夏ー牧原紬①
遠くから、蝉の鳴く声が聞こえてくる。
高校生活の三年間というものが存外あっけなく過ぎ去ってしまうものだと気づいたのはつい最近。クラスで運動部の奴らが高校生最後の夏だと部活について熱く語る姿をよく目にするようになって、初めて終わりが近づいてきているのだと実感した。
一年前までは蝉の声がもっと近くから直接耳に響く暑いグラウンドでのキツイ練習から早く引退したくて堪らなかったというのに、もう随分あの場所から遠くなってしまった。
だけど正直それをあまり辛いと思わなくなったのは、間違いなく彼女のお陰なのだろう。
「あら紬、遅かったのね」
青春の満ちるグラウンドを横目に通り過ぎたどり着いた部室のドアを開けると、珍しく先に来ていた彼女––七瀬由香里が悪戯っぽく笑う姿が目に入る。
「ちょっと進路指導室に寄ってたんだ」
俺たちももう受験生だしな、と言ってやると由香里は途端に渋い顔をして「紬までそんなこといわないでよ。部活を引退するまではまだ受験生じゃないわ」と往生際の悪い呟きを返し、そっぽを向く。ころころと表情と機嫌を変えていく姿はまるで子供のようだ。
「期末、あんまり良くなかったのか?」
「うーん、普通……だけど受験生ともなると普通のままじゃまずいじゃない?」
「そりゃそうだよな」
気の重くなる話題に二人して嘆息していると、部室のドアが開けられる。
「こんにちは」
「遅くなってすみません」
ひょっこりと顔を出したのは今年入部してきた一年生たち。
一つ下の代では入部希望者が現れなかった為、俺たちにとってはたった二人の大事な後輩たちだ。
「お疲れ様。何かあったの?」
念願の後輩が可愛くて仕方ないらしい由香里は途端に破顔して二人を労う。
先ほどまで駄々をこねていたとは思えない転身ぶりだ。
「浅加さんが友達の恋愛相談に乗ってて」
「だから江西田くんは先に行っててくれていいよって言ったのに」
入学から三ヶ月。クラスも同じらしい後輩たちはすっかり打ち解けたようで、いい意味でお互い遠慮がなくなっている。
「はいはい、別に遅れたからって怒ったりしないから喧嘩しない」
由香里の言葉に少し申し訳なさそうな顔をした二人は声をそろえて「すみません」と小さく謝る。打ち合わせをしてきたかのように息ぴったりの浅加さんと江西田のコンビは見ていて微笑ましいことこの上ない。
俺と同じように感じたらしくにこにこと後輩を見ていた由香里は、突如何かを思い出した様子で声をあげた。
「あ、そうだ。総合文化祭の展示資料が届いてるから取りに来いって言われてたんだった」
ね、結ちゃん一緒に来てくれない?と甘えるように言った由香里の言葉に浅加さんは一瞬俺を見て複雑そうな表情を浮かべた。
「うーん、私よりも牧原先輩と行った方が良いんじゃないですかね。きっと作業内容もわかってるでしょうし」
物言いたげな視線を俺に向けながらそう言う浅加さんは、ただめんどくさがっているという風には見えない。
というか、この子はたまに俺と由香里の間をぼんやりと見つめては難しい顔をしているので彼女なりに何か思うとことがあるのだろう。ちなみに俺は霊感など当然ありはしないので彼女に何が見えているのか聞く勇気はない。
「俺は別にいいよ。持ってくるなら荷物持ちがいるだろうし」
夏が終わって部活を引退すれば、クラスの違う由香里とはきっと今より疎遠になってしまうから。ほんの少しでも一緒にいられたら嬉しいなんて下心は、きちんと隠れているだろうか。
そんな俺の想いとは裏腹に、由香里は笑顔のまま首を振った。
「来年のこともあるから紬じゃダメなの。荷物もそんなに重くないと思うし」
ね、結ちゃん。と念を押す由香里に、とうとう浅加さんが折れる。
「そういうことなら私が行きます。牧原先輩も、押し付けるようなこと言ってすみません」
「ううん、気にしてないよ。由香里のこと、よろしくね」
こうしてバツの悪そうな浅加さんとご機嫌の由香里が出て行き、我らが歴史研究会の部室は男二人のなんとも暑苦しい絵面になるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます