春ー浅加結②

牧原まきはらつむぎというのがその人の名前だと知ったのは、それから一週間後のことだった。

先輩相手に逃げ出してしまった手前、もう一度会いに行こうと決心するのには時間がかかった。しかし出直しますと言ってしまった以上、このままなかったことにしてしまうのも失礼な気がしていたのが半分。もっと近くであの人の紡ぐ糸を見たいだなんて不純な理由が半分で、遂に私は歴史研究会の門を潜ることを決めた。意を決して踏み込んだ部室には、一週間前と同じように彼が一人で机に向かっていた。

「あの……今日って、見学できますか」

情けないくらい震えて弱々しい私の声に顔を上げた先輩の表情は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに余所行きの親切そうな顔に切り替わった。その顔は随分と大人びて見えて、私とたった二つしか変わらないようには見えなかった。

「君、先週の子だよね。また来てくれたんだ」

覚えられてる!思わず叫び出しそうになるのを堪えながら紅くなった頬を引き締めこくこくと頷く私を見て、大人のようなその人は優し気に眼を細めた。

「よかった。あの後一年生に逃げられたって話しをしたら、お前の顔が怖いから怯えさせたんだって怒られちゃって」

ごめんな?もう少ししたら女子の先輩もくるから、と私に椅子を勧めてくれた手はごつごつしていて少し意外だった。勝手にピアニストのようなしなやかな手をしているものだと思っていたけれど、思いの外男らしい彼の手は想像よりもしっくりきた。

「俺は三年の牧原紬。うちの部活は俺ともう一人の女子しかほとんど来ないんだけど、のんびり歴史について勉強したいなら是非入部してくれると嬉しい」

言い終わると同時に長い睫毛を伏せながら照れたように笑う顔は先ほどよりも少し幼く見えて、目の前の青年が私とそう歳の変わらない人なのだと漸く実感できた。先輩の周りには、やはり先週と同じようにそれはそれは美しい糸が眩く輝きながら宙を舞っている。

牧原先輩、と口から小さく小さく溢れ出た音はとても綺麗に私の中に収まった。あまりに微かなその声は彼に聞き咎められることなく消え去ったらしく、牧原先輩は気付いた様子もなく紙コップにお茶を注いでこちらに差し出してくれた。

「ありがとうございます」

「狭い部室だけど寛いでくれていいから。俺、話しするの下手くそだから面白いこととか言えないけど」

「いえ、そんな」

上手く言葉が続かずに少し気まずい時間が流れる。先輩は新入生の女子相手にどう接していいか測りかねてるようだったし、私も年上の男性相手に何を話していいかわからない。


何か話さなければ、と口を開くものの言葉が出ずに再び閉じてしまうのを三回ほど繰り返した頃、勢いよくドアが開いた。

「遅くなってごめんなさい」

走って来たのか息を弾ませているその人を見た瞬間、牧原先輩の糸が大きく波打ち輝きを増す。


私は、それが糸の姿をした運命なのだと思った。


「お疲れ、由香里。一年生が見学に来てくれてるよ」

「そうだったの。対応してくれてありがとう」

何かの映像作品のように盛大に動く糸のあまりの美しさに気を取られていると、由香里さんというらしいその人がこちらに向き直った。

真正面から見た由香里さんは、ふわふわの長い髪とアーモンド色の大きな瞳が愛らしくて、まるで絵本の中から飛び出してきたお姫様のようだった。

「はじめまして、歴史研究会部長の七瀬ななせ由香里ゆかりです」

柔らかく笑うと浮かび出るえくぼまでもがとても魅力的な七瀬先輩は、どうやら牧原先輩の想い人らしい。後ろで控えめに微笑んでいる牧原先輩から伸びる糸が盛大に告げているのだ、疑いようもない。

「こんな辺鄙な場所にあるのに、うちの部まで来てくれてありがとうね」

白い頬をほんのり桃色に染めて嬉しそうにそう言った七瀬先輩の笑顔につられて、私までにこにこしてしまう。

こんなに素敵な人なら、隣にいるだけで恋をしてしまっても不思議ではないな、なんてことを考えながら部屋中を舞い踊る糸を眺める。


「差し支えなければ、名前を聞いてもいいかしら」

可愛らしく小首を傾げる七瀬先輩の言葉に、自分がまだ自己紹介もしていないことを思い出して慌てて口開こうとした瞬間。私は、目の前に信じられない光景を見てしまった。


糸が、どこにも繋がっていない。


声にしようとした息は、そのまま何か意味を持つ音になることなく私の口から間抜けに抜け出ていった。後頭部を鈍器でキツく殴られたような衝撃に、思考回路が停止する。

視界に広がる、信じたくない光景。

この世で一番美しいそれの先端は、長い長い模様を描いている途中でぷつりと切れてしまっている。

「あ……えぇと、一年五組の浅加あさかゆいです。」

力の抜けていく足を支えてなんとか最低限の言葉を捻り出す。

カラカラに渇いた口内に先程頂いたお茶を注ぎ込んで落ち着こうと試みたものの、私の頭の中は混乱したままだった。

糸に先があるということは、この恋が実ることなく終わってしまうということ。

それは私にだけ見えてしまった、あまりに残酷でどうしようもない運命だった。

「ふふ、可愛い名前。結ちゃんって呼んでもいいかしら?」

「まだ入部するって言ってないだろ。プレッシャーかけるつもりか」

「あらごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」

仲良く話しをしている先輩方の姿をぼんやり見つめ、相変わらず二人の間で波打っている糸にきゅっと胸が痛んだ。

この美しくて貴い恋が叶わないことを誰よりも知っているのは他でもない私なのに、それでもその恋が叶いますようにと祈らずにはいられなかった。

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