冬ー七瀬由香里①

人の恋心というものはどうにも不思議で、理屈では説明しきれないほどに大きな力を秘めている。結ばれるべき恋人は運命の赤い糸で繋がれている、などというロマンチックな迷信に憧れたことのある人も少なくはないだろう。


しかし実際それが“視えて”しまう人間にとっては、そんなものロマンチックでもなんでもない。

糸は様々な色形をしていて、いつもそこら中に広がっているので有り難みなど全くないのだ。しかも卒業式にもなれば、最後に想いを伝えようとする人の気持ちの高ぶりを表現するかのように盛大に辺りを舞っているため、視界が非常に喧しい。

彼方此方でお祭り状態の糸に嘆息しつつ、胸元のコサージュを弄っていると、後ろから声をかけられた。

「由香里」

振り返れば、わたしと同じように胸元にコサージュをさした牧原紬が立っていた。

「今、いいかな」

そう言って少し緊張したような顔をする彼に、これから何を言われるのか予想出来てしまった。

「えぇ、大丈夫よ」

わたしたちのように糸が視える人間にも、視えない糸がある。それは自分に向けられた想いが紡いだ糸だ。

だから、少女マンガのように自分の運命の相手を見つけたりは出来ないようになっている。本当に大したことのない超能力である。

それでもわたしは別段鈍いわけでもないので、彼の想いには普通に気づいていた。紬のいいところは真っ直ぐな人柄だけど、真っ直ぐすぎる彼はとてもわかりやすい。

そしてそんな彼の気持ちに確信を持ったのは、後輩である少女が彼の糸を視ている顔を見た時だ。


彼女が“視える”のだと気づいたのは出会ってすぐのこと。自分以外の“視える”人に会ったのは初めてのことで、最初は少し驚いた。そしてそれ以上に驚いたのは、わたしが疎ましくしか思っていなかった糸を視ていた彼女の表情だ。

他人の恋を視ていた彼女は、わたしと同じものが視えているとは思えないほどに穏やかな顔をしていた。

だから、そこにあるのだろう紬の糸を見つめる彼女を見てすぐに気づいた。

この子は、彼の紡いだ糸に恋をしているのだと。

そして、わたしにはそれが視えないのが少し悔しかった。

彼が次に言葉を発すれば、今までの心地よかった距離感も全部終わってしまう。ずっと気づかないフリをして逃げていたツケで、わたしは大切な友人を失うのかもしれない。

そう思うと、紬の想いが恐ろしいもののように思えてきてしまって、少し申し訳ない気持ちになる。


どうして、わたしみたいな性格の悪い女を好きになんてなったの。


彼の言葉を待つ間、そんなことを考えて迂闊にも泣きそうになってしまう。彼の想いをそんな風にしか思えない自分こそ、他人から見れば恐ろしい化け物のような形をしているのかもしれない。

わたしがそんなことをぼんやり逡巡している間に気持ちの準備が整ったのか、紬は穏やかな表情で口を開いた。

「ずっと、由香里のことが好きだった」

出来る限りわたしに気を遣わせないようにと余分な言葉を削ぎ落としたのであろう“それ”は、思っていたよりもすんなりとわたしの中に溶け込んでくる。危惧していたような恐ろしいことは何一つ起こらない。

いつだってわたしのことを大切にしてくれた彼の言葉は、いつも通り優しかった。

その優しさに甘えて、曖昧な答えで誤魔化してしまいたい衝動に駆られるけれど、それではダメなのだ。このまま目の前の優しい友人の糸を弄んで、自分に都合のいいだけの関係を続けることは許されない。

ぎゅっと手を握りしめて、それを断ち切る。

「ごめんなさい。わたしは貴方をそういう風に好きにはなれない」

弱々しく掠れた声は、冷たい風の音に掻き消されることもなく紬の耳に届いたらしい。

そっか、と少しだけ寂しそうな顔をした紬の返事とともにどこかから聞こえてきた“ぷつん”という音は、きっと彼の糸が切れる音だ。

その瞬間、一瞬だけ、視界いっぱいに広がる美しい糸の幻影を見た気がした。

きらきらと銀糸のように輝くそれは、一体どれほど純粋な想いが紡いだものだったのだろうか。それを思うだけで、胸が張り裂けそうなほどぎゅっと痛みを主張する。

今まで自分に関係する糸は一切視せなかったくせに、断ち切ったものをわざわざ「お前が殺した想いだ」と言わんばかりに実感させるなんて、神様は悪趣味だ。

「どうして由香里が泣きそうな顔してるんだよ」

わたしの顔を覗き込んで心配そうにしている紬の声は優しくて暖かい。

この人は、本当にわたしのことを好きでいてくれたのだ。

あの子が恋をしてしまうくらい、美しくて純粋な彼の恋心。

その美しくて貴い恋を終わらせてしまったのは他でもないわたしなのに。

「ねぇ、紬。わたしを好きになってくれて、ありがとう」

それでも、美しい想いを紡ぐ貴方の恋が次こそは実りますようにと、我が儘なことを祈らずにはいられなかった。

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