルになることを了承したに等しい。
「手っ取り早いな。さすがだマーシャ。さあ、さっさと命令しなさい」
これを聞き逃すエルロイドではない。嬉々として彼はマーシャを促す。恐らく彼の脳裏には、もう小人たちを瓶詰めにして大学の研究室の棚に飾る算段が付いているのだろう。あまりにもデリカシーがない上に自分の研究の都合しか考えない発言に、ついにマーシャは怒った。
「教授、そんなことをおっしゃって、恥ずかしくないんですか?」
強い口調ではっきりと言いつつ、マーシャはまともにエルロイドの目を見据える。
「な、なに?」
自分よりも小柄なマーシャにまともに迫られて、エルロイドはたじろいだ。二、三歩後じさる彼を見て、さらに勢いをつけてマーシャは言葉を続けた。
「私の権威にかこつけて、弱い妖精さんたちを無理強いして自分の研究の材料にするおつもりですか。まったく、見損ないました。もう知りません!」
口で言っていて、だんだん本気でマーシャは腹が立ってきた。自分を警吏から助け出したときは、本物の紳士に思えた彼なのに、今はどうだ。弱いもの虐めを自覚なく行っているようにしか見えない。
「何を言っている!」
ここにいたって、エルロイドが反撃を始めた。
「私は伊達や酔狂で妖精を研究しているわけではない。もちろん私自身が興味を抱いているのは事実だが――――とにかく、私の研究には女王陛下も関心を抱いておられるのだ。君は私に、陛下のご期待を裏切れと言うつもりかね!」
エルロイドは、さらに自分よりも位の高い方の権威を引き合いに出してきた。マーシャが助手となったのとほぼ同時に、そのことは彼から聞いている。エルロイドの妖精についての研究は、ほかでもないこの国の女王が目に留め、しかも賞賛の言葉を贈っているのだ。その事実が、エルロイドの研究への熱意をさらに燃え立たせているのは間違いない。
「そこです!」
「……なに?」
そのことを否定することなく、むしろマーシャは自分の論理の武装に加えた。
「では教授、逆にお聞きしますが、女王陛下はご自分の権力にものを言わせて、無理矢理教授に妖精について研究するよう強制なされたんですか?」
マーシャの質問を、エルロイドは鼻で笑って否定した。
「そんなわけがないだろう。畏れ多くも陛下は私の研究に目を通され、お褒めになって下さった。それだけで、私が陛下のためにこの脳髄に詰まった英知を一片たりとも残さず捧げようと思うのは当然だろう?」
「ならば教授。教授が今私に命じているのは、敬愛する女王陛下の行われたことと正反対ではないのですか?」
我が意を得たりとばかりに、さらにマーシャは畳みかける。
「私にこの左目の権力を使い、ここで一生懸命恩返ししている妖精たちの生活をねじ曲げるよう、強制なされているのではないでしょうか?」
「う、うむ…………」
そう言われて初めて、エルロイドは思い当たる節があったようだ。
売り言葉に買い言葉とばかりに水掛け論の応酬を行うのではなく、押し黙ってしまった。助手のマーシャとしても、エルロイドの研究を邪魔したいわけではない。ただ、彼があまりにも人道を無視したような行動を取るとき、それを留めたいと思うだけだ。妖精たちの恩返しを顧みず自分の研究材料にするなど、紳士らしからぬ態度だ。
「教授は聡明な方です。どうか、公平且つ公正な判断をお願いいたします」
そう言い終えてから、マーシャはぺこりと頭を下げる。彼女の目的は、エルロイドを論破することではない。単に思いとどまってもらいたいだけだ。
「ふん。君はこういう時だけはずいぶんと口が達者だな。私がそんな、心にもない世辞に判断が鈍るとでも、思っているのかね?」
「教授は聡明な方です。どうか、公平且つ公正な判断をお願いいたします」
直接彼の疑問には答えず、マーシャは再び同じ言葉を繰り返す。しばらく息詰まるような沈黙が二人の間に停滞したが、先に根負けしたのはエルロイドの方だった。
「――分かった。私もドランフォート大学教授である前に、栄えあるこの国の紳士だ」
エルロイドは手袋とマスクをはずし、ガラス瓶に蓋をするとピンセットと一緒にトランクの中にしまう。
「嫌がる相手に無理強いするのは、紳士的ではないからな。今回は、サンプルはなしとしよう」
「……教授! ありがとうございます!」
顔を輝かせて、マーシャは感謝する。やはりエルロイドは、紳士としてのプライドを失ってはいなかったのだ。
「勘違いするな、マーシャ。私は君の言葉にほだされたからではない。今回は、サンプルの必要性を感じなかっただけだ。それだけだ。いいな?」
マーシャのお礼の言葉に、エルロイドはさっと目を逸らす。照れ隠しのような、言い訳のような、何とも歯切れの悪い言葉が続く。
「はい、もちろんです」
マーシャはそれには追求せず、代わって小人たちの方を見る。
「よかったですね、あなたたち。教授は、あなたたちを首都に連れて行くことはやめるそうですよ。ここで、一生懸命靴作りのお手伝いをしてあげて下さいね」
マーシャの言葉に、六人の小人たちは躍り上がって喜びを露わにした。
「あ……ありがとうございます。このご恩は忘れません」
「本当に、本当にありがとうございます。御身はワシらの恩人じゃ!」
「そんな……おおげさですよ」
嬉しさのあまり本当にダンスを始めてしまった小人たちを目にして、ふとマーシャはあることを思いついた。
「あ、そうだ。ものは相談なんですけど…………」
◆◇◆◇◆◇
「まったく、君はつくづく食えない女性だな」
その日の午前中。駅への道を歩きながら、呆れたようにエルロイドは首を振った。
「教授のご親切への返礼ですよ」
対するマーシャは、何食わぬ顔をしている。
「教授も嬉しそうじゃないですか?」
「私を子供か何かと勘違いしていないかね。ものにつられて大局を見誤るほど、私は愚かではないつもりだが?」
もっともらしいことを言っているが、どことなくエルロイド自身も嬉しそうだ。
「はいはい、そういうことにしておきます」
しかし、そのことをマーシャはあれこれ言うつもりはない。ヘンリッジ・エルロイドは立派な紳士なのだから。そして紳士の足はぴかぴかに光る新品の靴、彼にぴったりの靴、妖精特製の靴で装われるべきなのだから。
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